【コラム】張仲梁:集中化かそれとも分散化か?

張 仲梁

中国国家統計局社会科学技術文化産業司司長


 田園都市運動の創始者、エベネザー・ハワード氏は1898年にある予言をした。それは、当時660万居住民を抱えていた英国ロンドンの人口が20%にまで縮小し、残りの80%がロンドン郊外のニュータウンに移住するというものであった。
 予言は予言に帰し、現実は現実に帰する。ロンドン人口はハワードが述べたような軌跡を辿らずに増大の一途を辿り、1939年には860万人へと膨れ上がった。
 人口の持続的な増大の一方で、「都市病」は日増しに悪化し、これに対応するため、イギリス政府は1940年、ロンドン市人口問題を預かる「パル委員会」による「パル報告」を発表、ロンドン中心地区の工業および人口の分散を主張した。イギリス政府は1946年、「新都市法」を発布し、ロンドン周辺で8つのニューシティ建設を主体とする新都市運動を立ち上げた。50年間の人口の流出を経て1988年に、ロンドンの人口はついに637万人になった。
 何事もメリット、デメリットの両面性を持つものだ。新都市運動はロンドンを過密から「解放」したと同時に、「衰退」もさせた。「衰退」はロンドンにとって不都合であった。ロンドンは新都市運動を終結させ、復興運動を起こした。これは当然の帰結であろう。新都市運動は都市人口を分散させるのに対して、復興運動は人口の都市への回帰を促し、都市の活力を増大させた。人口データがこの効果を示している。2015年末になって、ロンドンの人口は854万人に達し、さらに、これを通勤圏人口規模にすると1,031万人に上った。

 コースは違っても行きつく先は同じである。
 ニューヨークでも私たちはこれに似た状況を見ることができる。
 過去100年間、ニューヨークの人口は3つの段階を経てきた。まず、人口が穏やかに増えた第一段階である。人口と経済活動は持続的に集積され、1950年には789万人まで膨張した。次は、人口増が人口減へと転換した第2段階である。「都市病」の激化に伴い、都市機能拡散計画が実施され、人口は周辺都市へ移動した。1980年には707万人まで人口は縮小した。1980年代を起点とする第3段階では、都市計画の見直しと産業の高度化により、人口が回帰し、2015年には855万人にまで増えた。ニューヨーク大都市圏の人口規模から見ると、1950年はすでに1,000万人を超えており、今日はさらに1,859万人に達した。
 東京も似たような葛藤を経験した。
 第二次世界大戦後、日本は都市化がハイスピードで進んだ。大量の農村人口が大都市、特に東京へ集中した。東京都内の人口は1965年に889万人になった。1960年代、蔓延し続ける「都市病」に対応し、東京の「過密」問題を解消するために多摩ニュータウン、港北ニュータウン、千葉ニュータウン、さらには筑波学園都市などの新都市が、東京周辺地域に次々とつくられ、製造業の地方移転と人口の郊外居住化が同時に進んだ。1995年になって、東京都の人口は797万人まで減った。
 1990年代中後期、人口の郊外居住化が終焉を迎え、「都心回帰」が始まった。都市再生計画の実施や都市インフラの整備により、東京都市部の人口は再び増大した。2015年、東京都の人口は1,353万人を超え、東京大都市圏の人口規模は3,800万人に達した。

 ハワードの予言に戻る。
 都市圏の視点からすると、大都市人口と経済活動の中心部への集中・集約が「集中化(Centralization)」であり、周辺地域への分散を「分散化(De centralization)」と称するなら、ハワードの予言は「分散化」志向であった。
 しかし、世界の都市の進化の過程で明らかになったのは、集中化と分散化は実際には、都市の進化の表裏であり、時には集中化は分散化を圧倒し、時には集中化はまた分散化に圧倒される。また時には双方伯仲し強弱つけ難い状況になる。しかし、総じて集中化の力がより強い。
 事実上、ロンドン、ニューヨーク、東京などのメガシティでは、ほとんど集中化から分散化に進み、再び集中化に戻ってくる過程を辿った。
 都市は集積効果によって発展し、集中化の現象が起こる。しかしその人口と経済活動の集積がある「極限」に達すると、「規模の不経済性」が芽を出し、分散化の力量が働く。
 その結果、人口と経済活動は周辺地域へ移り始める。
 しかしながら、分散化が起こる時、往々にして集中化のパワーはなりを潜める。一定の時期が過ぎて、集中化の力は再び分散化を圧倒し、さらに新しい集積を引き寄せる。
 集中化と分散化の増減の背後には「効率」がある。効率を決定づけるのは交通インフラ水準であり、技術水準であり、都市の智力水準である。
 交通インフラ水準を整備し、技術水準と都市の智力水準が向上すると、集積に対する都市の積載力を高められる。「大都市病」は、都市の過大さゆえに起こったのではない。その交通インフラ水準、技術水準、都市の智力水準が都市の「大きさ」に耐えられなかったため起こったのである。
 50年前に東京都の人口が889万人だった頃、「都市病」が蔓延しているとの焦燥感に悩まされた。しかし今は、東京の人口はすでに1,300万人を超えているにもかかわらず、「過密」だとの訴えは聞かない。
 何故なら、現在、東京の交通インフラ水準、技術水準、都市智力水準が以前と比較できない程向上し、都市の積載力も格段に上がったからである。
 都市の積載力は固定的なものではない。時間と空間の変化によって異なってくる。同様の時期でも都市ごとに積載力には大きな違いが生じる場合もある。同じ都市でも時期ごとに積載力は異なってくる。総じて、交通インフラ水準、技術水準、都市智力水準に応じて都市の積載力は増していく。

 国の視点で見ると、大多数の国の都市化が、集中化から分散化、そして集中化に再度戻る過程を辿っている。
 人口流動を参考にした世界主要国家の都市化過程は、4つの段階に分けられる。第1段階は、中小都市化段階である。人口が農村から都市へ流れ、都市化の主体は中小都市である。
 第2段階は、大都市化段階である。都市化率が50%前後になった後、人口流動の主要形態は中小都市から大都市へと流れる。農村人口は中小都市に流れる場合もあり、また大都市に直接流れ込む場合もある。
 第3段階は、大都市の郊外化段階である。都市化率が70%前後に達し、人口が大都市の市街地から郊外へ流れる段階である。
 第4段階は、大都市圏とメガロポリス段階である。郊外は中小都市へと進化し、大都市の中心市街地とタイアップして大都市圏を形成する。さらに複数の大都市圏が連携を緊密にすることでメガロポリスが形成される。 
 第1段階と第2段階が集中化である。第3段階は分散化で、第4段階は再集中化である。
 都市発展のこうしたS字型曲線は中国の都市化で検証できる。
 改革開放以来、中国の都市化は先進国が100〜200年間かかった道のりを、たった40年間で走り抜けた。 
 1978年、中国の人口都市化率はたった17.9%に過ぎなかった。しかし2016年には57.4%にまで急上昇した。
 1980年代、郷鎮企業 [1]。の急速発展に伴い、小城鎮 [2]が中国各地に出来上がり、中国都市化率は急速に向上した。その意味では1980年代は中小都市の時代である。
 1990年代は、大都市の時代である。大量の労働人口が農村や小城鎮から大都市へ流れた。政策上では、1980年代にも「都市病」への憂慮から「大都市の抑制」が高らかに掲げられた。しかし実際には、集積効果が威力を発揮し、大都市化は急速に進み、中国の大都市がことごとく工事現場化した。
 西暦2000年、中国の都市化率は36.2%台になった。「大都市の抑制」も政策から外した。
 この頃はまた、上海、北京を代表する大都市が中心市街地の「過密」の解消に乗り出し、郊外化を発動した。例えば、上海では嘉定、松江、青浦、南橋、臨港の5つのニューシティが建てられた。これらのニューシティは一定の人口を受け入れたものの、人口密度の高い集積地には至らなかった。
 40年の道のりを振り返ると、中国の都市化と世界主要国の都市化の過程は、本質的に似通っている。
 ただ、中国の国土が巨大なゆえに地域ごとに発展段階が大きく異なり、例えば西部地域はまだ第2段階にある。そして珠江デルタ、長江デルタ地域はすでに第3段階、第4段階に突入している。
 ノーベル経済学賞を受賞したジョセフ・E・スティグリッツ氏は、中国の都市化はアメリカのハイテクの発展と並び、21世紀の人類社会に影響を与える二大ファクターであると言う。中国改革開放後の40年の都市急速発展は、長江デルタ、珠江デルタ、京津冀などメガロポリスを誕生させ、人口と経済活動を大都市へと集約させた。この過程において、分散化の力学も働いたものの、やはり、集中化の力学が圧倒的であった。

 中国では、都市化政策において、中小都市を主体とする分散型都市化と、大都市を主とする集中型都市化という二つの主張が従来より戦いを繰り広げてきた。
 これからの中国の都市化は集中化で進むのか、分散化で進むのか?
 筆者は4つの理由で集中化を進めるべきだと考える。 
 第一に、都市規模が大きくなればなるほど、産業の集積が大きくなり、就業機会と収入も多くなり、生産コストと交易費用は低くなる。インフラ整備と公共サービスコストの分担も減る。
 これと反対に、都市規模が小さくなればなるほど、規模の経済性は実現しにくくなり、インフラの効率も悪くなる。
 世界銀行の研究では、人口規模が15万人以下の都市では、規模の経済性は実現し難いという。
 これに対して、「中国では多くの中小都市が素晴らしいパフォーマンスを見せている」との意見が出るかもしれない。
 実は、中国でパフォーマンスの良い中小都市の殆どは、大都市の周辺に位置している。中国のもっとも末端の都市単位の「鎮」で見ると、経済ランキングトップ100の「鎮」のうちの90%が、ことごとく長江デルタか珠江デルタの中心エリアにある。こうした中小都市の繁栄は、両デルタ地域の巨大都市に依存していることが明らかである。
 これは都市化のメカニズムがもたらした現象である。政策はメカニズムに反することをしてはならない。
 第二に、都市化の第2段階は、国際経験的に都市化率が50%から70%に向かう段階である。この段階では人口が主に大都市へと向かう。アメリカでは、人口500万人以上の大都市の、全国での人口ウエイトが、1950年に12.2%だったのに対して、2010年にはその倍の24.6%に達した。日本では東京、大阪、名古屋三大都市圏の、全国での人口ウエイトが、1920年に35.8%だったのに対して、2015年にはほぼ1.5倍の53.6%に達した。
 2011年から2015年の間で、中国で常住人口増加が最も進んだ都市は、北京、上海、広州、深圳、天津の5都市で、これらは中国で「一線都市」[3]と呼ばれ、この間、年平均1.9%で人口が増えた。また、省政府所在地である省会都市など「二線都市」と呼ばれる都市には、二つのグループがある。一つのグループは9つの都市で、この間、年平均1.2%で人口が増えてきた。もう一つのグループは19都市で、この間年平均0.9%で人口が増加している。ところが、43ある「三線都市」は、この間、年平均人口増加率はたったの0.4%でしかなかった。この間、中国の人口自然増加率が0.5%であることに鑑み、「三線都市」はすでに人口純流出状況にある。
 大都市ほど人口に対する吸引力があることは、潮流であり、政策は潮流に逆らってはいけない。
 第三に、中国では大都市の「過密」を理由に、中小都市の発展を推し進めるべきとの政策主張がある。
 しかし、先進国と比べ、中国の大都市への人口の集約はまだ低く、大都市における人口密度も決して高くはない。上海は中国最大の都市であるが、その人口規模は、全国における比率が僅か3%に満たない。これに対して、イタリアの半分の人口が8%の国土に暮らしている。アメリカの郡の数は3,000カ所にのぼるが、全国人口の半分は、244カ所の郡に片寄っている。東京都の面積は日本の国土面積のたった0.6%に過ぎないが、日本の10%の人口を抱えている。
 実際に、中国の都市を悩ませているのは人口の規模ではなく、交通インフラ水準、技術水準、そして都市の智力の水準が、先進国と比べまだ低いことである。
 大都市へ人口が集中していくことはすでに世界的な常識であり、政策は常識に反することはしてはいけない。
 第四に、そこにやって来た人には、住み続ける磁力を与えることが大都市の腕前であろう。2015年以前は、中国では「北京、上海、広州から逃げる」というフレーズがあった。しかし実際はそれに反して、中国の人口は一貫してこれらの大都市に流れていった。
 大都市ではより多くの就業機会、より高い給料、より多彩な刺激、より様々な娯楽があり、レストランでもより多くのメニューが並んでいる。中小都市は、真似ることができない。
 人は永遠に利に乗じて害を避けようとする。人々は、どこにチャンスが多いか、どこの収入が高いか、どこの生活がもっと快適で、より刺激的かを求め、流れる。もちろん、一つ大前提がある。それは、人々が自分の住処を自由に選択できるという前提である。
 より良い生活を求めて移動する、これこそが人間の本能であり、政策は人間の本能を押さえ込んではいけない。

 中国共産党第19回大会の報告で中国都市化の新しい進路が提出された。これは「メガロポリスを主体として大中小都市の協調発展を進める」ことである。
 「メガロポリスを主体とする」のは、正確かつ現実的な選択であろう。
 今日の国際経済競争はすでにメガロポリスを主体とする競争へとシフトしている。一国の経済発展も、すでにメガロポリスの発展に関わっている。アメリカでは大ニューヨーク地帯、大ロサンゼルス地帯、五大湖一帯の三大メガロポリスが、全国GDPの67%を稼ぎ出している。日本では東京、阪神、名古屋で構成する太平洋メガロポリスが全国GDPの64%を担っている。
 中国ではすでに省を単位とする行政区経済が、メガロポリス経済へとシフトし始めている。京津冀、長江デルタ、珠江デルタの三大メガロポリスを合わせた中国国土面積の5.2%にあたる地域が、全国GDPの40%を稼いだ。
 ところで、メガロポリスは、どこが主体となっているのか?
 答えは中心都市である。
 実際、都市の輻射力の強弱によって国際都市、全国的な中心都市、地域的に異なった様々なレベルの中心都市が作られている。これら中心都市をコアに、メガロポリスが形成されている。
 中心都市には、「集積が集積を呼ぶ」循環が働くゆえに発展する。中心都市の輻射力の強弱もまた集積の規模と強く関係している。
 しかし現在、中国では北京、上海のような大都市で外来人口の移住に対して厳しい抑制政策を取っている。憂慮すべきである。

 大自然には、「大樹の下に草は生えない」という現象がある。大樹の発達した根が、周囲の水分および各種養分をことごとく絡め取るだけではなく、嵩のある樹冠が陽光を遮り、足元に野草すら生えなくする。
 中心都市がもし周辺に恩恵を与えず、養分を吸い取るばかりであるなら、それを中心都市と呼ぶことはできない。
 中心都市たるものは、輻射力をもってメガロポリス、さらに世界へと恩恵を与える存在であるべきである。
 シリコンバレー創業の父、ポール・グラハム氏は、一国の中には総じて1つか2つの都市が若者の視線を集め、そこでは、国の躍動感が得られると語った。
 それはまさに日本にとっての東京であり、イギリスにとってのロンドンであり、アメリカにとってのニューヨークであり、フランスにとってのパリである。
 中国にとっては北京、上海、広州、深圳がこうした都市である。しかし、それだけではもう足りない。中国は少なくとも10カ所以上のそうした輝かしい中心都市が必要なのであろう。


[1] 郷鎮企業とは、農村で村や郷鎮が所有する「集団企業」である。

[2] 小城鎮とは、郷鎮企業の発展によって自然発生した集積である。県および郷鎮の政府所在地で十数万人から数十万人の人口規模になることもある。

[3] 中国では慣例的に国内都市を5つのランクに分けて「○線都市」と呼称する。「一線都市」は、中国を代表する北京、上海、広州、天津、深圳の5都市。「二線都市」は省都や沿海大都市など。「三線都市」は「二線」に次いで経済規模が大きい地方都市。


(『環境・社会・経済 中国都市ランキング 2017―中心都市発展戦略』に収録


プロフィール

張 仲梁(Zhang Zhongliang)

 1962年生まれ。中国管理科学研究中心副研究員、日本科学技術政策研究所研究員、CAST経済評価中心執行主任、中国経済景気観測中心主任、中国国家統計局統計教育中心主任、中国国家統計局財務司司長を歴任、2018年から中国国家統計局社会科学技術文化産業司司長。
 中華全国青年連合会委員、PECC金融市場発展中国委員会秘書長、中国経済景気月報雑誌社社長、中国国情国力雑誌社社長など兼務を経て、現在、中国市場信息調査業協会副会長を兼任。