【済南】新産業と伝統文化が交差する中心都市【中国都市総合発展指標】第21位

中国都市総合発展指標2022
第21位



 済南は中国都市総合発展指標2022総合ランキング第21位であり、前年度より順位を4つ上げた。

 「社会」大項目は第16位で、前年度の順位を維持した。3つの中項目で、「ステータス・ガバナンス」は第13位、「生活品質」は第18位で、同2項目がトップ20に入った。「伝承・交流」は第21位だった。小項目で見ると、「生活サービス」は第8位で、同1項目がトップ10に入った。「文化娯楽」は第13位、「都市地位」は第14位、「人口資質」は第20位、「社会マネジメント」は第25位、「消費水準」は第23位、「居住環境」は第24位、「人的交流」は第27位と、7項目がトップ30に入った。「歴史遺産」は第64位であった。

 「経済」大項目は第21位で、前年より順位を1つ上げた。3つの中項目で、「経済品質」「都市影響」は第18位、「発展活力」は第25位と、3中項目でトップ10入りした項目はなかったものの、すべてがトップ30入りを果たした。9つの小項目のうち、「都市圏」は第11位、「広域輻射力」は第15位、「経済構造」は第17位、「経済規模」「広域中枢機能」は第20位、「イノベーション・起業」は第21位、「ビジネス環境」は第28位、「開放度」は第30位、と、8項目がトップ30に入った。なお、「経済効率」は第37位だった。

 「環境」大項目は第98位で、前年に比べ大幅に順位を上げた。3つの中項目のうち「空間構造」は第38位、「環境品質」は第143位、「自然生態」は第192位であった。9つの小項目のうち、「環境努力」は第15位、「都市インフラ」は第26位と、2項目がトップ30に入った。「コンパクトシティ」「交通ネットワーク」は第42位、「資源効率」は第81位、「自然災害」は第93位、「水土賦存」は第161位、「気候条件」は第177位、「汚染負荷」は第255位であった。


イラク一国に匹敵する経済規模


 済南市は、渤海湾と黄河中下流の南部に位置し、山東省の省都であると同時に副省級市でもある。山東半島メガロポリスの中核都市として、政治、経済、文化、科学技術、教育、金融の中心地であり、重要な交通の結節点である。済南は山東省の中西部に位置し、南は泰山に、北は黄河に面する。地形は南部が高く北部が低い特徴を持つ。周囲の主要都市としては、西南部の聊城、北部の德州や浜州、東部の淄博、南部の泰安などがある。気候は温暖な大陸性モンスーン気候帯に属し、四季がはっきりしている。

 2023年末の時点で、済南市は10区と2県を管轄し、総面積は10,245平方キロメートルに達する。これは岐阜県と同程度であり、東京の約4.8倍、ニューヨークの陸地面積の13倍に相当する。2022年末には、常住人口が約941.5万人に達し、2021年末から0.8%増加している。このうち、都市部の人口は699.8万人で、中国第26位に位置する。常住人口の都市化率は74.3%である。第七次全国人口センサスによると、15歳から59歳までの人口(生産年齢人口)は市全体の約63.6%を占め、これは山東省全体よりも3.3ポイント高い水準である。

 2012年から2022年の10年間、済南のGDPは年平均7.7%で成長し、五千億元、六千億元、七千億元、八千億元、九千億元の大台を次々と突破した。2020年にはGDPが1兆元の大台を超え、10,141億元(約20.3兆円、1元=20円で換算)に達し、「1兆元都市クラブ」に加入した。2022年の済南のGDPは12,028億元(約24.1兆円)に達し、中国第20位の経済規模となった。その経済規模は、世界第54位のイラクのGDPに匹敵する(詳しくは【ランキング】世界で最も経済リカバリーの早い国はどこか? 中国で最も経済成長の早い都市はどこか?を参照)。

 外部からの人々を引き入れる成長する済南は、「流動人口(非戸籍常住人口)」が約117万人の大幅プラスである。山東省内16都市のうち9都市は人口が外部へ流出しているが、済南は中国第34位、省内第2位の人口流入都市である。

美しい湖をたたえる泉都


 済南はその長い歴史、豊かな文化遺産、そして美しい自然景観で知られる山紫水明の都市である。済南の歴史は古く、2600年余り前に城郭が築かれたことが始まりである。漢の初期に済南と名付けられ、以来、山東省の政治、経済、文化の中心地として栄えている。

 済南は、国家A級の観光地が85ヶ所あり、その中に5A級が1ヶ所、4A級が18ヶ所、3A級が52ヶ所、2A級が14ヶ所含まれる。豊かな自然と歴史資源を持つため、国家歴史文化名城に指定されている。

 市内では700以上の場所から湧水が溢れ出ており、100以上の泉が存在する。特に「七十二名泉」は著名である。古来より「家々に泉水あり、戸々に柳が垂れる」と言われ、済南は「泉都」とも呼ばれている。これらの泉の中で最も著名で象徴的なのが自噴泉「趵突泉(ほうとつせん)」であり、「天下第一泉」と称されている。趵突泉は、千佛山、大明湖と共に済南三大名勝に数えられる。

 趵突泉は地下の石灰岩洞窟から三股に分かれて湧き出ており、一日の最大流量は24万立方メートルに達し、露出高は26.49メートルまで上がる。泉水は一年中約18度の恒温を保ち、清らかで飲用水基準を満たしている。趵突泉公園内には直飲台があり、観光客は無料で泉水を飲むことができる。地元の人々も桶や大きな水瓶で泉水を汲んでいる。

 趵突泉周辺には数々の名所旧跡がある。特に北宋の散文家曾巩の南丰祠、南宋の豪放派詞人辛弃疾の稼軒祠、宋代の著名な婉約派女性詞人李清照の記念堂、そして現代の文豪老舍に関する「老舍と済南」展示館が有名である。

 他にも多くの文化遺産が存在するため、済南の「重要文化財」は中国第58位、「無形文化財」は中国第24位であり、とくに無形文化財の数は省内でトップである。済南には博物館や美術館などの文化施設が多く、その数は中国第12位で、省内ではトップである。

 これらの名勝は多くの観光客を集め、「国内観光客数」では中国第37位と省内で第2位の規模を誇り、青島の中国第36位とほぼ拮抗する成績となっている。

山東省の高等教育中心都市


 山東省は、孔子と孟子の故郷であり、教育水準が高い省の一つである。現在、山東省には普通高等教育機関が156校存在し、これは河南省の168校、江蘇省の168校、広東省の162校に次いで、全省・自治区の中で第4位の高等教育機関数を誇る。

 中でも、山東省の省都である済南には豊富な高等教育リソースが集積している。市内には43校の高等教育機関があり、そのうち本科教育を提供する大学が25校、専門学校が18校立地している。これらは山東省全体の高等教育機関の27.6%を占め、在籍学生は67.1万人(中国第10位)、専任教員は4.2万人に達している(中国第10位)。済南の「高等教育輻射力」は中国第13位、「世界トップクラス大学指数」も中国第12位にランクインしている。

 済南には多くの大学が存在するが、中でも山東大学、山東師範大学、済南大学がトップ3を占めている。特に山東大学は影響力と歴史的背景を兼ね備え、済南における最高の教育機関であり、山東省第一の学府とされている。

 山東大学は1901年に済南で設立された山東大学堂を前身とし、京師大学堂(現在の北京大学)に次ぐ中国第二の官立大学として、中国近代高等教育の始まりとされている。時代の変遷とともに名前の変更、停止、再建、合併、移転を繰り返し、様々な大学を受け入れてきた。例えば、中国海洋大学、鄭州大学、青島医学院などは山東大学から分離した学部から成立した。

 現在、山東大学は117の本科専攻を提供し、中国語文学、数学、化学、臨床医学の4つの学科が世界一流の評価を受けている。また、材料科学工学、文芸学、内科学、数学などの学科も国家重点学科として評価されている。

 山東大学は、山東省で最も包括的な教育力を持つ大学である。教育部直属の重点大学であり、985、211プロジェクト、世界一流大学建設プログラムに参加している。山東省の教育発展を牽引し、済南の経済と社会発展、人材育成において重要な役割を果たしている。その結実として、「傑出文化人指数」は中国第17位と省内トップの成績を誇っている。

進展する産業の高度化


 高度人材の集積は、済南の産業を高度化させている。現在、同市の「輸出総額」は中国第42位、「製造業輻射力」は中国第48位である(詳しくは【ランキング】中国で最も輸出力の高い都市はどこか?を参照)。一方、市内には約9.9万人を超える研究開発要員を擁し、同市の「科学技術輻射力」は中国第21位である(詳しくは【ランキング】科学技術大国中国の研究開発拠点都市はどこか?)。さらに、IT産業の隆盛が著しい。済南の「IT産業輻射力」は中国第14位であり、省内でもその産業力は抜きん出ており、地域的にも隣接する天津(中国第10位)を大きく上回る成果を上げている(詳しくは【ランキング】中国IT産業スーパーシティはどこか?)。

 このような成長の背景には、済南が科学技術に重点を置いた教育と研究開発への投資を積極的に行っていることが挙げられる。済南は、大学や研究機関との協力を通じて、イノベーションと人材育成に注力している。また、政府の支援によるインフラ整備や投資誘致政策も、産業の高度化を促進している重要な要因である。これらの取り組みが、済南を中国の科学技術産業の重要なハブへと成長させている。

■ 豊富な医療資源


 済南が医療資源において中国全国で高い評価を受けていることは、同市の医療分野における成果の証である。済南は「医療輻射力」で全国第10位にランクされ、特に省内では2位の青島市に対して7位の大きな差をつけるなど、圧倒的な成績を誇っている。これは、済南が優れた医療インフラを構築していることの明確な指標である。

 済南の医療資源の強みは、特に「三甲医院(最高クラス病院)」の数と「医者数」において顕著である。三甲医院は全国で第11位、医者数では第3位にランクされており、これは高水準の医療サービスと専門性を有する医療人材が豊富であることを示している。これらの医療機関は、最先端の医療技術と研究開発を推進し、地域社会の健康増進に大きく貢献している。

 また、済南は医療教育にも力を入れており、多くの医学部や医療関連の教育機関が存在する。これらの機関からは高度な医療知識と技術を持った人材が多数輩出されており、それが医療サービスの質の向上に直接的に寄与している。

 これらの成果は、済南市が医療分野で全国的にもリーダーシップを取る都市であることを示しており、今後もその地位をさらに強化していく可能性が高い。医療資源の豊富さと医療サービスの質の高さは、同市の住民だけでなく、広範な地域にも恩恵をもたらしている。

高速鉄道の利便性が飛躍的に向上


 済南は華北平原と長江デルタの中間に位置し、地理的に北は京津冀(北京市・天津市・河北省)メガロポリス、南は長江デルタメガロポリスとつながり、渤海経済圏と北京・上海経済軸の交差点として、華東地区の重要な中心都市の一つである。(山東半島メガロポリスについて詳しくは中心都市がメガロポリスの発展を牽引:中国都市総合発展指標2022を参照)。済南は、中国の東西を横断し、南北に通じる交通ネットワークの交差点に位置する地理的優位性を備え、中国有数の鉄道中心ハブとなっている。

 近年、済南は、西は中原地方、東は渤海、北は京津冀、南は江蘇省に達する交通回廊の整備が進展している。済南から1.5時間の高速鉄道圏内には約4.1億人が居住しており、市内からは300以上の高速鉄道が全国の254都市に直結している。時間的には、1.5時間で北京に、3時間で上海に到達することが可能である。その実力は、「高速鉄道利便性」で中国第10位という成績に反映されている。

 現在、市内には済南駅、済南東駅、済南西駅、章丘駅、章丘北駅、章丘南駅、歴城駅、大明湖駅、雪野駅、莱蕪北駅、莱蕪東駅、鋼城駅など12の駅が存在し、済南駅、済南西駅、済南東駅が三大ハブ駅となっている。済南を通過する鉄道路線には、京沪鉄道、胶済鉄道、邯済鉄道などがあり、運行中の客運専用線には、京沪高速鉄道、胶済客運専線、石済客運専線、鄭済高速鉄道、済青高速鉄道、済莱高速鉄道、済浜城市間鉄道、済泰城市間鉄道などがある。京沪高速鉄道や鄭済高速鉄道は、省を越える主要路線で、京津冀メガロポリス、長江デルタメガロポリス、山東半島メガロポリスを連結している。

 済南の高速鉄道の利便性は絶えず向上しており、中心都市としての済南の省内外および地域都市への影響力が拡大している。このような同市の利点を活かし、済南は総合的な産業力をさらに強化しようとしている。将来的には、済南は中国内陸部への門戸として、さらなる経済的な重要性を増していくことが予想される。


【対談】初岡昌一郎 Vs 周牧之(Ⅲ):日本政治の行方

サハリン視察にて、初岡昌一郎氏と周牧之教授(2019年8月29日)詳しくは、【コラム】「人新世」(アントロポセン)時代の曲がり角 〜都市は文明を先導、だが崩壊危険要因も顕在化〜 /初岡昌一郎・国際関係研究者、姫路独協大学元教授

■ 編集ノート:

 アメリカ大統領選挙の混迷、ロシアのウクライナ侵攻、イスラエルのガザ侵攻など世界情勢は揺れ動いている。東京経済大学の周牧之ゼミは2024年5月23日、国際関係研究者の初岡昌一郎姫路独協大学元教授をゲストに迎え、戦後の長いスパンで国内外の政治情勢について解説していただいた。

(※第一弾第二弾はこちらから)


■ 戦後民主主義の始まりは三大改革


初岡:岩波の雑誌『世界』が1960年の安保闘争後に「3分の1の壁をどう破るか」と題した座談会を開いた。『世界』は当時、左翼やリベラルの間で読まれていた。私が社会主義青年同盟を作っていた時で、5人の論者の一人に呼ばれた。なぜ3分の1の壁を破らなければいけないか、どう破るか議論した。  

 私達は当時、一つのイデオロギー、一つの綱領を持った政党のようなものでなく、共同戦線党を作るしかないと考えた。今からすれば空論だと言われるかもしれないが私は当時も今も考えは同じで、軍事同盟に属さず軍備を持たない日本、民主主義を徹底させる日本を目指そうとした。

 日本の民主主義は憲法ができたからだけが出発点ではない。三つの大きな改革があったからだ。一つは農村改革。地主制度を解体し、土地を耕す人に分配した。私は田舎の地主の一家に生まれ、祖父は村で一番大きな地主で村長もやっていた。だから自分の生活基盤が戦後解体していくプロセスがよくわかった。ただ、不徹底な改革で、山だけは地主の手に残った。

 二番目は教育改革。私は小学校4年まで戦時中で、天皇家の歴史を神武天皇から暗記させられた。そのような歴史教育が戦後全部変わった。

 三番目は、労働改革。労働三法ができ労働組合が認められ、労働基準法ができた。日本の労働法は全て戦後の改革の中で出来上がったものだ。

周:軍事同盟に属さず軍備を持たず、民主主義を徹底させる日本という理想像は、大勢の人が共感を持っているはずだ。

岩波書店『世界』

■ 立場の弱い人々の受け皿は?


周:社会党と公明党はなぜ組めなかったのか? 

初岡:政策では社会党と公明党が一番近い。平和主義、福祉、格差是正。支持階層で、公明党と一番競り合ったのは共産党だ。社会党には広い層がいた。支持基盤は労働組合が一番だった。社会党の基盤は特に公共企業の労働者。なかでも郵便電信電話と国鉄の労働組合は一番行動力があった。組織としては教員と地方公務員の方が多い。

周:アメリカでは民主党は労働組合に支えられているが、ラストベルトの白人が共和党のトランプを強烈に支持している。日本でも似た構図になっているようだ。昔の社会党、いまの立憲民主党は労働組合が支持基盤になっているが、組織されていない弱い立場の人たちをケアしていない。その人たちは共産党や公明党に流れているのではないか?

初岡:当初、公明党のスリートップは全員個人タクシー運転手だった。当時東京都の個人タクシー運転手に公明党が非常に多かった。公明党は、彼らにとって自分の社会的ステータスを得る梯子になっていた。

 しかし公明党も高齢化だ。共産党と同じで若い人が入っていない。まず学生の中で決定的に人気がない。

 私は元から社会党と公明党が組むべきだと思っていた。私が支持していた江田三郎さんも同意見だった。綱領を突き合わせてみると、公明党は基本的に平和主義で、当時の社会党と近かった。また、公明党は社会保障を充実させ格差をなくしたい点で社会党と一致した。    

 ところが政策だけで政治は動かされるのでなく、人間が介在する。人間の意見や欲も介在するので公明党は本来近くない自民党と組んだ。それで創価学会が自民党を推し、民主党の足を引っ張るようになった。民主党が労働組合に支配されていることはなく、むしろ民主党の議員は労働組合以上に選挙で新興宗教に頼るようになった。

周:自民党は公明党をうまく抱き込むことで政権取りゲームに勝ったわけだ。

 日本社会の格差が広がっている中で、弱い立場の人々を宗教はすくい上げ、将来は大きな受け皿になるかもしれない。本来、日本憲法は政教分離だが、創価学会が政治力を持つ前例を作った。その意味では宗教は日本の政治で益々力を持つようになる。

労働組合のデモ(出典:情報労連

■ 人工心臓に頼る自民党の脆さ


初岡:自民党が決定的に崩壊し、政権を離れる一番の引き金になるのは、創価学会公明党との関係だと思う。今の自民党は、40%以下の得票率だ。投じられた票の40%で、議席の3分の2を取っている。そのマジックはどこにあるかというと、公明党だ。

 率直に言って小選挙区で勝敗を握っているのは第3党の公明党だ。自民党は、本当の意味では政権を維持できていない。40%を超えたことがないからだ。

 公明党が離れた場合は、自民党の国会議員の半分以上がいなくなる。公明党の元委員長の矢野絢也さんは実力者で、京都大学在学当時、学生運動をやっていた。共産党員だったと思う。ただお父さんが創価学会だったため、矢野さんは大阪で府会議員になった。池田会長とはうまくいかず公明党から追放され、政治評論家になった。自民党と公明党が連立政権を組んだのは、自民党単独では国会で過半数を割り安定してきた政権運営ができなかったからだ。野中さん等の力が大きかったと思う。

周:元共産党員にして自民党と公明党を組ませる矢野絢也氏の発想は、戦略的かつ柔軟だ。

初岡:矢野さんは当時、「自民党は人工心臓をつけた。人工心臓を3日つけたらもう外せない。外したら死んでしまう」と言っていた。

 戦国時代、一向一揆があった。一向宗は親鸞が作り、関西と北陸が強かった。従来の仏教では様々仏典を読み込み、修行しないと成仏できない。それを一向宗は南無阿弥陀仏を唱えれば誰でも天国へ行けるとした。現状に肯定的な当時の仏教を革新する新興宗教として親鸞が作った一向宗はその後社会的に認められて、封建社会の枠組の中で次第に本願寺化した。創価学会の本願寺化は矢野さんが言ったようにはまだされていない。

周:駐日中国大使を務めた程永華氏は、創価大学卒業だ。中国政府派遣で日本留学する際、受け入れ大学が無く、池田大作創価学会会長が引き受けた。

初岡:池田大作以降、公明党は親中国政策が非常に目立つ。おそらく日本の政党の中で親中メッセンジャーのような立ち位置だった。

周:自民党と中国のつながりが無いときも、メッセンジャーとして活躍した。池田さんが平和主義を訴え、世界に積極的に出かけて中国、ソ連、インドなど各国のリーダーに会っていた。外交面において自民党は公明党に頼るところが多々あった。

初岡:しかし、公明党と自民党はいま離れ始めたと思う。今まで民主党を支持していたその他の新興宗教が今や自民党に回帰しているのがその証しだ。

 二大政党は、枠の中に入っている要素と皿が同じでも材料や調理の仕方によって全然違うものになる。二大政党論を枠組みとしていいかどうかを抽象的に議論してもあまり意味がないと私は個人的に思う。 

周:選挙そのものは実利的な面が強い。選挙民にしてみれば親身になって実利的に良くしてくれる人を応援する。特に弱い立場にいる人にとって拠り所となる組織が選挙に強い。選挙区が小さくなればなる程その傾向が強い。小選挙区制改革の結果、公明党にパワーを持たせた。公明党という人工心臓をつけた自民党は変わったのか。

初岡:変わった。今までは3-5名区で自民党の候補者が複数出て、同じ党内で争った。自民党内で争って勝つためには後援会を作らないといけない。自民党の中で何かのスキャンダル人は決定的にアウトになった。

 ところが1名区では公明党の支持があれば誰でも安定的に勝つ。切磋琢磨がなくなり、派閥は弱くなった。派閥を強くするため金を集め派閥内の人に配ることで派閥を維持する安倍方式の一番悪い面が出ていた。

周:ところで、維新の党はなぜ議席をここまで増やせるのか?大阪の地域政党のイメージだが、結構東京まで進出してくる。

初岡:やはり大阪で橋下というスターを作ったのが大きかった。しかし、その遺産は失われつつある。今のトップ層は魅力も見識も政治的経験も知名度にも欠ける。維新は候補者にスキャンダルが多い。しかも考えられない初歩的なスキャンダルだ。大阪万博で大失敗した維新は今度大阪で公明党とバトルだ。維新はかなり後退するはずだ。公明党は実利的な政党だから、維新が一番推してきた大阪万博をガンガンやっつけている。

周:少し長いスパンで見ると、スターのカリスマ性に依存する政党は組織力のある政党には勝てない。

矢野絢也氏(出典:日本経済新聞

■ 政権担当能力のあるリーダーはいるのか?


周:前回民主党が政権を取った時の政権担当能力はひどかった。今度再び政権を取るチャンスがあった時、任せられるリーダーがいるのか?

初岡:民主党では岡田さんが一番いい。民主党党首だった鳩山氏や菅氏は、野党の党首ならいいが、首相には向かない。岡田さんは外務大臣として立派だった。外務大臣に何が出来て何が出来ないかをよくわかっていた。例えば大臣は機密文書を公開できた。これは大臣権限で国会で決めなくてもやれた。いくつかあった中で覚えているのは、外務大臣の記者会見は事前に届けを出していれば誰でも出られるようにした。岡田さんが辞めたら元に戻ってしまった。

 その程度の改革でも民主党の大臣が誰でもできるわけではなかった。大臣の権限が解らない人が大勢いた。私は当時の労働大臣をよく知っていて、電話をかけて「民主党政権では超過勤務の法的規制をやるべきだ」と言った。その人は国労の出身だが「そういう細かい問題は担当を紹介するからそちらに言ってくれ」と言われた。これが細かい問題だという感覚がもうおかしい。

 超過勤務は、労働問題の一番大きな問題だ。安倍の改革で少し規制するようになったが、国際基準では法的に規制しなければいけないことになっている。日本の労働基準法36条は、超過勤務は従業員の過半数を代表する組合と使用者の間で決めるとしている。公的な法律上の規制を設けていない。これが非常に悪用され、世界的に稀な過度の超過勤務時間が今も残っている。

 ILO(国際労働機関)に160ぐらいの国際条約がある。国際労働法はILOの条約と勧告を指す。労働時間に関する条約を日本政府はこれまで一つも批准していない。超過勤務を公的に規制する条項が日本の法律と合わないからだ。

 日本の超過勤務で今パニックが起きているのは建築業界と輸送業界だ。解決法は移民労働を入れると言う。

周:岡田さんは確かに腹の据わった誠実な人だ。東京・北京フォーラムに来ると自分の出番が終わっても終日ずっと耳を傾けていた。中国にも一緒に行った。私が司会を務めた時にパネリストに制限時間内での発言を求めると、岡田さんはきっちり時間を守る。

初岡:本当におかしいのは、民主党で外務大臣をやり小池百合子氏と組んで希望の党を作って失敗した人だ。彼は京都大学の高坂先生の弟子、京セラ前社長に応援してもらって出た前原氏だ。高坂さんに、学者になるのは無理だから国会議員にでもなるか、と言われたとか。前原はなかなか頭のいい人だが、政治センスが全くない。小池百合子と組んで党を作るなど、誰が考えても無理だ。

周:前原氏が外務大臣を務めた時、日中関係が極めて深刻になった。

2008年9月19日「東京―北京フォーラム」にて、左から司会を務める周牧之教授、松本健一(麗澤大学教授)、岡田克也(衆議院議員)等。

■ 金と権力で出来上がる世論


初岡:中国やロシアのように日本は露骨な言論統制はしていないが、マスコミ、特にテレビでの国際情勢の開設者を見ると、20年前は大学教員や新聞記者がやっていた。最近は現役の新聞記者や大学の先生がテレビ、新聞に出て発言をする機会が少なくなった。マスコミでウクライナ問題について発言する人の経歴を見ると、防衛省や政府与党系の研究者ばかりだ。学者も外務省の専門員として海外勤務をした人が多い。

 これは実に良いことではない。言論の自由が犯されていると思う。金と権力の力で作られた世論になっている。ウクライナ戦争の報道ではソ連が100%悪くウクライナが100%正しいという世論が構成されつつある。現実とは違う。ヨーロッパのNPOに、世界の政権腐敗度を調査している機関がある。調査結果を見ると、ウクライナもソ連も政権腐敗度ではボトムの方を争っている。

 ソ連も腐敗しているがウクライナもそれに劣らず腐敗しているといった記事は、日本の新聞やテレビには出ない。アメリカの新聞には書かれている。

周:私の友人でIMF元日本代表理事を務めた小手川大助さんは、2023年10月のゲスト講義で、「NHKは海外取材の力が無いことを自認し、アメリカのCNNをコピーしている。そのためNHKの海外報道は結果として誤りがあっても、悪いのはCNNだと言える構造になっている。朝日新聞とテレビ朝日は、ニューヨーク・タイムズと契約しており、戦争関連についての記事はニューヨーク・タイムズの翻訳版だ」と嘆いていた。

初岡:外国特派員クラブで私は若いときアルバイトをして、外国特派員クラブのメンバーをよく知っていた。そこの機関紙「No.1 Shimbun」を見て、笑ったことがあった。アメリカ人の記者が、「日本の記者は大新聞と大テレビの従業員だ。ジャーナリストではない」という意味のことを書いていた。つまり自分で調査して書かない。

 私が労働組合にいた時に経験したことだが、労働省記者クラブでの記者発表で喋ったことよりも、3行か5行でポイントを配ったものだけが翌日記事になっていた。だから読売、朝日、毎日、どの新聞を見ても同じ記事だった。

周:ネット時代の現在、世界から情報を集めて判断し、独自のコンテンツに創り上げる力が求められる。

ウクライナ戦争を報じるNew York Times誌(出典:Wall Street Journal

■ ゆとりある思想、価値観で


周:1966年文化大革命の初期、毛沢東が妻の江青に大変有名な手紙を送った。手紙には、自身はいま左派を率いて文化大革命を手がけているが、いずれ中国に右派が戻ってトップになる。その反動で数十年後は左派勢力が再び台頭し、右派のやることを是正する、と書いてあった。毛沢東は、社会における左派と右派の勢力リバランスで相手の問題点を是正するイマジネーションがあった。

 日本は左派勢力が低迷している今、格差拡大などを是正する政治的な受け皿がどこにあるのか。 

初岡:天動説と地動説はかなり違う。天動説だったら、地球は平面だ。左派と右派は全く相いれないほど距離がある。地動説で地球が丸いと見ると、左派と右派の距離は非常に近くなる場合もある。私の知人が、昔は非常に左派だったのがいまは非常に右派になっている人が多い。真ん中を通らない。左派がずっと歩いて行くと直通で右派に合流してしまう。

 今この年になって思うのは、人間にはイデオロギー以外の要因が介在してくる。人間の要素は非常に可変的だ。人間は可変的な故に、言う意見も変わる。状況によっても立場によっても変わる。イデオロギーなど政治的意見は一夜によって変わることもある。だが人間性は変わらない。15から20歳ぐらいの間に形成された人間性はほとんど変わらない。 

周:人間性をベースにすると、若い人の将来はどうなるのか。

初岡:一つは、昔の左翼のような自分の利害を投げ捨てて目的のためにやろうという人が、今いないということはない。それなりに増えてきている。イデオロギーと政治によって動かされていないだけで、ボランティア活動あるいはNGO、NPOで、自分の進路を昔の左翼学生とは違う形で決定し、生き方を追求する人は少なくない。イデオロギーなど大局観だけでなく、自分の価値観によって生活を見つけようとするのは大事なことだと思う。

 当時の左翼の悪かったところは、自分の価値観を殺してしまうことがあった。ある意味、宗教と似ている。 

周:初岡先生が最初に言われたように、今の日本の左派はマルクス主義一元論のもとで激しくやっていた昔の時代とは違ってきたということだろう。

初岡:自動車でも、本当に安全な自動車は遊びやゆとりのある構造になっている。自分の思想、価値観の中にもそうした良いゆとりが必要だ。ハンドルを左に切ってこれは誤ったと思ったらすぐ右に切るような進路であってはならない。思想の場合も同様だ。常に自分の考え方を修正していく余地の残る学問なり、思想であってほしいと思う。

(了)

サハリンで開催のセミナーにて、右から周牧之、初岡昌一郎、江田五月(2019年8月29日)
詳しくは、【コラム】「人新世」(アントロポセン)時代の曲がり角 〜都市は文明を先導、だが崩壊危険要因も顕在化〜 /初岡昌一郎・国際関係研究者、姫路独協大学元教授

プロフィール

初岡 昌一郎(はつおか しょういちろう)/国際関係研究者、姫路独協大学元教授

 国際郵便電信電話労連東京事務所長、ILO条約勧告適用員会委員、姫路獨協大学教授を歴任。研究分野は、国際労働法とアジア労働社会論。

【対談】初岡昌一郎 Vs 周牧之(Ⅱ):自壊した社会党、そして民主党政権

対談をする初岡昌一郎氏および周牧之教授

■ 編集ノート:

 アメリカ大統領選挙の混迷、ロシアのウクライナ侵攻、イスラエルのガザ侵攻など世界情勢は揺れ動いている。東京経済大学の周牧之ゼミは2024年5月23日、国際関係研究者の初岡昌一郎姫路独協大学元教授をゲストに迎え、戦後の長いスパンで国内外の政治情勢について解説していただいた。

(※第一弾はこちらから


■ 環境変化に適応し進化しない者は滅びる


周:旧来の体制を崩壊させ、新体制作りに苦労する社会主義国家と違い、日本の場合は、戦後GHQが主導する社会改革をある程度やったものの、基本的な社会のメカニズムが温存した。そこで、右派左派がまとまった野党としての社会党は、政権にある自民党を牽制し意見を言う割と気楽な存在だった。且つこの55年体制のコンビネーションはある程度うまくいっていた。誰が、何故、この体制を駄目だと言い出し、社会党も迎合し、壊したのか。

初岡:周先生の問いに、納得いく答えを持たないが、まず万物は生成、発展し消滅するという過程から歴史的にものを見ると、ガタガタしても生き残ったものも客観的な必要性を失ったときは滅びる。植物でも環境が変わったら自分が適応し進化して生き延びる。進化しなかったら滅びる。社会科学の理論も同じだ。

 マルクスにもダーウィン的な、万物は生まれ、発展し、死ぬという考えがある。向坂逸郎という当時著名なマルクス主義の学者のところに出入りしていたことがあって、向坂先生にある日、マルクス主義も同じ道をたどるのか聞いたことがある。先生の答えは、「それは観念論だ」。宗教学者に「神様は存在するのか?」と問うたレベルの質問と、受け取られた(笑)。 

周:マルクスを神様として崇める人たちには考えられない質問だ(笑)。

初岡:そうした流れからいけば、今の55年体制が最初に崩れたのは、世の中の変化を十分見据えることができなかったからだ。社会党は、今言ったようなマルクス主義の本流ではなかった。しかし社会主義協会の呪縛から逃れられず、そういう考え方を支持する人が党内で多数派になり、例えば江田三郎さんなどすぐれた政治家の多くが、社会党から離れてしまった。その中の人が今の民主党を作るものの、民主党なりの問題があった。

 55年体制は、まず社会党が滅び、これに対峙していた自民党が遅れて滅びの過程に入ったのだろう。

江田三郎氏

■ 理論的な崩壊と政治的な崩壊に時差


周:社会党が滅びた一つの大きな原因には、ソ連崩壊があったのだろうか? 

初岡:間接的な影響はあったと思う。

:富塚文太郎先生のように「社会主義を卒業した」と思った人たちが、結構いたのだろうか?

初岡:スターリン批判があったときから理論的な崩壊が始まった。ソ連は1989年から91年にかけて政治的に崩壊した。理論的な崩壊と政治的な崩壊の間には時差があった。 

周: 1956年ソ連共産党第20回大会におけるフルシチョフの秘密報告『個人崇拝とその結果について』は、日本の左翼に大きなショックを与えたはずだ。日本ではちょうどこの時差は55年体制期に当たる。当時の世界情勢の変化は、日本に多大な影響を与え、55年体制が生まれ、そして崩壊した。

スターリン批判を行うニキータ・フルシチョフ(出典:日経新聞

■ 55年体制から90年体制へ


初岡:55年体制もそうだが、世界的に見て90年体制つまり1989年から92年くらいまでの変動の余波も大きい。

周: 1989年はソビエトが解体に向かい、日本はバブルの最高潮期で、株も頂点にあり、世界GDPに占める日本のシェアは10%に達し、これも頂点だった。その年に竹下登政権が消費税を導入した。

初岡:日本では国内政治を国際政治と関係付けた研究は案外少ない。政治学者は国内政治だけで完結してしまう。世界を全部合わせて見た方がいい。戦後の日本の左翼の問題も、国際的な見方が全く感じられない。

 例えば1947年から49年ぐらいまでに「東欧の革命」があった。共産党が少数で、社会民主主義政党の方がチェコにしてもポーランドにしても大きかった。東欧の革命はソ連軍の存在をバックに、少数派の共産党が社会民主党を飲み込む形で強行された。

 私が最初に出した本は『東欧の革命』の翻訳。著者のヒュー・セトン-ワトソンは第二次大戦に活躍したイギリスの情報関連の将校で、戦後ロンドンスクールオブエコノミーの先生になった。彼の『東欧の革命』は版権が切れていた。勝手に海賊版的に翻訳し、社会党系の本屋から出した。これを読むと、当時の状況がよく解る。

周:外部の力が大きく働いた。

初岡:戦後、日本政治の一番大きな要因は、占領だ。日本を占領していたのはアメリカ。これがソ連軍だったら共産党政権になっていた。

周:冷戦終結を受けて日本の政治も一気に動いた。1993年に細川護熙政権が樹立し55年体制が終わった。

ヒュー・セトン=ワトソン (著)、初岡 昌一郎 (訳)(1969)『東欧の革命』(新時代社)

■ 政権奪取が野党崩壊を招いた?


初岡:55年体制は安定性を欠いていた。55年体制を壊すときの野党に対する最大のアピールは、中選挙区を壊すと同時に、政党助成金を制度として創出して、企業団体献金をやめさせることだった。ところが、新しい体制はその制度をそのまま残し、新しいものと組み合わせたところに混乱が起こった。

 例えば小選挙区制の選挙は、経済的にも言論でも自由かつ公平に戦われたのか。55年体制の一番悪いところは、与党が企業団体献金に乗っかったことだ。与党はまた、官僚機構を我が物に(私物化)した。

 私が野党に関わっていた当時、三極委員会すなわちトライラテラルコミッションがあった。日本国際交流センターが日米の議員を中心にいろいろな人を集めて日米下田会議をやっていた。左翼の方からは人があまり出ていかず、しかも英語で喋る人が少ないとのことで私はよく呼ばれて参加した。その時に「政権交代が起きないのは、野党に政策能力がないからだ」と言った著名なアナリストがいた。私は「その通りだが、情報は全部与党が握っている。野党には政策どころか情報も与えず、説明も十分にしない」と反論した。官僚機構が与党の政策機構になり、情報の透明性が全くなかった。

周:なぜ野党は政権を担当したがるのか?

初岡:政党の目的は政権を担うためだ。

周:チェックを徹底的にやれば、真の反対力を発揮できたのではないか。政権奪取に走ったため社会党も民主党も崩壊し、今の状況につながったのではないか?実際、民主党が政権を担当したらひどかった。 

初岡:それは十分な用意が無いときにやったからだ。おそらく、今度の選挙ではそれについてもう一回試されることになる。

小選挙区・立候補者ポスター

■ 政治家と官僚のバランス


周:日本国民は、本当に民主党の今の人たちに政権を引き渡す勇気があるのか?安倍政権があれだけ長く持ったのは、民主党政権のダメージ記憶があるからではないか?2005年、民主党党首だった岡田克也さんが総選挙で小泉純一郎首相と戦った時、私も参加した会合でマニフェストの議論になった。私は「岡田さんが総理になったとき、霞が関をどう掌握するのか。民主党として官僚とどう関係を作っていくのか」と質問した。岡田さんは「局長以上の辞表を全部預かる」と答えた。つまり、話を聞けという体制を作ると即答した。会場に参加していた財界人が「これではうまくいかない」と口々に言っていた。後に実際民主党政権になった時、官僚を悪者扱いするようなことをした。 

初岡:民主党は当時、政治が官僚によって支配されているとして、官僚政治を強く攻撃した。

周:政権を取らなければこのようなプロパガンダはあってもいいと思うが、真面目に政権運営をするなら官僚を抱き込むのは必須だ。

初岡:民主党政権では局長はともかく次官は全部交代させるとした。ところが次官を1人も交代させなかった。当時、民主党政権を一番攻撃したのは農林次官だった。農林大臣になった赤松さんは親父の代から私もよく知っていた。彼は「水に流して、歴史的妥協をしよう」と言っていた。

 岡田さんが言ったような、選挙で自民党を応援し野党の政策を攻撃した次官に退陣を求め、さらに局長も大使も辞表を預かるような政策は、韓国で金大中が大統領になった時にやった。金大中は圧勝したので比較的スムーズに、局長以上と全ての大使を交代させた。おそらく今度、アメリカのトランプが再選されたらそれをやるだろう。

周:日本は明治維新後、廃藩置県と官僚制をセットに新たな国の体制を作った。他方、選挙で政治家を選ぶ制度も出来た。後者は戦後さらに強化された。つまり、試験で選ばれた官僚と、選挙で選ばれた政治家という二つの勢力が存在する。いろいろ問題はあったにせよ、55年体制では、この二つの勢力がバランスよく協働した。

 中国では官僚制を2000年間敷いた歴史がある。試験で選ばれ、ヒラから課長、局長、審議官を経て事務次官へと、実績を評価され鍛えられた人たちの存在は、国にとってはそれなりの重みがある。選挙で選ばれた人たちが自己を過大評価し、官僚を敵視すること自体、政権担当能力に欠ける。民主党政権はその通りになった。

2008年9月19日「東京―北京フォーラム」にて、司会を務める周牧之教授。左から塩崎恭久(衆議院議員)、岡田克也(衆議院議員)、加藤紘一(衆議院議員)、松本健一(麗澤大学教授)。

■ 人材が決め手


初岡:社会党もいまの立憲民主党も、組織政党ではなく、個人の集まりだ。組織が人を選んでいるわけではない。特に今は手を挙げてやりたいという人の中から選んでいる。

 昔の社会党は、ある程度経歴や党に対する貢献度等を評価されて選考していた面があった。今、政治家になりたい人に一番重要なのが地盤だろう。地盤は世襲議員が有利だ。二番は看板、三番はカバンだ。世襲がないと長年秘書を務めた人がやる。

 今の民主党のトップは京都から来ている泉氏で、経歴は秘書と議員しかない。社会人として生活の経験がゼロ。永田町しか知らない人が首相になれるわけないと私は思う。

 永田町文化を民主党と自民党とで共有している。当選数で役職を決める文化は最悪だ。

周:中国の場合は、仮に中央省庁の公務員を出発点とした場合、課長、処長をやり、地方に回され県のトップをやり、さらに市(日本の都道府県に相当)、そして省トップへと進み、ようやく中央政府に戻り、大臣クラスに抜擢される。人材選抜がかなり厳しい。これらのプロセスを全部クレアして上り詰めた人はかなり逞しい。ハーバード大学教授だったエズラ・ボーゲル氏は私に「日本の政治家より中国の政治家の方が、人間的魅力がある」と言っていた。おそらく鍛えられた故に魅力が出たのだろう。

初岡:そうだ。中国も世襲がないわけではないが。

周:中国の「太子党」は海外で取り沙汰されるが、日本の国会議員の世襲率よりずっと低い。プロセスを踏んで選抜されていけば二世からも優秀な人材が生まれる。例えば習近平氏のキャリアは1979年に国防大臣の秘書を務め、82年河北省正定県の副書記を務め、その後福建省厦門市の副市長を経て、さらに同省寧徳地区の書記になり、福州市の書記をやった後、福建省の副書記、副省長、省長になっていった。続けて、浙江省副省長、省長代理を経て、同省の書記になった。さらに上海市の書記を務めたのちの2007年、つまり地方政府での経験と実績を25年間積んだ後に、ようやく中央政治局常務委員になった。こうした経験が習近平氏の強さになっている。

初岡:今の民主党の議員選考制度は非常にお粗末だ。まず自力で当選できる人、つまり党が金を出さなくても世話しなくても当選できる人が優先される。議員をやりたくて、ある程度の金が自分で調達でき、高学歴で印象が良い人。だから若い無名の人で、外資系企業などに勤めてやる気のある人が案外出てくることが多い。そういう人は落選してもまた仕事を見つけられる。

周: 現場からのし上がるキャリアコースが無くなった。

初岡:私が労働組合に入ったときに、大学卒は稀だった。トップには非常に優秀だが家が貧しくて中学校に行けなかった人が多かった。連合会長だった山岸章さんは頭の良さでは、私が今まで会った人の中でも3本の指に入る人だ。彼は小学校の昼飯の時間は家へ帰り水を飲んで昼飯を食ったような顔をして学校へ戻ったと言っていた。弁当を持っていけなかった。家が貧しく死んだ方がいいと思って特攻隊志願したところ、飛ぶ飛行機がすでになかった。戦後、金沢逓信講習所に入った。それから小さな特定郵便局に入り、下から組合活動の実力で上がってきた。しかし今は連合のトップは2代続けて東大卒だった。

周:当時の労働組合は優秀で教育機会に恵まれなかった人たちがのし上がっていったからこそ強い。東大卒のエリート化が進むことで弱くなるだろう。現場に強く、大局観、そして政策能力のある人材を育てるのが鍵となる。

2008年9月21日、小沢一郎代表、民主党代表に再任

■ イデオロギーよりは実利を


初岡:議員になることが目的で民主党から当選しても平気で自民党に行ったりする。自民党から本来出たいが自民党はすでに立候補者が決まっているから民主党から挑戦し、当選したら自民党へ行く。

 二大政党がイデオロギー的にぶつかっているときにはそういうことはほとんどできなかった。

周:一部の民主党の議員はイデオロギーよりは当選チャンスで民主党を選んだわけだ。イデオロギーが違う二大政党で競い合う政治改革の理想図は実現されていない。

初岡:私はいま各政党の間に深い谷間があるようには思えない。私の観察で言えば現在、国会議員の3分の2は、国会議員になることが大事で、極端なことを言えばどの党に属してもいいと思っているのではないか。民主党員になった人のかなりの数の人は自民党で公認されなかったから民主党のチケットを持った。今度の選挙もおそらくそうなると思う。二大政党というチームの分け方はできない。イデオロギーなど明確な対立軸がない場合にこの現象が起きやすい。 

周:今やイデオロギーよりは当選できるかどうかが重要で、さらに好き嫌い、そして政権を取れるか否かの打算が働く。

初岡:小選挙区制は大局観のない政治家を生む。例えば世田谷区選出であれば、区議会議員は世田谷区全区から選ばれる。世田谷区の国会議員は、五つぐらいに分かれた小さな選挙区で支持を得れば議員になれる。小選挙区制は非常に悪い制度だ。 

周:この悪い制度を導入する時、議員にとって不安定な選挙基盤になるにもかかわらず、なぜ当時社会党などはそれに協力したのか?

初岡:議員個人によって差があるだろう。私も小選挙区制に反対だ。社会党も本当は反対していたが当時は新聞世論に勝てなかった。新聞と政治学者が全て賛成していた。

周:世論は怖い。一瞬の強風には皆弱い。

初岡:今思うと、社会党はイデオロギー政党になろうとした。自民党は大衆的な利害、さまざまな意見を調整する政党だった。これに満足できない本当の保守の人は、保守党などいろいろな政党を作り、自民党の外へ出ていった。この傾向は一つの崩壊現象と言える。

周:55年体制が駄目になったのは社会党も自民党も、分裂現象が起こったからだ。1993年、小沢一郎等実力派が造反し、自民党の外に出て行ったことがこれまでの体制を一気に壊し、さらに翌94年の細川政権で小選挙区を導入したことでゲームチェンジとなった。

初岡:過ちは正せるが時間もコストもかかる。55年体制に戻ることはできないと思う。二大政党という形には、選挙区がどう変わってもならない。価値観や利害関係が多様化し、二つの政党によって代表されることはできない。まして一つの政党によって代表されることもできない。二大政党体制を展開するアメリカでも、事実上それは崩れつつある。共和党内にも、トランプ派と反トランプ派がいる。民主党内にも様々な人が幅広くいる。


プロフィール

初岡 昌一郎(はつおか しょういちろう)/国際関係研究者、姫路独協大学元教授

 国際郵便電信電話労連東京事務所長、ILO条約勧告適用員会委員、姫路獨協大学教授を歴任。研究分野は、国際労働法とアジア労働社会論。

【対談】初岡昌一郎 Vs 周牧之(Ⅰ):理想と現実の葛藤

2024年5月23日、東京経済大学でゲスト講義をする初岡昌一郎氏および周牧之教授

■ 編集ノート:

 アメリカ大統領選挙の混迷、ロシアのウクライナ侵攻、イスラエルのガザ侵攻など世界情勢は揺れ動いている。東京経済大学の周牧之ゼミは2024年5月23日、国際関係研究者の初岡昌一郎姫路独協大学元教授をゲストに迎え、戦後の長いスパンで国内外の政治情勢について解説していただいた。


周:東京経済大学は、非常に左派的な大学で、マルクス経済学の一大牙城だった。1989年初めて訪ねた時、校門の外は、警察の車が止まっていた。聞くと、大学の中に闘争的な左翼の先生がいるからだとの話だった。大学のポリシーでこのような先生達を守っていた。後に私の恩師となった劉進慶先生が台湾政府に迫害を受け、パスポートを取られ無国籍状態だった時、東経大が教員として雇い入れた。そうした私の想像を超えた面白さに魅力を感じ、この大学の大学院に進学した。もう一人の恩師の野村昭夫先生は日本共産党から除名された左派的な先生だった。学長・理事長を務められた富塚文太郎先生も私の恩師の一人で、初岡先生とも親しかった。

初岡:増田祐司先生とも大変親しかった。

周:増田先生のベースはIT経済で国際派の先生だが左派的な考えの持ち主だった。ソ連解体を受け、大学院のゼミで富塚文太郎先生が「社会主義から卒業した」と仰っていたのが印象深かった。

2001年9月7日に中国広州で開かれた「中国都市化フォーラム〜メガロポリス発展戦略〜」にて、左から周牧之、増田祐司教授 

■ 55年体制は一種の運命共同体


周:戦後日本の政治は長い間、自民党と社会党という万年与党と万年野党とで成り立っていた。この55年体制を打破する動きが何故出てきたのか?しかもなぜ小選挙区の導入もセットだったのか?55年体制には悪い面があったが、日本の高度成長をもたらした功績があった。社会党も、支持基盤の労働組合も、なぜ55年体制の崩壊に協力したのか?

初岡:55年体制の問題について語る前に、回り道したい。私はもう少しで89歳になる。1955年は私が大学に入った年だ。同年、二つの保守政党が統一して自民党ができた。自民党に対立する側は、当時左派社会党と右派社会党があったのが統一して社会党が出来た。それで二大政党になった。とはいえ議会での勢力は自民党が3分の2、社会党3分の1なので、二大政党というより、1.5と0.5の政党だ。

周:1955年に万年与党と万年野党の体制が出来上がった。

初岡:非常に都合がいい体制だ。1955年当時、東京経済大学は左翼が強い大学だった。私は左翼が強くはなく非常に穏健とされていた国際基督教大学に進学した。国際基督教大学で私は左翼学生で、社会科学研究会(社研)に所属していた。

周:凄い時代だ。左翼が強くない穏健な国際基督教大学にも社研があった(笑)。

初岡:三多摩では当時、砂川の米軍基地を拡大し農民の土地を強制的に取り上げることに農民が反対し、学生の支援する砂川闘争が起きた。社会党や労働組合の力もあったが、学生が最大の動員力を持っていた。全学連が一番強く、社研は全学連運動の中にあった。津田塾大、一橋大、東経大、国際基督教大、成蹊大の5つの大学が三多摩社研連を作り、それを軸に関東社研連を作った。

 当時、社研はマルクス主義研究会として非常に行動的な組織だった。国際基督教大学の社研はバリケード闘争を行った1970年代以降は無くなった。

 1959年に私は卒業し、政党から自立した青年学生組織の社会主義青年同盟の創立に参加した。1960年の安保闘争時には社会主義青年同盟準備会に専従していた。その頃は学生運動が過激化すると同時に、社研連の中でもイデオロギー的な闘争があり、政治的な見解を巡り意見がなかなかまとまらなかった。

周:初岡先生は、大学を卒業後、社青同を作るために就職せずに頑張った。

初岡:55年体制ができた当時は、イデオロギー的な対立が非常に深刻だったが、それに国民的な基盤があったかは疑問だ。55年体制はある程度バーター政治だった。ホールバーターではないが3分の1か4分の1はバーターで聞く耳を持たないと政治は動かなかった。当時の政治家には懐が深い人が大勢いた。反対を言われても3分の1は聞くふりをする。3分の1は相手のことも聞くか、あるいは聞いたふりをしないと、55年体制はできない。

周:互いにある程度容認し合うことが大切だ。

初岡:労使関係もそうだ。私は、55年体制は同心円の二つの輪だと思う。それぞれ独自のところはあるが、運命共同体の面もある。

1993年8月6日、新首相に指名され、同僚議員に祝福される細川護熙氏(出典:時事通信社

■ ソ連行きを敢行


初岡:安保闘争が終わった年の秋に、初めて日本国外に出る機会に恵まれた。戦後、日本は形式的には1951年のサンフランシスコ講和条約で、主権を回復するが、まだ自由に国外に出られず、パスポートは自由に取れなかった。ビジネスではパスポートを申請して行けたが、一般の人が海外に行くには二つの条件が要った。一つは、国外での費用を誰かが全額負担してくれる、つまりオールギャランティの招待状があること。二つ目は、外貨の持ち出しが200ドルに制限されていた。当時は1ドル360円だから、7万円だ。大学卒の給料が当時1万円程だから、7万円を持ち出すのは学生にはあり得ない難しいことだった。

 ソ連に初めて行ったのはそうした時だった。当時ソ連行きは簡単ではなかった。パスポートをもらっても、モスクワと日本の間に飛行機はなく、行くとすればアメリカかヨーロッパを経由するしかなかった。今のようなディスカウントケットはなく、正規料金でソ連へ行くのは44万円から47万円必要だった。

周:当時の金額で47万円は大金だ。

初岡:そうだ。結局一番簡単で安く行ける方法は、ロシアの貨物船に乗っていくことだとアドバイスされた。八幡製鉄が薄い鋼板をロシアへ輸出していたので、その船に乗っていくことにした。東京から行って待っていたのだが、雨が降って鋼板が錆びるから作業しないまま1週間八幡で過ごして予定が狂った。一番困ったのは、宿代がなくなったこと。さらに困ったのは待っていた7日間に国際会議が終わってしまったことだ。当時外国へ行くのは簡単ではなく、仲間がカンパで100円、500円と集めてくれたので、行くしかないと思い、そんな状況でも行った。

周:とんでも無い状況の中でソビエト行きを敢行した。ソ連に招待されたきっかけは?

初岡:ワールドユースフォーラム(和訳で世界青年学生討論集会)というところから、日本の各青年団体へ招待があった。日本は自民党系が強かった青年団(日青協)、共産党の民青も含め5団体で準備会を作った。5団体のうち三つが社会党系だった。社青同、総評、日本農民組合の青年部。他の人は家庭もあり職場もあるから1カ月も行けない。私は学生で、その後社青同に属し定職がなかったから行けた。国際基督教大学出身だから英語ができるはずだと思われたかも。いずれにしても自分で行こうと思って行ったことではない。

周:初岡先生にとって人生の転機だった。

初岡:人生には「まさか」という坂がある。その時、私は社会党青年部で、全国的な役員をやっていたのは学生では私ひとりだった。あとは組合や地方の人だった。当時社会党は学生に広く支持されたが、党員になる学生には運動をやるより選挙に出るために入ってきた人がいた。特に早稲田大学の学生は大勢いて、伝統的に選挙に出る人が多かった。私は選挙に出るという考えがなかった。

 私がソ連に行ったのは中ソ論争が始まった時で、日本共産党もそれを機に分裂した。ソ連は私が日本共産党員でないと知り、受け入れたのかもしれない。

周:都合が良かった。

初岡:最初に行ったソ連は当時、左翼陣営が震え上がるような大きな政治的な激震、すなわちスターリン批判が、1955年から56年に始まって進行中だった。スターリン批判によりソ連の新指導部ではフルシチョフがリードして、国内改革と同時に、初めて米ソの平和共存、国際対立の平和的な解決を言い始めた。

 ソ連はこれでアメリカに追いつこうとし、共産党以外の政治勢力とも対話したいと考えていた。共産党系の青年組織と学生組織が国際的にあり、日本の全学連と民青は所属していた。しかし、当時私たちは中立非同盟の考え方に立ち、ソ連や全ての国と友好的な関係を持ち、どこのブロックにも入らない立場をとっていた。

周:それはアメリカと同盟関係にある日本政府のポリシーとは相反する考えだ。

初岡:野党、とくに当時の日本社会党左派の考え方だった。社会党右派はアメリカと協調するべきとし、日米安保条約も必要との考え方だった。左右両派が統一した時これは曖昧になった。

 日本共産党もそれまでは武力によって政権を取る方針を持っていて、三多摩の山中で拠点を作るなどしていた。今思うと空想的だが、当時は真面目に支持する人が国民の中で5%ぐらいいた。学生の中には大学を中退し、三多摩などで山村工作隊に入った人もいた。1955年以前の学生運動と社研は共産党一色だった。私が大学に入ったときは違う風が吹き始めていた。

1959年9月19日、ニューヨークのアイドルワイルド空港で演説するニキータ・フルシチョフ書記

■ モスクワで世界的なネットワーク


初岡:モスクワ準備会では世界から代表10名を選び1961年に予定された本会議の準備を進めることになった。常任書記局メンバーは各地域から二、三名選ばれた。アジアは中国と日本だった。翌年発足した常任書記局に日本からは私が行くことになり、この時は焼津からソ連の漁船で行った。1961年の冬から夏まで半年間モスクワにいた。国際準備会のメンバーは皆立派なホテルに泊まっていた。アジアからは中国、ヨーロッパはフランスとイタリア。それにロシア。北米は無く、南米はキューバとブラジル。アフリカはマリ、モロッコ、ガーナ。私は元々共産党員ではなく、ソ連の体制についてはある程度好意的に見ていたが、肯定もしていなかった。

周:まさしく左派青年の世界的なネットワークだ。初岡先生と一緒だった中国の青年、胡啓立氏は後に中国でナンバーワンになる可能性があった人だ。

初岡:彼は本当に立派な人。七つか八つ年上だった。中国共産主義青年団に胡という名の人は多い。胡耀邦さんを除いて他の方はみんな体格がよかった。

周:胡耀邦さんは非常に若い時から革命に参加して、身体が伸びる時期は井崗山や長征で充分食べられなかったのだろう。私と同じ湖南省出身であることも一つの原因かもしれない。

初岡:確か胡啓立さんは、北方の陝西省出身だ。モスクワで一番不自由だったのは、新聞がなかったこと。ホテルで売っているのは共産党の新聞だけ。フランスやイタリアのように共産党が強いところは、普通の日刊紙と変わらない新聞を出していたが、日本は共産党機関紙の赤旗だけだった。ソ連と日本共産党との関係が悪くなると、赤旗もモスクワで買えなくなった。私は朝日新聞モスクワ支局で新聞を読ませてもらっていた。

周:一応世界中から共産党系の新聞が届いて読めたわけだ(笑)。初岡先生がモスクワにいた時の飲食を含めた生活費は全てソビエトが負担したのか?

初岡:ホテル代はソビエトが負担した。当時、書記局員の給与は月額400ルーブル。日本円にして月8万円出してくれた。もちろん交換性がないから、ルーブルは外国へ出たら紙くずになる。

周:全部向こうで飲んで食べて消費したわけだ(笑)。

初岡:日本人は珍しかったので、モスクワ放送や、あまり聞いたことない新聞雑誌からのインタビューで、結構謝礼をもらった。当時インタビューを多く受けた外国代表は、多分キューバと日本ぐらいだったと思う。日本はまだ珍しかった。 

周:初岡先生はその後ソビエト以外の東欧諸国にも出かけた。

初岡:英語ができる人がいなかったので、外国はお前が行けと言われ、モスクワのあと、ヘルシンキへ行った。社青同を辞める口実として、ユーゴのベオグラードに留学に行くことにしていた。行ってから二、三カ月しないうちに、イタリアで国際会議があるのでその常任書記局に行ってくれと日本の仲間に頼まれて、フィレンツェに行くことになった。3カ月いたが金はない、当時は酒は全く飲まず旨いモノも食べられなかった。昼はフィレンツェ大学の学生食堂でスパゲティーを食べていた。

 モスクワの同じホテルには、日本の商社の人が3人いた。彼らはお互いの部屋で食事を作って食べていた。商社の人は炊飯器を持ち込んでいた。聞いたことない商社ばかり。いわゆる三大商社のダミーだ。 

周:中国でいう友好商社だ。

初岡:アメリカに遠慮して、アメリカから制裁されないように。 

周:問題にならないように作ったダミー会社だ。冷戦当時日本と中国、ソ連、東欧諸国との貿易で大きな役割を果たした。

■ 社会主義国家の理想と現実の乖離


周:初岡先生はソビエトへ行き、視野がかなり広くなった?

初岡:物事を相対的に見ることができるようになった。ソ連は、ものすごいコネ社会だった。最初に覚えたロシア語は、「席はありません」だ。レストランの門番にお金を出すと中に入れてくれた。或いはソ連の団体の人と一緒に行き、中央委員会のゲストだというと満席でも席が作られた。社会主義とは無縁なおかしな社会だと強く感じた。私は元々共産主義に対して幻想を持っていなかったが、あれほどひどい社会とは思わなかった。

周:共産主義の理想と現実のギャップの大きさを体感された。

初岡:日本に帰ったら青年同盟の中でイデオロギーに関する内部の戦いがあった。私はどちらかというと右派的なグループにいて、左の中の右派ということで集中攻撃を受け、辞めた。

 ヨーロッパの中でもう少しマシな共産主義もあるはずだと思い、今度はユーゴスラビアに行った。ユーゴスラビアは当時、非同盟中立だったが、制度としては一応共産主義を取っていた。モスクワとの仲が非常に悪く、自立していた。ユーゴスラビア、インドネシア、インドが、非同盟ブロックを作り東西対立の真ん中にいた。ユーゴスラビアは、モスクワを「共産主義と言いながら官僚、エリートが牛耳っている社会だ」と批判していた。しかし、ユーゴスラビアの労働者自治管理を見たら、そこも実態はうまくいってなかった。

周:中国のソ連批判の時、ユーゴもかなり加担した。

初岡:ジョークは大抵社会のタブーから生まれる。ユーゴスラビアで聞いた政治ジョークがある。「国連がアフリカのコンゴに調査団を3者構成で派遣した。すなわち東はソ連、西はアメリカ、中立国がユーゴだ。ソ連の代表がまず調査に入り「コンゴにスプートニクあるか?」と聞いたら「ない」。「ICBMはあるか」と聞いたら「ない」。それでは後進国だ。次に、アメリカの代表が「キャデラック乗っているか」と聞くと「乗っていない」。「電気冷蔵庫は?」「ない」。それでは「コンゴは後進的だ」と言った。最後にユーゴ代表が「労働者自主管理やっているか」。「やっていない」。ユーゴ人は「へえー、コンゴは労働者の自主管理をやっていないのに後進的だね」と言ったというオチだ。

 労働者自主管理と言いながら、実態は共産主義同盟員が幹部となり仕切っていた。フランスの労働者自治管理論についても、理想としては良く、官僚主義のアク抜きになる思想ではあっても、現実の運用は難しかった。ミッテラン政権以降は誰も言わなくなった。

周:中国も同じ問題が起こっていた。社会主義国家になったもののどんな社会にしていくか苦労した。一番なりがちなのは官僚主義社会だ。ソ連の官僚主義はひどかった。中国では早くも1957年から毛沢東が官僚主義に対し、さまざま外部から意見を言わせて直そうとした。ところが官僚の反発がひどく、反右派運動になり、意見を言った人たちが右派として打倒された。

 のちの文化大革命の本質も、官僚主義を打倒する運動だった。戦後社会主義国家になった国々が苦労しているのは、旧来の体制を崩壊させた後、どんな体制が真に世直しできるかの答えを模索し続けた点だ。その意味ではソ連も中国も政権を取った後、大変苦労した。社会主義国は皆苦労した。その苦労を、初岡先生がさまざまな国を点検し、目の当たりにしたのは貴重な経験だ。

旧ユーゴスラビア首都・ベオグラード

■ マルクス主義は一元論的発想


初岡:マルクス主義のルーツを見ると、カトリックの教義から派生している。私は高校からキリスト教の学校に行ったので、ある程度勉強したが、マルクス主義とカトリックが非常に似ていると思ったのは「真理は一つしかない」と信ずる点だ。自分が真理を握っているとし、他の人が違う意見であれば他の人は完全に間違いだという発想だ。真理は一つしかないとする一元論だ。

 逆の面から言えば、それは非妥協になる。寛容さを失う。マルクスの共産主義と比較すると、社会民主主義の思想は多元論だ。自分を正しいと思うが、他人が正しいこともありうるとの立場だ。

 キリスト教カトリック本流にとって一番危険なのは、キリスト教の分派をつくることだ。マルクス主義左翼も同じだった。日本共産党も自民党より共産党分派の方をひどく攻撃した。 

周:マルクス主義の政党における内部闘争の凄まじさは、これで説明がつく。中国共産党も同じで内部闘争が激しかった。根底にあったのは、この一元論的なロジックだ。

 共産主義を一元論「宗教」とすれば、教祖様はユダヤ人だ。実際、初期のソビエト共産党上層部はユダヤ人が大半だった。

初岡:レーニン時の中央委員会の中で、ユダヤ人が半数を超えた。政治局のトロツキーもカーメネフもジノヴィエフもユダヤ人。

周:当時の政治局5人の中で、レーニン、スターリンを除き他3人は全員ユダヤ人だった。スターリンによる粛清について一説は、ユダヤ人を共産党から排除するためとされる。

初岡:スターリンが死んだとき、ロシアのアネクドートだが、当時の医者が「スターリンが死亡」と診断を下せない。死んだと言ったらスターリンを殺したといわれるかも知れない。スターリンの側近が「こんな医者はだめだ、もっといい医者を呼べ」と。そうしたら他の側近が「無理だ。もっとましな医者はみなユダヤ人だから処刑された」。それでやむなく「息が止まっている」と言った。

 ロシアはジョークの宝庫だが、イタリア共産党の人から聞いたのが半分以上だ。当時のイタリア共産党青年同盟書記長は、後にイタリア共産党書記長になったオケット。サルジィニアの代々貴族の家の出身だ。国際部長ペトロ‐ネも面白いやつで「お前、日本社会党だそうだけど、日本社会党はイタリア共産党と同じように腐敗しているか」と私に聞いてきた。とにかくイタリア人は面白い。

 一番傑作で笑ったのは、フルシチョフに対するジョークだ。赤の広場で青年が、「フルシチョフは馬鹿だ、あいつはアホだ」と叫んだ。即決裁判でシベリア重労働20年。罪名は、国家重要機密漏洩(笑)。

カール・マルクスの墓

■ 左翼も変身する  


周:左翼の人の変身ぶりも見所だ。

初岡:秋田の国際教養大学の創立者で初代学長だった中嶋嶺雄さんは、全日本学生自治会総連合(全学連)の最後の国際部長で私より一つ若い。学生のときから知っていた。最初は毛沢東支持。後に台湾支持へと極端に変わった。政治評論家として活躍した森田実さんもそうだ。

周:拓殖大学学長だった渡辺利夫氏もそうだ。中国や韓国などへの態度はかなり変化した。日本李登輝友の会会長まで務めた。だが、人間味のある人で、私の恩師劉進慶先生が亡くなったことを知らせたら、大きな花を送ってきた。その後会った時「いや実は劉先生はあまり存じ上げない」と言われた。私が知らせたので花を送ってくれた。 

初岡:中道を行かない。ただ、全部の人が変わったわけではない。例えば富塚文太郎さんなど共産党から除名されても、リベラルな左翼であり続けた。

周:私の恩師、野村昭夫先生も共産党から除名され、リベラルな思想を貫いた。

初岡:増田祐司先生も非常に真面目な方で、ガチガチのマルクス主義者だったが、共産党に除名されたおかげでリベラルになった。腹に一物がない善人だ。

周:増田祐司先生は私が出会ったときは大らかな方だった。東京経済大学のサバテイカル休暇を利用し、EU委員会科学技術局第XII総局上級研究員を務めた。その後東京大学社会情報学研究所の教授になった。

1995年7月21日、周牧之の経済学博士学位授与式にて、前列左から富塚文太郎学長、周牧之、野村昭夫教授、劉進慶教授。後列左から堺憲一教授、小島寛教授

■ マルクス経済学は日本社会に大きな影響


初岡:私は、全学連の委員長を務め後に学習院の先生になった香山健一さんとは波長があった。戦争中は右翼で、戦後いち早く左翼になった清水幾太郎という名物学者がいた。晩年は穏健左翼になり江田三郎を支持した珍しい人だ。清水先生は学習院の教授で、自分が辞めるときに香山健一を後釜にした。今の天皇は、香山ゼミだった。ある時香山に「学習院で何やっているの?」と聞くと「皇太子の教育係」と言う。「あんた危険思想教えているんじゃないの」と言ってひやかした(笑)。香山もあまり共産党的ではなかったが元共産党員だった。満州からの引き揚げ者で、人柄と頭は良かった。

隅谷三喜男(1976)『韓国の経済』(岩波書店)、劉進慶(1992)『台湾の経済』(東京大学出版会)

周:左翼的な思想、そしてマルクス経済学も日本社会に大きな影響を及ぼした。私はマルクス経済学大御所の隅谷三喜男先生に大変お世話になった。恩師の劉進慶先生は台湾出身で隅谷先生の愛弟子だった。『韓国の経済』を書いた隅谷先生は、劉先生に『台湾の経済—典型NIESの光と影』を書かせた。私がドクターを取った後、両先生から『中国経済論』を書くよう勧められた。一国の経済論を書き上げるのは大変な挑戦だ。隅谷邸で中国経済に関する研究会を立ち上げ、宇野経済学の流れを汲むマルクス経済学者の伊藤誠先生も加わった。当時、私は海外に頻繁に調査出張していた。東京に戻る度に研究会で調査報告し、喧々囂々の議論を繰り返した。奥様手作りのサンドイッチを食べながら隅谷先生を囲んだ議論で、『中国経済論』のフレームワークや思想が相当鍛えられた。

初岡:隅谷先生が本をたくさん出された中で1冊だけだった翻訳書の光栄ながら共訳者になった。私はそのとき全逓の一職員で、役員でもなかった。公労委の大先生だった隅谷先生の本に、全逓信労働組合書記、初岡昌一郎の名で加わった。

 この本を出してくれたのは、当時日本評論社の出版部長だった森田実で、彼が全学連共闘部長だった頃から私はかなり仲が良かった。彼は東大工学部に8年いた人だ。全学連の役員をずっとやっていたが、東大には8年しかいられないから卒業して、今度は中央労働学院という各種学校の学生になり、全学連役員を続けた(笑)。

(※以下、第二弾に続く

周牧之(2007)『中国経済論—高度成長のメカニズムと課題』(日本経済評論社)周牧之(2008)『中国经济论:崛起的机制与课题』(人民出版社)

プロフィール

初岡 昌一郎(はつおか しょういちろう)/国際関係研究者、姫路独協大学元教授

 国際郵便電信電話労連東京事務所長、ILO条約勧告適用員会委員、姫路獨協大学教授を歴任。研究分野は、国際労働法とアジア労働社会論。

【鄭州】iPhone生産とEV産業クラスターとしての中原メガシティ【中国都市総合発展指標】第19位

中国都市総合発展指標2022
第19位



 鄭州は中国都市総合発展指標2022総合ランキング第19位であり、前年度の順位を維持した。

 「社会」大項目は第15位で、前年度に比べ順位が1つ下がった。3つの中項目で「ステータス・ガバナンス」は第12位、「伝承・交流」は第15位、「生活品質」は第19位だった。小項目で見ると、「人口資質」は第8位、「歴史遺産」は第10位と2項目がトップ10に入った。また、「生活サービス」は第15位、「消費水準」は第17位「文化娯楽」は第19位と3項目がトップ20に入った。なお、「都市地位」「人的交流」は第21位、「居住環境」は第30位、「社会マネジメント」は第32位であった。

 「経済」大項目は第18位で、前年度に比べ順位が1つ下がった。3つの中項目で「都市影響」は第15位、「経済品質」は第17位、「発展活力」は第19位で、3中項目のうちトップ10入りした項目はなかった。9つの小項目のうち、トップ10入りした項目はなかったものの、「経済規模」「開放度」「広域中枢機能」「広域輻射力」は第13位、「イノベーション・起業」は第19位と、6項目がトップ20に入った。また、「都市圏」は第21位、「経済構造」は第23位と2項目もトップ30に入った。なお、「ビジネス環境」は第33位、「経済効率」は第71位だった。

 「環境」大項目は第102位であった。3つの中項目のうち「空間構造」は第27位、「環境品質」は第175位、「自然生態」は第218位であった。9つの小項目のうち、「環境努力」は第10位と、1項目がトップ10に入った。「都市インフラ」は第16位と、1項目がトップ20に入った。なお、「交通ネットワーク」は第28位、「コンパクトシティ」は第29位、「自然災害」は第112位、「資源効率」は第118位、「気候条件」は第184位、「水土賦存」は第210位、「汚染負荷」は第277位であった。


中原の中核都市


 鄭州は河南省の省都であり、中原メガロポリスの中核都市である(中原メガロポリスについて詳しくは中心都市がメガロポリスの発展を牽引:中国都市総合発展指標2022を参照)。鄭州は河南省の中北部に位置し、北に黄河、西に嵩山がある。東は開封、南は許昌と平頂山、西は洛陽、北は新郷と焦作の各市と接している。市の総面積は7,567平方キロメートル(熊本県と同程度)で、中国人口規模第11位の都市として約1,283万人を抱える。現在、6区5市1県を管轄し、国家級新区1つ、国家級開発区2つ、国家級輸出加工区1つを有している。

 同市は温帯大陸性季節風気候に属し、四季がはっきりしている。年間平均気温は約15.4℃、年間降水量は約630mmである​​​​。市内には大小124の河川があり、多様な自然地形を有している。

■ 由緒ある文明交流の地


 鄭州は中国古代文明・華夏文明の発祥の地として、古来より文明交流の十字路とされてきた。

 夏、商、管、鄭、韓の各王朝が鄭州に都を置き、隋、唐、五代、宋、金、元、明、清の各王朝が州を設置してきた。鄭州の中心市街地には、3,600年前の商朝の城壁遺跡(鄭州商城)全長7キロメートルが今も残る。市内には、世界文化遺産が2項目15カ所あり(中国第5位)、国家重点文化遺産保護施設87カ所(中国第3位)、省レベル文化遺産保護施設97カ所、市レベル文化遺産保護施設208カ所、国家レベル無形文化遺産6カ所を有している。他にも、裴李崗文化遺跡(約8,000年前)、大河村遺跡(約5,000年前)、打虎亭漢墓、黄帝故里など、多くの古代文化遺跡が散在している。少林寺のある嵩山を始め、黄河文化公園などの自然文化景観も多くの観光客を引き付けている。鄭州の「国内観光客数」は中国第21位である。

 豊かな中原文化は、古代において子産、列子、韓非、杜甫など傑出した人物を輩出している。同市は現在なお「傑出文化人指数」で中国第7位と好成績を誇っている。

■ 鉄道が産んだ大都市


 鄭州駅は1904年に設立され、当初はプラットフォーム1つ、平屋2軒、線路4本しかなかった。1953年に鄭州駅が拡張され、鉄道のハブとなった。鉄道の利便性により1954年に河南省の省都が開封から鄭州へ移転された。これが、鄭州が「鉄道が産んだ都市」と言われる由縁である。

 鄭州は、東西南北交通の要衝として、航空・鉄道・道路からなる巨大な交通ハブとなっている。鄭州駅は中国鉄道の最大級の旅客中継駅で「中国鉄道の心臓」と呼ばれている。同市の「空港利便性」と「航空輸送」は共に全国第13位であり、「鉄道利便性」に至っては全国第1位を誇っている。(詳しくは【ランキング】中国で最も空港利便性が高い都市はどこか?を参照)。

 鄭州は一帯一路の重要な結節点都市でもある。2013年に鄭州は中部地区で初めてヨーロッパへ直通する貨物列車―中欧列車を開通させた。過去10年間でユーラシア40カ国の140以上の都市を繋げた中欧列車(中豫号)が、累計750万トンの貨物を輸送した。

■ ギリシャ一国に匹敵する経済規模


 鄭州は中原地区の経済中心地として、2022年のGDPは1兆2,935億元(約25.9兆円、1元=20円換算)に達し、中国第16位の経済規模を誇る。これは世界第54位のイラクのGDPを超え、世界第53位のギリシャのGDPに匹敵する規模である(詳しくは「【ランキング】世界で最も経済リカバリーの早い国はどこか? 中国で最も経済成長の早い都市はどこか?を参照)。

 金融・医療センターとしての機能も高く、鄭州の「金融輻射力」は中国第7位、「医療輻射力」は中国第9位となっている。鄭州には、中国初の先物取引所と、中国初の空港経済区がある​。

 鄭州は中国の主要な研究都市として、「科学技術輻射力」は中国第19位である。複数の国家重点大学が存在し、「高等教育輻射力」は中国第15位と高水準である。「大学学生数」と「高等教育教師数」はいずれも中国第3位である(詳しくは【ランキング】科学技術大国中国の研究開発拠点都市はどこか?)。

 中心都市としての鄭州は、外部から人々を吸引し成長している。人口の流出入を示す「流動人口(非戸籍常住人口)」では、河南省内17都市のうち16都市は、外へ人口が流出し、その規模は約2,012万人に達している。中でも、周口、信陽、駐馬店の3都市は、中国で最も人口が流出するトップ3都市であり、同3都市だけで約938万人が外部に流出している。これに対して鄭州は、流動人口が約363万人のプラスである。よって鄭州は中国第11位の人口流入都市となっている。

■ iPhone生産とEV産業クラスターの一大拠点


 鄭州は、世界最大のApple製品の生産基地として名高い。最近、EV生産にも力を入れている。

 鄭州はBYDの中高級車種の重要な生産基地であり、2023年11月、BYDの第600万台目のEVが鄭州で生産された(詳しくは【ランキング】自動車大国中国の生産拠点都市はどこか?を参照)。

 内陸都市でありながら、鄭州の「製造業輻射力」は中国第20位で高い(詳しくは【ランキング】中国で最も輸出力の高い都市はどこか?を参照)​。

■ エンタメ都市としての台頭


 鄭州のコンテンツ産業も盛んである。2021年、河南衛星テレビの春晩(旧正月を祝う中国の国民的年越し番組)には、ダンス番組「唐宮夜宴」が全国を席巻した。その後、同テレビ局の「端午の不思議な旅」や、水中ダンス番組「祈」も大ヒットした。

 「唐宮夜宴」は、河南博物院が所蔵する唐代の舞楽佣から着想を得たことで、河南博物院も注目を集め、多くの観光客が訪れている。

 エンタメ都市としても名を上げつつある鄭州は、「文化・スポーツ・娯楽輻射力」で中国第15位であり、「映画館・劇場消費指数」は中国第14位である(詳しくは【ランキング】世界で最も稼ぐ映画大国はどこか?を参照)。

■ 黒川紀章設計の市街地が魅力


 鄭州東部に建設中の150万人都市「鄭東新区」の設計には、日本を代表する建築家・黒川紀章氏の案が採用されている。「鄭東新区」の設計案は2003年に実施された国際設計コンペによって決定されたもので、黒川氏は計画面積1.5万ヘクタールのマスタープランとCBD地区の詳細設計を担当した。生態回廊や水路都市などの人間と自然との共生といった基本コンセプトが、同市の新市街地の魅力を形作っている。


【ディスカッション】小島明・田中琢二・周牧之(Ⅱ):ユーラシア大陸を視野に入れた米中関係

■ 編集ノート:

 米中貿易戦争、ロシアのウクライナ侵攻、イスラエルのガザ侵攻などで世界情勢は揺れ動いている。東京経済大学の周牧之ゼミは2024年4月18日、小島明日本経済研究センター元会長、田中琢二IMF元日本代表理事をゲストに迎え、激動の世界情勢について解説していただいた。

※前半はこちらから


40年間の改革開放で中国は自信をつけた


周:私は2018年に華為(HUAWEI)のある取締役から「アメリカのマーケット、アメリカからの技術輸入を諦めた」と聞いた。つまり、その時からアメリカから槍玉に上げられた同社はすでに脱アメリカを進めてきた。いまは、中国の半導体、ハイテク産業で脱アメリカが猛烈に進んでいる。

 13億の人口とユーラシア大陸をバックに持つ中国の脱アメリカは、確実に進んでいる。小島先生が敬愛されるドラッカーの言葉で「すでに起こった未来を確認する」というのが、私は一番大切だと思う。

小島:冷戦後のグローバルなスーパーパワーはアメリカだけだった。中国は自分の力が上がってきてアメリカから言われるだけでなく言うべきことを言うようになった。アメリカは超大国だが縮み始めた。アメリカ自身もそのことを認識し始めたから厳しい対中政策が出てくる背景になった。

田中:中国の立場になって考えたときに「とても覇権を握ろうと考えていない」という人たちが同世代にいらっしゃるのも事実だとは思うが、今のリーダーシップは、「アメリカ人に対抗する」あるいはそれ以上の昔の中華大帝国を再生しようという意欲は持っていらっしゃると思う。

 その中で、ポジティブな面で着々と進められているのは、今おっしゃったように、脱アメリカでしっかりと経済を成長させていく基盤を作ろうというのはもう間違いない。その中で、BRICSなどで仲間の国を増やし、ドルを使わず人民元で、例えば石油を決済するような試みをされていると思う。

 これは良い意味で中国が世界のグローバルパワーになっていく意図を体現していくプロセスだと思う。ただ一方で今、非常に困難な状況に陥っているのは、中国の経済活動だ。例えば不動産の問題がひとつ。投資偏重で供給力が少ないときには投資によってインフラを整備することは政策効果があったが、供給能力が出てきたときに、目先のことだけ考えて短期的な投資で経済成長率を一定程度維持することが、本当に持続的なのかどうか。この点は周先生に伺いたい。今中国の経済は中期的に見て、グローバルパワーへの道筋は、しっかりと戦略に持っている。中国の立場から見るとそう思う。ただし一方で、経済の現実が、それをどう阻んでいるのか、あるいは阻んでいないのか?

2018年8月2日、華為( HUAWEI)主催のフォーラムにて基調講演する周牧之教授

■ 中国で「新勢力」が急速に台頭


周:私は中国の産業や企業を「新勢力」と「旧勢力」に分類できると考えている。例えば不動産は、中国経済を改革開放から今日まで引っ張ってきた「旧勢力」だ。

 他方、近年急速に台頭してきた「新勢力」がある。これは電気自動車、半導体、新エネルギー、越境ECなどが典型的だ。中国では最近、これら「新勢力」を「新たな質の生産力」と言うようになった。

 中国経済のミソは「旧勢力」が失速する時に、「新勢力」が台頭したことだ。例えば昨年、深圳の輸出輸入のデータを見ると、輸出は伸びているが輸入が減っている。輸入に頼っていたチップの国産化が進んだためだ。

田中:自国生産だ。

周:中国はいま世界最大の半導体マーケットだ。これがアメリカの半導体産業の研究開発や設備投資を支えてきた。アメリカがチップを売ってくれないため中国は自国で作るようになった。中国は自分のマーケットがあるため思い切って研究開発や設備投資が出来る。年間新たに数百万人のエンジニアが生まれる中国では投資し続ければ半導体産業は育つ。

 日本の半導体は何故凋落したのか?私から見ると、投資を続けなかったからだ。日本の半導体産業は最初、社内やグループ内のマーケットをあてにして成長してきた。しかしムーアの法則に従って半導体が進化し、次第により大きな投資が必要となった。それに相応するマーケットをゲットする能力がないと投資が続かなくなる。

田中:売り上げがなくなる。

周:ムーアの法則によると18カ月間で半導体は一世代進化する。能力が倍増し値段が半減する。1960年代から半導体はずっとムーアの法則通りに進化し続けてきた。半導体メーカーの投資がこのリズムに間に合わなくなると、3年間で脱落する。エヌビディアがなぜ今すごいか?CEOの黃仁勳が、ムーアの法則を上回るスピードで投資し続けたからだ。

■ 組織と社会のイノベーションが必要


小島:1980年代、日本の半導体産業は元気であり、米国にとっては脅威だった。いまは半導体産業は安全保障上も経済発展の為にも戦略的に重要産業と見なされ、日米ともに自国優先で技術力と経済力を国内に止めようという戦略的な動きになっている。

 WTOはアメリカが先導して作ったが、最近はWTO違反の輸出規制や輸入規制をアメリカが勝手にやっている。本来ならWTOのルール違反だとなるはずが、紛争解決パネルの判事の任命を、アメリカが拒否している。WTOにとって一番重要だと思われた紛争解決のパネルの機能が停止したままだ。WTOは半分死んでいる。

周:その意味ではWTOなどの国際組織の役割をきちんと果たせるようにし、グローバリゼーションを一層推し進めなければならない。

講義をする小島明氏

小島:日本はグローバリゼーションが、片道切符だ。日本企業は約10兆円海外に投資しているが、日本国内の投資は少ない。外国から入る投資も少ない。直接投資ギャップがある。日本は世界のグローバリゼーションに貢献したが、日本国内のグローバリゼーションは非常にスローだった。日本はこの30年間内向きになり過ぎた。

 グローバリゼーションの中で、技術革新で新しいものを作るのが重要だが、どうも日本社会では技術革新を単に人の発明と思っている人が多い。1950年代当時、経済白書でイノベーションを紹介している。そのとき、イノベーションを技術革新とした。ところが、イノベーションという言葉を最初に普及させたシュンペーターは、「新しいモノの生産、市場開拓、流通、付加価値をもたらすこと全てがイノベーションだ」と言った。日本ではそのような広がりのある発想で、経済社会の動きを考えていかなければならない。

 これが日本政府の課題であり、実際に経済社会を動かす1人1人の力にかかっている。日本はグローバリゼーションを加速させ、チャンスを掴み、活用していかなければならない。

周:小島先生の仰る通り、そもそも日本はグローバリゼーションの波の中で、スローだった。2000年以降、世界は新たに増えた輸出総額において中国は20%を占めたのに対し、日本は僅か1.7%に過ぎなかった。グローバリゼーションの波に乗るのは、組織のイノベーション、そして社会のイノベーションが必要だ。

図 マッキンダーのハートランド論

出典:”The Geographical Pivot of History”, Geographical Journal 23, no. 4 (April 1904)

「島国」とユーラシア大陸との緊張感


学生: 中国が脱アメリカで、大中華帝国を目指して大きい国になろうとしている点がどんなところに具体的に見られるかお聞きしたい。

周:大中華帝国を目指して議論する中国の学者や官僚に、私自身は会ったことはない。何故か日本の新聞などにそうした論調が時折出ている。これは島国から大陸を見た時の発想かもしれない。

 ヨーロッパの島国といえばイギリスだ。数百年にわたり、イギリス人の外交は、ヨーロッパをまとめないよう努めてきた。スペイン、オランダ、ナポレオン、ドイツ、ロシアといったヨーロッパをまとめる勢力が出て来れば、イギリスは必死に叩いた。これは島国の一つの生き方だ。先ほど田中さんが言及したマッキンダーのハートランド論はまさしくそのような発想の産物だ。ハルフォード・マッキンダーは、イギリス出身の地理学者・政治家で、ユーラシアのランドパワー抑えるため練った戦略により、20世紀初頭にイギリスやアメリカで大きな影響力を及ぼした。

 日本は明治維新以降、大陸に関わった時間は歴史的に見れば一瞬だった。本来はイギリスほどの緊張感は要らないはずだ。

 アメリカは大きい国だが、ユーラシア大陸から見ると大きな「島国」ともとらえられる。アメリカ対ユーラシア大陸の姿勢は、イギリスのそれを引き継いでいる。覇権を維持したいアメリカは、ユーラシアに大きなパワーが出てくることに、凄まじい緊張感を持っている。

 第二次大戦が終わった直後、ファシズムに共に戦ったアメリカとソビエトの関係が何故急激に悪くなったのか。急に対峙して冷戦になったのは、アメリカとソ連の双方に緊張感があったからだ。

 冷戦後も、ロシアに対する根強い緊張感がアメリカにある。ハリウッドも映画でロシアを悪役に描き続けている。初期のプーチンは親米だった。米大統領に、NATOに加盟したいと言ったのが、拒否された。その後NATOはあれやこれやでロシアの近くまで拡張し続けた。それが今のロシアとウクライナ戦争の原因になっている。

 いまアメリカ対中国が、アメリカ対ロシアと同じ構図になっている。実は中国も欧米に対して大変な緊張感を持っている。先ほど述べたアヘン戦争とその後に列強に侵略された歴史があるためだ。それを理解しないと大変なことになりかねない。中国がでかくなったからアメリカと対抗意識を持つようになったと言われるが、朝鮮戦争の時の中国はでかくなかった。新中国建国一年未満ですべてこれからの国だったがアメリカと必死に戦った。ベトナム戦争時も中国の国力はまだ弱かった。当時、世界経済における中国の存在は3〜5%しかなかった。今20%弱だ。弱い時ですら戦う時は戦う。双方のこの緊張感をどう和らげたらいいのか、今の状況を心配している。

講義をする田中琢二氏

相互依存関係こそが最大の安全保


周:もう一つは、日中関係だ。2005年、日中関係が非常に悪かった時に私がかなりコミットして作った北京・東京フォーラムがある。小島先生も何度も参加して協力してくださった。このフォーラムの2回目開催時、安倍晋三氏が登壇し、日中関係の改善を訴えた。それを契機に、日中関係は急速に改善した。何か良いきっかけがあれば関係改善が可能だ。

 恐らく米中関係も同じだ。誰かが仕掛けを作れば関係は改善される。もちろん緊張感を煽ろうとする人もいる。緊張関係、そして戦争などで得する人もいるのが事実だ。しかし実際、相互ベネフィットが多ければ関係は良くなる。冷戦終結後はみなそれを信じてきた。

田中:その通りだ。

周:2022年9月にバルト海を経由してロシアとドイツを結ぶ天然ガス供給海底パイプラインを爆発したのは誰だったのか?パイプラインを遮断し、ロシアとドイツの共通利益をなくすことを誰が望み、誰が得したのか?

 グローバリゼーションの中で、互いにしっかり利益を得られるようにし、世界の平和に努力することが大事だ。不平和で利益を得ようとすれば、世界は大混乱に陥る。

2008年9月19日「東京―北京フォーラム」にて、司会を務める周牧之教授。左から塩崎恭久(衆議院議員)、岡田克也(衆議院議員)、加藤紘一(衆議院議員)、松本健一(麗澤大学教授)。

田中:中国全体では大中華を構想するつもりはないとの前提が一つあるとしても、今後中国がより大きな役割を担うとしても、それは今、中国だけの意図でやれるものでなく、アメリカがそれをまた封じ込めようとする力が出てくる。中国自身も研究が進んでいるソフトパワーの力で、どういったやり方で世界との調和の中で自分たちの経済力なり成熟度を高めようとするのかを、考える必要がある。したがって一国だけが大きくなる姿を想定して議論をするのはちょっとやや危険な感じがするので、どういう形で国際的な協調を保ちながら、まさにさっき言ったいろんなスーパーパワーが共存する社会になっていくと思う。そういう方向で対話が必要になる。

 もう一つ覇権論、ヘゲモニースタビリティセオリーが、19世紀はイギリス、20世紀はアメリカ、イギリスの前はオランダ、その前はスペインと、150年ぐらいのスパンで世界のスーパーパワーが変遷するとの議論がある。そうした議論に乗ると、必ず次は中国だろうという議論が一時盛んに行われた。ただし今アメリカが踏ん張り、覇権から降りることに抗う難しい歴史的局面かと思う。

 イギリスが徐々に衰退し、アメリカが上ってきた時、世界大恐慌、世界戦争が起こった。いま中国が大きくなり、アメリカの相対的な力が落ちてきていると争い事が起きやすい。そんな時こそ対話が大事だというのが周先生のお話だ。フォーラムなどいろいろ作ってみんな参加し、議論を進めたらいい。

小島:G7、G20と言われる中で最近聞くのはGゼロだ。80年間もアメリカがグローバルリーダーとして理念やシステムを作り上げた。いまでは、中国は力を持ち、アメリカ一国で紛争その他を調整することが出来なくなった。

 Gゼロで、指導する力を持った国がなくなったところで今本当に紛争が多発している。冷戦後は、国と国との戦いはない、テロや一部の民族同士の争いはあっても国同士の戦いはないというイメージだった。が、地域紛争が増えてきた。古典的な国と国との紛争が復活し歴史が反転したという見方もある。

 少なくとも、どの一国も問題を管理しコントロールすることが出来なくなってしまった。中国は発言権を高め発言し始めている。グローバルシステムはアメリカ製だと言う人もいる。それを修正すると言っても、どのような世界のシステムや制度を出すのかは、まだ中国からのメッセージとして生まれていないと思う。中国はそのプロセスにあるかもしれない。アメリカ中心のグローバルな理念やシステムが揺らいでいる中で、それに代わるものがない。

 強いグローバルパワーはなく、Gゼロという状況になり、国際システムは、非常に不安定な状態がこれから中長期にわたって続くことを考えなくてはいけない。政治のレベルで特に重要だが、それによって政治が不安定になる中で、企業はあるいは個人がどう対応するかと耐えず考えなければならない。時代的なチャレンジだ。

 VUCA(ブーカ)という言葉がある、もともと軍事面で言われた概念だが今は経済面で、企業経営の面で言われる。VはVolatility(変動性)、UはUncertainly(不確性)、CはComplexity(複雑性)、AはAmbiguity(多様性)で、先々の展開がよみにくい時代だ。

周:時代の要請を受けて国際社会を仲良くするようチャレンジし、若い世代もこれからの時代を背負って、平和な繁栄を築き上げていくことが大切だ。

(終)

2008年9月19日「東京―北京フォーラム」にて、左から趙啓正(中国国務院新聞弁公室元主任)、小島明氏、周牧之教授。


プロフィール

小島明(こじま あきら)/日本経済研究センター元会長

 日本経済新聞社の経済部記者、ニューヨーク特派員・支局長、経済部編集委員兼論説委員、編集局次長兼国際第一部長、論説副主幹、取締役・論説主幹、常務取締役、専務取締役を経て、2004年に日本経済研究センター会長。

 慶應義塾大学(大学院商学研究科)教授、政策研究大学院大学理事・客員教授などを歴任。日本記者クラブ賞、ボーン・上田記念国際記者賞を受賞。新聞協会賞を共同受賞。

 現在、(一財)国際経済連携推進センター会長、(公財)本田財団理事・国際委員長、日本経済新聞社客員、(公財)イオンワンパーセントクラブ理事、(一財)地球産業文化研究所評議員

 主な著書に『横顔の米国経済 建国の父たちの誤算』日本経済新聞社、『調整の時代 日米経済の新しい構造と変化』集英社、『グローバリゼーション 世界経済の統合と協調』中公新書、『日本の選択〈適者〉のモデルへ』NTT出版、『「日本経済」はどこへ行くのか 1 (危機の二〇年)』平凡社、『「日本経済」はどこへ行くのか 2 (再生へのシナリオ)』平凡社、『教養としてのドラッカー 「知の巨人」の思索の軌跡』東洋経済新報社。

田中琢二(たなか たくじ)/IMF元日本代表理事

 1961年愛媛県出身。東京大学教養学部卒業後、1985年旧大蔵省入省。ケンブリッジ大学留学、財務大臣秘書官、産業革新機構専務執行役員、財務省主税局参事官、大臣官房審議官、副財務官、関東財務局長などを経て、2019年から2022年までIMF日本代表理事。

 現在、同志社大学経済学部客員教授、公益財団法人日本サッカー協会理事。

 主な著書に『イギリス政治システムの大原則』第一法規、『経済危機の100年』東洋経済新報社。

【福州】華僑を輩出した歴史港湾都市【中国都市総合発展指標】第18位

中国都市総合発展指標2022
第18位




 福州は中国都市総合発展指標2022総合ランキング第18位であり、前年度の順位を維持した。

 「環境」大項目は第11位で、前年度より順位を7つ上げた。3つの中項目のうち「環境品質」「空間構造」は第18位、「自然生態」は第48位であった。9つの小項目のうち、トップ10入りした項目はなかったものの、「資源効率」は第12位、「コンパクトシティ」は第17位、「都市インフラ」は第21位、「交通ネットワーク」は第25位と、4項目がトップ30に入った。なお、「汚染負荷」は第43位、「気候条件」は第44位、「環境努力」は第124位、「水土賦存」は第180位、「自然災害」は第221位であった。

 「社会」大項目は第22位で、40前年度より順位を3つ下げた。3つの中項目のうち「ステータス・ガバナンス」は第19位、「生活品質」は第23位「伝承・交流」は第26位だった。3項目のうちトップ10入りした項目はなかったものの、すべてトップ30入りした。小項目で見ると、トップ10入りした項目はなかったものの、「消費水準」は第19位、「居住環境」は第22位、「都市地位」は第23位、「人口資質」は第26位、「文化娯楽」は第28位と、5項目がトップ40入りした。なお、「人的交流」は第31位、「社会マネジメント」は第39位、「生活サービス」は第43位、「歴史遺産」は第115位であった。

 「経済」大項目は第23位で、前年度の順位を維持した。3つの中項目で「経済品質」は第19位、「発展活力」は第24位、「都市影響」は第27位であった。3項目のうちトップ10入りした項目はなかったものの、すべてトップ30入りした。小項目で見ると、トップ10入りした項目はなかったものの、「経済構造」「都市圏」は第18位、「ビジネス環境」は第21位、「経済規模」は第22位、「経済効率」は第23位、「イノベーション・起業」は第24位、「広域中枢機能」は第26位と、9つの小項目のうち7項目がトップ30に入った。なお、「開放度」「広域輻射力」は第31位であった。

■ 貿易で栄えてきた古都


 福州市は、福建省の省都は中国東南地域沿岸部に位置し、長江デルタメガロポリスと珠江デルタメガロポリスの中間地点に位置する。2020年末には、6市区、6県、1県級市を管轄し、総面積11,968平方キロメートル(秋田県と同程度)、常住人口は845万人を抱えている。

 福州が位置する地域は、典型的な河口盆地で、周囲を山や丘陵に囲まれ、そのほとんどが標高600〜1000mの高地である。地形は多様性に富み、西部と北部は山地が優勢である一方、東部には平野が展開している。福州の気候は亜熱帯モンスーン気候に分類され、冬は短く夏は長い。温暖湿潤で、年間平均降水量は900〜2100mm、年間平均気温は16〜20℃を記録する。最も寒い月の1〜2月でも、最低気温は9度前後と暖かい。中国都市総合発展指標2022によれば、「気候快適度」は中国第46位である。

 河川である閩江が市内を流れ、その河口デルタに市街地が発達している。海岸線は約1,137キロメートルに及び、多数の島嶼が点在している。周辺には寧徳市、三明市、南平市などが隣接しており、地域間の連携がみられる。

■ 福州市の古代から現代への歩み


 福州の歴史は古く、その起源は紀元前202年にまで遡る。秦・漢の時代、この地域は初めて「冶」と名付けられた。その後、市域内に位置する福山にちなんで「福州」と改称された。この改称は、地理的特徴と地域のアイデンティティを反映したものだった。

 福州は、長い歴史を通じて福建省の中心地としての地位を確立してきた。その影響力は社会、経済、文化、政治など多岐にわたる分野に及んでいる。社会面では、多様な文化の交差点として独特の構造を発展させ、海上交易の拠点としての役割も地域の社会形成に大きな影響を与えた。経済的には、古くから商業の中心地として栄え、特に宋代以降は海外貿易の重要な港として発展した。茶葉や陶磁器の輸出で知られ、「海のシルクロード」の重要な拠点となったことは特筆に値する。

 文化面では、福州は文人や芸術家を多く輩出し、独自の文化を育んできた。福州方言、閩劇(地方劇)、福州彫刻など、地域特有の文化遺産を生み出し、これらは今日まで受け継がれている。中国都市総合発展指標2022によれば、「無形文化遺産」は中国第24位である。政治的には、歴代王朝下で重要な行政中心地として機能し、特に明代には「福建布政使司」が置かれ、省全体の政治の中枢となった。

 近代以降も福州は重要性を保ち続け、1949年の中華人民共和国成立後は福建省の省都として、政治・経済の中心地としての役割を果たしている。2000年代に入ってからは、「海峡西岸経済区」の中核都市として、さらなる発展を遂げている。この地域の経済成長と国際化に重要な役割を果たしており、中国南東部の重要な都市としての地位を確立している。

 このように、福州市は2000年以上の歴史を通じて、常に福建省の中心として機能し、その影響力は現代にまで及んでいる。古代から現代に至るまでの連続性と変化が、今日の福州市の多面的な特徴を形作っている。伝統と革新が共存するこの都市は、中国の歴史と現代化の縮図とも言える存在として、今後も注目され続けるだろう

 2022年には、福州市のGDPは1兆元2,038億元(約24.1兆円、1元=20円換算)で、中国の都市では18位であった(詳しくは【ランキング】世界で最も経済リカバリーの早い国はどこか? 中国で最も経済成長の早い都市はどこか?を参照)。

■ 中国の重要港湾都市としての発展


 福州は、その地理的優位性を活かし、古代から現代に至るまで中国の重要な港湾都市として発展を遂げてきた。古くは遣唐使の時代から、日本や東南アジアとの海上交通の要所として機能し、シルクロードの海上ルートにおける重要な中継地点としての役割を果たしてきた。この歴史的背景は、福州市の国際的な性格と開放性の礎となっている。

 特筆すべきは、福州の馬尾港が中国近代海軍発祥の地の一つとして名高いことである。19世紀後半、清朝政府が近代化政策の一環として福州船政局を設立し、西洋式軍艦の建造や海軍人材の育成を行ったことは、中国海軍史上極めて重要な出来事であった。この歴史的遺産は、現在も福州の誇りとなっている。

 福州の国際的重要性は、近代以降さらに高まった。1842年の南京条約により、広州、厦門、福州、寧波、上海の5港が開港され、福州はこの中の一つとして選ばれた。これにより、福州は西洋列強との直接的な貿易が可能となり、国際的な商業港としての地位を確立した。この開港は、福州市の経済発展と国際化に大きな影響を与え、現代に至るまでその影響が続いている。

 1978年の改革開放政策の実施後、福州は中国政府によって海外に開放された最初の14都市の一つに選定された。この決定は、福州の歴史的な国際性と地理的優位性が評価された結果であり、同市の更なる発展と国際化への道を開いた。以来、福州は外資誘致や国際貿易の拡大に積極的に取り組み、中国南東部の重要な経済拠点としての地位を確立している。

 福州の港湾としての重要性は、現代の統計データにも明確に表れている。中国都市総合発展指標2022によると、「コンテナ港利便性」では中国20位、「コンテナ取扱量」では全国18位と、中国国内でも上位に位置している(詳しくは【ランキング】世界で最も港湾コンテナ取扱量が多い都市はどこか?)を参照)。

 さらに、福州市の国際的な地位を示す指標として、2022年における世界のコンテナ取扱量ランキングが挙げられる。福州港は世界第63位にランクインしており、これはロンドン港の64位を上回る成績である。この数字は、福州市が単に中国国内の重要港湾であるだけでなく、世界的な規模で見ても無視できない存在であることを示している。

■ 福州の多様な産業と独自の発展モデル


 福州の地域経済は、水産業、紡績産業、機械産業、電子情報産業、不動産・建材産業、観光産業という6つの主要産業を中心に構成されている。これらの産業は、福州の地理的特性と歴史的背景を反映しており、相互に補完しあいながら市の経済発展を支えている。

 水産業は豊かな海洋資源を活用し、紡績産業は伝統的な技術と現代的な需要を融合させている。機械産業、特に造船業は福州の工業化の象徴となっており、電子情報産業は新たな成長のエンジンとして急速に発展している。不動産・建材産業は都市化の進展と共に成長を続け、観光産業は豊かな歴史的遺産と自然景観を活かして発展している。

 福州経済の特筆すべき特徴は、海外移民との強いつながりを活かした独自の発展モデルにある。海外在住の福州出身者からの送金が重要な資金源となっており、これらは家族の生活支援だけでなく、地元での投資にも向けられている。特に中小企業の発展に大きな役割を果たしており、地域経済の活性化に貢献している。

 さらに、この海外とのつながりは民間金融の発展にも寄与している。伝統的な互助金融システムや現代的な小規模金融機関の発展により、中小企業や起業家が必要な資金を調達しやすい環境が整っている。このような独自の経済構造は、福州に経済の柔軟性と強靭性をもたらしている。

 海外ネットワークを通じた資金流入や情報交換は、福州の国際化や文化的多様性の促進にも貢献している。新しいアイデアや技術、ビジネスモデルが地元経済に刺激を与え、イノベーションを促進している点も、福州経済の特徴と言える。その結果として、福州の「IT産業輻射力」は中国第13位に躍進している(詳しくは【ランキング】中国IT産業スーパーシティはどこか?を参照)。

■ 華僑の都市としての国際的地位


 福州は、300万人以上の華僑を輩出した中国を代表する華僑の故郷として知られている。この特徴は、現代の福州市の国際的な位置づけと経済構造に大きな影響を与えている。

 中国都市総合発展指標2022の結果は、福州の独特な国際性を明確に示している。「交流」中項目で全国第31位という順位は注目に値するが、より興味深いのは個別指標における対照的な結果である。

 「国内旅行客数」が中国32位、「国内観光収入」が中国42位である一方で、「海外旅行客」は中国第11位、「国際観光収入」は中国14位という好成績を収めている。これらの数字は、福州市が国内よりも国際的な訪問者、特に華僑やその子孫たちにとって重要な目的地となっていることを示している。

 この統計は、福州の経済が国内市場よりも国際市場、特に華僑ネットワークとより強く結びついていることを表している。海外在住の華僑による故郷訪問、ビジネス目的の渡航、投資活動などが、福州市の国際的な地位を高めている。

 さらに、このつながりは観光にとどまらず、ビジネスや投資、文化交流など、より広範な分野での国際的な活動の基盤となっている。華僑ネットワークを通じた情報交換、技術移転、資金流入が、福州市の経済発展と国際化を加速させている。

 この「華僑の都市」としての特性は、福州市に独自の強みをもたらしている。グローバル経済においてネットワークの重要性が増す中、福州市は既存の華僑ネットワークを活用し、国際的な競争力を維持・強化している。

 今後、福州市はこの強みをさらに活かし、国際的なビジネスハブとしての地位を強化しつつ、国内経済とのバランスを取りながら、より総合的な発展を目指すことが課題となるだろう。


【ディスカッション】小島明・田中琢二・周牧之(Ⅰ):誰がグローバリゼーションをスローダウンさせた?

2024年4月18日、東京経済大学でゲスト講義をする小島明氏、田中琢二氏および周牧之教授

■ 編集ノート:

 米中貿易戦争、ロシアのウクライナ侵攻、イスラエルのガザ侵攻などで世界情勢は揺れ動いている。東京経済大学の周牧之ゼミは2024年4月18日、小島明日本経済研究センター元会長、田中琢二IMF元日本代表理事をゲストに迎え、激動の世界情勢について解説していただいた。


スローバライゼーションが何を意味するか?


周牧之:田中さんはいまグローバリゼーションからスローバライゼーションになっているとおっしゃった。実はグローバリゼーションで2000年以降、急激に世界の貿易量が増えた。私の記憶がもし間違ってなければ、今日の世界貿易の7割のボリュームは2000年以降作られた。今日、世界経済のGDPの6割は、2000年以降の4半世紀で積み上げられた。つまり2000年以降、急速に進んだグローバリゼーションが人類史上最も富を作った時期であった。

田中琢二:そう。

周:各国を潤わせたグローバリゼーションを、止めようとしたのはアメリカのトランプ政権だった。この点で、トランプ政権が終わった後のバイデン政権は更に酷くなった。これをどう説明するか。

小島明:グローバリゼーションは、冷戦が終わった1991年から30年ぐらいは引き続いた。冷戦前は世界が東と西に二つに分かれ、例えば西からの旧ソ連に対する投資は無かった。1990年代末にコカ・コーラが初めて中国に投資しロシアに行った事が話題になった。

 東西の垣根を越えて、資本、人材が移動し始め、世界経済は活性化した。しかし近年、エコノミック・ステートクラフトという言葉があるが、経済を外交の手段、あるいは軍事的手段にする動きが出てきた。

 この結果Deglobalization、或いはSlowbalizationと言われる反動的な動きが生まれている。

 冷戦が終わった直後の1991年〜93年には、民主主義は最終的に理想的な形を完成したとされ、それ以上は歴史の発展はないとする「歴史の終焉」の議論をする人が出てきた。民主主義があまねく世界を照らすということだ。

周:フランシス・ヨシヒロ・フクヤマの『歴史の終わり』は、このような考えの代表作だ。

図 世界輸出総額推移

(出典)国連貿易開発会議(UNCTAD)データセットより雲河都市研究院作成。

小島:しかし冷戦から30年近く経ち、民主主義がおかしくなった。民主主義に分類される国が減ってきた。或いは民主主義とは名ばかりの権威主義が出てきた。またアメリカの中で民主主義がおかしなことになった。 

 直面する重要な問題はグローバルな情報化だ。情報化はAIの活用が重要だが、落とし穴、つまりフェイクがある。ある調査結果では、インターネット情報をほとんど信用するという学生が圧倒的多数だった。近年のフェイク民主主義のきっかけはいろいろあるが、権力闘争が情報戦になったことが一因だ。フェイク情報戦の状況がどんどん広がって、ロシアもウクライナも相手のイメージを壊すためフェイク情報をどんどん作る。民主主義国ではトランプを始め選挙戦でフェイク戦が始まったのではないか?

 グローバリゼーションが、安全保障上あるいはヘゲモニー争いの中で、ブレーキがかかっている。最近、非経済的な貿易制限が増えている。従来なら、輸入に対する制限が貿易制限の一番の中心だった。戦略的、外交的に大事なものは輸出しない、重要な技術は輸出しないという制限だ。

 外交的手段として直接投資を規制し、技術や資源を輸出しない。全くこれまでなかった貿易の流れが、グローバリゼーションの逆風になっている。

 しかし基本的にはグローバリゼーションは進む。1991年以前に戻ることはない。これから重要になるのは無形資産だ。情報、各種サービス、パテントなど技術を有しているものだ。従来は単純なモノの生産と貿易が中心だった。今は付加価値においては無形資産がどんどん増えている。

 頭の中で生み出す無形資産が、これからは極めて重要になってくる。物を作る職人さんも重要だが、デジタル革命、情報革命、知識革命の中で、無形資産、知恵が極めて重要だ。

田中:周先生の問いは、「スローバライゼーションがなぜ起きたのか」だ。起きたという現象面で捉えるべきなのか、あるいは何か人為的に起こしているのであれば、それは何故かといえば、中米関係がすごく大きいと思う。中国のロジックはまた別として、アメリカ人のメンタリティをどう考えるかというと、世界貿易機関(WTO)に中国が加盟したのが2001年。1995年にWTOが出来て、2001年に中国が加盟する際に、アメリカは応援した。中国が自由貿易の世界に参加し、一緒に成長する青写真があった。

 ただ中国からアメリカへの輸出が凄まじく多くなり、アメリカの企業も安い労働賃金を目指し中国へ工場移転した。アメリカ国内の工場が減り、中国で生産した安い生産物がアメリカに入り消費者が享受した。その限りではよかったが、今まで工場で働いていたアメリカ人にとっては自分の職を奪われ中国に生産拠点が移動してしまった感覚があった。ラストベルトと言われるアメリカの中西部の白人が多く昔は豊かな中産階級を形成していたアメリカ人層が、非常に貧困になった。そこが、トランプ大統領が支持を集める背景になっている。

 トランプがアメリカファーストと言う意味は、アメリカ人が働いてアメリカ人が所得を増やしていくべきで、外国の人に作ってもらってもいいが自分たちの職が奪われるのはけしからんという発想だ。そうした発想が徐々に直接投資、貿易に関する一つの政治課題として上がってきた。

 そうすると、貿易を制限しようとなる。それが進むと、一番大事な半導体の技術が、対価無く報酬のないまま技術移転がなされているのではないか等、様々な議論が出た。そして中米関係が見直されてくる。今まで蜜月で自由貿易のパートナーとして一緒にやっていく考え方だったのが、180度変わった。

周:今のアメリカの中国批判は、私が日本に最初に出張で来た1986年当時から1990年代までの、アメリカの対日本批判によく似ている。

田中:そうだ。

田中琢二(2024)『経済危機の100年: 「危機なき世界」は実現するのか』東洋経済新報社

■ ユーラシア大陸とアメリカとの関係の中の米中関係


田中:日本にとっては極めて難しい状態になった。というのは、日中は大事な経済関係であり、日米も関係が深い。アメリカが中国に敵対的な意思を示せば示すほど、日本はどう動けばいいのか非常にわかりづらくなった。

 実はドイツもそうだ。ドイツもメルケル前首相が中国との関係が第一番だと言っている。中国にはフォルクスワーゲン、アウディがいっぱい走っている。北京の外国車といえば大体この二つだ。そのぐらい中国とドイツの関係が深くなったが、どうもトランプあたりが中国との関係を見直すことをしている。全体的に先進国と中国との関係に変容が起きてしまいつつある。

 モノと財に関しては、フラットな関係が2010年から10年間続いた。そこはもうちょっと詳しく議論する必要がある。もしかしたらリーマン・ショックの影響を受けて、世界全体の経済のパイが小さくなったからか? 2010年以降のフラットの前半と後半は少々理由が違うかもしれない。グローバリゼーションが止まっているとは言えないとの議論も検討していく必要がある。

周:ユーラシア全体で捉えると、今アメリカと緊張関係にあるのは、ユーラシア大陸の両側の日本と西欧北欧以外のほとんどだ。田中さんが先ほどの講義で紹介したシカゴ大学のジョン・ミアシャイマー教授の考え方は、私には評価できない。冷戦後、アメリカはロシアをずっと攻め続けてきた。NATOが東への拡大を続けてきた結果、ロシアとウクライナの戦争に繋がった。中東については、戦後アメリカがイスラエルを無条件で擁護したことで、アメリカと中東との関係は複雑化した。アメリカは中東地域に何度も直接出兵し、アフガニスタンやイラクなどに対して国潰しまで行った。

 米中関係はユーラシア大陸とアメリカとの関係の中でとらえるべきだ。ユーラシア大陸全体とアメリカとの関係は決して良くはない。ヨーロッパとアメリカの関係に至っても一枚岩ではなく揺れ動いている。中東そしてロシアとアメリカとの緊張関係はそう簡単に緩和されない。アメリカは中国に対抗するため、ロシアと中東との関係を緩和し東アジアに軸足を置くべきだとのミアシャイマー教授の主張は現実的とは思わない。むしろ中国とアメリカの関係は今まだ管理されている方だ。朝鮮戦争とベトナム戦争以降、米中の武力衝突はない。

田中:シカゴ大のミアシャイマー先生の話は、「ロシアと事を起こす必要はない」として今までの外交政策を批判した。アメリカの全体の議論ではない。

周:ミアシャイマー氏が主張した中国との対立は、結果的にアメリカの中東とロシアとの緊張関係に加え、更に中国との緊張関係を作り出すことになる。これはとてもスマートな考えとは言えない。アメリカと自分の庭先の南米との関係すら必ずしも幸せではない。しかし最も深刻なのはユーラシア大陸との関係だ。その意味ではアメリカにとっては、中国との緊張関係を煽るのではなく緩和する努力が必要だ。

田中:地政学という学問の中に、マッキンダーのハートランド論がある。ユーラシア大陸を制覇するところが世界を制覇するという理論だ。その古典と言われる理論の中で、ロシア、中国、イラン、サウジアラビアといった中核のところが、今ライクマインドという「仲間意識」を意味する言葉がよく使われ、ライクマインドの国になりつつある。これはBRICSを中心に、あるいは上海協力機構を中心にして何となく固まっている。

 だからこそアメリカは、そこのポイントであるところのロシア、中東、中国と対立せざるを得ない。中国とは管理された競争だが、そうせざるを得ない。周先生のユーラシアという言葉からマッキンダーを思い出してそう感じた。


講義をする小島明氏

アメリカ社会の亀裂は、外交姿勢にも大きなブレ


周:アメリカの国内においても今は考え方がかなり分裂していることに注目する必要がある。選挙でのトランプ陣営とバイデン陣営との闘いぶりを見ると、アメリカの社会的な亀裂は、今までになく深刻だ。この揺れるアメリカの国内状況は、アメリカの外交姿勢にも大きなブレを生じさせている。このようなリスクを最小限に抑えるため、ヨーロッパでは、トランプが政権に戻ったときの対処への議論も出てきている。日本でも麻生太郎元首相がこの4月、トランプに会いに出かけている。

田中:アメリカの分裂についてバイデン、トランプ両者の類似点と相違点を並べると、いろいろ論点があると思うが、政府の役割について、共和党は政府を小さくと言っている。バイデンは政府の役割を大きく認めている。

 アフガニスタン撤退や中国との関係は、バイデンもトランプも提唱しているが、国内政治の分断ではバイデンとトランプは民主主義に対する視点が違う。

 外交政策は同盟国中心か、あるいは同盟国でも競争相手とみなして厳しく対応するかだ。日本は同盟国だが、アメリカは日本との間の貿易赤字は許さない。

 貿易に関してトランプは保護貿易主義的で、バイデンも完全な自由貿易主義者ではない。考え方に若干の違いはあるが完全な自由主義ではなくなってきている。

 時代認識は、バイデン大統領はこの時代を民主主義と独裁主義の争いとみなし、アメリカは世界中の民主的な友好国を助ける必要があると主張している。一方でトランプは、意外とプーチンに対する共感があり、また習近平とも、もしかしたら個人的に交流しているかもしれない。朝鮮のリーダーについてもなかなか彼は見どころがあると言っている。ある意味では独裁者とされる彼らと仲が良く、彼らの政治姿勢に親近感を持っているようだ。

バイデン大統領とトランプ元大統領(出典:NBC NEWS

田中:気候変動問題に関してバイデン政権は推進している。しかしながら、トランプはCOPからの脱退、離脱も考えるだろうと言っている。

 移民政策においては多国間協力の必要性をバイデンは言っている。最近は不法移民対策を若干強化しているけれども、トランプは、不法移民は絶対認めない姿勢でアメリカ人ファーストの姿勢を出している。

 人工妊娠中絶に関しては、バイデンは容認し、トランプは容認しない。日本人の感覚ではわからないことで、アメリカの人工妊娠中絶に関する国内世論は非常に分裂対立関係にある。

 例えばLGBTに対する見方も論点になる。国民の関心ある論点に二つの両極の考え方が出て、なかなか妥協点を見出す話でもない。分断が顕著になっている。それに対して日本はどう付き合っていくのかが非常に難しい。

 去年までは安倍総理がトランプ大統領と非常に個人的にいい関係を結んでいたが、今の政治のリーダーシップでトランプと対等にやっていける人が本当にいるのかどうかの問題が一つある。ただ一方で、周先生とは異なる意見になるが、中国の台湾政策との関連で日米の軍事的な近さが何をさておいても大事だというトランプが大統領になるとすれば、政治外交上日本とアメリカは近いとは思う。

 ただし、経済政策に関しては、やはり先ほどのアメリカファーストという考え方をより打ち出してくると思う。同盟国に対しても、アメリカとの一定の貿易の赤字幅の縮小化への要求はすごく大きくなると思う。

 気候変動問題に関して日本はしっかりとコミットしているけれども、アメリカがCOOPから離脱していることに対して、国際社会がどう対応するのか準備できていないと思う。日本で一番大変になってくるのは、貿易問題だ。対応をこれからしっかりしなければいけない。

 一つ象徴的なのは、今日本製鉄がアメリカのUSスティールを買収しようとしているが、バイデンも反対を明確化し、トランプも絶対反対と言っているので、同盟国日本といえども、是々非々ということでアメリカが対応してくると思う。

田中琢二(2007)『イギリス政治システムの大原則』第一法規

アメリカに叩かれ従う日本と抵抗する中国


小島:アメリカとユーラシア特に中国とロシアとの関係を見ると、第二次世界大戦後、特に冷戦が始まった頃は、中国という存在はまだ成長発展の初期段階で、安全保障上レーザースクリーンから見ると小さかった。だからむしろ中国を応援しソ連に対抗させようとして、ヘンリーキッシンジャーが中国に行った。今では中国が急激に大きくなり、アメリカ経済に挑戦する脅威となった。

 1980年代日本はアメリカに叩かれた。日本はエネミーのNo.1で、自動車や鉄鋼が制限され、自由に貿易できない状況にあった。1985年にプラザ合議があり円が切り上げられた。

 その頃アメリカの対日世論は確実に悪化した。当時のアメリカの世論調査で、ソ連からの軍事的脅威と日本からの経済的脅威のどちらが重要かとの問いに対して、日本からの脅威が重要だとなった。

 当時はそういう戦いだった。しかし日本はその後縮んでしまい、アメリカにとって日本は脅威ではなくなった。そもそも日本はアメリカのヘゲモニーに挑戦する存在では初めからなかった。

 ところが中国の外交姿勢と経済発展のあり方を見たアメリカは、中国がアメリカの覇権に対抗するとの認識を持つようになった。

 1980年代の日米の経済問題と、今の中米の経済問題はかなり違う。部分的に調整されても、ヘゲモニーで考えると、中国とアメリカは、言葉では協調というがライバル意識や対抗心は長期にわたって続くと私は思っている。

周:中国では日本の失われた30年の原因の一つが、アメリカに叩かれて従ってしまうところにあるとの議論が多い。

小島:日本は、中国としっかり関係を続けるのはもちろん、経済など互いに重要な部分を軸に中国ともアメリカともそれぞれ仲良くするしかない。人によっては米中の仲介を日本がすればいいと言うが、そんな大それた力は日本にはない。仲良くし協力することしか日本には道がない。

 もう一つは、日本は政府が中国に対して何かを言い出すと、民間がみんなそれに倣う。アメリカは、政府レベルで中国と対立しても民間レベルでは中国と交流を展開している。アメリカの企業はどんどん中国に行き様々ビジネスをしている。

 日本の場合は、政府が中国との関係を調整しようと言うと企業がみんな中国に行かなくなる。そこが問題だ。中国が始めたアジア投資銀行への対応に日本はNOと言った。気をつけて見ていると、アメリカのゴールドマンサックスが中国政府機関のアドバイザーになっている。やはり経済は、お互いに手を繋ぐことは繋ぐ。政治や安全保障上はどうあっても、仲良くやるべきことはやり、互いの利益になることはどんどんやるべきだ。一時的な政府の外交政策に全部右に倣えといった日本の空気があるが、そうではなく、経済はもっとダイナミックに相互依存を続けて動いていいと思う。

 国として政策レベルでやるべきことと、それぞれの企業、産業がやるべきことはちょっとアプローチが違ってしかるべきだ。

周:おっしゃる通りだ。日本で新聞を読むと、こうした議論の際に、中国の視点がどうしても欠けている。アメリカの視点はあるが中国の視点はない。中国人がどう思っているかの視点がなさすぎる。私の世代は改革開放世代だ。改革開放時に大学に入学し、改革開放の恩恵を受けたこの世代が、いま政府の中枢にいる。アメリカのヘゲモニーへ挑戦しようという気持ちは同世代には毛頭ない。ただし、日本と違い、アメリカの押し付けには負けないとの思いがある。朝鮮戦争時もベトナム戦争時もその気持ちが強かった。押し付けられたら不愉快だ。けれども、アメリカのヘゲモニーへの挑戦はない。

 中国はソ連、アメリカ両方と対峙していた時期に自力更生で自国の産業基盤を作り上げた自負がある。二大スーパーパワーと同時に対峙した時の気概がある。

 ソ連の国作りは非常に短期間で行われた。レーニンはあまり苦労せずにドイツの支援を受け一瞬にして政権を取り、国を作った。結果、ソ連の崩壊も一瞬だった。一瞬にできた体制は大抵一瞬で終わる。これに対して中国の1949年にできた政権はアヘン戦争以来、100年以上の苦難の果てに作られた。そう簡単に屈服する訳がない。

小島明(2023)『教養としてのドラッカー 「知の巨人」の思索の軌跡』東洋経済新報社

■ 貿易大国中国の挫折感が対米姿勢に繋がる


周:1840年のアヘン戦争は、イギリスが植民地のインドで作ったアヘンを、中国に密輸入したことに起因する。イギリス政府はアヘンを自国内で禁止していた。にもかかわらず、中国政府がイギリス商人に密輸入されたアヘンを没収し燃やしたことを問題にし、イギリスは艦隊を派遣しアヘン戦争をしかけた。これが中国の近代史の始まりとなった。

 なぜこの戦争が起こったか。茶と磁器とシルクの中国からの輸出でイギリスは貿易不均衡が長年続いた。イギリスは中国に売るものがなかった。でも、生活革命で茶を始めとする中国物産を日常生活に取り込んだイギリス人は中国からの物資輸入が止められなかった。これについて私は20年前に海外の資料を集め論文を書いたことがある。

 長年にわたる対中貿易赤字に喘いだイギリスは、インドで麻薬を栽培して麻薬の吸い方まで開発し中国に売りつけた。その規模が徐々に大きくなって中国政府が取り締まりに乗り出し、アヘン戦争となった。

 トランプ政権は貿易問題をイシューにした時、中国だけではなく日本もヨーロッパも標的にした。しかし最後に深刻になったのは中国とだけだ。トランプの貿易戦争の結果、米中双方から両国間貿易に高額な税金が掛けられている。それでも中国とアメリカの貿易は減っていない。アメリカの対中貿易赤字も減っていない。要するに、アメリカが中国から物を買うのをやめられない。高い関税は、アメリカの物価高につながっている。

 その意味では、今の米中貿易問題は、アヘン戦争前のイギリスと中国の貿易問題に似た構図だ。中国からの輸入を止められないアメリカが、中国に対して「お前はけしからん」ということは理不尽である。これは中国にしてみたらあの屈辱的なアヘン戦争を彷彿とさせる。 

田中:そうだ。納得させることはできない。

周:アメリカは、アヘン戦争時のイギリスのように中国からの輸入を止められない一方で、大きな貿易赤字も我慢できない。

※以下、後半に続く

講義をする田中琢二氏

プロフィール

小島明(こじま あきら)/日本経済研究センター元会長

 日本経済新聞社の経済部記者、ニューヨーク特派員・支局長、経済部編集委員兼論説委員、編集局次長兼国際第一部長、論説副主幹、取締役・論説主幹、常務取締役、専務取締役を経て、2004年に日本経済研究センター会長。

 慶應義塾大学(大学院商学研究科)教授、政策研究大学院大学理事・客員教授などを歴任。日本記者クラブ賞、ボーン・上田記念国際記者賞を受賞。新聞協会賞を共同受賞。

 現在、(一財)国際経済連携推進センター会長、(公財)本田財団理事・国際委員長、日本経済新聞社客員、(公財)イオンワンパーセントクラブ理事、(一財)地球産業文化研究所評議員

 主な著書に『横顔の米国経済 建国の父たちの誤算』日本経済新聞社、『調整の時代 日米経済の新しい構造と変化』集英社、『グローバリゼーション 世界経済の統合と協調』中公新書、『日本の選択〈適者〉のモデルへ』NTT出版、『「日本経済」はどこへ行くのか 1 (危機の二〇年)』平凡社、『「日本経済」はどこへ行くのか 2 (再生へのシナリオ)』平凡社、『教養としてのドラッカー 「知の巨人」の思索の軌跡』東洋経済新報社。

田中琢二(たなか たくじ)/IMF元日本代表理事

 1961年愛媛県出身。東京大学教養学部卒業後、1985年旧大蔵省入省。ケンブリッジ大学留学、財務大臣秘書官、産業革新機構専務執行役員、財務省主税局参事官、大臣官房審議官、副財務官、関東財務局長などを経て、2019年から2022年までIMF日本代表理事。

 現在、同志社大学経済学部客員教授、公益財団法人日本サッカー協会理事。

 主な著書に『イギリス政治システムの大原則』第一法規、『経済危機の100年』東洋経済新報社。

【青島】中国北方で第3位の経済規模を誇る国際交易拠点【中国都市総合発展指標】第16位

中国都市総合発展指標2022
第16位




 青島は中国都市総合発展指標2022総合ランキング第16位であり、前年度の順位を維持した。

 「経済」大項目は第13位で、前年度の順位を維持した。3つの中項目で「都市影響」は第11位、「経済品質」「発展活力」は第14位で、この3項目のうちトップ10入りした項目はなかったものの、すべてトップ20入りした。小項目では、「広域中枢機能」は第6位と、9つの小項目のうち1項目がトップ10に入った。なお、「開放度」は第12位、「ビジネス環境」「イノベーション・起業」は第13位、「経済規模」「広域輻射力」は第14位、「経済構造」は第15位、「都市圏」は第28位、「経済効率」は第40位であった。

 「社会」大項目は第17位で、前年度の順位を維持した。3つの中項目のうち「伝承・交流」は第17位、「ステータス・ガバナンス」は第18位、「生活品質」は第20位だった。小項目で見ると、トップ10入りした項目はなかったものの、「社会マネジメント」は第11位、「文化娯楽」は第16位、「人的交流」「居住環境」は第18位と、4項目がトップ20入りした。なお、「生活サービス」は第23位、「消費水準」は第24位、「人口資質」は第29位、「都市地位」は第35位、「歴史遺産」は第115位であった。

 「環境」大項目は第55位で、3つの中項目のうち「空間構造」は第30位、「環境品質」は第88位、「自然生態」は第191位であった。9つの小項目のうち、トップ10入りした項目はなかったものの、「都市インフラ」は第11位、「環境努力」は第12位、「交通ネットワーク」は第24位と、3項目がトップ30に入った。なお、「コンパクトシティ」は第43位、「資源効率」は第89位、「水土賦存」は第134位、「汚染負荷」は第139位、「気候条件」は第178位、「自然災害」は第205位であった。

■ 山東半島の国際港湾都市


 青島は、山東省に属する計画単列市で、中国の主要な港湾の一つであり、国際的な海運業の中心地である。

 同市は、山東半島の南東、黄海の東に位置し、総面積は11,293平方キロメートル(秋田県と同等)で中国第163位、7つの区と3つの県級市を管轄している。

 青島は、海岸沿いの丘陵都市であり、全長816.98キロメートルに及ぶ海岸線は優美な曲線を描き、大小さまざまな島が点在している。市の地形は東部が低く、西部が高い傾向にある。南北の両端は盛り上がっており、中央部は凹んでいる。全体として、山地が総面積の15.5%を占め、丘陵が2.1%、平野が37.7%、低地が21.7%を占める。

■ 避暑地として人気の青島


 青島は温帯夏雨気候に属し、海洋の影響を強く受け、四季がはっきりと分かれている。夏季は湿度が高く降雨が多いが、厳しい暑さはない。そのため、避暑地としても人気がある。春と秋は短く、冬季は風が強く寒さは厳しいが、降雪は年10日程度と少ない。冬季の影響により、「気候快適度」は中国第187位となっている。「降雨量」は中国第186位である。

 風光明媚な景観により、観光・保養地としても名高い。「青島」の名は、市内に豊富に存在する常緑樹の景色にちなんで付けられた。

■ 租界の歴史


 青島は、屈指の歴史文化都市であり、道教の発祥地とされている。

 青島の膠州湾は唐宋時代以降、北方の重要な港となった。青島が最初に租借地となったのは1897年であり、当時、ドイツが青島とその周辺地域を占領した。翌1898年、ドイツと清朝との間で「膠澳租界条約」が締結され、青島はドイツの租借地となり、これが青島租界の始まりとなった。

 ドイツは青島を東洋における重要な軍事基地かつ商業中心地と位置づけ、都市開発を積極的に行った。また、ドイツの文化や技術が導入され、それが現在の青島の建築様式や世界的に知られる「青島ビール」などに影響を与えている。ドイツ占領時代の建物の多くは今も保存され、青島の風景の一部を形成している。その街並みの優美さから当時は「東洋のベルリン」と称されていた。

 第一次世界大戦勃発後、1914年に日本がドイツに宣戦布告し、青島は日本によって占領された。第二次世界大戦後、青島は1945年に中国に返還された。新中国成立後、青島は中国の重要な工業都市と港湾都市として発展し、今日の姿に至っている。

■ 中国北方の製造業スーパーシティ


 青島は中国北方の重要な経済中心地の一つである。2022年青島の地域内総生産(GDP)は1兆4,921億元(約29.8兆円、1元=20円換算)に達し、中国第13位であった。中国北方では北京、天津に次ぐ第3位の経済規模を誇る。一人当たりGDPは14万4,272元(約289万円)で、中国第22位だった(詳しくは【ランキング】世界で最も経済リカバリーの早い国はどこか? 中国で最も経済成長の早い都市はどこか?を参照)。

 青島は製造業基地として存在感が大きく、「製造業輻射力」は中国第12位である。山東省内第2位の煙台は中国第25位に留まっているため、省内で圧倒的な順位を誇っている。特に家電産業では、ハイアール等、中国有数の企業が青島市に拠点を置いている(詳しくは【ランキング】中国で最も輸出力の高い都市はどこか?を参照)。

■ 渤海湾の巨大貿易地


 青島は港湾都市としての存在が大きい。世界130カ国以上の地域と450以上の港との間で貿易が行われており、コンテナ取扱量は世界第5位に名を連ねている。「コンテナ港利便性」も中国第4位である(詳しくは【ランキング】世界で最も港湾コンテナ取扱量が多い都市はどこか?)を参照)。

 2022年における青島の輸出入総額は前年比7.4%増の9,117億元(約18.2兆円)で、中国第10位であった。うち輸出総額は前年比9.0%増の5,361億元(約10.7兆円)で、中国第10位。輸入総額は前年比5.1%増の3,756億元(約7.5兆円)で、中国第10位であった。輸出入ともに、青島は山東省内トップの規模を誇る。

 また、青島は日本とのビジネス関係が深く、対日輸出額は中国第2位であり、対日輸入額は中国第3位である。特に、野菜・水産物等の食品関連の対日輸出が大きなウエイトを占めている。

■ 国際的な総合交通ハブ


 青島は港湾だけでなく、空港、高速鉄道、高速道路を軸とした総合交通運送システムの構築も進めている。

 2021年8月12日には、39年間青島市民を支えてきた青島流亭空港が閉鎖され、山東省初の4F級空港である青島膠東国際空港が開業した。〈中国都市総合発展指標〉の「空港利便性」項目で青島は中国第16位、航空旅客数も同第17位である。いずれも山東省内では第1位である(詳しくは【ランキング】中国で最も空港利便性が高い都市はどこか?を参照)。

 鉄道では、〈中国都市総合発展指標〉の「鉄道利便性」は中国第22位、「高速鉄道便数」も第20位で、「準高速鉄道便数」は第19位であった。これらいずれの指標も山東省内第1位である。

■ 山東省の最大人口吸収都市


 2022年末の常住人口は約1,034万人で中国第17位、山東省内では第1位であった。人口の流出入を示す「流動人口(非戸籍常住人口)」では、山東省内16都市のうち9都市は、外へ人口が流出している。これに対して青島は、流動人口が約180万人の大幅プラスであり、周辺から多くの人口を吸い上げている。よって青島は中国第24位、省内第1位の人口流入都市となっている。

■ 一大観光都市


 青島はその美しい海岸線と歴史的な建築物で知られ、多くの観光客を引きつけている。主な観光地には、青島海洋世界、青島動物園、青島科学技術博物館、青島ビール博物館、八大峡公園などがある。特に海外からの観光客が多く、〈中国都市総合発展指標〉の「海外観光客」で、青島は第10位と、第15位の済南を上回り、山東省内で最も高い順位である。

■ ヨットと映画ロケの聖地


 青島は豊かな文化遺産と活気あるエンタメを持つ都市である。〈中国都市総合発展指標〉の「文化・スポーツ・娯楽輻射力」は中国第18位である。市内には、青島大劇院、青島市図書館、青島市美術館など、多くの文化施設を有する。「博物館・美術館」は中国第15位、「動物園・植物園・水族館」は中国第19位、「公共図書館蔵書数」は中国第29位である。

 また、青島は映画の都としても知られ、映画ロケ地を多く持ち、映画祭や音楽祭も多数開催されている。その影響もあり、青島の〈中国都市総合発展指標〉における「映画館・劇場消費指数」は中国第20位であり、山東省内で最も順位が高い(詳しくは【ランキング】世界で最も稼ぐ映画大国はどこか?を参照)。

 スポーツにおいても、青島は多くのスポーツイベントを開催している。青島は2008年の北京オリンピックのヨット競技の会場となり、その後も多くの国際的なヨット大会が開催されており、いまや中国におけるヨットの聖地となっている。また、青島はプロサッカーチーム、青島中能の本拠地でもある。〈中国都市総合発展指標〉の「スタジアム指数」は中国第8位と、トップの規模を誇る。

■ 科学技術・本社機能・高等教育


 青島は近年では科学技術の発展にも注力している。〈中国都市総合発展指標〉の「科学技術輻射力」で同市は中国第18位と、省内トップの実力を有する。「特許取得数指数」は中国第10位と全国トップ10に入る成績を誇り、「R&D要員」は第14位、「R&D支出指数」は第19位に躍進している(詳しくは【ランキング】科学技術大国中国の研究開発拠点都市はどこか?)。ただし、「中国都市IT輻射力」は第27位と、第14位の済南に水をあけられており、今後の発展が望まれている(詳しくは【ランキング】中国IT産業スーパーシティはどこか?を参照)。

 同市は屈指の交流交易機能を活かし、本社機能の立地も進んでいる。「メインボード上場企業」は中国第18位と済南の第27位を上回る。ユニコーン企業は5社立地している。

 また、青島には多くの有名な大学と研究所が立地している。青島科技大学、中国海洋大学、青島大学など、多くの学生がこれらの教育機関で学んでいる。

 〈中国都市総合発展指標〉の「高等教育輻射力」で青島は中国第17位と山東省内トップクラスの成績を誇る。


【長沙】エンタメ・グルメのニューメガシティ【中国都市総合発展指標】第15位

中国都市総合発展指標2022
第15位




 長沙は中国都市総合発展指標2022総合ランキング第15位であり、前年度の順位を維持した。

 「社会」大項目は第14位で、前年度より順位を4つ上げた。3つの中項目で「生活品質」は第11位、「ステータス・ガバナンス」は第15位、「伝承・交流」は第16位で、3中項目のうちトップ10入りした項目はなかったものの、すべてトップ20入りを果たした。小項目で見ると、9つの小項目のうち、「居住環境」は第9位とトップ10入りし、「消費水準」は第13位、「文化娯楽」は第14位、「人口資質」「人的交流」「生活サービス」は第16位、「都市地位」は第18位と、6項目がトップ20に入った。なお、「社会マネジメント」は第73位、「歴史遺産」は第97位であった。

 「経済」大項目は第15位で、前年度より順位を3つ下げた。3つの中項目で「経済品質」および「発展活力」は第15位、「都市影響」は第19位で、3中項目のうちトップ10入りした項目はなかったものの、すべてトップ20入りを果たした。小項目では、トップ10入りした項目はなかったものの、「広域輻射力」は第12位、「ビジネス環境」「イノベーション・起業」は第14位、「経済規模」は第15位、「経済構造」は第16位、「広域中枢機能」は第17位、「開放度」は第19位と、9つの小項目のうち7項目がトップ20に入った。なお、「経済効率」は第21位、「都市圏」は第25位と、9つの小項目のうちすべての項目がトップ30に入った。

 「環境」大項目は第20位で、前年度より順位を5つ上げた。3つの中項目のうち「空間構造」は第22位、「環境品質」は第31位、「自然生態」は第129位であった。9つの小項目のうち、「資源効率」は第2位とトップ10入りを果たした。また、「都市インフラ」は第14位、「交通ネットワーク」は第20位と、2項目がトップ20に入った。なお、「コンパクトシティ」は第30位、「環境努力」は第36位、「気候条件」は第95位、「汚染負荷」は第176位、「水土賦存」は第184位、「自然災害」は第265位であった。


「星城」長沙


 長沙市は湖南省の省都であり、「星城」と称される。同市は東に江西省の宜春、萍郷、西に娄底、益陽、南に株洲、湘潭、北に岳陽と隣接し、長江中流域の重要な地域中心都市である。また、米どころ・魚どころである。北京を始めとする中国の都市は長い歴史の中で、さまざまな理由により都市の中心地が変動してきた。そうした中、長沙は、三千年にわたって都市の位置が変わらない「楚漢名城」である。

 長沙の総面積は11,819平方キロメートルにおよび、15のニューヨーク、11の香港、6つの深圳に相当する広さである。中国国内では第157位の規模であり、日本では秋田県と同等の大きさである。

 2022年末の常住人口は1,042万人で、ニューヨークを上回り、スウェーデンの全人口を超えるメガシティである。中国国内では第16位の人口規模である。

 同年のGDPは1.4兆元(約20.8兆円、1元=20円換算)に達し、中国第15位の経済規模がある。これはスリランカのGDPに匹敵する規模である(詳しくは「【ランキング】世界で最も経済リカバリーの早い国はどこか? 中国で最も経済成長の早い都市はどこか?を参照)。

歴史の深さ、継続する文脈、名人の輩出


 長沙は、その長い歴史と豊かな文化資源で知られる。特に、「岳麓書院」は、宋、元、明、清の四つの王朝を経て、現在の湖南大学につながり、世界で最も古い高等教育機関の一つとして人材を輩出し続けている。毛沢東を始め曽国藩、左宗棠ら中国の近代史を形作った偉人が岳麓書院から大勢出ている。まさに岳麓書院正門に掲げられた「惟楚有才,于斯為盛(楚に人材あり、ここに集まる)」という対聯の通りである。

 現在、長沙には23の大学と37の専門学校から成る60の高等教育機関がある。湖南大学、中南大学、国防科学技術大学、湖南師範大学の4校は、国家重点大学「211大学」に含まれ、うち3校は「985大学」に名を連ねる名門校である。

 現在、同市の高等教育能力の高さを示す「高等教育輻射力」は中国第7位である。

 歴史上、長沙生まれ或いは長沙で活躍した傑出人物は数多い。前漢の思想家・文学家である賈誼、唐代の書家・文学家の欧陽詢。近代では画家・齊白石、辛亥革命先駆者の黄興、蔡鍔、文学者の周立波、周楊ら多くの著名人を生んでいる。

 同市は現在なお「傑出文化人指数」で中国第13位、「傑出人材輩出指数」で中国第22位と、好成績を誇っている。

 人材に活躍の場を与える長沙は、外からも人々を吸引し成長している。人口の流出入を示す「流動人口(非戸籍常住人口)」では、湖南省内13都市のうち12都市は、外へ人口が流出し、その規模は約845万人である。これに対して長沙は、流動人口が約264万人の大幅プラスである。よって長沙は中国第14位の人口流入都市となっている。

 住宅価格を低く抑える政策も独特である。中国の省都の中でも長沙の住宅価格は最も低い水準にある。これも、長沙の人口吸入力になっている。長沙は現在、「幸福感都市認定指数」で、杭州、成都と並び、中国第1位の都市である。

バラエティのリーダー・湖南衛星テレビ


 「湖南衛星テレビ」は、もともと「湖南テレビ局」という名称であったが、1997年に衛星放送を開始して以来、「湖南衛星テレビ」として知られるようになった。マンゴーを模したロゴから「マンゴーチャンネル」という愛称で親しまれ、現在では湖南文化や長沙を象徴する存在となっている。

 このテレビ局は、常に新しい分野を切り開き、全国の他のテレビ局の一歩先を進んでいる。番組の視聴率は、省レベルの衛星テレビ局の中で常にトップを走っている。20年以上にわたって人気を博している「快楽大本営」や、オーディション番組の「スーパーガール」など、多数のヒットバラエティ番組やエンターテイメント作品が生まれた。これらの番組は、SNSで話題となり、特に「スーパーガール」や「快楽男声」は、20年前から中国の若い消費層にトップレベルのエンターテイメントを提供している。

 湖南衛星テレビは、人気バラエティ番組を多数製作するだけでなく、優れた司会者、俳優、歌手を輩出している。何炅、汪涵、謝娜、李宇春など人気タレントが名を連ねている。

 エンタメ都市として名高い長沙は、「文化・スポーツ・娯楽輻射力」で中国第12位であり、「映画館・劇場消費指数」は中国第11位である(詳しくは『【ランキング】世界で最も稼ぐ映画大国はどこか?』を参照)。

■ グルメとインフルエンサーの都市


 長沙は現在、「インフルエンサー都市」と呼ばれる。長沙は優れた自然環境と、長い歴史と文化を背負った美食の都市でもある。湖南衛星テレビの積極的な宣伝が功を奏し、湖南料理が、全国的に根を張り巡らせた。SNSの時代となり、大勢のインフルエンサーが長沙の食の魅力を広げている。

 長沙には、小龍蝦(ザリガニ)、臭豆腐、米粉(ビーフン)といった、独特で多様なグルメが存在する。中国一辛いと言われる「湖南料理」が、多くの観光客を魅了している。ミルクティー業界のスタバとも言われる「茶顔悦色」が2013年に設立され、長沙の新しいグルメの象徴的な存在となった。

 長沙は眠らないエンタメ都市としても有名であり、ナイトエコノミーが、多くの観光客を引き寄せている。

 交通の便も観光都市長沙へのアクセスを容易にしている。「鉄道利便性」が中国第7位、「空港利便性」が中国第15位と、交通の便が高いことも魅力のひとつとなっている(詳しくは【ランキング】中国で最も空港利便性が高い都市はどこか?を参照)。

 観光都市・長沙の「卸売・小売輻射力」は中国第13位、「ホテル・レストラン輻射力」は中国第18位である。

■ 強い機械産業を持つ


 長沙はソフトパワーだけでなく、製造業も優れている。長沙には、三一重工、中聯重科、鉄建重工、山河智能といった世界トップクラスの機械製造企業を擁している。長沙の「製造業輻射力」は中国第36位である(詳しくは「【ランキング】中国で最も輸出力の高い都市はどこか?を参照)。

 併せて、研究開発も活発であり、「科学技術輻射力」は、中国第15位である。国家を代表する研究者の排出数を示す「中国科学院・中国工程院院士指数」は第15位と、ここでも人材の豊富さを窺わせる(詳しくは『【ランキング】科学技術大国中国の研究開発拠点都市はどこか?』)。