【コラム】周牧之:恩師を偲ぶ東京物語

《東京経済》 No.374 2020年10月


編集ノート:東京経済大学学友会の雑誌『東京経済』のインタビューで、周牧之教授が野村昭夫、劉進慶、増田祐司の恩師三人との思い出を語った。本企画では、恩師三人への偲ぶ文を加え、留学時代の東京物語を綴る。

 



1.
日本留学までのいきさつ


 中国で大学を卒業した後、機械工業部という日本でいえば経済産業省に当たるところに配属され、宝山製鉄所の建設プロジェクトに従事しました。これは山崎豊子氏の代表作『大地の子』の舞台になったところです。中国建国以来最大のプロジェクトで、1,000 万トン級の最新鋭の製鉄所を造る壮大さは、改革開放のシンボルでした。私は第2期のオートメーション関連の担当責任者でした。今でもその傾向が強いですが、当時中国の関係者は技術の吸収に非常に熱心でした。が、私は技術よりむしろ政策や社会システムの方に関心が高かったのです。機械工業部では当時、技術の習得のため人員を海外へ大勢送り出していました。私が敢えてそうした枠組みを利用せずに日本に私費留学したのは、技術よりは産業政策を学びたかったからです。当時は、日本の産業政策が国際的に高い評価を得ていました。10 年前に私は『ジャパン・アズ・ナンバーワン』の著者エズラ・ヴォーゲル氏と対談した時、同氏ら日本を高く評価する人たちの著書に影響されて日本留学を決意したと、冗談半分に言ったものです(笑)。 

1995年7月21日、周牧之の経済学博士学位授与式にて、前列左から富塚文太郎学長、周牧之、野村昭夫教授、劉進慶教授。後列左から堺憲一教授、小島寛教授


2.増田祐司先生との出会い


 最初は東京学芸大学の大学院で梅谷俊一郎先生に就いて経済学を学びましたが、近くの東経大に私が関心を持っている分野に秀でた先生がいると聞きつけ、この先生の授業に潜りました。それが増田祐司先生でした。

 増田先生は日本でいち早くIT産業に注目した方で、IT革命やIT産業政策の一大論者であり、海外でも幅広い人脈を持っていました。最先端にいた先生と会った途端に意気投合し、「ぜひ僕のところに来なさい」と言われたのです。 

3.野村昭夫先生の門下へ


 しかし最終的に私が指導教員をお願いしたのは、野村昭夫先生でした。

 増田先生とは IT 革命というフィールドが共通していたにもかかわらず、何故分野の違う野村先生なのか。それにはエピソードがあります。野村先生と出会った日に、先生は大阪市立大学の留学生だった金泳鎬(キム・ヨンホ)氏が書いた『東アジア工業化と世界資本主義—第4世代工業化論』という開発経済学で当時新しい風を吹かせた本を持ち出して、「これに匹敵するものを書きなさい」と言われました。「君が決意したら僕は他のことはすべて投げ捨ててでも指導に当たる」とまで言ってくださった。私はこの言葉に感動して野村先生の門下に入ることにしたのです。野村先生のフィールドはヨーロッパだったのに対して、私はアジアで、技術や産業に重点を置いています。野村先生は私が何を研究しても干渉しませんでしたが、如何に学問として仕上げるか、に関しては厳しく指導してくださいました。全く違う研究分野の先生を納得させるのは大変でした。以心伝心などは野村先生と私との間にはありませんでした。しかしこれが、かえって良かったのです。先生と学生は以心伝心があってはいけないと私自身も思っています。先生にペーパーを提出すると、最初は真っ赤にして返されました。徐々に赤は減りましたが、卒業後、報告のために送った発表済みの論文にも野村先生は赤を入れて返してきました(笑)。

 1995年に『メカトロニクス革命と新国際分業—現代世界経済におけるアジア工業化』という博士論文を提出し、ミネルヴァ書房で出版し、日本テレコム社会科学賞奨励賞というささやかな賞をいただいた。野村先生のご期待にはある程度答えられたかなと思っています。野村先生の指導は本当に良かった。工学から経済学に移った私にとって、先生の厳格な存在がなかったら、学者としての私はなかったと思います。

周牧之著『メカトロニクス革命と新国際分業—現代世界経済におけるアジア工業化』


4.兄貴のような存在の増田祐司先生


 増田祐司先生に甘えてしまうことを怖れ、野村先生のところに入ったことを増田先生に正直に話し理解していただきました。しかし、その後もずっと増田先生に甘えっぱなしでした(笑)。先生は公私ともに相談できる兄貴のような大切な存在でした。修士卒業後、私の政策研究志向を後押しするために増田先生から財団法人日本開発構想研究所を勧められました。経済企画庁と国土庁所管で国土政策や東京湾の開発などを扱うシンクタンクで、私のフィールドも産業政策から、国土政策へと広がりました。霞が関辺りで多くの人たちと議論をし、リアルなシンクタンク経験をすると同時に、毎週野村先生にも会い、 レジュメなどを提出し、ご指導を仰ぐ。そういう大学院生活後半を過ごしたのです。

2001年9月7日に広州で開かれた「中国都市化フォーラム〜メガロポリス発展戦略〜」にて、右から周牧之、増田祐司


 増田先生編纂のご著書への寄稿、国際シンポジウムでの発表など、増田先生は私を一貫して引っ張ってくださった。私の海外の研究調査にも幾度も応援に駆けつけてくださいました。国内外の出張先では徹夜で飲み議論して、実に楽しい時を過ごしました。私にとってかけがえのない先生でした。

 

5.劉進慶先生と「中国経済論」


 台湾出身の劉進慶先生も私が研究生活で大きな影響を受けた方です。博士論文の審査を終えた直後、劉先生から『中国経済論』を書くようアドバイスされました。劉先生は、『韓国の経済』を書いた隅谷三喜男先生の愛弟子で、世に『台湾の経済—典型NIESの光と影』を出しました。一国の『経済論』を書き上げるのは大変な挑戦ですが、劉先生はご自身の経験から私を後押ししてくださいました。その後、劉先生は隅谷邸で伊藤誠先生、涂照彦先生、私などをコアメンバーにした中国経済に関する研究会を立ち上げました。当時、私は中国をはじめ海外に頻繁に調査出張していた時期でした。東京に戻るたびにこの研究会で調査を報告し、喧々囂々の議論を繰り返しました。隅谷先生は経済思想が非常にしっかりしていた方で、産業経済、労働経済の大御所でもあられました。隅谷先生を囲んだ議論で、中国経済論のフレームワークや思想が相当鍛えられました。

2002年12月7日、「隅谷研究会」にて、前列左から劉進慶教授、隅谷三喜男教授、呉天降教授、後列左から張紀潯教授、伊藤誠教授、周牧之。


 2007年に私は『中国経済論—高度成長のメカニズムと課題』を書き上げ、出版しました。隅谷先生、 劉先生が他界された後だったことが、大変残念でなりません。

周牧之著『中国経済論—高度成長のメカニズムと課題』(日本語版、中国語版)

 

6.そして東経大に戻るまで


 1990年代末、劉先生には、ご自身のメイン課目だった「中国経済論」を私が担当するようにと言われていました。当時、私は財団法人国際開発センターで、ODA関係の研究調査に没頭していました。年間 8カ月も海外出張をしていましたので、なかなかお受けできませんでした。それでも劉先生は定年退職される2年前に、私に非常勤講師として「中国経済論」を引き継がせました。いろいろスケジュールを調整し、海外出張から戻り集中講義をするのはなかなか大変でしたが劉先生のご期待に添えるようにと必死でした。

 劉先生に引っ張っていただき2002年に専任教員として東経大に戻ってきました。劉先生の研究室にあった書籍も、そのまま譲り受けました。

 院生時代、東経大では大勢の先生方、職員の皆様にお世話になりました。天安門事件のときには毎週、富塚文太郎先生のゼミでの社会主義についての議論が一種の精神安定剤でした。高山満先生の研究室での授業には毎回、おやつが出ました。長島誠一先生にはよく授業の後にカラオケに連れて行って頂きました。堺憲一先生はよくテニスを勧めてくださいました。柴田徳衛先生には中国政府からの訪問団のレクチャーをお願いしました。

 数年前、後に在中国日本大使にもなった横井裕氏から、「あなたが大学院に在籍していた時の東経大には優秀な中国人留学生が集まっていた。このことは当時外務省にいた僕も認識していた」と言われました。私に言わせれば、これは、当時の東経大の素晴らしい教員陣に魅了されて優秀な留学生が集まった結果です。母校にもっとも恩恵を受けたものの一人として、ご恩返しに努力しなければいけません。

《東京経済》 No.374 2020年10月


 

劉進慶先生を偲んで

周牧之 東京経済大学教授

編集ノート:劉進慶先生は、日本統治下の台湾に生まれ、東京大学に留学し、隅谷三喜男教授のもとで経済学博士を取得。東京経済大学教授、(中国)対外経済貿易大学客員教授、北京大学客員教授、スタンフォード大学客員研究員、1992年ハーバード大学客員研究員を歴任。

 劉進慶先生は、1975年に『戦後台湾経済分析—1945年から1965年まで』を著し、台湾経済研究のフレームワークを初めて世に提示した。その後『台湾の経済—典型NIESの光と影』、『激動のなかの台湾—その変容と転成』、『台湾百科』、『日韓台の対ASEAN企業進出と金融—パソコン用ディスプレイを中心とする競争と協調』、『台湾の産業政策』、『東アジアの発展と中小企業—グローバル化のなかの韓国・台湾』をはじめとする数多くの著作を出版し、激動するアジア経済について多くの論点を提起、アジアの時代を展望する膨大な業績を残された。2005年10月23日に他界。

 周牧之教授は三度にわたり「劉進慶先生を偲ぶ会」を主催し、日本、中国大陸、台湾から大勢の方々が参加し劉先生の功績を讃えた。これを踏まえ、東京経済大学報2005年12月号に寄稿し、劉進慶先生への想いを綴った。



 台湾ご出身の劉進慶先生が勉学のため一九六二年、来日されたのには深い志があってのことでした。戦後の台湾経済に関する研究が長い間進まず、台湾での社会科学研究がゆがめられてきた状況を、戦前は「日本帝国主義の抑圧下にあって(台湾出身者が)自ら台湾の政治経済を研究することが困難な状況にあった」ことと同時に「抑圧に屈した台湾知識人自身のふがいなさ」の結果であったと、劉先生はご著書『戦後台湾経済分析』(東京大学出版会)のはしがきで言明されています。

   さらに戦後の台湾は、国共内戦のため長きにわたって戦時体制下にあり、戒厳令がしかれて思想言論が厳しく統制された時代が続きました。「学問研究、とりわけ人文社会科学の分野においては、多くの政治的「禁忌」が研究の前に立ちはだかっていたことが、台湾での研究活動を萎縮させ、学問の進歩や研究の成果を期待できる状況をもたらさなかった」(同上)とし、当時の台湾の「研究状態のゆがみが、研究のゆがみをもたらしている」点、さらには「台湾経済研究の乏しさが台湾経済発展の足かせになっている」点について先生は殊更意識されました。とりわけ、「台湾出身者による台湾研究の必要性と重要性」に鑑み、台湾経済の発展に役立つ真の経済研究を志して、日本留学を決意されたと伺っております。劉先生のたゆまない学究生活の出発点には以上のようなことがあったのです。中国に生まれ東京で中国経済研究を続ける者として、私は先生のご研究の出発点となったこの高い理念について、いま改めて深い感銘と共感を禁じえません。

2002年3月14日、「劉進慶先生のご定年を祝う会」にて、左から劉進慶教授、陳焜旺日本華人華僑連合総会会長


 来日後は、東京大学の隅谷三喜男先生の元でご研究を重ねられ、『戦後台湾経済分析』を世に出されたのは一九七五年でした。戦後三十年の台湾経済を総括した同書は、大陸、台湾双方で翻訳出版され、台湾では一九九二年度十大優秀図書賞を受賞されました。劉先生は台湾経済研究を初めて体系化された、まさに先駆的存在でした。

 台湾が一九七〇年代から工業化の道をひた走り、輸出が急増してNEISの一員となると、先生はそれまでのご業績をふまえ、台湾のNEIS化のメカニズム解明にあたり、NEIS研究の第一人者としても大きな役割を果されました。

 さらに一九九〇年代からは中国経済発展のメカニズムを解き明かすために研究を進められました。先生の大陸研究の着眼点は農民農村問題でした。それまでの台湾研究のエッセンスを土台にし、まさしく現代中国が抱える最重要課題のひとつである農民農村問題についていち早く注目されたことで、私たち中国経済研究の後進に中国農村農民研究への貴重な示唆を与えてくださいました。

 個人的には、劉先生の恩師であられる隅谷三喜男先生のご自宅に、劉先生に伴われ月に一度伺い、議論の輪に加わらせていただきました。若輩の私が失礼も省みず隅谷先生に真正面から論争を展開し、議論の応酬になってしまいましたのを、劉先生はあの独特の優しい眼差しでじっと見守っておられましたが、実は内心少々困ったなと思っていたのだと後で笑いながら打ち明けてくださったことが懐かしく思い起こされます。隅谷先生は私のことを面白がってくださったのか、その後数年間、隅谷先生がお亡くなりになるまで毎月ご自宅をお訪ねし、勉強させていただきました。劉先生の直接の弟子ではなかった私が劉先生に身近にご指導いただくようになったのは、この「隅谷研究会」が始まりでした。学問上のご指導に留まらず、劉先生の信頼感あふれる温かいお人なりから多くのことを学びました。

 劉先生はまた何よりも東京経済大学を「わが大学」としてこよなく愛してこられました。二十七年間研究、教育に全力を傾け、学部長、図書館長、入試委員長ほか数々の要職にあって大学の発展に情熱を注ぎ、多くの後進を育ててこられたことは周知の通りです。 

 劉先生が東経大にことのほか思いを寄せておられたのには特別の訳があります。「一九七三年、台湾政府に睨まれて、パスポートを取り上げられた。母国に戻れぬ外国の「棄民」のこの身を、わが大学はなんら問うことなく、終身雇用していただいた」(東京経済大学報 二〇〇二年春号)とあります。東経大の当時の執行部のリベラルな見識が劉先生の東経大への強い帰属意識を培ったのだと伺いました。

   劉先生はご出身の台湾と、大陸との両岸関係の正常化への努力を惜しまず続けてこられました。ご定年後も大陸と台湾との間を奔走された先生は、病窓で何度となく両岸関係正常化をこの眼で見られないことの無念さをおっしゃっていました。

   ご遺志を引き継ぎ、たゆまず研鑽を重ねることで劉先生の魂をお慰み申し上げたいと思っております。

《東京経済大学報》2005年12月号

2002年3月14日、「劉進慶先生のご定年を祝う会」にて、周牧之が劉進慶教授ご夫妻へ祝辞

 

野村昭夫先生を偲んで

周牧之 東京経済大学教授

編集ノート:野村昭夫先生は、世界経済研究所、日本リサーチセンター研究員を経て、桃山学院大学、福岡大学で教鞭をとられ、1985年から東京経済大学教授。

   野村昭夫先生は、世界経済の構造変化とヨーロッパ経済の産業構造の転換について一貫して研究を重ね、『現代資本主義と経済統合』、『自由化とEEC』、『世界経済と多国籍企業』、『現代世界経済論』、『国際経済論』、『現代の世界経済』をはじめとする数多くの著作によって、世界経済とヨーロッパ経済について多くの論点を提起し、広範かつ激動の歴史過程を体系的にとらえる業績を残された。2008年5月7日に他界。

   2009年10月3日に周牧之教授は関係者を募い偲ぶ会を主催、恩師への想いを述べた。



 野村昭夫先生に初めてお目にかかったのは1988年、いまから20年前です。

   当時、わたしは東京学芸大学大学院に在籍していました。学芸大はたいへんいい大学ですが、教員養成大学で、経済学を専門的に学び続けたいと思っておりました私には進路を新たに考え直す必要を感じていました。

   ちょうど当時、野村先生の学生だった人が私の同郷の友人であったことから野村先生を紹介してくれました。

   初めてお目にかかった日、2時間以上、相当長くお話しをしました。野村先生がその日、お話しの最後におっしゃったことが非常に印象深く残っています。

   金泳鎬(キム・ヨンホ)という、のちに韓国の通産大臣になり、その当時は大阪大学で博士学位をとって論文を出版された直後の方の話でした。この本が当時、日本の開発経済学界では大変高く評価されていまして、私も読んでいましたが、野村先生は、「私のところで、大学院生としてやっていくなら、この本を超える論文を書く志をもちなさい」と言われました。その決心があるのなら最大限に指導し、協力しましょうとおっしゃったのです。そのお言葉に励まされ、先生の元で学ぶ決心をいたしました。

   野村先生は、一貫して新仮説を打ち出すことを前提として論文指導をしてくださいました。わたしはIT革命を東アジア工業化と結びつける仮説の提示を研究の軸としておりました。先生のその後のご指導は厳格かつたいへん御丁寧でした。私の書いたものに毎回赤字を入れながら、一字一句丹念に読んでくださいました。私はそれを受け取り、さらに精進するという共同作業を、論文完成まで6年間続けました。

   野村先生は現場と理論とのバランスをとりわけ重視されました。

   その後、私は財団法人日本開発構想研究所という経済企画庁、国土省所管のシンクタンクに在籍しながら、ドクターコースで学んでいました。

   霞が関での調査、中国での調査で芽生えた発想、考え、アイディアを、野村先生に報告いたしますと、先生はそれを大変重視してくださり、学問への結びつきについて指導してくださいました。

   実は野村先生と私とは、専門分野が違います。野村先生はヨーロッパ経済が軸で、私は中国、東アジアを中心にした産業論、国土政策、都市計画です。

   しかし専門は違っても先生とわたしの師弟関係は非常にうまくいったのではないかと思います。

   それは野村先生ご自身もシンクタンクにいらっしゃったご経験があり、現場の実情と理論との調和や、現場の事実を学問的に、体系的に捕らえる方法に非常に長けていらしたゆえです。

2002年3月14日、「劉進慶先生のご定年を祝う会」にて、左から隅谷三喜男教授、野村昭夫教授


 野村先生はまた、男のロマン、人間として大きなロマンをお持ちでした。私は大陸出身で、大きなことを考えがちですが、先生はそれをいいことだ、とおもってくださるようなところがありました。恩師がロマンチストだったことが、私にはたいへん幸せでした。

   IT革命をどう東アジアの躍進に結び付けていくのか、ということ。あるいは現代版シルクロードの構想、中国の都市化、メガロポリス化の発想に先生は賛同してくださり、理論化への指導をしてくださいました。

   先生はさまざまなロマンをお持ちだったと思うのですが、そのうちのひとつとして、江戸時代を題材にして歴史小説を書きたいと、いつかおっしゃっていたことがありました。お酒をご一緒しながら、あるいは先生のシャンソンを聞きながら、先生のロマンを伺いました。

   私の結婚に際して、野村先生にいただいたお言葉があります。

   「静かにゆくものは健やかにゆく、健やかにゆくものは遠くゆく」

   このお言葉には何よりも野村先生ご自身の生き方が現れていると思います。このお言葉をこれからも、研究者としての、また生活者としての指針として、歩いてまいりたいと思います。

   本日は大勢の先生、みなさまにお集まりいただきまして、ほんとうにありがとうございました。会のコーディネーターを務めるにあたり、多くのみなさまのお力をいただきました。人と人とのつながりの大切さを、あらためて深く感じました。

   心より御礼を申し上げます。ありがとうございました。

2009年10月3日「野村昭夫先生を偲ぶ会」にて

2009年10月3日、「野村昭夫先生を偲ぶ会」にて、右から周牧之、富塚文太郎教授、野村公子夫人


増田祐司先生を偲んで

周牧之 東京経済大学教授

編集ノート:増田祐司先生は、機械工業振興協会経済研究所で研究者として第一歩を踏み出した。アメリカ・クリーブランドの研究所に出向後、東京経済大学教授、欧州委員会(EC)科学技術局第XII総局上級研究員、東京大学大学院教授、島根県立大学北東アジア地域研究センター所長・副学長を歴任。

   増田祐司先生は、1970年代半ばから、『経済評論』、『週刊 東洋経済』、『週刊 エコノミスト』などの経済専門誌の常連執筆メンバーとして脚光を浴びた。『技術先端産業』、『情報通信の新時代 ニューメデイア技術の行方』、『知識化社会への構図』、『情報経済論』、『情報の社会経済システム』、『人間重視の社会経済』、『北東アジア地域研究序説』、『北東アジア世界の形成と展開』、『北東アジアの新時代─グローバル時代の地域システムの構築』をはじめとする数多くの著作によって、情報革命が世界経済そして北東アジアに与える影響について多くの論点を提起し、時代のパラダイムをとらえる思考で現代社会を展望する膨大な業績を残された。2010年11月2日他界。

   2011年4月23日に周牧之教授は関係者を募って「増田祐司先生を偲ぶ会」を開き、恩師への想いを述べた。



 増田祐司先生とは1988年の秋、東京経済大学のキャンパスで初めてお目にかかりました。先生の御専門の産業技術論は、私が志望していた専門と大変近かったことに加え、先生の発想の豊かさ、心優しいお人なりに惹かれ、大学院のゼミに加えていただきました。

   私の大学院生活で最も楽しかった時代が、増田ゼミでの2年間でした。ゼミの時間が終わってから時折、国分寺駅周辺へ飲みに連れて行ってくださり、深夜まで語り合いました。お酒の席での先生の寛がれたときの笑顔は、いまも目に浮かんできます。

   東京経済大学が創立90周年を迎えた1990年には、増田先生が中心となられて90周年記念国際シンポジウムが開催されました。先生の幅広いご人脈で世界中から高名なエコノミストが招かれ、論点の鋭さ際立つ議論により大成功をおさめました。

   昨年は東京経済大学の110周年記念の年でした。110周年記念シンポジウムは、今度は私が力を尽くす番でした。20年前のシンポジウム開催時の増田先生のご尽力に思いを馳せ、そのお姿に学び、海外から高名なエコノミストや実業家を多数招いて盛大に行いました。

   博士課程に進んだときに、先生から「大学の中に閉じこもって机の上だけで研究するのでは足りないから」と言われ、財団法人日本開発構想研究所をご紹介いただき、私はそこで職を得て働きながら学ぶこととなりました。先生のご学友の阿部和彦氏、杉田正明氏をはじめ所員の皆さんに大変よくしていただき、日本の国土開発政策そして地域開発政策について実地に学ぶ機会を得られました。

   先生はその後東京経済大学のサバテイカル休暇を利用しヨーロッパに出向かれ、EU委員会科学技術局第XII総局上級研究員を務められました。東京大学社会情報学研究所の教授に就任された後も、私の博士論文の執筆には先生から数々の示唆をいただきました。先生のご指導を仰いだ同論文で博士号を取得し、『メカトロニクス革命と新国際分業』(ミネルヴァ書房)として出版いたしました。

   増田先生は私たち後進にとって素晴らしい研究リーダーでもありました。常に私たちの研究意識を高め、数多くの研究プロジェクトを立ち上げられました。わたしも先生のお誘いを受け、いくつかのプロジェクトに呼んでいただき、先生主編の5冊以上の本に、執筆者として加えていただきました。

   私は1995年、財団法人国際開発センターに移籍し、中国を中心とするアジア各国の政策支援とプランニングに従事しました。増田先生を私が関わったプロジェクトにお迎えしたことも度々ありました。とくに先生は私が中国で提唱したメガロポリス政策に関連して、清成忠男、伊藤滋、田中直毅、星野進保、福川伸次、保田博、塩谷隆英、今野修平氏ら日本の蒼々たる学識者らとともに、中国でのシンポジウムに御登壇され、中国政府関係者との議論に積極的に参加してくださいました。努力が実り、中国の第11次5カ年計画にて従来の大都市抑制政策が見直され、メガロポリス政策への転換が図られる事となりました。今日の中国の大発展はこの政策実施の結果でもあります。増田先生がこのプロセスに大きく貢献されたことをここに明記しておきたいと思います。

2000年12月15日に中国南京で開かれた国際シンポジウム「中国都市化戦略とアプローチ」にて、増田祐司教授(左)、右から今野修平教授、周牧之


 振り返れば北は北京から南は広州にいたる中国各地、そして韓国と、アジアへの調査及びシンポジウム参加のため様々な機会を利用して、増田先生とは毎年のように旅をご一緒しました。旅先での先生との議論は一層格別でした。宿泊先のホテルで飲み明かしたときは、先生はよく奥様自慢をされ、ご家族思いでいらっしゃることに感銘を受けました。

   私は2007年から2009年まで米国マサチューセッツ工科大学の客員教授を務めました。渡米前に、増田先生は送別会を開いてくださいました。私の妻も呼んでいただきました。その日先生は大変にお元気で、いつもに増して明るく、ユーモアを連発されました。あの晩は、恩師増田先生と友人と共にこれからの日本、中国、アジアの社会を大きく展望しました。生涯忘れる事のできない夜となりました。あの日が増田先生とお目にかかった最後の日になるとは思いもよりませんでした。

   米国から東京に戻ってまもなく、先生自らお電話で入院されたと仰いました。お見舞いに伺いたいと申し上げたところ、先生は「もう少し元気になったら呼びますから、家族連れで銚子にいらっしゃい。アジアの広さとつながりを展望できるとても良い場所ですよ」とおっしゃいました。昨年、増田先生を知る友人と、島根から戻られた先生に、東京でご活躍していただく場を作りましょう、と相談していた矢先、突然の訃報を受けました。まさに青天の霹靂でした。

   人生最良の師を失った私にとって、残された道は、増田先生が抱かれた壮大な夢と志、そしてひと際豊かな発想力を継承し、テクノロジーがいかに社会を変えていくか、そして東アジアをいかに統合させていくかについて探求し、東アジアの統合と発展、そして平和に力を尽くすことです。これを恩師増田先生のご恩に報いる最善の道と心を新たにしております。

2011年4月23日「増田祐司先生を偲ぶ会」にて

2001年9月7日に中国広州で開かれた「中国都市化フォーラム〜メガロポリス発展戦略〜」にて、左から周牧之、増田祐司教授 

プロフィール

周 牧之(しゅう ぼくし)/東京経済大学教授

1963年生まれ。(財)日本開発構想研究所研究員、(財)国際開発センター主任研究員、東京経済大学助教授を経て、2007年より現職。財務省財務総合政策研究所客員研究員、ハーバード大学客員研究員、マサチューセッツ工科大学(MIT)客員教授、中国科学院特任教授を歴任。〔中国〕対外経済貿易大学客員教授、(一財)日本環境衛生センター客員研究員を兼任。