【対談】横山禎徳 VS 周牧之(Ⅰ)コロナ禍で、如何に危を機にしていくか?

編集者ノート:新型コロナウイルスパンデミックで、世界の都市がロックダウンに揺れている。人々はグローバリゼーションの行方を憂いている。今後のビジネスのあり方やサプライチェーンの将来などについて、周牧之東京経済大学教授と横山禎徳東京大学総長室アドバイザーが対談した。


1.グローバルサプライチェーンはどこへ向かうのか?

 周牧之新型コロナウイルスパンデミックが、グローバリゼーションにどう影響を及ぼすのかについて、関心が高まっている。グローバリゼーションには様々な側面があるが、サプライチェーンはその重要な1つである。

 20年前、私はサプライチェーンのグローバル的拡張が、中国で長江デルタ、珠江デルタ、京津冀にグローバルサプライチェーン型の巨大な産業集積を形成し、その上に三大メガロポリスが出現すると予測した。私の予測は見事に的中し、現在上記の3つの地域に巨大規模のグローバルサプライチェーン型産業集積が出来上がった。三大メガロポリスは、中国の社会経済の発展を牽引するエンジンとなっている。

 しかし新型コロナウイルスショックで、グローバルサプライチェーンは寸断され、さらに米中貿易摩擦やアメリカ政府による企業の呼び戻し政策が追い打ちをかけ、三大メガロポリスがベースとなる産業集積の様相に異変が起こっている。

 横山禎徳グローバリゼーションを補完する概念としてリージョナリゼーションがある。例えば、グローバルに人気のあるドイツの自動車を支える企業群は、バイエルン州に集中していて自動車のエコシステムをしっかりつくっており、州政府もそのシステム育成に注力している。日本でもトヨタの三河、ホンダの栃木などがその例だ。グローバルなサプライチェーンの展開を現在も補完している。多くの製造業のサプライチェーンにおいて同様の傾向がある。リージョナリゼーションがしっかり確立しているから逆説的にグローバルなサプライチェーンを展開できるといえる。

 一方、ナショナリゼーション、あるいはナショナリズムはグローバリゼーションの対立概念だ。それは国家権力と結びつく。すなわち、グローバリゼーションを規制する法律があり、強制力もある。今回のCOVID-19は、グローバリゼーションの一側面として人の自由な移動が世界的蔓延につながったが、その防護として移動制限、入国禁止という国家権力が発動されたのはご存知の通りだ。

 日本は戦後、国家権力の強大化に対する不信というか、アレルギーがあり、中央政府は国民に対して要請はできても命令はできない。その結果、リージョナリゼーションが明確に表れてきた。今回、COVID-19に対する拡大防止として主要な県の知事が独自の対策を打ち出したのがその例だ。

 ひと昔前は、サプライチェーンは国民国家の中に留まっていた。いま横山さんが挙げた例にもあるように、日本のある自動車メーカーのサプライチェーンは、ほぼ半径50キロメートル内に収まっていた。サプライチェーンがグローバル的に拡張する時期は、ちょうど中国の改革開放期と偶然に一致した。その結果、中国はサプライチェーンのグローバル展開の受け皿となり、大きな恩恵に預かった。中国の輸出規模は、2000年から2019年まで10倍に膨らんだ。

 サプライチェーンのグローバル展開を推し進めた三大要因として、IT革命、輸送革命、そして冷戦後の安定した世界秩序から来る安全感が挙げられる。

 グローバルサプライチェーンは、西側工業諸国の労働分配率の高止まりを破り、地球規模で富の生産と分配のメカニズムを大きく変えた。

 中国の経済発展は、グローバルサプライチェーンによってもたらされた部分が大きい。それゆえ2007年に出版された拙著『中国経済論』の中で、第一章を丸ごと使い、中国経済発展とグローバルサプライチェーンとの関係を論じた。

 しかし近年、中国とグローバルサプライチェーンとの関係に多くの摩擦が生じた。

 まず、国際資本にとっては益々強くなってきた中国政府による介入に対して不安感が生じた。日本は早くから、「チャイナプラスワン」の政策を打ち出し、企業の中国以外の国・地域へのサプライチェーンの展開を奨励した。第二には知財保護の問題がある。実際、米中貿易摩擦の焦点の1つも知財問題である。第三に、中国での労働力、土地、税金などコストがかなり上昇したことである。

 当然、アメリカの産業空洞化も大きな圧力となってきた。これが、トランプ大統領を当選に導いた主要な社会基盤でもあった。

 横山中国はあまりにも巨大になった。グローバリゼーションという言葉が出てきたとき私は、それは世界のアメリカ化だ、と言った。1960年代に最もグローバルだった銀行は、アメリカのチェース・マンハッタン・コーポレーション。頭取のデイビッドロックフェラーが、中国へ行き周恩来首相と握手する写真が、当時日本の新聞でも頻繁に取り上げられた。チェース・マンハッタン・コーポレーションはグローバルな銀行だと思っていたが、それは、Americanization of the Globeに乗った形の拡大だった。アメリカーニゼーションが縮むと、この銀行の世界展開も縮んだ。アメリカはいま本当の意味でのグローバリゼーションを身につけなければならないところに、中国が台頭して来た。Chinaization of the Globeになるのではないかと敏感になっている。米中双方がリアクティブに反応しているところが様々な面に影響している。サプライチェーンも同様だ。両国ともナショナリズムの影を引きずったグローバリゼションから脱却する努力をすべきだ。

 すでに述べたようにグローバリズムの補完概念はリージョナリズムだと思っている。リージョナリズムはグローバリズムとともに永遠に存在しているだろう。しかしナショナリズムはグローバリズムに対立するという意味で厄介な思想だ。中国がナショナリスティックに動き、それが国家干渉として出てくると皆は困惑する。中国政府はもうそろそろ干渉をやめた、と外に分からせた方がいい。しかし、アメリカの現政権がナショナリズムになっているので状況はややこしくなっている。

 日本も保護主義といわれ実際保護してきた。それを緩めたときに知財の国外流失につながった。当然中国の緩め方は簡単ではない。知的財産が一部の分野で優位に立ち始めた中国から流れ出て行く可能性がある。ある意味、皆同じ土俵に立ってしまった。中国が干渉しない、といえば様々な意味で世界的な安心感が出てくるだろう。

 ナショナリズムは対立的な主張だ。アメリカにいまある程度ナショナリズムが出ていることの理由は、産業が空洞化したからだ。トランプ大統領が登場した背景には製造業の落ち込みがあった。しかし、なぜうまくいった中国でナショナリズムが前面に出ているのか?

 横山恐らく自分たちへの自信、矜持の回復が、近年の予想以上の大きな成功によりオーバーに出てしまったのではないか。

 中国は2001年のWTO加盟後に急成長した。長い間苦労を重ねた後に成功して初めて自信を得た。しかし世界にはその自信が受け入れられない、という忸怩たる思い、反発だろうか。

 横山それはどこの国もそうだった。日本以前に、アメリカも同様だった。アメリカがアメリカらしくなったのは1950年代だ。アメリカが世界の債権国になったのは第一次世界大戦後1930年代で、それまでヨーロッパがあらゆる意味で世界のセンターだった。新興国のアメリカの人たちは皆ヨーロッパで勉強していた。美術も音楽も超高層建築もアメリカらしいものが出てきたのは1950年代。ノーベル賞受賞者数も膨れ上がった。当時ヨーロッパからアメリカはアグリーアメリカン(Ugly American)といわれた。日本は1980年の半ばごろアグリージャパニーズ(Ugly Japanese)といわれた。いまや中国がアグリーチャイニーズといわれそうになっている。

 世界に認められるのは時間がかかる。そこに、自分の特色と、世界が何を求めているのかを察知するセンスが必要となる。

 横山例えば、中国はデジタル化が強い。日本は文化的な伝統なのだろうが、アナログが強い。例えば、四季の移ろいに敏感だが、まったくアナログの世界だ。昨日まで夏で今日から秋というわけにはいかない。「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」という9世紀初頭の和歌がその典型だ。

 日本には日本のやり方があり、製造業に限っていえば、実は日本の生産性は向上している。問題は就業人口の70%を占めるサービス業だ。この生産性は長年停滞している。2000年頃、日本はサービス業に限ると生産性はアメリカの三分の二程度であった。毎年生産性を5%程度向上しても当時のアメリカに追いつくのに15年かかる計算だった。驚くことに20年経った今も状況はそれほど変わっていない。これらはリージョナリズムの問題だ。これら多くのサービス業はグローバルな競争にさらされていないということだ。伝統的なリージョナル発想の業態のままでいる。グローバリゼーションの補完概念として機能するとはどういうことかがまだよく分かっていないのだ。

 例えば、日本のサービスは良いと思われているが、それは「昭和のサービス」でしかない。時代遅れでしかなく、必ずしも顧客が喜んでいないことに気が付いていない。「悪い」サービスではないから、顧客は何もいわない。従って、自己満足になっていて、顧客が評価しているかどうかに敏感ではない。こういうことに中国で行われているデジタル化を採用すれば、生産性の向上で労働時間の短縮になるだけでなく、その浮いた時間で個別顧客が満足しているかということに目を向けるようになり、独りよがりのサービスに気が付くきっかけになるだろう。

 リージョナリズムとグローバリズムが並存していることが、互いを健全化させていく。これに対して、ナショナリズムを前面にした対立的主張は有害だ。

 横山新型コロナウイルスに関していえば都市、国境の封鎖となっていくと、国が干渉するという形になってきて、ナショナリズムが広がる契機にもなり得る。ただし、これは、いずれ収まると思う。技法の共有やサンプルサイズの拡大など各国が共同で対応したほうが効果的であることに気が付くからだ。特に、最も求められている治療薬やワクチンはどこの国から出てくるか予想はできない。そして、開発に成功した国は自国優先ではなく、グローバルな供給体制を早急に確立することを求められ、もし、開発資金の欠如があるのであればグローバルなファイナンス機能が活用できる。 

 

2.製造業の交流経済化

 周いま中国では、アメリカの製造業の自国回帰を推し進める政策について、様々議論を呼んでいる。サプライチェーンに関心をもつ経済学者として、私はトランプ大統領がこのような政策を打ち出さなくても、製造業の先進諸国へのある程度の回帰は発生すると思う。

 歴史的に見ると、サプライチェーンのグローバル化は農産物から始まった。古代の東西貿易の主なアイテムはシルクにしろ、胡椒、綿花、砂糖、茶にしろ、農産物をベースにしたものが多い。他の地域からこうした農産物を獲得することが大航海の原動力であった。その後、食のサプライチェーンはグローバル化の一途を辿った。

 私の故郷、湖南省は稲作文明の発祥地とされている。典型的な自給自足経済であった。ほぼすべての食品は自分で生産したか、あるいは周囲から調達したものであった。フードチェーンは短く、かつ可視であった。

 横山隋の煬帝が大運河で南のコメを北へ持っていこうとした。なぜ、気候も温暖で食料も豊かな南部ではなく、北部に首都を構えたのか私には理解できないが、結果的に、後世に素晴らしい物流ネットワークを残したのは良かったのだろう。

 中国の国土は、北は雨量が少なく、南へ行くに連れて湿潤になっていく。よってその国土は、北方に騎馬民族エリア、小麦をベースにした北部農耕地帯があり、そして南部には稲作地域が広がる。稲作は生産性が高く安定している故に自給自足経済になりがちだ。あまりにも豊かで、小さいエリアで小さい幸せに満足する(笑)。帝国的な軍事力にも政治力にも興味が湧かない。それに対して、北部は、天候に収穫が大きく左右される。騎馬民族の南下にも常に翻弄される。騎馬民族と混ざった軍事的なパワーが巨大化し、王朝交代の原動力になっていく。それゆえに、統一王朝の首都のほとんどは、北部に構えた。

 コメは北部になかったから元も明も清も、運河でコメを北へ運んでいた。新中国では鉄道を使った。私の幼い時は北から石炭を南へ、南からコメを北へ鉄道で運んでいたのをよく目にした。あまりにも北にコメを持って行かれたので、コメの産地湖南省も食糧難に陥ったことさえあった。

 しかし、いまや中国の南の人々も、日本と同様、全国から、さらには世界から食の調達をするようになった。フードチェーンそのものの可視化が不可能となり、追跡もできなくなった。

 日本も典型的な稲作文明で、農村の原風景は湖南省によく似ており自給自足の世界であった。しかし、いま日本の食料供給は、カロリーベースで60%以上を輸入に頼っている。

 横山一方、金額ベースでは輸入依存度は30%程度である。ということは、日本人は値段が高くてあまり栄養のないものを好んで食べているということだろうか。しかも、近年、1人当たりのカロリー摂取量は2,000キロカロリーを切った。OECD諸国では最低である。しかも、輸入食糧を含めて1人当たり、毎日500キロカロリー以上を捨てている。

 そのようなネガティブな面もあるのだが、全体として食のサプライチェーンのグローバル展開は、食の供給の効率を大幅に高めた。しかしこれは、小作農を主体とした日中両国の農村、農業、農民には大きな打撃となった。海外から非難を浴びながら、日本政府は農業の保護政策を続けてきた。1961年に施行された農業基本法も、生産性向上よりは直接的な農家保護に重点があった。それにもかかわらず、というか、生産性向上による競争力の強化がされないまま、日本の農業も輸入食品に圧迫され、大いに苦しんでいる。より深刻なのは、輸入食品の安全管理が困難を極めることである。

 近年、ネットの発達によって、日本では農家が直接消費者と取引するケースが増えてきた。戦後、農産品供給の規模化と効率化を推し進めてきた農協や、スーパーマーケットなどがスキップされる現象が起こっている。コロナ禍で、こうした傾向がさらに強まっている。

 横山スーパーマーケットによる契約農家の効率よい管理を基盤に、国の安全基準を満たし、見てくれのいい大量販売の作物よりも、契約農家が自分の家族に食べさせている作物がみてくれがわるくても、一番安全で味もいいことに消費者が気付き始めた。

 “つくり手が見える農業”は農業生産の上に、コミュニケーション、信頼、品質そして感性まで含まれている。これは農産品の付加価値を高めただけでなく、農業自体をさらに魅力的にしている。近年、農学部に進学する女子学生の割合が日本で増えてきた。まさしく若い人たちによる農業への回帰である。

 横山農業はシステムである。そのシステムがいま生産、加工、消費が連動し、様々な組み合わせで変わろうとしている。しかし、それを、「いわゆる第6次産業化が進んでいる」と捉えるべきではない。「第1次、第2次、第3次産業を一体化し第6次産業化して付加価値を生む」とは言葉だけで具体的な方法論がない。

 「産業」という伝統的な分類に固執せず、産業を横串を通した「社会システム」として発想すれば、付加価値創造の可能性が大量に見えてくる。第6次産業ではなく、食糧供給システムとして捉えるべきだ。現在の漁業もハンティングから「栽培」に変わらないと資源の維持管理ができない。そうなると農業も漁業も同じ食料供給システムという効率的でありかつ多様性を生かすプロセスに乗るのである。

 製造業の生産と消費においても同じ現象が起こっている。

 従来、製造業のサプライチェーンの中で、企業間の交易において、外に出さない、出せない暗黙知が多かった。暗黙知をシェアするため濃厚な企業関係が必要だった。企業間は長期的な協力関係や資本提携のもとに、ピラミッド的な世界をつくり上げた。IT革命が、デジタル化と標準化を進め、暗黙知の比重を大幅に下げてきた。これにより、企業間のやり取りに必要とされる時間、コストが減少した。さらにモジュール生産方式が、デザインルールを公開し、サプライチェーンにおける競争が世界規模で行われるようになった。よって、サプライチェーンは、暗黙知の束縛から解放され、地球規模での展開が可能となった。

 サプライチェーンにおける企業関係も従来の緊密なピラミッド型から、ネットワーク型へと変化した。これで途上国もグローバルサプライチェーンへの参加が可能となった。中国をはじめとする途上国の参入は、工業製品の価格を大幅に下げた。

 こうした暗黙知を最小限に抑えたグローバルサプライチェーンは、典型的な交易経済である。

 しかし時代は常に変化する。消費者は、低価格よりもますます感性、個性、そして生産者とのコミュニケーションを重視するようになってきた。これを可能にした背景には、モジュール生産方式が新たな段階に入ったことがある。

 モジュール生産方式は、非熟練労働者の組み立てなど工業生産活動への参加を可能にした。これは、製造業サプライチェーンの基礎であり、発展途上国の新工業化の前提条件であった。

 しかし、いまやモジュール生産方式が進化し、個性的なデザインと連動することが可能となり、多様化、個性化の少量生産が実現できた。消費者と、生産者とのコミュニケーションによって、個性と感性の豊かな製品が作られるようになった。

 横山モジュール対すり合わせの議論があり、日本はすり合わせが得意ということになっている。まさにデジタル対アナログの議論と似ている。しかし、実は歴史的にみると、日本はモジュール生産方式が発達している。例えば、日本の在来工法による住宅はモジュールで出来ている。木割りという伝統的な基準がある。例えば、部屋の広さは三尺対六尺が基本モジュールだ。部屋の内法はどの住宅でも同じになるように部材の寸法が決まっている。従って、畳はどこで誰が作ってもピタッとハマるようになる。住宅というモジュールがあったから、畳だけを専門的に作る。従って、技術に習熟した職人が存在し、住宅の質の維持向上に貢献した。

 自動車の個性的な注文と流れ作業との組み合わせを、いち早く実現させたのも日本のメーカーだった。いわゆるマス・カスタマイゼーションの実現だ。

 横山製造業に関してトランプ大統領は、サプライチェーンがシステムとして出来上がっていることがわかっていないと思う。他所にあったものをアメリカに持って行ってもすぐ動くわけはない。サプライチェーンはエコシステムとして有機的に連携したシステムとして時間をかけて組み立てられている。一朝一夕にはでき上らない。

 未来の製造業はこのように想像できる。一方で、半導体チップやセンサーなどコアモジュールはこれまで同様、グローバル的な供給となるだろう。日米の企業は現在、これらの分野で高い優位性を誇っている。他方で、一部の最終製品生産者は、これらのモジュールやディバイスをベースに、ユーザーとコミュニケーションを重ね、個性のある商品を提供するよう進化する。暗黙知を最小化してきた旧来のグローバルサプライチェーンは、ここにきてコミュニケーションを重視する方向へ付加価値を高めるようシフトすれば、これは先端製造業の交易経済から交流経済への転換である。

 横山西山浩平というマッキンゼーの後輩がいて、「エレファントデザイン」という企業を興し、消費者参加型の商品化コミュニティサイト「空想生活」を作った。例えば、こんな電子レンジが欲しいという意見を消費者から集め、コーデネートして、いいなと多くの参加者が思うスペックを導き出し、欲しい人の数がメーカーが受けることのできるロットサイズに達すると、製造を依頼する。大きくは伸びていないが30年くらい続けている。

 消費と生産がやり取りするような現場が増えていくだろう。特に若い人たちの消費パターンをみると個性、感性を求めている。これを満足させるためには大量生産の画一規格では収まらない。

 日本のサービス産業は効率が悪いといわれるが、効率が価値であると同時にわがままも1つの価値だ。サービス業も農業も製造業もそういう時代になってくる。

 横山値段の高い寿司屋のようなものだ。日本では、効率も生産性も悪そうだがやっていくという分野がある。それは一種のリージョナリズムだ。そのような効率の悪いサービスが成り立つだけの価格付けをするから生産性がひどく悪いわけではないし、価値を評価してその高い価格に対してお金を払ってくれる顧客がいるから存在できる。そのような寿司屋を評価して日本に来たら寄ってくれる外国からの顧客もできる。リージョナルだからグローバルになるという逆説だ。

 その意味では、目下製造業の先進国への回帰は、その一部分は消費者へより近づく市場への回帰だ。製造業最終製品の生産はますます個性化、ローカル化が進むだろう。トランプ大統領の呼び戻し政策がなくても新型コロナウイルスショックがなくても、こうした製造業の回帰は起こる。これは、製造業が交易経済から交流経済へと進化する流れの一環だ。

 横山中国でも製造コスト、人件費が上がり、生産ロケーションとしての旨味がなくなっている。超ハイテク部分は、ロケーションが重要ではなくなってきている。半導体製造の最先端では「Copy exactly」が最重要になっている。基幹工場の製造プロセスと隅から隅まで全く同じプロセスを持った工場であることが大事で、そうでないと歩留まりなどの生産性が落ちるのだ。それだけでなく、何故そうなるのかを見つけるのも大変なのだ。その作業を省く意味がある。従って、それが世界のどこにあるかは二次的な要素になってきている。そういう意味からもここ数年のうちにアメリカや日本に帰ってくるものもあるだろう。

 2000年から2018年までに、上海の平均賃金は9.3倍に、蘇州、広州はそれぞれ8倍、6.3倍に跳ね上がった。2000年の時点ですでに比較的高かった深圳の平均賃金も、4.8倍になった。安い賃金をベースとした、従来の製造業発展パターンは中国では難しくなった。

 一方、「世界の工場」とはいえ、半導体は輸入に頼っている。中国では現在、半導体輸入の金額が石油輸入のそれを超えている。目下、米中貿易摩擦の焦点の1つは、アメリカが最先端のチップを華為(ファーウェイ)など中国のハイテク企業には売らないと迫ってきていることにある。

 半導体の生産はますます限られた企業しかできなくなり、これはグローバル的調達でずっと行く。

 横山ハイテックの分野では製造現場での人件費よりも、研究開発や設備投資のコストをコントロールすることが重要になってきている。自然な流れとして製造設備の固定費を持たないで研究開発と設計に特化するファブレスが出現した。

 台湾の台積電(TSMC)は世界で初めて、半導体の設計と生産を切り離し、生産だけに専念した。いまやいわゆるファウンドリチップ最大手となった。それによって工場を持たない半導体設計に特化したファブレスが開花できた。

 ファーウェイの子会社、海思半導体(ハイシリコン)が、なかなかいいチップを開発している。設計に特化し、生産はTSMCに委託している。今度、アメリカはこの両者の受託関係にもストップをかけてきたので、ファーウエイはピンチに追い込まれている。

 横山ノンデジタルな技術の大切さも重視しなければならない。例えば光学系だ。レンズはデジタル化がやりにくい。アナログとデジタルの境目にある。ソニーはその強みを自覚し、自分たちの強いことをやろうと決断したようだ。デジカメやスマホのカメラに使われるイメージセンサーでは50%以上のシェアを持っている。

 デバイスを作っている会社はグローバル的にサプライするだろう。最近、私はオゾンの殺菌能力に着目し、オゾンによる「3密問題」解消を提唱している。低濃度のオゾンでも、十分な不活化力がある。ただし、濃度が高くなると、不快感を生じることもある。そのため有人環境でのオゾン利用には、濃度をコントロールするセンサーが必要だ。中国の遠大科技集団(BROAD Group)の張躍社長に高精度かつ安価なオゾンセンサーの開発をしつこく迫っているところだ。これができれば、大型エアコンメーカーの遠大も世界的なデバイスメーカーに変身できるだろう。

 横山日本であれば村田製作所のコンデンサーがある。非常に小さな素子でPCやスマホに大量に使われるがその分野における市場シェアは、世界一だ。

3. 世界への理解と個性の主張

 自動車も電気自動車になった途端に、デザイン性が要になった。デザイン性が時代を引っ張る。

 横山自動車でいえば目に見えるボディのスタイルだけではない。昔からあるのは、ドアを閉めた時のボンという、安物感のない良い音がすることが1つのデザイン要素だった。音の良さが販売に影響した。1970年代になると、自動車のエンジンの音をデザインできるようになった。1960年代まではエンジン音も何故か各々国によって違っていて、イギリス、アメリカ、ドイツ車をエンジン音でわかることができた。それがいまはわからなくなった。特徴があるのはフェラーリーのクォーンという音くらい。

 最近出ているSUVのデザインの軸は、運転席のビューポイントの高さだ。視点の高さは自動車の性能とは関係がないが、視野が広く運転しやすいと感じるのか消費者がそれを選ぶ。目に見える部分と見えない部分の総合的なデザイン能力が問われるようになった。電気自動車がリチウム電池の進歩で現実的になったとき、電気モーターの自動車は内燃機関の自動車より部品も少なく簡単だからある意味誰でもできると思った時期がある。多くの中国の起業家も参入した。しかし、電気自動車はゴルフ場のカートよりはもっと複雑であった。テスラは、このデザイン問題をちゃんと見抜き、アメリカの自動車企業が落ち目になった時に自動車つくりの経験豊富なエンジニアを数多く採用したことが成功している理由の1つである。 

 これからの製造業は相当変わる。感性があり文化的特徴があり個性やこだわりのある製品が出れば、もっと楽しい世界になる

 横山イタリア人は座るための家具を作るのが上手で、とても座り心地の良いソファを作る。長年積み重ねてきた歴史の厚みを簡単なひじ掛けイスやソファに感じる。例えばドイツ人がイタリア人よりいいソファを作ろうと思わなくていい。文化的な積み重ねが違うからだ。ドイツ人は別の意味で魅力的な家具を作ることができる。グローバリズムとは単調で一様な世界ではなくそういう多様なリージョナリズムの集合なのであり、豊かな世界になりうるのである。

 私の家の椅子は、すべてイタリアの友人の著名な建築家マリオ・ベリーニの作品だ(笑)。

 もとは欧州の得意分野だったものだが、最近日本のメーカーが評判になるケースが増えてきた。例えば白ワイン、ウイスキー、チョコレートなどだ。日本の理工系女子学生の就職企業人気ランキングにも食品関連が多くなった。感性豊かな女性が入ることで、文化的・感性的にさらに伸びていく。

 横山日本はフランスより優れたワインをつくる努力をするのではなく、和食に合うワインを作ることが大事だという考え方が出てきた。山梨や長野のワイナリーは実際、そのようなワインづくりを試行錯誤し、最近はなかなか優れた品質に達している。

 友人の有賀雄二氏の勝沼醸造では、和食に合う素晴らしい白ワインを作っている。国際的にも様々受賞している。

 横山和食は醤油をはじめとしてアミノ酸発酵食品が多く日本酒が合うが、ワインは乳酸発酵食品、例えばチーズなどに合うという常識がある。しかし、そのような常識を乗り越え始めた。そういうアナログな感覚が重要な分野では女性の精妙な感性と粘り強さは当然役に立つ。チョコレートも伝統的な世界を抜け出し多種多様な新しい展開を始めたようだ。

 キャベツのようなありふれたものも数百種類のバラエティがあり、日本食に最適な使い方もある。とんかつと一緒に出てくる生キャベツの千切りとか、広島風お好み焼きのキャベツとか、独特の種類が使われている。こういうリージョナルな展開もかえってキャベツの多様性と食のグローバルな発見や認知につながるかもしれない。このようにして各々の地域で得意なことをやって伸びればいい。そして、グローバルな展開との補完関係を見つけることになるだろう。

 国際間で人の往来が猛烈に増えてきた。世界の国際観光客数は、30年前は4億人だったのに対して、2018年に14億人に膨らんだ。日本もこの流れで海外からの観光客が急激に増えてきた。これがコロナショックでパタリと止まった。

 横山ツーリズムの世界は人の流動性が高いが、短期的であり外界の状況ですぐに増えたり減ったりする。ビジネスや、学問の世界の流動性はもっと安定的であって、傾向として今後も増加していく。今回の騒動がある程度鎮静化すれば、人の行き来は回復し増加軌道に乗るだろう。人数的に大きくないかもしれないが、アーティザン(職人)やプロフェッショナルの世界的移動は常に起こっている。職人やプロフェショナルの世界では伝統的にアプレンティス(見習い)としてキャリアがはじまり、その後ジャーニーマンになって幅広く経験し、マスターになる。レオナルド・ダ・ヴィンチもジャーニーマンとしてヨーロッパを旅した。このジャーニーマンのステージのプロフェッショナルや研究者の移動が増えるだろうと私は思っている。建築家は世界を回って技を磨くというのが普通になっていると言ってもいい。今後は医療やハイテックの人材、そして、金融関係の人材がもっと流動的になっていくと思う。

 食の世界も多い。例えばシェフだ。

 横山食の世界はまさにジャーニーマンであることは修業の最も重要なフェーズであり、普通に行われている世界だ。「流れ板」という言葉が日本にある。ある店に入って丁稚奉公やって、包丁が使えるようになり、お澄ましの味をみることができるようになると一人前であり、日本中を旅して様々な店に雇ってもらう。これが流れ板だ。10年程度そうやって修業して、多くは故郷に帰って自分の店をもつ。

 私の友人の子でシェフになった人が何人もいる。トップクラスのシェフに上り詰めた人もいる。彼らの父親は大学教授や、上場企業の社長もいる。

 横山シェフは今世界中を動いている。それを通じて、ある種の食のフュージョンは起きていくだろう。しかし、完全な合体はできないし、それが意味のないことはここ数十年で経験した。フランス料理はフランス料理、日本料理は日本料理であることは変わりないだろう。優秀なシェフはこれまで以上にグローバルな経験をしたうえでリージョナルな料理を守り発展させていくだろう。これはまさにグローバリゼーションとリージョナリゼーションが補完関係にあるという例であろう。

 その意味では漢方薬が西洋にまだ受け入れられないのは、相手が理解できる言葉で語っていないからだ。世界を理解する、そして世界に理解してもらう努力を同時にしなければならない。

 横山これもグローバリゼーションとリージョナリゼーションが補完関係にあるという例になりうるだろう。薬の機能の要素還元的手法による研究開発を通じて西洋医薬はグローバルな普遍性を獲得した。一方、漢方医薬は複雑なシステムの統合体である人間の体のシステム・バランスに作用するのが得意だ。

 すなわち、西洋の医薬はピンポイント・メディシンであり、漢方医薬はシステム・メディシンだといってもいいだろう。当然、お互いは補完関係にあるのであり、今後はそういう展開をしていくのではないか。

 

『中国都市総合発展指標』日本語版出版記念パーティにて、右から、周牧之、大西隆・豊橋技術科学大学学長、横山禎徳、竹岡倫示・日本経済新聞社専務執行役員(2018年7月19日、肩書きは当時)

中国網日本語版(チャイナネット)」2020年7月22日