■ 編集ノート:
小島明氏は、日本経済新聞社の経済部記者、ニューヨーク特派員・支局長、経済部編集委員兼論説委員、編集局次長兼国際第一部長、論説副主幹、取締役・論説主幹、常務取締役、専務取締役、日本経済研究センター会長、政策研究大学院大学理事を歴任、日本記者クラブ賞、ボーン・上田記念国際記者賞を受賞。新聞協会賞を共同受賞。
東京経済大学の周牧之教授の教室では、リアルな学びの一環として第一線の経営者やジャーナリスト、官僚らをゲスト講師に招き、グローバル経済社会の最新動向を議論している。2023年12月7日、小島明氏を迎え、講義をして頂いた。
■ ムーアの法則駆動時代に遅れをとった日本
小島:スイスの研究機関IMDが、毎年国別デジタル競争力ランキングを出している。日本のデジタル競争力は、最新データで30位に入ってない。昨年は28番、今年は32番まで落ちた。
周:その理由は?
小島:今のシステムを変えず、部分的に運用を変えているだけだからだ。時代のニーズ、マーケットに合わせシステムそのものを変えないとうまくいかない。
例えばマイナンバーカードが普及しない理由は便利でないからだ。「マイナンバーカードがあれば、コンビニで住民票や印鑑証明を出せる」というが、ほとんどの国は住民票、印鑑証明などの書類はすでに必要ない。自分のIDナンバーを入れれば自動的に行政手続きを済ませられる。デジタルで行政手続きができるか否かの比較をOECDで実施したら、30数カ国の行政手続きのうち6割は全部ネットだけで出来た。日本はメキシコより下位だ。紙をプリントアウトし束ねて印鑑を持って役所へ行かなくてはならない。
韓国も日本よりデジタル化が進んでいる。韓国は1998年に財政が破綻しデフォルトになりかけてIMFが介入した。予算は減り赤字が膨らみ役人の数を減らしたが、行政ニーズはあるため残業しても追いつかない。そこでデジタル化を進めた。書類への署名や発行がなくなり全部ネットでできる。
周:1980年代の初め、アルビン・トフラーの『第三の波』が出た当時大学生だった私は、読んで興奮した。凄かったのは、トフラーの未来社会予測がほとんど当たったことだ。素晴らしい想像力だった。
私は工学出身でベースはITだ。その世界にはムーアの法則がある。後にインテル社の創業者のひとりとなるゴードン・ムーアは1965年、半導体集積回路の集積率は18カ月間(または24カ月)で2倍になると予測した。これがトフラーの未来社会予測の想像力の源泉だった。
ムーアの法則を信じ、多くの技術者出身の企業家がリスクテイクして半導体に投資し続けた結果、半導体はほぼムーアの法則通りに今日まで進化した。結果、世の中は急激に変化した。
私は、この間の人類社会は「ムーアの法則駆動時代」だと定義している。しかし、日本では、高級官僚も大企業の役員も法学部出身者が多く、世の中が日々著しく変わることが理解できない。規制と人事で世の中を動かそうとしている。
小島:依然として日本は、成功体験だった20世紀型産業経済、ものづくり経済を続けようとしている。当時日本はアメリカの自動車産業を脅かす程ものづくりをした。イギリスの産業革命から始まったものづくり競争の最終段階で、日本は一応成果を収めた。ところが、ピークに至ってムーアの法則が生きる情報社会になり、新しいパラダイムが始まったにもかかわらず日本は20世紀型産業のままいこうとした。今のアメリカのスタートアップ企業は企業価値の7割は無形資産だ。日本は7〜8割は有形資産で、もの中心だ。
日本はバブル崩壊で七転八倒した金融危機の1995年あたりが、グローバルに見てインターネット元年だった。アメリカと日本の経済競争も、アメリカは自動車等ものづくりの世界では日本にかなりやられたが、デジタル、情報サービスという新しい世界でスタートアップできた。これに対してドラッカーは「日本は終わった戦争を依然として戦っている」と言った。
■ ムーアの法則駆動産業になった自動車産業が大変貌
周:問題は、ものづくりもムーアの法則に染められてしまうことだ。電子産業はまさしく最初にムーアの法則駆動産業になった。電子産業は1980年代以降、世界で最も成長が速く、サプライチェーンをグローバルに展開する産業となった。電子産業のこうした性格が、アジアの新工業化をもたらした。これを仮説に私は博士論文を書いた。
今や、電気自動車(EV)もムーアの法則駆動産業になった。猛烈なスピードで進化している。ガソリン車の王者であるトヨタは最高益を更新しているが、実際は大変なピンチだ。
小島:完全にトヨタが読み違った。バッテリーが弱いからEVは売れないと思っていたがイノベーションが進んだ。今なって投資し、企業を買収している。実際にEVを大量生産できるのは2026年と言うのでだいぶ先の話だ。
周:EVのこれからの主戦場はバッテリーよりAI駆動の自動運転だ。テック企業のバックグラウンドがあるテスラや、小米、華為など自動車新勢力はこの分野に賭けて莫大な投資をしている。旧来の自動車メーカーにとってそこまで理解できているか否かが将来を左右する。
小島: iPadの値段を例えば500ドルとする。500ドルで売ったものをどの国がどう手に入れているか。重要な部品をドイツと韓国と日本が作る。部品がなければ製品はできない。だが部品を全部合わせて161ドルだ。中国は大量に作っているから、掛け算すると収入は多いように見える。だが、取り分は1台あたり6ドルだ。収入の大半はデザインしたアメリカへ行ってしまう。製造業に絡むスマイルカーブは今、急速に進み、デザインをしたところが儲かっている。
周:いまは大分状況が変わっている。華為がiPhone15の対抗馬として2023年9月8日に発売したMate 60 Proは主要な半導体からOSまで全てが国産になっている。
電気自動車では、さらに中国がリードしている部分が多い。中国自動車産業の新勢力はEVの一番大切な部品であるバッテリーの競争力を非常に重視している。現在、世界で車載バッテリーの主導権を最も握っているのは中国企業だ。昨年テスラを超え、EVの世界最大手になったBYDは元々バッテリーメーカーだった。前述したようにEVの究極の生命線は、自動運転だ。そこも中国企業がテスラとしのぎを削っている。さらに、華為も小米もBYDも、ブランドとデザインを重視している。そして周辺の部品産業に投資し、コントロールできるようなサプライチェーンを再編している。
■ 自分をマネージメントする時代に
小島:ドラッカーは組織のマネジメントを議論したけれども、これからの問題は、自分自身のマネジメントだ。企業など組織の寿命より人間の寿命が長くなった。これは人類史上初めてだ。企業の経営は企業がやればいいが、1人1人が自分をマネジメントすることが必要だ。自分でチャレンジし学ぶべきものを絶えず考え、自ら鍛え続ける癖をつけるのが学生時代だ。若い人には将来のチャレンジ、自分自身のマネジメント、人生マネジメントをしっかり行い、大学の体験をベースにし、本当の意味の生涯学習、リスキリングを続けてほしい。
人間の寿命は伸び、社会システムの改革も必要だ。そうでないと医療費も医療制度もパンクし若者に負担が来る。
周:その通りだ。今までの60歳定年は工業時代の労働年齢だ。
小島:筋肉が衰えて使えなくなるというので定年になった。いまは筋肉ではなく頭脳だ。ドラッカーも95歳まで原稿を書いて現役だった。
周:生産年齢を100歳までとして、人生設計しなければならない(笑)。
小島:日本は中途半端な制度だ。定年延長ではなく雇用延長という言葉を使っている。定年延長では賃金も減らせないので企業は反対するからだ。今の世界の流れは、定年廃止だ。ノウハウや能力を持つ人なら80歳でも雇用される。定年廃止とは、年齢を雇用の条件にせず、能力で評価することだ。日本の企業は圧倒的多数が60歳定年だ。私が学生時代のときは55歳定年だった。55歳定年は90年前に生まれた。三井の大番頭が、従業員に55歳まで働いていいと言った当時、日本の平均寿命は40代だったからつまりは終身雇用だった。日本の寿命はその後、倍になったが、定年は55歳から60歳にしか伸びていない。“終身”でなく“半身”雇用になってしまった。このギャップが人々のやる気をなくす。
企業に雇用延長がなく80歳でも何歳でも働けて、年齢だけで区別しない制度になれば、いろいろな人がチャレンジできる。賃金体系も若い頃の安賃金から段々良くなるのでなく、仕事ができる人は最初から高水準であるなど労働価値が雇用主に判断されるようになればいい。
新しいノウハウを持つ人には最初から社長クラスの給与を出していい。年齢だけで給与を決めているから、有能な人が割り込む余地がない。負担だけが大きくなる。インセンティブも失くしてしまう。
周:日本的な組織の中で、個性や個人の能力への評価と、貢献への対価の支払いが非常に遅れている。
小島:自分でトレーニングし努力してチャンスを掴むことが大切だ。私の息子は52歳だが5回転職した。自分に合ったスキルを持ち、金融関係でファンドをし、転職するたびに年棒が上がる。その代わり凄く勉強している。そのように働く時代が普通になる。終生勉強しなければ完全に時代に取り残される。終身雇用時代ではなくなった。昔は銀行が一番安定し賃金が良いと言われた。今は銀行も数が減り従業員が必要なくなった。モルガン銀行はトレーダーが100人いたが数人になった。AIでできるから窓口は要らなくなっている。
若い人には未来を見据え自己研鑽し、チャレンジしてほしい。人生100年、時代の先端でやれるような自己研鑽の決意をぜひとも固めてほしい。そういう人がスタートアップもする。
■ 年金基金社会主義はいつまで続く?
周:ドラッカーはアメリカを年金基金社会主義国としている。その意味では日本もこれに当たる。ただ、GDPの三倍弱の借金を背負っている日本が年金基金社会主義国家としてソフトランディングできるのか。
小島:日本の手並みを世界が見ている。黒田元日本銀行総裁の金融政策は基本的に80%失敗だ。中小企業を救うため無担保無利子融資が政治の力で行われた。返済日が来れば、中小企業はパニックになる。政治が入りまた転がして貸してやれという話になる。本来は生き残るべきものが生き残り、ダメなものは撤退しなければならない。従業員は能力があれば、雇用機会があり移動できる。経営者は自己保身のためにしがみつく。
日本の最近の財政は野党も与党もバラマキ競争で借金が増えている。カーメン・M・ラインハート(Carmen M. Reinhart)とケネス・S・ロゴフ(Kenneth S. Rogoff)がまとめた『国家は破綻する』は、過去800年の金融危機を分析し、「債務が膨張し悲劇を生んだ歴史から学ばず、危機を繰り返している」と警告している。
周:日本の選挙を見ていると、与野党共に、ばらまきを更に拡大するような政策を煽っている。これではいずれ借金で破綻する。そうなると、今まで積み上げてきた年金基金社会主義も破綻する。
小島:日本のGDPに対する政府債務は270%ぐらいになった。日本は第二次世界大戦時に軍部が金を使い、それを日本銀行に信用をつけさせて借金を増やした。今はそのときのピークをはるかに超えている。この借金をどう調整するか?日本の対応を注視している専門家は多いはずだ。間違うとえらいことになる。第二次大戦後後、大インフレが起こり、お金の価値がなくなった。新円発行で古いお札はもう使えず、新札は基準価値が全然違った。高額紙幣を500万円持ったとしても、10枚だけしかお金が使えなかった。敗戦でGHQ占領が入ってくる異常な状況だからできた。預金も封鎖、預金も下ろしてはいけなかった。そういうことは今の民主主義時代はできないから、マーケットにその圧力が全部来る。マーケットがどう吸収し、どう調整するかが大変難しい問題だ。
■ アジア金融危機はグローバルなキャピタルシステム危機
小島:次の5年間日本はどうなるか。学ぶべきものは、中国にとっても、どこの国にとっても大変多い。特に最近の変化は大きい。1800年代の中国、インドのスーパー経済大国時代は別として、その後のアジアは植民地化され停滞があった。歴史的には、アジア的低成長の議論が欧米では主流だった。しかし、1970〜80年代、アジアの新工業化はNICS、NEIS、そしてASEAN全体に広がった。1993年には世界銀行のリポートで、アジアの奇跡論が謳われた。その後1997年にタイを起点としてアジア通貨危機があった。突然の危機を予測も説明もできなかったとき、コネや縁故主義のアジア経済社会だから危機が生じたと言われた。純粋なマーケットではなく、アジアの縁故主義を病理として通貨危機が起きたという議論だった。
しかしアジアはこの危機の後、短期間で急発展した。その急激な回復は、こうした病理説では説明できない。1999年にはロシアのデフォルトになる。それがきっかけにアメリカの中堅ヘッジファンドが破綻し、危機がウオール街まで波及した。アジアだけでなくグローバルな破綻につながった。現実に起こっている変化が、そのときに主流だった議論をどんどん追い越した。あるいは理論が追いつかなかった。となると、現実に何が起こっているかをしっかり観察することが大事である。
周:ドラッカーが言う「すでに起こった未来を」を確認することが大切だ。さらにそれをきちんと理論的に整理することが求められる。
小島:たまたまアジア危機の翌年、1998年1月、ダボスの会議でジョージソロスと一緒に食事をした。「アジア危機はどうか」と問うと、「これはアジア危機ではない。これはグローバルなキャピタルマーケットの、あるいはキャピタルシステムの危機である」と言った。従来は物の生産、流通、消費で、ものを中心に経済が動いてきた。もの作りの企画をし、デザインをし、工場を作り、それで部品を集め、組み立て、完成品を販売するには時間がかかる。
しかしお金の世界は違う。金融の世界は瞬時に何億ドルという金が動く。ものの経済とお金の経済は、ベースになる価格形成のメカニズムが違う。お金の価格は、金利であったり、為替レートであったり株価だったりする。お金の世界は、マーケットがあると、おびただしい資金がそこで動く。デザインして加工し生産するのでなく、瞬時に需給が出てくる。ある情報がマーケットに出てくると価格が形成される。それは新しいレベルの為替レートであり、新しいレベルの金利である。それが出た瞬間また新しい情報が流れる。
周:新工業化で成功をある程度おさめたアジアの諸国は、こうした金融世界の恐さに対抗できる知識、体力、そして制度整備が必要である。
■ 歴史の中で見たアジア新工業化
小島: ヨーロッパの経済学者アンガス・マディソンがOECDと共に『ワールド・エコノミー』という本を書き、過去1000年以上遡り、各国地域のGDPや人口を分析した。
同書によると、中国の人口は今13億、西暦1820年は中国人口が3億人、インド人口は1億何千万人だった。1820年時の世界経済の中で中国のウエートは実は29%あった。インドは10数%、中印合わせて世界GDPの40数%を占めていた。当時日本は3%ぐらい。今の先進国ではフランスが7〜8%で高かった。アメリカはまだインディアンと戦っていた頃で日本より少なかった。
その後、イギリス発の産業革命でヨーロッパに工業力が付き、植民政策が始まり、アジアが植民地化され、生活の中での経済のウエートが下がった。植民地から独立し、自国の経済社会を自ら動かし管理するようになった。
周:1840年のアヘン戦争は象徴的な出来事だった。イギリスが中国から茶を輸入し、生活に取り入れた。しかしイギリスは中国に売るモノが無く、長期に亘り貿易赤字になった。貿易赤字解消のため、植民地のインドから麻薬のアヘンを中国へ密輸入した。中国政府がこれを取り締まると、艦隊を中国に送って攻撃したのがアヘン戦争だ。
経済力はあったものの、近代的な戦力を持っていなかった中国はその後急激に衰退した。新中国成立時は世界経済に占める中国のウエートは5%に落ちていた。
小島: 1991年、ソ連が崩壊し、日本はバブルが崩壊した。インドも経済危機に陥り、外貨準備を急激に失い、財政破綻状態になった。インドは、独立後ヨーロッパ的な制度を排除し、ソ連モデルを導入した。ところがソ連システムが合わなかった。ソ連崩壊を目の当たりにし、インド大蔵大臣のマンモハン・シンというオックスフォード大卒の優等生が、改革開放を始めた。
翌1992年、中国では鄧小平氏が南巡講話をし、改革開放に思い切りアクセルを踏んだ。中国のリーダーはWTO加盟に必要な条件を満たすため、国内の諸制度を変える決断をした。それを見た世界が、変わろうとする中国とインドにどんどん投資をし始めた。中国に対する投資が圧倒的に多かった。1990年代、世界から中国への直接投資年間合計額が、第二次大戦後のマーシャルプランでアメリカが援助した予算と同額か、それ以上だったとデータにある。優良な資本、技術が入り、10年で中国が世界の工場となった。
周:1992年には中国の世界経済に占めるウエートは最低の1.7%まで陥った。思い切った改革開放をしなければならなかった。
小島:ソ連崩壊は経済分野では歴史上劇的な出来事だった。経済の世界は、国と国が国境を厳しくし競争しているときは重商主義だ。全部自国で作り、売るマーケットが必要な為、商船隊が出る前に軍艦が動いたのが重商主義時代だ。文句があれば軍艦を使った。
そんなシナリオは第二次大戦後に終わり、自由貿易になった。直接投資は当初は大きくなかったものの、冷戦終結以降1991年を境に、世界経済のダイナミズムは国境を越えた直接投資になった。
アメリカは直接投資を出す方と、受け入れる両方だったが、中国はとにかく受け入れた。受け入れて生産能力と技術を輸入した結果、30年で中国は今のような「世界の工場」になり、輸出大国になり、貿易面で大発展した。
日本はバブルがはじけ、その間、国内投資はあまりせずに余分な金があると海外に投資した。日本国内はほとんどゼロ成長だったが、この30年間、中国、インド、ASEAN諸国その他アジア各国に投資をし、それを受け入れた国が発展した。ダイナミズムは直接投資だった。
周:中国、インド、ASEAN諸国の新工業化をもたらした最大の原動力は情報革命だ。私はこれをテーマに『メカトロニクス革命と新国際分業―現代世界経済におけるアジア工業化』と題した博士論文を書いた。ムーアの法則の駆動で、サプライチェーンが猛烈な勢いでグローバル的に展開した。さらに、は初めてのムーアの法則駆動型産業として、爆発的に成長した。それがアジアの新工業化につながった。もちろん直接投資は大きな役割を果たした。
■ アメリカの経済的「脅威」は日本から中国へ代わった
小島:ヨーロッパの歴史家が書いた『リオリエント』という本がある。アジアが再び新しい発展をし、新しい方向に行くという内容で、ヨーロッパ中心、西洋中心の世界史を、アジアを入れたものに変えていく必要があると述べて話題になった。
現在中国とアメリカで経済貿易摩擦が起こっている。私が現役で新聞を書いていた頃、アメリカにとって中国は問題の相手ではなかった。ニクソンの1972年訪中は、キッシンジャーが準備立てた。当時アメリカの発想はパワーポリティクスでソ連を牽制するため中国を友として応援し、バランスを取るために米中交流が始まった。軍事的脅威は唯一、ソ連だった。
周:米中の急接近は当時双方にとっても切実な事情があった。ゆえに一気にハイレベルの関係になった。私はハーバードのエズラ・ボーゲル教授にアメリカは当時の米中関係をどう位置づけたかを聞いた。ボーゲルは、キッシンジャーが準同盟関係と言っていたと答えた。
小島:その後経済の問題が1970年代後半からアメリカにとって重大になった。1971年は、ニクソンショックがあった。ニクソンがいきなりドルはもう金と交換しないとし、輸入課徴金を課し、また、日本の円や、ドイツのマルクを大幅に切り上げると一方的に言い始めた。アメリカの貿易が、構造的に赤字になってしまった。1970年代後半から1980年代に、日本と米国には大変多くの交渉が行われ、摩擦が酷くなった。思い出すのは1985年のプラザ合意だ。為替レートが急変動した。それを演出したのはアメリカだった。為替を大幅に動かして日本の対米輸出競争力にチェックをかけようとした。
アメリカは第二次大戦で、国土が戦場にならずに戦勝国になった唯一の国だ。ヨーロッパや日本やアジアがガタガタになった中、アメリカは産業力が完全に維持され、唯一の大製造業国家となった。貿易は圧倒的に黒字で、作るものは沢山あった。しかし売る相手がいないとして他国を援助しマーケットにした。
ところが、アメリカは1970年代初めに貿易が構造的に赤字になり、1980年代に貿易以外のものも赤字になりパニックになった。プラザ合意があった年、シカゴに外交評議会というニューヨークの外交評議会の姉妹組織が世論調査をした。現在のアメリカの脅威は何か、という世論調査だった。ソ連の軍事的脅威と日本の経済的脅威を並べ、どちらが一番アメリカで深刻な脅威かと聞いた。結果、日本からの経済的な脅威がトップになった。酷くなった日米摩擦を抑えようと為替レートなどで様々な交渉があった。日本との戦争が近いなどという本さえアメリカで出てきた時代だった。
周:1980年代のアメリカの日本への態度は、いまのアメリカの中国に対する態度とかなり似ているところがある。
小島:1985年、中国のアメリカに対する赤字はアメリカにとって全く問題なかった。もっぱら最大の赤字の対象は日本だった。摩擦が続き、プラザ合意の後は日本が不況になり、それに対応するために金融緩和しすぎてバブルが生じた。1991年にソ連崩壊があり、アメリカにとっての赤字の相手は中国になった。現時点で日本は脅威の対象から外れた。
■ 時代を読む力が運命を決める
小島:国の経済を分析し、政策を考えるときに自国だけで考える時代ではなくなった。歴史の流れの中で考える、あるいはグローバルな位置づけを考える。世界をどう見るかを織り込んで考える必要がある。
周:時代の変化に対応するには、時代を読む力が極めて重要だ。
小島:ドラッカーは2005年11月に95歳で亡くなった。同年の3月まで、クレアモント大学で教鞭をとっていた。生涯現役の教師だったドラッカーが1989年、80歳の時に書いた『新しい現実』という本がある。1989年出版時、まだ誰もその後ソ連が崩壊すると思ってなかったとき、ソ連が確実に崩壊過程にあるとドラッカーは断言していた。
出版社が、ヘンリー・キッシンジャーにブックレビューを頼んだ。ところが、キッシンジャーが断った。ソ連の崩壊はありえないと思ったのだろう。キッシンジャーによる書評が叶わなかったが、出版2年後の1991年にソ連崩壊が現実になった。
周:キッシンジャーですらドラッカーの時代を読む力に付いていけなかったエピソードだ(笑)。
小島:ドラッカーは一つの領域の専門家というよりは、トータルで人間社会を考え、人の価値観を考え、歴史を考える人だった。
初めて原稿を書いたのは20代半ば、本が出たのは29歳だ。当時ヒットラーが力を持ち、ヨーロッパ中がナチズムで蹂躙されていた。ドラッカーは「これはおかしい」と全体主義の研究をし、ヒトラーにインタビューした。全体主義について、イデオロギーが問題だと意識し、敵を倒した後は自分自身が矛盾により内部崩壊するとのロジックを基本とした本だ。
ドイツで見つかったら処刑されるので、原稿を持ってイギリスに逃げたものの良い仕事がなかった為3年後にアメリカに移民し、出版社を見つけ出版した本が今も読まれている。ウィンストン・チャーチルがこの本を絶賛し、イギリス首相になってから同書を、士官学校卒業のエリートに「これは人生で一番の本だから大事に読め」と毎年プレゼントした。
周:あの傲慢で知られるチャーチルが若きドラッカーをそこまで賞賛した。ドラッカーが偉大だったのは、政治的、制度的にファシズムやソ連の行き詰まりを予言しただけでなく、知識社会の到来も予言し、社会や組織、個人の知識社会への向き合い方を研究したことだ。
いま、ムーアの法則駆動時代への理解如何がまさしく国、企業そして個人の運命を左右する。
プロフィール
小島明(こじま あきら)/日本経済研究センター元会長
日本経済新聞社の経済部記者、ニューヨーク特派員・支局長、経済部編集委員兼論説委員、編集局次長兼国際第一部長、論説副主幹、取締役・論説主幹、常務取締役、専務取締役を経て、2004年に日本経済研究センター会長。
慶應義塾大学(大学院商学研究科)教授、政策研究大学院大学理事・客員教授などを歴任。日本記者クラブ賞、ボーン・上田記念国際記者賞を受賞。新聞協会賞を共同受賞。
現在、(一財)国際経済連携推進センター会長、(公財)本田財団理事・国際委員長、日本経済新聞社客員、(公財)イオンワンパーセントクラブ理事、(一財)地球産業文化研究所評議員
主な著書に『横顔の米国経済 建国の父たちの誤算』日本経済新聞社、『調整の時代 日米経済の新しい構造と変化』集英社、『グローバリゼーション 世界経済の統合と協調』中公新書、『日本の選択〈適者〉のモデルへ』NTT出版、『「日本経済」はどこへ行くのか 1 (危機の二〇年)』平凡社、『「日本経済」はどこへ行くのか 2 (再生へのシナリオ)』平凡社、『教養としてのドラッカー 「知の巨人」の思索の軌跡』東洋経済新報社。