【コラム】邱暁華:高度成長からハイクオリティ発展へシフトする中国経済


邱 暁華
マカオ都市大学経済研究所所長、中国国家統計局元局長、経済学博士


 改革開放以降、中国経済の持続的な高度成長によるキャッチアップぶりは世界中から注目を集めてきた。経済規模はイタリア、カナダ、フランス、イギリス、ドイツ、日本を相次いで超え、2010年にアメリカに次ぐ第2位となった。しかしここにきて中国経済をとりまく環境は大きく変化し、これまで高度成長を支えてきたものが、制約要因となって、中国経済の成長は鈍化している。中国経済はいま、ハイクオリティの発展へとギアチェンジする時期に来ている。

1. ハイクオリティ発展へとシフトする意義

 中国共産党第19回党大会が、「我が国経済はすでに高度成長の段階からハイクオリティ発展段階へとシフトしている。いままさに発展モデルをチェンジし、経済構造を高度化し、成長原動力を転換する大事な時期に来ている。現代化経済体系の建設は、この転換ポイントを乗り越える切実な要求であり、我が国発展の戦略目標である」 と提起した。この判断は、転換期にある中国経済にとっては重要な意味をもつ。

 改革開放40年、長きにわたる高度成長は人々の生活水準を大幅に向上させた。世界銀行の統計によると、中国の1人当たりGDPは1978年の僅か156米ドルから、2017年には8,826米ドルへと膨らんだ。

 しかし、粗放型の高度成長は、エネルギー浪費、汚染蔓延、格差拡大などの問題をもたらした。さらに、この間、労働力、環境資源、土地、資金、為替レートなどの要素コストも大幅に増大した。

 その意味では、借金漬けの成長、低コスト労働力への依存、資源とエネルギー消耗などの従来型成長は、すでに持続不可能となっている。

 中国経済を高度成長からハイクオリティ発展へシフトさせていくことが、重大な政策転換である。この転換は、中国経済の持続発展の要請によるものであり、今後長期にわたる発展戦略である。

2. 中国経済ハイクオリティ発展に関わる5つの要因

 ハイクオリティな発展には、まず考え方を変えなければならない。数量優先からクオリティ第一また効率優先へと考えを改め、産業構造の高度化、環境保護、社会の発展などを重視しなければならない。発展モデルも粗放型から集約型へ、要素投入型からイノベーション駆動型へと、外需主導から内需主導へ転換することである。そのために現在、中国経済のハイクオリティ発展に関わる以下5つの要因を見直すことが必要である。

 第一は人的資本である。中国の人口年齢構成の変化を見ると、高度成長を支えてきた人口ボーナスはなくなりつつある。中国国家統計局のデータによると、2012年〜2018年、中国の労働年齢人口とそれが総人口に占める比重はともに下がり続けた。結果、この7年間で、労働年齢人口は約2,600万人減少した。この現実を直視する必要がある。

 第二はイノベーションである。これまでの経済成長は、資源投入を中心とする粗放的なものであり、今後イノベーションを中心とするものにシフトしていかなければならない。

 第三は制度改革である。これまでの高度成長の中で、制度疲労も起こっている。制度改革が中国のさらなる発展にとって喫緊の課題となっている。

 第四は、対外開放である。対外開放はこれまで中国の発展に大きな役割を果たしてきた。今後も一層の開放が求められる。

 第五は、環境問題である。粗放型成長が凄まじいエネルギー消費と汚染とをもたらしている。大気汚染、水質汚染、土壌汚染などが極めて深刻である。こうした成長方式を根底から改めるべきである。

3. いかにしてハイクオリティ発展への移行を実現できるか

 高度成長からハイクオリティ発展への移行は、マクロ政策、地域政策、制度改革などにおいて、多大な努力を必要とする。具体的には、以下の7つが重点となる。

 第一は、マクロ経済環境の平穏さを保つこと。経済発展にとって最重要なことは経済環境の平穏さである。大きな起伏を避けることが前提条件となる。クオリティ優先は成長をやめてしまうことを意味しない。合理的な成長スピードが必要である。経済運営においては、安定した経済成長を保つことが肝要となる。

 第二は、人的資本の向上である。国連のデータによると2016年に中国の中等教育および大学教育への進学率は、それぞれ77%、48%であった。これは、世界の平均水準より高いものの、先進諸国と比べるとなお大きなギャップがある。例えば同年、アメリカの中等教育および大学進学率は、それぞれ95%、86%に達した。2012年以降、中国のGDPに占める財政性教育経費の比率は連続して4%を超えていた。ただし、アメリカの同7%と比較すると差は大きい。今後、教育への投入を強化し、あらゆるレベルの教育水準を向上させていかなければならない。

 第三は、イノベーション駆動成長である。イノベーションは、発展を牽引する第一原動力である。中国の人口ボーナスが下がり続ける中、イノベーションによる生産性の向上や資源環境問題の改善などが期待される。そのためには、基礎研究を重視すると同時に応用研究にも取り組み、人材育成にもっと力を入れなければならない。

 第四は、環境保護である。中国では2007年に、1万元当たりのエネルギー消費量は、0.6トン標準石炭になった。これは、改革開放初期と比べ77.2%も下がった。ただし、いま中国は世界最大の二酸化炭素排出国であり、単位GDP当たりの二酸化炭素排出量は日本の5倍、アメリカの3.3倍にも上る。そのため、環境重視の発展モデルと生活様式への転換を急がなければならない。

 第五は、地域の協調発展と郷村振興である。ともに豊かになることが社会主義の本質である。そのために、農村の土地制度改革、農業の現代化などを通じた農村振興を図るべきである。また、地域格差を是正するための努力も欠かせない。

 第六は、制度改革を加速することである。国有企業の改革、知財保護の強化、市場参入の緩和など時代に要請される制度改革を加速しなければならない。

 第七は、対外開放である。国際環境の要請に応じて、輸入を拡大し、貿易均衡を促し、輸出製品の高付加価値を図り、サービス貿易を育成することなどを通じて、さらなる対外開放を推し進めていくことが重要である。


プロフィール

邱 暁華(Qiu Xiaohua)

 1958年生まれ。アモイ大学卒業後、国家統計局で処長、司長、局長を歴任。その間、安徽省省長補佐、全国政治協商会議委員、全国青年連合会副主席、貨幣政策委員会委員などを務めた。現在、マカオ都市大学経済研究所所長。経済学博士。

 主な著書に、『中国的道路:我眼中的中国経済』(2000年、首都経済貿易大学出版社)、『中国経済新思考』(2008年、中国財政経済出版社)。

(『環境・社会・経済 中国都市ランキング 2018―大都市圏発展戦略』に収録

【コラム】岳修虎:中国都市化の変化と不変

岳 修虎

中国国家発展和改革委員会価格司司長


 改革開放40年、中国の都市化においては、都市化の本来の法則に沿った動きと、中国に特徴的な動きの双方がある。これからは、中国の特色よりは、都市化本来のメカニズムがより強く働いていくであろう。

1. 中国経済発展の相当部分は都市化から

 都市化は、経済社会発展における役割が極めて大きい。改革開放以来、経済発展の相当部分は、都市化の進展によるものである。例えば、農村労働力の移動がもたらした労働生産性の向上しかり、都市部における人口規模と密度との大幅な上昇による分業の細分化しかりで、これらが強大な成長力を産み出した。

 農村から都市へ移動した数億人口による生産方式の変化が、家庭および個人の生活方式を変え、考え方に影響を与え、さらに社会構造まで大きく変化させた。

 都市化は、都市と農村を二元化させた戸籍制度を弱めた。市場の力による労働力の流動が、都市と農村の関係を再定義した。

 中国の都市化は計画経済から市場経済体制への移行プロセスと並行して行われてきた。ゆえに、移行プロセスの各フェーズでの発展理念、戦略そして政策が、都市化に鮮明な歴史的軌跡を残した。

 先進諸国の経験からすると、中国の都市化率はまだ大きな上昇空間がある。多くの農村人口を抱えながら耕作地に伸び悩む中国では、農業技術の進歩が、農村人口の都市への移動をさらに後押しする。

 とはいえ、都市化水準は都市化率という指標に限らず、都市の発展のクオリティや都市住民の生活のクオリティを問うべきである。

2. アンチ都市化からメガロポリス推進へ政策大転換

  「都市の勝利」の根本的な要因は、過去においても将来においても、人口集積による規模の経済性にある。14億人口大国の都市化がもたらす国土空間構造の変化については、大きな想像力を必要とする。中国の都市にせよ、メガロポリスにせよ、その発育は、まだ「少年」段階である。

 戸籍制度、土地制度、社会保障制度の絶え間ない改革により、人、モノ、カネが、全国でより自由に流動することで、都市化はさらに巨大な威力となる。メガロポリスは珠江デルタ、長江デルタ、京津冀などの地域で成長し続け、中心都市、大都市、中小都市と郷村が共同で、複雑かつ巨大な都市システムを構成する。ますます多くの人口、産業とイノベーションが集積し、いくつもの「世界都市」を誕生させるだろう。便利になった交通と通信が、中心都市の圧力を一定程度弱めるものの、これは都市の吸引力を削減するものではない。却って中心都市の輻射力とその輻射半径はさらに拡大し、周辺の都市と融合した有機体へと成長するだろう。

 中国の政策は、小城鎮重視、大都市抑制の時代から、「メガロポリスを都市化の主要形態とする」時代へと移った。メガロポリスも政策的な定義から実態を持ったものになりつつある。都市化に関わる中国の政策のドラスティックな変化により、中国はアンチ都市化政策を改め、都市化の法則に従い、メガロポリス政策へと大転換した。

 メガロポリス時代のチャンスとチャレンジに向き合い、膨大な人口の生産、生活への要求を満足させ、安全かつ効率の良い文明的な社会を構築させるには、従来の制度と思考を超えた政策能力が必要となる。ゆえに今後、経済、社会、空間におけるマネジメント力をいかに向上させるかが、メガロポリスそして都市化の未来を左右する。

3. 人間本位の理念が都市間競争の鍵

 都市化の目的は、より大勢の人々に現代的生活を享受させることである。現在、中国で繰り広げられている都市間競争は、結局、“人”の競争である。

 ますます多くの都市が、人口戸籍制限を緩和し、若者を積極的に引き寄せる方向へと移行している。

 都市の意義は市民に良質な生産生活環境を提供することにある。そのために都市の計画、建設、管理に携わる者が人間本位の理念を抱き、大きな都市空間の構築にしろ、小さな生活エリアの再構築にしろ、すべて市民生活の利便性と人の幸福を前提とすべきである。

 これまでの長期にわたる経済成長への偏執が、多くの都市に、急進的な工業化による後遺症をもたらした。な計画や乱開発、生態環境の破壊や、生活環境の不備等々である。

 これに対して、従来の成長志向の考え方を改め、市民のニーズを満足させるために都市改造を行うべきである。

 都市が追い求めるのは、ネオンがきらめくことではなく、高層ビルが林立することでもなく、道路が広がることでもない。これらはすべて手段であり、真の目的は市民の幸せと心地よさである。これからの都市改造は、都市を、より便利かつ清潔で、緑が生い繁り、穏やかであるよう目指すべきである。

 ますます激化する都市間競争の中で、どのような人材を引き寄せるかが、都市の未来を決定づける。とりわけ、都市が求める価値理念、市民ニーズへの感知能力、制度を刷新する能力などをもつ人材を有するか否かにおける差異が、都市間競争の成敗を左右する

4.  「場所」の繁栄より、「人間」の開発を

 都市化の使命は変化している。これは工業化を軸にした経済成長を推し進めることから、社会構造、経済構造、国土空間構造における現代化へと向上していくことにほかならない。これまでの経済重視の都市化から、人間重視の都市化へとシフトしていくべきである。都市のあり方も、これまでの生産型都市から生活型都市へ、また、製造型の都市から創造型の都市へと変化させていかなければならない。

 都市間競争が都市間における格差を拡大させ、一部の都市は「衰退」に陥るだろう。ただし、これをネガティヴに捉えず、「場所」の繁栄にこだわるよりは、むしろ「人間」の開発と幸福に重きを置いていくことが必要である。

結びに

 都市間競争の中では、すべての都市は人々による“移動による”という試練を受ける。さらに多くの人々がメガシティやメガロポリスに集まっていくであろう。この趨勢を止めることはできない。このような動きは中国の国土空間のあり方を大きく変えることになる。

 問題は、いかにしてメガシティやメガロポリスにおけるマネジメント能力を高め、良質な都市空間と都市社会を構築するか、である。

 今後、中国の経済構造、社会構造、空間構造が大きく変わっていくであろう。これに対して都市化や、都市発展の目的は、人間本位であり続けるべきである。

 これが、中国都市化における変化と不変であってほしい。


プロフィール

岳 修虎(Yue Xiuhu)

 1973年生まれ。1997年中国人民大学卒業後、中国国家発展改革委員会発展計画司に入局。長期にわたり国家発展戦略の策定と中長期計画の編成に携わる。「第10次五カ年計画綱要」、「第11次五カ年計画綱要」、「第12次五カ年計画綱要」および、「全国主体効能区計画」、「国家新型都市化計画」などの研究編成に参加。2001-2002年に米国マサチューセッツ工科大学(MIT)客員研究員。中国国家発展改革委員会副処長、処長、副司長を経て2018年から現職。

(『環境・社会・経済 中国都市ランキング 2018―大都市圏発展戦略』に収録

【コラム】横山禎徳:都市のアメニティ

横山 禎徳

県立広島大学経営専門職大学院経営管理研究科研究科長、東京大学総長室アドバイザー、マッキンゼー元東京支社長


 都市の始まりを考えてみる。まず、最初に、人々が行きかう道があった。そして、すぐに2つの道が交差することが起こったに違いない。その交差点では、多くの人々が立ち止まったり、一息入れたりしただろう。そして人々が出会う。お互い知っているどうしだけではなく、これまで知らなかった人たちと出会うことも起こる。自然にモノのやり取り、交換を始めたであろう。それが相対の取引からから数人の取引に広がっていったに違いない。

 そのようにして、モノのやり取りだけでなく、世間の出来事を語り、人の噂話をし、自分たちの足しになる情報のやり取りをするようになった。便利な場所という噂は広がり、だんだんとやり取りをするグループが広がっていったであろう。そして、そこが市場になったのは自然の成り行きだ。その四つ辻には商売をする人、食事を提供する人、宿を提供する人、そして、賑わいに惹かれて何となく集まってくる人々ができてくる。そう、それが都市の始まりである。すなわち、都市の原初的形態は出会いと交易の場である。日本語の市(いち)とは道の交差するところというのが語源らしい。ちなみにフランスの大手スーパーマーケットである、カルフール(Carrefour)は十字路という意味である。まさに四つ辻なのだ。

 そうやって街並みがだんだんと出来上がってくる。そして、農業や、漁業も交易も直接やらないで、そういう人たち相手に商売をするまちびと、都市生活者がだんだんと増えてくる。その人たちは、経済力もついてきて、都市だけが提供できる便利さを求め、それに十分な対価を払うようになる。そうやって段々と都市らしい生活とそれを支える規律、価値観、センス、美意識が形成されてきた。そういう過程を経て現代の都市が出来上がったのである。

 そうしたかたちで出来上がってきた都市の文脈を考えると、住みやすく(リバブル)、衰退することなく長く繁栄する(サステイナブル)という要素は絶対に譲れない基本である。また、多くの都市と都市は交換、交易を通じてだけでなく、都市機能や役割の分担など、お互いに依存をしているだけでなく、都市とそこに交易のための品物、多くは農水産物を持って集まってくる人たちの多くが住んでいる周辺地域との関係も大事であり、相互依存(サポーティブ)という要素も重要だ。

 シルクロードを例にとってみよう。大陸の遊牧民の歴史を専門にする学者は、実は日本に多いのだが、彼等が主張しているのは、シルクロードは、実はシルクネットワークであるという事実である。中国の長安を出発したラクダの隊商が中東へ向かって砂漠をとぼとぼと歩いている姿を、なんとなく子供のころ見た記憶があるが、実態はそうでもなかったらしい。

 中央アジアは南側には砂漠もあるが、北側の大半は草原であり、草原には最初に説明したような経緯で出来上がったたくさんの交易都市が存在していた。そこには多くの人たちが住み、いろいろなものを売る店やものを作る職人がいて、仕立て屋、床屋、運び屋、食事処、宿屋などの仕事をし、消費をする。すなわち都市生活をしていたのである。隊商も中国から中東までの長旅をしたわけでもなく、交易用の商品である絹や銀器などをもって、そのような都市の間を移動していただけであった。すなわち、中央アジアの諸都市の起源もほかの都市と同じように交易の場であった。

 そういう過程で出来上がった都市生活者という集団は都市だけに期待されるもの、すなわち、都市のアメニティを享受したいという期待値は大きいはずだ。しかし、そのような都市のアメニティは必ずしも数字にならない、すなわち、定量化できないものが多くある。例えば、ニューヨークでいうポケットパークとか東京の公開空地など、あるいは建物の周りの緑の多さ、そのデザインの質、道路の幅、歩道の広さ、その舗装の質、夏の暑さを避ける日陰の配置や冬の寒い風を避ける風よけ、一休みするベンチなどのストリート・ファニチャーの豊富さ、街路や広場での騒音の少なさ、また、公衆トイレの利便性、安全性、清潔性、そして、何よりも、どこをどの時間帯に歩いても身の危険を感じない安心感などである。

 また、現代の都市においては交通事故の少なさ、特に歩行者が車に対する身の危険を感じることなく、安心して動き回れることも大事である。それは目に見えない形、すなわち、飲酒運転の厳しい規制でも達成できることは、数年前の日本での規制強化とその後の交通事故死の大幅な減少でも見て取れる。しかし、目に見える形である都市デザインという形でも達成可能である。アメリカの有名なランドスケープ・アーキテクトであったローレンス・ハルプリンがデザインしたミネアポリスのニコレット・モールは、車を主とし、人間を従に扱いがちの都市内道路を、美的にも心地よい形で人間を主に逆転してみせたことは画期的であった。

 彼は歩道を広くし車道を狭くしただけでなく、その車道を波状にくねらせたのである。このデザインの成功によってその後も、車にとっては、スピードを上げられない、そこを通ることはあまり便利でないと感じさせ、広くなった歩道には色々のストリート・ファーニチャーを配置し、時折、そこでイベントを開催したりするなど人が集まりやすい街路空間のデザインが広がっていった。このような街路空間の展開というデザインの質はなかなか数値化することが難しい。

 また、バスは鉄道と違ってライト・オブ・ウェー(通行権のある道路)が他の多様な自動車用の道路に重なって存在しているため、その混雑状況によっては「いつ来るかわからない」、「いつ着くかわからない」、「どこを通るかわからない」など乗客の不便があることは都市のアメニティの観点からは大きな問題である。それだけでなく、バスが停留所に止まる際、車道に止まっているために起こる他の自動車交通の妨げも問題であり、停留所には歩道にバスが停車できる切込みをつけることも都市のアメニティの1つである。

 これまで述べてきたように、都市の主要な評価指標であるサステイナブルとサポーティブに関する項目は数値化、定量化しやすいし、それをもとに達成目標を明確にすることや、他の都市との比較が可能である。しかし、都市が住みやすい(リバブル)ことを構成する要素は数値化できるものだけでは十分ではなく、アメニティのように数値化できにくいものが多い。特に美観などはかなり主観的な要素が含まれていることもあり、定性的な評価基準も難しいし、皆が妥当と思う評価者を確保することもそう簡単ではない。なぜならば、グローバリゼーションという流れの補完的考え方として、ヴァーナキュラー、すなわち、その土地、地域の気候や、文化風土、そして歴史を組み込んだうえでの住みやすさを評価しないといけないからだ。

 このような定性的評価基準はどのようにつくりあげていったらいいだろうか。1つの考え方は、電柱電線の埋設のように美観だけでなく、自然災害時の安全性に関してはどの地域の都市であるかに関係ない普遍性のある要素から地域特有の美意識の要素までの広がりを3つのカテゴリーに分けて捉えることから始めるのがいいだろう。最初から完璧にはいかないが、時間をかけて組み立てていくことをやれば急速に評価の妥当性は改善していくであろう。

 都市のアメニティで問題になるのは、あったほうがいいが絶対に必要とは言えないものも含まれていることだろう。例えば、東京も含めて日本中の都市には幹線道路を除いて電柱電線があふれている。多くの日本の都市住民は目が慣れてしまって気に留めないようであり、埋設のペースは遅い。1920年ごろ、東京市は九段坂の電線埋設に苦労し、発展途上国の日本にはぜいたくだとあきらめたと聞いている。

 そういうフェーズは終わった現在の日本においても、電柱電線の埋設を推進しようという動きはそれほど大きくない。誰がその資金を出すのか、その見返りはあるのかが相変わらずはっきりしないのだ。電力会社や通信会社が動き出すことは期待できない。彼らは投資に対するリターンがないため株主を説得できないという言い訳ができるのだ。国や地方自治体にとっても、高齢者対策や医療制度の充実に比べると優先順位は高くないという判断だ。

 しかし、都市のアメニティは都市生活者自身の意見が反映されるべきであろう。都市のアメニティ評価の妥当性の検証と改善のプロセスに、市の行政官や学者などの専門家だけでなく、市民も参加してはどうだろうか。つまるところ、都市のアメニティとは市民の大きな関心事である。単に受け身の都市生活者から能動的都市生活者に変わるきっかけにもなるだけでなく、長期的には誰の目にも魅力的な都市をつくり上げていくことに貢献するであろう。


(『環境・社会・経済 中国都市ランキング 2018―大都市圏発展戦略』に収録


プロフィール

横山 禎徳 (よこやま よしのり)

 1942年生まれ。東京大学工学部建築学科卒業、ハーバード大学デザイン大学院修了、マサチューセッツ工科大学経営大学院修了。前川國男建築設計事務所を経て、1975年マッキンゼー・アンド・カンパニーに入社し、同社東京支社長を歴任。経済産業研究所上席研究員、産業再生機構非常勤監査役、福島第一原発事故国会調査委員等を歴任し、2017年より現職。

 主な著書に『アメリカと比べない日本』(ファーストプレス)、『「豊かなる衰退」と日本の戦略』(ダイヤモンド社)、『マッキンゼー 合従連衡戦略』(共著、東洋経済新報社)、『成長創出革命』(ダイヤモンド社)、『コーポレートアーキテクチャー』(共著、ダイヤモンド社)、『企業変身願望−Corporate Metamorphosis Design』(NTT出版)。その他、企業戦略、 組織デザイン、ファイナンス、戦略的提携、企業変革、社会システムデザインに関する小論文記事多数。

【コラム】矢作弘:変容する縮小都市の「かたち」


矢作 弘
龍谷大学研究フェロー


 都市の「かたち」は時間の積層である。すなわち、時代の変化を反映して変容を重ねる。ここで「かたち」は、可視的、建築的な意味にとどまらず、人々の働き方/暮らし方を含む都市総体を意味して使っている。そして縮小都市(Shrinking City)も、20世紀末から21世紀を迎えてまでのこの間、その「かたち」を変えてきた。

 都市学が縮小都市に注目し、国際会議が果敢に開催され、関連の書物が相次いで出版されるようになったのは、1990年代半ば以降だ。2005、2006年に、著書 Shrinking Citiesの2分冊が出版された。それぞれ700ページ、800ページある分厚い著作だ。ドイツ連邦文化財団が主催した編集グループが尽力し、社会科学/自然科学/人文学の研究者、ジャーナリスト、官僚、建築家/都市計画家、アーティスト、市民運動家・・・など多彩な職業の人々が寄稿者になった。それもドイツに限らず、アメリカ、そしてアジアからも寄稿者が集められた。縮小都市研究の決定版である。

 多分野から広く寄稿者を集めたことには、次の事情があった。都市縮小には、幾つもの時代状況が影響しており、当然、縮小の「かたち」も多様で複雑だった。それゆえ、多彩な執筆に寄稿を依頼し、結果的に分厚い2分冊になった。当該書は、なぜ都市が縮小するのか——その時代背景、どのように縮小しているか——その現状、をつまびらかにする、というミッションを掲げて編集作業に着手した。一般的に縮小都市は、ある一定規模以上の都市が、社会的、あるいは自然的人口動態で厳しい人口の減少を経験し、都市構造が経済的、社会的に危機的状況に直面している都市、と定義されている。

 

 では、都市が縮小する背景として、どのような時代の変化が指摘されたのか。

 まず、脱工業化である。産業革命以来、資本主義経済を牽引して来た製造業都市が20世紀後半に失墜した。煤煙工場が並ぶ重厚長大型産業が凋落し、高付加価値産業、および情報依存の軽薄短小型産業が主流になった。この流れにグローバリズムが追い討ちをかけた。工場が、そして労働集約的な雇用機会がヨーロッパ、アメリカ、そして日本などから途上国に流出した。煙突から煙が消え、工場や倉庫は閉鎖され、跡地にセイタカアワダチソウが繁茂する風景が広がった。仕事がなくなり、雇用者が減った。そして都市人口全体もマイナスに転落した。この範疇の縮小都市には、ドイツ・ルール地方の製鉄業都市、アメリカ中西部の自動車/製鉄業都市、および東海岸の石油化学/製鉄業都市などが含まれる。半世紀に人口を半減させた都市もあった。同じ時期にエネルギー革命が進行し、鉱業(石炭)が衰退を経験した。日本では、北九州市、およびその背後の筑豊地域の都市がこの範疇に入る。

 20世紀後半以降、新自由主義が喝采され、都市間競争が奨励されてきた。その結果、資金と有意な人材の集積に成功し、ハイテククラスターの形成に成功したスーパースタート都市が独り勝ち(Winner−take−all)するようになった。それ以外の都市は、スーパースター都市に労働人口を吸い取られ、人口がマイナスに転じる一因になった。

 

 「ベルリンの壁」が1989年に崩落した。それ以降、雪崩のごとくに東ヨーロッパの国々で社会主義政権が潰れた。旧東ドイツでは、国境がなくなったため、仕事と自由な社会/文化を求めて若者を中心に旧西ドイツ側に大量の移住者が出た。効率の悪い国営企業が相次いで破綻したことも、西側移住を加速した。一時期、ベルリン以外の旧東ドイツ都市は、例外なく縮小都市に転落した。その結果、20世紀末には、旧東ドイツ側に100万戸の空き住宅ができた、といわれている。その後、東ヨーロッパの国々が相次いでEU(欧州連合)に加盟した。「域内移動の自由」を認められ、これらの国々から西ヨーロッパへの大量移住がおきた。

 都市の縮小には、少子化の影響もある。豊かになると世帯当たりの子供の数が減少する傾向にある。子育て、特に子供に高等教育の機会を与えたい、と考える中間所得階層は、子育てでも「少数精鋭主義」に走る。出生率が2.1人を下回ると人口がマイナスに転じるが(社会的な人口動態を考えない)、先進諸国の多くがその水準を下回っている。韓国や台湾なども、厳しい状況に直面している。雇用構造が変化し、不安定雇用が増えているために、若者が将来不安を抱え、結婚を躊躇していることが少子化につながっている、という指摘もある。また、地球環境の汚染や多発するテロルなどのニュースに「漠とした将来不安を抱き」、家庭をもつ、あるいは子供を産む、という決心を出来ずにいる、という若者の話も聞く。


 以上が21世紀を迎えて以降、2010年ごろまでの縮小都市の「かたち」であった。それぞれの要因は個別にではなく、しばしば重なって縮小が加速した。しかし、この10年ほどの間に、幾つかの縮小都市をめぐる時代状況に大きな変化がおきている。したがってその「かたち」もそれ以前とは変容している。

 この間、貧困と飢餓のために凄まじい数の難民が生まれた。内戦、そして国境を越える戦乱が故郷から弱者を追い出し、難民にした。アフリカ、そして中東イスラム圏からの難民は、その過半がヨーロッパに漂着した。西ヨーロッパの国々が「人道支援」の旗を掲げて難民を受け入れた。その多くは、依然、難民キャンプで厳しい生活を強いられているが、親類縁者を頼って都市のそれぞれの移民コミュニティに暮らしの場を作った人々も多くいる。そこで満足な所得を稼げる仕事に就けているかどうかは別の話だが、難民を多く受け入れた都市は、人口減少という縮退傾向に変化がおき、新たな都市問題に直面している。

 アメリカの縮小都市も、その「かたち」を変えている。中西部のデトロイトやクリーブランドは、自動車産業で繁栄したが、その人口は1950年代にピークに達し、以降、右肩下がりで人口を減らし、半世紀の間に人口が半減した。ところが昨今の人口動態は下げ止まりだ。セントルイス、ロチェスター、バッファローなどの旧産業都市でも同じような傾向にある。東海岸のフィラデルフィアは、人口動態が反転し、プラスに転じた。


 なぜ、そうしたことがおきているのか。その背景には、「腐っても鯛」ということがある。換言すれば、「歴史的遺産を活かす都市再生」だ。これらの産業都市は、19世紀末から20世紀初期に勃興し、アメリカ資本主義を先導してきた。その間に巨万の資本蓄積が行われ、その余剰資本は大学の創立/支援、総合病院の設立、美術館や音楽ホール、そしてオーケストラの結成など文化投資に向かった。すなわち、それらが今日、都市再生を促す「歴史的遺産」になっている。


 ワシントン大学(セントルイス)、ビッツバーグ大学(ピッツバーグ)、ペンシルバニア大学(フィラデルフィア)、ロチェスター大学(ロチェスター)、ジョンズ・ホプキンス大学(ボルチモア)などは、アメリカでもトップクラスにランクされる大学だ。それぞれに医学部と附属病院がある。クリーブランドクリニック(クリーブランド)、メイヨークリニック(ロチェスター)は、先端的な、研究・医療の総合病院だ。エンジニアリングでも、カーネギーメロン大学(ピッツバーグ)などの優良大学が多くある。

 生命科学の時代、そしてニューエンジニアリングの時代を迎え、これらの歴史的遺産がシナジー効果を発揮し、それが縮小都市の再生につながっている。

 事例=クリーブランド:20世紀初期の、全盛期に建てられたアールデコやモダニズム建築のオフィスビルが並ぶダウンタウンから車で20分弱のところに、ユニバーシティ・サークルがある。深い緑陰に囲まれた学術文化地区である。そこにクリーブランド・クリニックス、ユニバーシティ・ホスピタル、子供総合病院、退役軍人病院、癌研究センターなど一大医学医療クラスターが形成されている。隣接してエンジニアリングの強いケース・ウエスタン・リザーブ大学、音楽大学、美術大学が立地している。クリーブランド美術館、老舗のクリーブランド管弦楽団はアメリカでもトップクラスである。
 ユニバーシティ・サークル全体がAMC(Academic Medical Complex=先端治療医学複合体)になっている。クリニックは医学大学院を併設し、最先端の生命科学研究、医療で実績を重ねている。ほかの病院と連携がある。それだけではなく医療機器開発では、病院と大学工学部が協働し、精神科の医療、および研究では病院と美術大学、音楽大学が連携している。病院経営をめぐっては大学のビジネススクールが医療経営学、医療経済学の講座を用意している。クリーブランドは縮小都市を経験し、市内に空き建物が散在する。クリニックがそれらの建物を買い上げて修復し、病院や大学をスピンオフする若い研究者に安い家賃で貸し出し、研究を支援している。そうやってライフサイエンス研究のクラスターが高度化している。

 中西部や東海岸の縮小都市でも、クリーブランドと同じようにAMCの構築が進行している。そしてAMCの形成をめぐって厳しい都市間競争がある。それがまた、AMCの高度化を促している。こうした歴史的遺産をめぐる縮小都市再生の話題は、AMCに限らず、ニューエンジニアリングの分野でも拾い上げることができる。

 新型コロナウイルス感染症が爆発し、アメリカ、ヨーロッパの都市も大きな影響を受けた。コロナ禍が縮小都市の将来にどのような影響を残すか、それを見定めるのは、まだ難しい。アメリカでは、ニューヨークの打撃が大きかった。そのため「高密度」な「スーパースター都市の終焉」論が聞かれた。しかし、ニューヨークと並び、「高密度」なサンフランシスコは、少なくとも第一波を軽微に終えることができた。結局、都市政府が、そして市民が、早く(速く)、どのように「行動」したのか、その違いが被害の大きさを決定づけた。「高密度な都市」イコール「感染症に脆弱」という議論は短絡である、という批判を免れないと思う。

 しかし、少なくとも「ウィズコロナの時期」には、「高密度」な都市は嫌われ、テレワークも進展する。コロナ禍の最中には、ニューヨークの中間所得階層以上が暮らすコミュニティでは、40%以上が郊外都市や山岳地帯の都市に逃げ出し、そこからテレワークをして悪化する状況を凌いだといわれている。そうしたことを踏まえ、ここしばらくはスーパースター都市からの人口流出が続く、という見方が有力だ。その行き先は、郊外都市に加えて都市再生のプロセスに入った縮小都市が候補に挙げられている。いずれも100万人以下の中規模都市だ。それほど「高密度」ではないが、「腐っても鯛」——文化的、学術的環境が整い、また老舗レストランやカフェなど都市アメニティにも恵まれているからだ。縮小都市がこの流れを「ポストコロナの時代」にも継続することができるか——それはもっぱら、それぞれの都市政府がどのような都市政略を打ち出すかにかかっている。


プロフィール

矢作 弘 (やはぎ ひろし)

 1947年東京生まれ。1971年横浜市立大学卒、日本経済新聞ロサンゼルス支局長、編集委員、オハイオ州立大学/ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス客員研究員、大阪市立大学大学院創造都市研究科教授などを経て、龍谷大学政策学部教授を歴任し、2019年より現職。社会環境科学博士。

 近著に、『町並み保存運動 in U.S.A.』(学芸出版社)、『ロサンゼルス』(中公新書)、『大型店とまちづくり』(岩波新書)、『都市縮小の時代』(角川新書)、『縮小都市の挑戦』(岩波新書)、『持続可能な都市』(共著、岩波書店)、『トリノの奇跡』(共著、藤原書店)、『ダウンサイジング・オブ・アメリカ』(ニューヨークタイムズ編著・翻訳、日経BPM)。

(『環境・社会・経済 中国都市ランキング 2018―大都市圏発展戦略』に収録

【コラム】森本章倫:スマートシェアリングシティの構築に向けて

森本 章倫

早稲田大学教授、博士(工学)


1. 未来の都市モデル

 国連(UN)によると、2019年の世界人口は約77億人であり、2050年には97億人に達する。また、都市居住人口の割合も増加を続け、現在は約半数の55%であるが、2050年には68%となり全体の3分の2に達すると予測されている。今後、世界の多くの都市が過密化や肥大化による問題に悩まされ続ける。一方で、出生率が低下し、少子高齢化により人口減少が進み、都市規模の縮退を余儀なくされている都市もある。

 世界規模での人口分布の急激な再編に対処するためには、それを支える都市自体も未来を予見し、成長と衰退への対応が不可欠である。都市計画の視点でも、様々な持続可能な都市モデルが提案されている。代表的なものとして、無秩序な郊外開発を抑制し、中心市街地の活性化を図りつつ、公共交通を活用した持続可能な都市として「コンパクトシティ」が提唱されている。コンパクトシティでは、公共交通を中心とした開発を意味するTOD(Transit Oriented Development)が拠点を形成し、次世代型路面電車システムLRT(Light Rail Transit)や自動運転車によってその拠点のネットワーク化を図る。また、近年では情報通信技術(ICT)を活用した都市モデルとして「スマートシティ」が世界各地で出現している。スマートシティでは、モノのインターネットIoT (Internet of Things)や人工知能AIなどの先端技術を用いた各種サービス提供や効率化によって、環境や生活、交通など様々な都市問題の解決を目指している。

 前者はフィジカル空間における都市空間の再構築を主眼として、後者はサイバー空間を対象としたサービスの連携と効率化を目指している。どちらも持続可能な社会の構築を目的としているが、各都市モデルが部分的な最適化を目指すと、トレードオフの状況になるケースも見られる。例えば、スマートフォンの利用拡大はUberやLyftといったTNC(Transportation Network Companies)を誕生させ、自動車の相乗りサービス(ライドシェア)が急速に普及した。利用者の利便性は確かに向上したが、その影響によって道路の交通量が増加し、渋滞を悪化させ、地下鉄などの公共交通の利用者が減少する現象が世界各地の大都市で生じた。さらに、Uber/Lyftがカープールサービス(目的地が同じ複数人を乗せる「相乗りサービス」)を開始(2014年)したことで、サンフランシスコの駅徒歩5分以下の不動産価値が相対的に低下したと報告された。ICTの活用により、駅から離れた土地のモビリティが向上する一方で、駅を中心とした街づくり(TOD)に対してブレーキをかけたことになる。


2. コンパクトシティとスマートシティの融合

 コンパクトシティとスマートシティを上手に連携させるためには、その両者の関係を把握し、マネジメントする仕組みが必要となる。ここではフィジカル空間とサイバー空間の両者を融合するためのフレームを提案したい(図1参照)。

図1 コンパクトシティとスマートシティの連携

 まずはフィジカル空間において、コンパクト化の計画である立地適正化計画と、ネットワーク化を進める公共交通網形成計画の両者の融合を図ることから始める。土地利用と交通の将来計画を法的に定め、未来の都市像の共有化を市民合意の上で進めることが肝要である。またサイバー空間における各種情報の統合を図ることも重要である。交通分野においては、自家用車以外のLRTなど多様な交通機関の利用を統合化して、移動(モビリティ)を1つのサービスとして扱うMaaS (Mobility as a Service)の構築がその一例である。また、エネルギー分野では、電力の流れを供給・需要の両側から制御し、最適化できる送電網としてスマートグリッドなどが挙げられる。

 次にフィジカル空間での各種事業と、サイバー空間でのプロジェクトの両者の進行管理(PDCA)をするマネジメントフレームを構築する必要がある。フィジカル空間は数年から十年単位の中長期で変動するのに対して、サイバー空間ではリアルタイムから数日単位で短期的に変動する。短期的な動きを見極めつつ、長期的なフィジカルプランへ反映するためのマネジメント組織が必要となる。行政的な公益性を担保しつつ、民間事業の効率性や収益性を高める組織体が全体を調整する役割を担う。最後はこれらを包括する政策統合フレームである。ここでのキーワードは、科学的根拠に基づく政策立案を意味するEBPM(Evidence-based policy making)にある。これらの4つのフレームは互いに独立して存在するのではなく、相互依存の関係にあるため、総合的に組み立てていく必要がある(図2参照)。

図2 コンパクトシティとスマートシティの統合フレーム

3. スマートシェアリングシティ

 コンパクトシティとスマートシティの融合を深めるためには、概念的にも両者の関係を整理したうえで、双方をつなげる新しい都市モデルを提示する必要がある。コンパクトシティとスマートシティの特徴を対象、視認性、原理、手法で比較すると図6-3のように整理できる。

 コンパクトシティは空間を対象としているため可視化が可能で、主として行政的な計画手法を用いて、拠点となる市街地を形成するのに対して、スマートシティは情報を対象としているので見ることが困難で、IoTの先端技術の活用によって実現する。最も異なる特徴は、前者は空間の集約や縮退を基本原理としているのに対して、後者は情報の連携、拡張を原理としている。そのため情報の拡張が、空間の縮退を妨げることもあり得る。そこで、それを調整する役目として、賢いシェア(Smart Share)という概念が必要となる。このスマートシェアを念頭に置いた新しい都市モデルでは、人や社会の活動を態度変容やマネジメントによって適正化(中庸)することに主眼を置く。

 このような都市モデルを「スマートシェアリングシティ(Smart Sharing City)」という。スマートシェアリングシティとは、「持続可能な社会を実現するために、稼働していない資産を効率的に共同利用している都市」を示す。スマートシェアリングシティでは、個人の便益が増加するだけでなく、社会の便益も一緒に増加する。目指すべき目標は、個人(または団体)が得られる便益をシェアリングによって高めつつ、社会が得られる便益も最大化することにある。

図3 都市モデルの特徴と比較

 

図4 スマートシェアリングシティの交通体系

4. スマートシェアリングシティの交通体系

 どんなに都市をコンパクト化しても、都心部に居住して毎日マイカーで生活していては、渋滞はなくならない。情報技術がライドシェアを実現しても、移動手段が公共交通から車にシフトしただけでは、渋滞は悪化してしまう。重要なのは各個人の行動パターンにある。「足るを知る」という老子の格言は、人々に節制を強要しているのではなく、「満足することを知る人間は豊かである」と説いている。個人の便益をシェアリングによって追求するなかで、社会にとっても便益が増加することが望ましい姿である。

 公共交通は多くの利用者が移動空間をシェアリングすることで成り立っている。個人の利用が公共交通システムを支えているといってもよい。需要密度が高い場合は鉄道や地下鉄の持続的な運行を可能とし、中くらいならバス、少なければデマンド交通やタクシーといった具合に適切な交通機関が異なる。鉄道は大量輸送が可能であるが、決められた駅間の移動しかできない。デマンド交通やタクシーは、輸送量は少ないが柔軟なニーズに対応できる。

 都市には様々な都市交通が存在し、それぞれ相互依存の関係にある。各交通機関の特性や役割を考慮すると、その適切な関係は図6-4のようになる。都市間を高速に移動する交通から、地区内を低速に移動する交通まで、本来の都市交通は階層性を有している。個別交通では高速道路から生活道路までの道路ネットワークを上手にシェアすることで円滑な移動を実現する。公共交通では多くの人が移動空間をシェアする鉄道から、個別のニーズに合わせたタクシーまでが相互に連携をとっている。自動運転技術の導入はこれからの階層性を壊すことなく、既存の交通機関と連携をとりながら普及することが肝要である。
 このように都市空間を上手にシェアする仕組みをつくり、その円滑化や効率性を情報技術が支えていく。無理のない範囲で上手に空間をシェアすることは自分のためでもあるし、それが社会全体のためにもなる。未来の都市像を描いて、人々の日々の生活を豊かにしながら、緩やかにその実現を目指すための仕掛けが大切である


(『環境・社会・経済 中国都市ランキング 2018―大都市圏発展戦略』に収録


プロフィール

森本 章倫 (もりもと あきのり)

 1964年生まれ。早稲田大学大学院卒業後、 早稲田大学助手、宇都宮大学助手、助教授、教授、マサチューセッツ工科大学(MIT)研究員などを経て、2014年より早稲田大学教授。現在、日本都市計画学会副会長、 日本交通政策研究会常務理事なども務める。博士(工学)、技術士(建設部門)。

【コラム】張仲梁:集中化かそれとも分散化か?

張 仲梁

中国国家統計局社会科学技術文化産業司司長


 田園都市運動の創始者、エベネザー・ハワード氏は1898年にある予言をした。それは、当時660万居住民を抱えていた英国ロンドンの人口が20%にまで縮小し、残りの80%がロンドン郊外のニュータウンに移住するというものであった。
 予言は予言に帰し、現実は現実に帰する。ロンドン人口はハワードが述べたような軌跡を辿らずに増大の一途を辿り、1939年には860万人へと膨れ上がった。
 人口の持続的な増大の一方で、「都市病」は日増しに悪化し、これに対応するため、イギリス政府は1940年、ロンドン市人口問題を預かる「パル委員会」による「パル報告」を発表、ロンドン中心地区の工業および人口の分散を主張した。イギリス政府は1946年、「新都市法」を発布し、ロンドン周辺で8つのニューシティ建設を主体とする新都市運動を立ち上げた。50年間の人口の流出を経て1988年に、ロンドンの人口はついに637万人になった。
 何事もメリット、デメリットの両面性を持つものだ。新都市運動はロンドンを過密から「解放」したと同時に、「衰退」もさせた。「衰退」はロンドンにとって不都合であった。ロンドンは新都市運動を終結させ、復興運動を起こした。これは当然の帰結であろう。新都市運動は都市人口を分散させるのに対して、復興運動は人口の都市への回帰を促し、都市の活力を増大させた。人口データがこの効果を示している。2015年末になって、ロンドンの人口は854万人に達し、さらに、これを通勤圏人口規模にすると1,031万人に上った。

 コースは違っても行きつく先は同じである。
 ニューヨークでも私たちはこれに似た状況を見ることができる。
 過去100年間、ニューヨークの人口は3つの段階を経てきた。まず、人口が穏やかに増えた第一段階である。人口と経済活動は持続的に集積され、1950年には789万人まで膨張した。次は、人口増が人口減へと転換した第2段階である。「都市病」の激化に伴い、都市機能拡散計画が実施され、人口は周辺都市へ移動した。1980年には707万人まで人口は縮小した。1980年代を起点とする第3段階では、都市計画の見直しと産業の高度化により、人口が回帰し、2015年には855万人にまで増えた。ニューヨーク大都市圏の人口規模から見ると、1950年はすでに1,000万人を超えており、今日はさらに1,859万人に達した。
 東京も似たような葛藤を経験した。
 第二次世界大戦後、日本は都市化がハイスピードで進んだ。大量の農村人口が大都市、特に東京へ集中した。東京都内の人口は1965年に889万人になった。1960年代、蔓延し続ける「都市病」に対応し、東京の「過密」問題を解消するために多摩ニュータウン、港北ニュータウン、千葉ニュータウン、さらには筑波学園都市などの新都市が、東京周辺地域に次々とつくられ、製造業の地方移転と人口の郊外居住化が同時に進んだ。1995年になって、東京都の人口は797万人まで減った。
 1990年代中後期、人口の郊外居住化が終焉を迎え、「都心回帰」が始まった。都市再生計画の実施や都市インフラの整備により、東京都市部の人口は再び増大した。2015年、東京都の人口は1,353万人を超え、東京大都市圏の人口規模は3,800万人に達した。

 ハワードの予言に戻る。
 都市圏の視点からすると、大都市人口と経済活動の中心部への集中・集約が「集中化(Centralization)」であり、周辺地域への分散を「分散化(De centralization)」と称するなら、ハワードの予言は「分散化」志向であった。
 しかし、世界の都市の進化の過程で明らかになったのは、集中化と分散化は実際には、都市の進化の表裏であり、時には集中化は分散化を圧倒し、時には集中化はまた分散化に圧倒される。また時には双方伯仲し強弱つけ難い状況になる。しかし、総じて集中化の力がより強い。
 事実上、ロンドン、ニューヨーク、東京などのメガシティでは、ほとんど集中化から分散化に進み、再び集中化に戻ってくる過程を辿った。
 都市は集積効果によって発展し、集中化の現象が起こる。しかしその人口と経済活動の集積がある「極限」に達すると、「規模の不経済性」が芽を出し、分散化の力量が働く。
 その結果、人口と経済活動は周辺地域へ移り始める。
 しかしながら、分散化が起こる時、往々にして集中化のパワーはなりを潜める。一定の時期が過ぎて、集中化の力は再び分散化を圧倒し、さらに新しい集積を引き寄せる。
 集中化と分散化の増減の背後には「効率」がある。効率を決定づけるのは交通インフラ水準であり、技術水準であり、都市の智力水準である。
 交通インフラ水準を整備し、技術水準と都市の智力水準が向上すると、集積に対する都市の積載力を高められる。「大都市病」は、都市の過大さゆえに起こったのではない。その交通インフラ水準、技術水準、都市の智力水準が都市の「大きさ」に耐えられなかったため起こったのである。
 50年前に東京都の人口が889万人だった頃、「都市病」が蔓延しているとの焦燥感に悩まされた。しかし今は、東京の人口はすでに1,300万人を超えているにもかかわらず、「過密」だとの訴えは聞かない。
 何故なら、現在、東京の交通インフラ水準、技術水準、都市智力水準が以前と比較できない程向上し、都市の積載力も格段に上がったからである。
 都市の積載力は固定的なものではない。時間と空間の変化によって異なってくる。同様の時期でも都市ごとに積載力には大きな違いが生じる場合もある。同じ都市でも時期ごとに積載力は異なってくる。総じて、交通インフラ水準、技術水準、都市智力水準に応じて都市の積載力は増していく。

 国の視点で見ると、大多数の国の都市化が、集中化から分散化、そして集中化に再度戻る過程を辿っている。
 人口流動を参考にした世界主要国家の都市化過程は、4つの段階に分けられる。第1段階は、中小都市化段階である。人口が農村から都市へ流れ、都市化の主体は中小都市である。
 第2段階は、大都市化段階である。都市化率が50%前後になった後、人口流動の主要形態は中小都市から大都市へと流れる。農村人口は中小都市に流れる場合もあり、また大都市に直接流れ込む場合もある。
 第3段階は、大都市の郊外化段階である。都市化率が70%前後に達し、人口が大都市の市街地から郊外へ流れる段階である。
 第4段階は、大都市圏とメガロポリス段階である。郊外は中小都市へと進化し、大都市の中心市街地とタイアップして大都市圏を形成する。さらに複数の大都市圏が連携を緊密にすることでメガロポリスが形成される。 
 第1段階と第2段階が集中化である。第3段階は分散化で、第4段階は再集中化である。
 都市発展のこうしたS字型曲線は中国の都市化で検証できる。
 改革開放以来、中国の都市化は先進国が100〜200年間かかった道のりを、たった40年間で走り抜けた。 
 1978年、中国の人口都市化率はたった17.9%に過ぎなかった。しかし2016年には57.4%にまで急上昇した。
 1980年代、郷鎮企業 [1]。の急速発展に伴い、小城鎮 [2]が中国各地に出来上がり、中国都市化率は急速に向上した。その意味では1980年代は中小都市の時代である。
 1990年代は、大都市の時代である。大量の労働人口が農村や小城鎮から大都市へ流れた。政策上では、1980年代にも「都市病」への憂慮から「大都市の抑制」が高らかに掲げられた。しかし実際には、集積効果が威力を発揮し、大都市化は急速に進み、中国の大都市がことごとく工事現場化した。
 西暦2000年、中国の都市化率は36.2%台になった。「大都市の抑制」も政策から外した。
 この頃はまた、上海、北京を代表する大都市が中心市街地の「過密」の解消に乗り出し、郊外化を発動した。例えば、上海では嘉定、松江、青浦、南橋、臨港の5つのニューシティが建てられた。これらのニューシティは一定の人口を受け入れたものの、人口密度の高い集積地には至らなかった。
 40年の道のりを振り返ると、中国の都市化と世界主要国の都市化の過程は、本質的に似通っている。
 ただ、中国の国土が巨大なゆえに地域ごとに発展段階が大きく異なり、例えば西部地域はまだ第2段階にある。そして珠江デルタ、長江デルタ地域はすでに第3段階、第4段階に突入している。
 ノーベル経済学賞を受賞したジョセフ・E・スティグリッツ氏は、中国の都市化はアメリカのハイテクの発展と並び、21世紀の人類社会に影響を与える二大ファクターであると言う。中国改革開放後の40年の都市急速発展は、長江デルタ、珠江デルタ、京津冀などメガロポリスを誕生させ、人口と経済活動を大都市へと集約させた。この過程において、分散化の力学も働いたものの、やはり、集中化の力学が圧倒的であった。

 中国では、都市化政策において、中小都市を主体とする分散型都市化と、大都市を主とする集中型都市化という二つの主張が従来より戦いを繰り広げてきた。
 これからの中国の都市化は集中化で進むのか、分散化で進むのか?
 筆者は4つの理由で集中化を進めるべきだと考える。 
 第一に、都市規模が大きくなればなるほど、産業の集積が大きくなり、就業機会と収入も多くなり、生産コストと交易費用は低くなる。インフラ整備と公共サービスコストの分担も減る。
 これと反対に、都市規模が小さくなればなるほど、規模の経済性は実現しにくくなり、インフラの効率も悪くなる。
 世界銀行の研究では、人口規模が15万人以下の都市では、規模の経済性は実現し難いという。
 これに対して、「中国では多くの中小都市が素晴らしいパフォーマンスを見せている」との意見が出るかもしれない。
 実は、中国でパフォーマンスの良い中小都市の殆どは、大都市の周辺に位置している。中国のもっとも末端の都市単位の「鎮」で見ると、経済ランキングトップ100の「鎮」のうちの90%が、ことごとく長江デルタか珠江デルタの中心エリアにある。こうした中小都市の繁栄は、両デルタ地域の巨大都市に依存していることが明らかである。
 これは都市化のメカニズムがもたらした現象である。政策はメカニズムに反することをしてはならない。
 第二に、都市化の第2段階は、国際経験的に都市化率が50%から70%に向かう段階である。この段階では人口が主に大都市へと向かう。アメリカでは、人口500万人以上の大都市の、全国での人口ウエイトが、1950年に12.2%だったのに対して、2010年にはその倍の24.6%に達した。日本では東京、大阪、名古屋三大都市圏の、全国での人口ウエイトが、1920年に35.8%だったのに対して、2015年にはほぼ1.5倍の53.6%に達した。
 2011年から2015年の間で、中国で常住人口増加が最も進んだ都市は、北京、上海、広州、深圳、天津の5都市で、これらは中国で「一線都市」[3]と呼ばれ、この間、年平均1.9%で人口が増えた。また、省政府所在地である省会都市など「二線都市」と呼ばれる都市には、二つのグループがある。一つのグループは9つの都市で、この間、年平均1.2%で人口が増えてきた。もう一つのグループは19都市で、この間年平均0.9%で人口が増加している。ところが、43ある「三線都市」は、この間、年平均人口増加率はたったの0.4%でしかなかった。この間、中国の人口自然増加率が0.5%であることに鑑み、「三線都市」はすでに人口純流出状況にある。
 大都市ほど人口に対する吸引力があることは、潮流であり、政策は潮流に逆らってはいけない。
 第三に、中国では大都市の「過密」を理由に、中小都市の発展を推し進めるべきとの政策主張がある。
 しかし、先進国と比べ、中国の大都市への人口の集約はまだ低く、大都市における人口密度も決して高くはない。上海は中国最大の都市であるが、その人口規模は、全国における比率が僅か3%に満たない。これに対して、イタリアの半分の人口が8%の国土に暮らしている。アメリカの郡の数は3,000カ所にのぼるが、全国人口の半分は、244カ所の郡に片寄っている。東京都の面積は日本の国土面積のたった0.6%に過ぎないが、日本の10%の人口を抱えている。
 実際に、中国の都市を悩ませているのは人口の規模ではなく、交通インフラ水準、技術水準、そして都市の智力の水準が、先進国と比べまだ低いことである。
 大都市へ人口が集中していくことはすでに世界的な常識であり、政策は常識に反することはしてはいけない。
 第四に、そこにやって来た人には、住み続ける磁力を与えることが大都市の腕前であろう。2015年以前は、中国では「北京、上海、広州から逃げる」というフレーズがあった。しかし実際はそれに反して、中国の人口は一貫してこれらの大都市に流れていった。
 大都市ではより多くの就業機会、より高い給料、より多彩な刺激、より様々な娯楽があり、レストランでもより多くのメニューが並んでいる。中小都市は、真似ることができない。
 人は永遠に利に乗じて害を避けようとする。人々は、どこにチャンスが多いか、どこの収入が高いか、どこの生活がもっと快適で、より刺激的かを求め、流れる。もちろん、一つ大前提がある。それは、人々が自分の住処を自由に選択できるという前提である。
 より良い生活を求めて移動する、これこそが人間の本能であり、政策は人間の本能を押さえ込んではいけない。

 中国共産党第19回大会の報告で中国都市化の新しい進路が提出された。これは「メガロポリスを主体として大中小都市の協調発展を進める」ことである。
 「メガロポリスを主体とする」のは、正確かつ現実的な選択であろう。
 今日の国際経済競争はすでにメガロポリスを主体とする競争へとシフトしている。一国の経済発展も、すでにメガロポリスの発展に関わっている。アメリカでは大ニューヨーク地帯、大ロサンゼルス地帯、五大湖一帯の三大メガロポリスが、全国GDPの67%を稼ぎ出している。日本では東京、阪神、名古屋で構成する太平洋メガロポリスが全国GDPの64%を担っている。
 中国ではすでに省を単位とする行政区経済が、メガロポリス経済へとシフトし始めている。京津冀、長江デルタ、珠江デルタの三大メガロポリスを合わせた中国国土面積の5.2%にあたる地域が、全国GDPの40%を稼いだ。
 ところで、メガロポリスは、どこが主体となっているのか?
 答えは中心都市である。
 実際、都市の輻射力の強弱によって国際都市、全国的な中心都市、地域的に異なった様々なレベルの中心都市が作られている。これら中心都市をコアに、メガロポリスが形成されている。
 中心都市には、「集積が集積を呼ぶ」循環が働くゆえに発展する。中心都市の輻射力の強弱もまた集積の規模と強く関係している。
 しかし現在、中国では北京、上海のような大都市で外来人口の移住に対して厳しい抑制政策を取っている。憂慮すべきである。

 大自然には、「大樹の下に草は生えない」という現象がある。大樹の発達した根が、周囲の水分および各種養分をことごとく絡め取るだけではなく、嵩のある樹冠が陽光を遮り、足元に野草すら生えなくする。
 中心都市がもし周辺に恩恵を与えず、養分を吸い取るばかりであるなら、それを中心都市と呼ぶことはできない。
 中心都市たるものは、輻射力をもってメガロポリス、さらに世界へと恩恵を与える存在であるべきである。
 シリコンバレー創業の父、ポール・グラハム氏は、一国の中には総じて1つか2つの都市が若者の視線を集め、そこでは、国の躍動感が得られると語った。
 それはまさに日本にとっての東京であり、イギリスにとってのロンドンであり、アメリカにとってのニューヨークであり、フランスにとってのパリである。
 中国にとっては北京、上海、広州、深圳がこうした都市である。しかし、それだけではもう足りない。中国は少なくとも10カ所以上のそうした輝かしい中心都市が必要なのであろう。


[1] 郷鎮企業とは、農村で村や郷鎮が所有する「集団企業」である。

[2] 小城鎮とは、郷鎮企業の発展によって自然発生した集積である。県および郷鎮の政府所在地で十数万人から数十万人の人口規模になることもある。

[3] 中国では慣例的に国内都市を5つのランクに分けて「○線都市」と呼称する。「一線都市」は、中国を代表する北京、上海、広州、天津、深圳の5都市。「二線都市」は省都や沿海大都市など。「三線都市」は「二線」に次いで経済規模が大きい地方都市。


(『環境・社会・経済 中国都市ランキング 2017―中心都市発展戦略』に収録


プロフィール

張 仲梁(Zhang Zhongliang)

 1962年生まれ。中国管理科学研究中心副研究員、日本科学技術政策研究所研究員、CAST経済評価中心執行主任、中国経済景気観測中心主任、中国国家統計局統計教育中心主任、中国国家統計局財務司司長を歴任、2018年から中国国家統計局社会科学技術文化産業司司長。
 中華全国青年連合会委員、PECC金融市場発展中国委員会秘書長、中国経済景気月報雑誌社社長、中国国情国力雑誌社社長など兼務を経て、現在、中国市場信息調査業協会副会長を兼任。

【コラム】横山禎徳:中心都市の「移動」戦略


横山 禎徳
県立広島大学経営専門職大学院経営管理研究科研究科長、東京大学総長室アドバイザー、マッキンゼー元東京支社長


 ロシアのプーチン大統領が、かつてサンクトペテルブルグの副市長で、まだ無名であった時、初めて日本に来た。彼は日本の新聞記者にいつものありきたりの質問、すなわち、日本の印象はどうかと聞かれて、「都市に切れ目がない」と答えた。それを聞いてとても新鮮に感じたことを覚えている。たぶん、東海道新幹線の車窓から外を眺めての感想であろう。

 確かにロシアでは都市と都市の間はうっそうとした森林であることが多い。しかし、日本では、俗に言う東海道メガロポリスという国土の10%に満たない地域に約半分の人口が住んでいる。人工衛星からとった夜の日本列島の写真を見ると、東京-名古屋-大阪間の地域がひときわ煌々と輝いているのが見て取れる。

 また、筆者は1時間程度の通勤圏をGTMA(Greater Tokyo Metropolitan Area)と定義しているが、そこには日本の人口の3割程度が住み、日本のGDPとPFA(Personal Financial Asset:個人金融資産)の4割程度が集中している。都市化が世界中で進んでいるというのは周知の事実だ。しかし、これほどの巨大な都市圏が出現するとはだれも想像していなかったかもしれない。

 東海道メガロポリスとGTMAの形成を促進したのは交通システムの貢献が大きいであろう。20世紀の初頭、それまでの折衷主義のアンチテーゼとして機能主義が主張された。様式よりも機能を重視すべきだという主張である。その際、都市の機能は「住む」「働く」「遊ぶ」という考えが提示された。しかし、オーストラリアの首都キャンベラなどの経験をもとに、この3つでは魅力的な都市はデザインできないということが明白になった。その問題に答える模索が行われた。20世紀の半ば頃、都市の機能はもっとあるのではないかということが言われ、日本では磯崎新が「出会う」、黒川紀章が「移動する」を都市の機能に加えるべきだと主張した。その後、「出会う」は大阪万博の「出会いの広場」で見事に失敗した。一つのパビリオンから次のパビリオンに急ぐ多くの入園者はその広場を対角線に突っ切るだけで、人と人は出会わなかったのである。

 しかし、黒川紀章の主張した「移動する」は確かに都市の重要な機能であるかもしれない。東海道メガロポリスでは東海道新幹線、GTMAではJR山手線がその機能を担っているのではないだろうか。東海道新幹線は汽車ではなく、それまでに世界に存在していなかった、すべての車両にモーターが付いている高速電車システムという技術革新であったが、JR山手線はとりわけ新しい技術ではなかった。しかし、哲学的と言ってもいい発想の転換であった。すなわち、CBD(Central Business District)という都市活動の中核を「点」から「円」に拡大したのである。それによって、東京は物理的なサイズがそれほど大きくないにもかかわらず、都市の活動の多様性と密度が拡大したのである。その意味で、世界の都市デザインにおける成功例の一つであろう。

 東京のCBDは明治以降、東京駅と皇居の間の丸の内地区であった。その後、郊外に拡大していく通勤客を対象にした私鉄が勃興した際、すべての私鉄は東京駅に乗り入れることを望んだのである。それに対して、当時の鉄道省は、お雇い外国人であったドイツ人技師が提案し、お蔵入りになっていた、皇居の周りにある東京駅、東北本線の上野駅、中央本線の新宿駅、東海道本線の品川駅という当時の既存の駅を環状に結んだ山手線の案を思い出し、私鉄各社に、東京駅ではなく、この環状線のどこかに接続するように命じたのである。それによって、既存の駅に加えて、新たに池袋、渋谷、大崎などの駅が追加のモーダルチェンジ・ポイント、すなわち、国鉄と私鉄との乗換駅として出現した。そして、それらの駅の周辺が経済活動密度の高い拠点となったのである。すなわち、普通は都市に一つしかないCBDが沢山できたことになった。

 山手線は一周が1時間である。ということは目的の駅まで30分以内に行けるということであり、心理的に許容できる範囲である。しかも環状であるから終点がなく、乗降客数も確保しやすい。ちなみにボストンは20世紀初頭には最高の地下鉄網を持っていたが、その後1960年代まで衰退を続けていた。末端の支線の乗降客が確保できなくなり廃止になるとその先につながっている本線の客も減るという悪循環に陥っていたのだ。その後回復基調にあったが、井桁状にCBDで交差する4つのラインのうち、ハーバード・スクエアを終点としていたレッド・ラインを延長し、環状線とした。自動車中心の都市化を進めてきたアメリカの都市としては珍しい展開だ。しかし、東京のようなモーダルチェンジ・ポイントとしての機能はないという意味で都市の展開は違うようだ。

 このような「移動する」という機能の大発展が都市にもたらしているのが大気汚染である。これはどこの大都市でも大問題だ。東京に比較的その問題が少ないのは、1970年代に排ガス規制を進めたこともあるが、基本的にはモーダル・チェンジがうまく機能するマス・トランスポーテーションが発達していることの貢献度が高いからだろう。しかし、ドア・トゥ・ドアの便利さはなく、通勤地獄の抜本的解消もむつかしい。しかも、今の規模のGTMAにとっては環状線が円ではなく点に近くなっているという制約が出てきている。

 今後は都市の大気汚染の対策として電気自動車を推進するのであろうが、「電気自動車」ではなく、からEPMS(Electric People Mover System)ととらえるべきであろう。自動車の概念にとらわれた、現在の自動車中心の交通システムにおける道路網を前提にするのではなく、もっと自由なライト・オブ・ウェイを活用する交通システムになるであろう。それによって、ドア・トゥ・ドアの利点と、マス・トランスポーテーションの便利さとを連結し、しかも、排気ガスのない都市内、都市間交通網が出来上がってくるであろう。新たなモーダルチェンジ・ポイントも出現し、そこで出来上がる都市の活動ミックスも大きく変わるかもしれない。そのようなことを組み込んだ都市デザインの革新が求められている。


 モータリゼーションがかつてアメリカにおいてCBDの衰退とドーナツ現象を引き起こしたことは記憶に新しい。ここで言うEPMSはそれを避けることができるのであり、そのようにEPMSの展開をもとに都市の中心部であるCBDの変革をデザインし、それらの多くのCBDが東京の環状線とは異なった形態の拡大可能なネットワークを組むように発展を続けていくように仕組むことで、広域経済活動の健全な拡大を進めることができるであろう。


(『環境・社会・経済 中国都市ランキング 2017―中心都市発展戦略』に収録


プロフィール

横山 禎徳 (よこやま よしのり)

 1942年生まれ。東京大学工学部建築学科卒業、ハーバード大学デザイン大学院修了、マサチューセッツ工科大学経営大学院修了。前川國男建築設計事務所を経て、1975年マッキンゼー・アンド・カンパニーに入社し、同社東京支社長を歴任。経済産業研究所上席研究員、産業再生機構非常勤監査役、福島第一原発事故国会調査委員等を歴任し、2017年より現職。

 主な著書に『アメリカと比べない日本』(ファーストプレス)、『「豊かなる衰退」と日本の戦略』(ダイヤモンド社)、『マッキンゼー 合従連衡戦略』(共著、東洋経済新報社)、『成長創出革命』(ダイヤモンド社)、『コーポレートアーキテクチャー』(共著、ダイヤモンド社)、『企業変身願望−Corporate Metamorphosis Design』(NTT出版)。その他、企業戦略、 組織デザイン、ファイナンス、戦略的提携、企業変革、社会システムデザインに関する小論文記事多数。

【コラム】森本章倫:コンパクトシティとスマートシティ


森本 章倫
早稲田大学教授、博士(工学)


1.未来都市の形

 未来都市とはどのような都市像を思い描くであろうか。エベネザー・ハワードは1898年に理想的な都市として、住宅が公園や森に囲まれた緑豊かな田園都市を提唱した。また、ル・コルビジェは「輝く都市」(1930年)の中で、林立する超高層ビル群とそれによって生み出されたオープンスペースによる都市像を示した。全く異なる都市像ではあるが、どちらも当時の急激な都市化によって生じた都市問題を解決する手法として提案された。それから1世紀近くが経過し、当時提唱された都市像は、現在の大都市の都心部や郊外都市などでその片鱗をうかがうことができる。

 20世紀の都市では、産業革命以降の様々な科学技術の進歩が都市の生産性を大幅に向上させ、急激な人口増加や都市部への人口流入が続いた。特に自動車の出現は、人々の日常生活を大きく変化させ、緑豊かな郊外に向けての住宅開発が豊かな都市生活を実現させた。しかし、一方で郊外への無秩序なスプロールは、都市構造にも大きな影響を与えた。過度に自動車に依存した都市では、道路渋滞や交通事故などの交通問題が大きな社会問題として捉えられ、現在でもその解決策が講じられ続けている。その対策はかなり早い段階で議論され、例えば近隣住区論(1924年)では、自動車を前提とした安全な居住地区の整備が提案された。その後も自動車と居住環境の望ましい関係を模索する様々な都市像が提案され、世界各地で多くのモデル地区が出現している。

 21世紀に入り、我が国の人口増加はピークに達し、人口減少時代を迎えている。また、環境問題が地球規模で議論されるようになり、理想的な都市像にも変化が見られる。特に、現在の都市政策に大きな影響を与えているのは、1987年に国連のブルントラント報告のなかで推奨された持続可能な開発の都市モデルである。過度な自動車社会から脱却し、魅力的な都心を形成し、公共交通や徒歩で暮らすことができるコンパクトなまちづくりが進行している。

2.コンパクトシティ政策

 コンパクトシティは行き過ぎた自動車社会に対して、人と環境にやさしい歩いて暮らせる持続可能な都市モデルとして注目を集めている。その定義は様々であるが、総じて以下のような要素を含んだ都市を示す。

 (密度)一定以上の人口密度を保ち、市街地の効率性を高める。
 (空間)一定エリアに機能集約させ、街中の賑わいを創出する。
 (移動)公共交通を活用して、歩いて暮らせる街をつくる。
 (資源)既存の資源を上手に活用し、歴史やコミュニティを大切にする。

 一方で、日本におけるコンパクトシティは少し異なる文脈のなかで必要性が語られている。その一つは急激に訪れる人口減少社会への対応である。2050年までに総人口の23%が減少すると予測されており、20世紀の人口増加期に拡大した市街地を上手に縮退させて持続可能にすることが、都市行政として急務とされている。超高齢化社会で生産年齢人口が減少し、都市インフラの維持管理に関する財政負担は予想以上に大きい。

3.スマートシティ

 一方で、科学技術を活用した新しいまちづくりも模索されている。その一つがスマートシティであり、ICT等の新技術を活用しつつ、全体最適化が図られる持続可能な都市または地区と定義できる。

図5 スマートシティの系譜と事例

 もともとスマートシティの概念は、電力の流れを最適化するスマートグリッドのように、エネルギーの効率利用の視点から、2010年頃から民間企業を中心に広がり始めた。特定の分野特化型の取り組みからスタートしたが、近年では環境、交通、エネルギー、通信など分野横断型の取り組みが増えている。国家主導の「Smart Nation Singapore」や、官民連携としてカナダ・トロントの都市開発プロジェクト「Sidewalk Toronto」など多くの事例が出現している。

 スマートシティとコンパクトシティは何が異なるのか? 2つの都市モデルを多様な視点から比べてみるとその特徴が見えてくる。まず、コンパクトシティは都市空間を対象としているのに対して、スマートシティは主として情報を対象としている。前者は現実空間に実在するため見ることができるが、後者は仮想空間での情報の動きなので目に見えない。コンパクトシティは計画・マネジメントを通して都市空間の縮退を目指すのに対して、スマートシティは情報技術(Connected Technology)を駆使して、市場の拡張がベースとなっている。どちらも持続可能な社会を目指す点では一致するが、その方法等は大きく異なっている。

図6 コンパクトシティとスマートシティの比較表

4.新しい都市像に向けて

 コンパクトシティもスマートシティにも共通する指標として「シェア」がある。市街地を一定のエリアに集約して、都市空間を上手に共有(シェア)するのがコンパクトシティである。人口密度を一定のレベルに保つことは、居住空間の効率的な利用を促していると解釈できる。また、道路空間も私的なマイカーが占有するのでなく、バスや路面電車などの公共交通を利用することで移動空間を効率的にシェアすることになる。つまり、コンパクトシティではシェアによって居住や移動など様々な都市活動の効率性を高めている。

 スマートシティでは情報を対象に、ICT技術を活用して情報をシェアすることで、都市活動の効率性を上げる。エリアレベルでのエネルギーの相互利用や分野横断的な取り組みも、異なる業態の情報シェアがカギとなっている。例えば、移動時の情報シェアはMaaS(Mobility as a Service)のような統合型交通サービスを可能とする。

 換言すると空間シェアをすすめるコンパクトシティと、情報シェアをすすめるスマートシティの融合が、新しい都市像を生み出していく。歩いて暮らせる範囲にコンパクトな都市空間が形作られ、その空間は定時性を確保した魅力的な公共交通がつないでいく。集約エリアの周辺には緑豊かな市街地や田園風景が広がり、自動運転車がエリアの拠点までの足となる。移動は統合的な交通サービスの中で行われ、様々な交通手段を上手にシェアすることで、交通インフラ全体の効率化と環境負荷低減に寄与する。平常時も非常時もシームレスな情報ネットワークで、都市生活の安全性と快適性を確保する。こんな未来都市の実現がもう近くまで来ているのかもしれない。


(『環境・社会・経済 中国都市ランキング 2017―中心都市発展戦略』に収録


プロフィール

森本 章倫 (もりもと あきのり)

 1964年生まれ。早稲田大学大学院卒業後、 早稲田大学助手、宇都宮大学助手、助教授、教授、マサチューセッツ工科大学(MIT)研究員などを経て、2014年より早稲田大学教授。現在、日本都市計画学会副会長、 日本交通政策研究会常務理事なども務める。博士(工学)、技術士(建設部門)。

【コラム】李昕:「集中化」と「分散化」のバランスを如何に

李 昕

北京市政府参事室任主任、中国科学院研究員(教授)、経済学博士


 初めて都市計画に関わったのは、10数年前のことであった。筆者はカナダから帰国し、北京市環境局に入局、当時中国国家建設部(省)大臣であった汪光焘先生が指揮した「北京都市計画と気象条件および大気汚染との関連性に関する調査」に加わった。その後、「北京および周辺五都市における2008年オリンピック大気質量保障措置の研究と制定」を取りまとめた。

 工業化と都市化の急速な進展により、北京では人口が激増し、交通渋滞、水資源の枯渇、公共サービス供給不足と治安問題の頻発などで「都市病」が露呈した。2013年以来、PM2.5によるスモッグの頻発は、人びとの日常生活に一層甚大な被害を与えた。友人の中には汚染問題で国外に移住していった者もいた。

 このとき、北京市門頭溝区の副区長を務めていた筆者は、都市大気汚染低減のため、再び都市計画に取り組むこととなった。エコシティの国際的な事例を参考に、北京市門頭溝区のために、経済発展、社会進歩、生活レベル、資源負荷、環境保護の5つの角度から、34項目の年度発展審査指標を作り、生態優先型経済発展を推し進める総合評価体系を制定した。

 2014年末にはドイツを研究訪問し、都市計画専門家との交流セミナーで、彼等が詳しく述べていた「分散化」のドイツの都市発展モデルに、深い印象を受けた。これは、少数のメガロポリスに人口と経済活動が集中する中国の発展モデルとは明らかに異なっていた。

 2016年に偶然の巡り合いで、幸運にも中国都市総合発展指標2016の出版発表会に参加し、著者の周牧之教授、徐林司長、そして各項目担当の専門家等と知り合った。その後続けて彼らに教えを受け、師としてまたよき友として、お付き合い頂いている。

 周牧之教授は、工業化後発国は都市化において往々にして大都市発展モデルを歩む傾向があるとし、特に第二次世界大戦後、それが世界の趨勢となっていると、述べている。都市の集積効果は、経済発展効率を高め、豊富な都市生活をもたらす。とりわけ、メガロポリスのような大規模高密度の人口集積が、異なる知識と文化を背景とする人々の交流の利便性を高め、知識経済とサービス経済の生産効率を上げる。

 都市病は「過密」がもたらしたものであるとされるのに対して、周牧之教授は「過密」の本質こそが問われるべきだと問題提起している。いわゆる「過密」の原因は都市インフラとマネジメント力の不足にあると言う。

 周牧之教授は東京大都市圏を事例に「過密」問題を解説した。戦後、東京大都市圏が過密問題によりもたらされた大都市病に難儀し、いまの北京と近い発想で、工業や大学などの機能を制限した。しかしインフラ整備を進めた結果、都市圏の人口規模は拡大したにもかかわらず、いわゆる「都市病」は殆ど問題にされなくなった。これは北京の将来を考える際に非常に大切な示唆である。

 周牧之教授は4年以上の時間をかけて、内外の専門家を集め、各国の都市化発展の経験と教訓とをもとに、都市発展を評価する指標作りを試みた。議論を重ね、環境、経済、社会の3つの軸から、中国都市総合発展指標を作り上げた。同指標体系は開放的で、時代の要求に応え、進化可能なシステムである。指標の数は2016年の133項目から、2017年には175項目へと増加した。

 さらに、統計データだけではなく、最新の技術を駆使して衛星リモートセンシングデータやビックデータを大量に取り入れ、GIS技術を活用し、中国の地級市以上の全297都市の分析を行った。このような取り組みは中国では初めてのことである。よって中国の都市は、初めて環境、経済、社会の3つの軸で診断ができるようになった。様々な指標で都市のパフォーマンスが明らかになったことで、都市の課題と潜在力を浮かび上がらせ、より戦略的に都市の発展方向性を定められる。おそらくこれによって中国の都市計画レベルを一気に向上させることができるだろう。

 中国都市総合発展指標から地域ごとの発展も評価できる。これによって、中国の東部、中部、西部地域の都市化進展の違いが確認できた。さらに同指標の2016年のメインレポート(『中国都市ランキング』第5章)では珠江デルタ、長江デルタ、京津冀、成渝の4つのメガロポリスの発展特徴を分析し、その将来性を予見した。同指標を活用し、中国の地域政策も大きく進化するだろう。

 中国都市総合発展指標2017において北京は首都の優位性で連続2年総合ランキングの首位に立った。北京と天津2つのメガシティを中心に、京津冀というメガロポリスも形成された。

 しかし京津冀は、その高密度人口集積に必要なインフラ整備、公共サービス、マネジメント力に欠け、水資源の不足、大気汚染や交通渋滞など都市病の困惑の中にある。
 これに対して北京は、副都心建設を推進し、一部の行政機能などを通州などの周辺地域に移し、過密問題緩和を図ろうとしている。また、雄安新区の設立も、「分散化」の一環としてとらえられるだろう。

 しかし、北京そして京津冀メガロポリスの発展にとっては、中心機能の強化も極めて大切である。「集中化」と「分散化」のバランスを如何に図るかが肝要である。そのために中国都市総合発展指標を活用し、これらの取り組みを常に評価し、軌道修正していくことが必要である。


(『環境・社会・経済 中国都市ランキング 2017―中心都市発展戦略』に収録


プロフィール

李 昕(Li Xin)

 1968年生まれ。中国社会科学院大気物理所副研究員、研究員(教授)を経て、2004年北京市環境保護局に入局、副総技術師兼科学技術国際協力部部長、環境観測部部長、大気環境管理部部長を歴任。2010年北京市門頭溝区副区長、2017年中国人民政治協商会議北京市委員会副秘書長を経て、現職。中国科学院大気物理所研究員(教授)、北京大学環境科学工程学院教授を兼任。