【フォーラム】南川秀樹:コミュニケーションの場としてのエンタメを

ディスカッションを行う南川秀樹・元環境事務次官

 東京経済大学は2022年11月12日、学術フォーラム「供給サイドから仕掛ける地域共創の可能性」を開催、学生意識調査をベースに議論した。和田篤也環境事務次官、中井徳太郎前環境事務次官、南川秀樹元環境事務次官、新井良亮ルミネ元会長をはじめ産学官のオピニオンリーダー16人が登壇し、周牧之ゼミによるアンケート調査をネタに、新しい地域共創の可能性を議論した。南川秀樹・元環境事務次官がセッション1「集客エンタメ産業による地域活性化への新たなアプローチ」のコメンテーターを務めた。

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学術フォーラム「供給サイドから仕掛ける地域共創の可能性」
セッション1:集客エンタメ産業による地域活性化への新たなアプローチ

会場:東京経済大学大倉喜八郎進一層館
日時:2022年11月12日(土)


■ 供給サイド自らの「仕掛け」で


 東京経済大学に足を運ぶのは大変久しぶりで、非常に喜んでいる。と言うのは、5 年間、 こちらで客員教授を務め、毎週通っていた。もちろん授業はしっかりやるが、キャンパスの 新次郎池を降りて野川沿いを走るということも日課としていた。元陸上競技選手としても 楽しく過ごすことができた。

 さて、周ゼミ生が「仕掛け」たアンケートに非常に感銘を受けた。アンケートというもの は単純にニーズを調べればいい訳ではない。工夫を積み重ね、提言にまで作り込んでいかな ければならないが、それが十分に果たされていたためだ。

 個人的に観光は非常に重要な産業だと考えている。観光というと遊びのような感覚があ るが、知らない土地に出かけていって交流し、人生を豊かにする機能がある。私事ながら私 は四日市出身で、伊賀生まれの松尾芭蕉は土地の著名人として中学生のころから奥の細道 を暗唱させるなどの活動があった。その芭蕉も江戸にいて俳人として名をなしたにも関わ らず、晩年を旅に過ごし、安穏とせず俳句の革新を目指した。芭蕉すら甘んじることなく磨 かれていった。それが旅のもつ機能だと考えている。

 先日、熱海に足を運んだ。秋、冬にも花火大会を催しているので見に行こうと考えた。花火を鑑賞し、駅前の仲見世通りや一帯がきれいに作り替えられていて、様々な人を呼び込む企画にも事欠かなかった。東京からでも名古屋からでも日帰りでも楽しめる街になっていた。熱海のような街は供給サイドから自ら「仕掛け」、整備していかないと作れない。

 せっかく東経大で議論しているのだから、やはり東経大のためにならなければいけない。さらには、国分寺地域全体として、スポーツなり、エンタメの世界なり、もちろん、バーチャルの世界もあると思うが、より活性化できる仕掛けは何か、国分寺市民であること、あるいは東経大の学生であることが誇りに思える仕掛けは何か、に知恵を出していかなければならない。

第1セッション・ディスカッション風景

スポーツもエンタメもコミュニケーションが大切


 私もスポーツ自身がエンタメの一部だと思っている。ただ、地域にとっては単に人が集まっていればいいのではなくて、そこにいることによって心のコミュニケーションができることが必要だ。2週間前に実は水戸マラソンを走った。8,000人以上の人が集まって、町の中をずっと音を立てながら走り回った。あれこそコミュニケーションだなと強く感じた。

 私自身は毎週、代々木の織田フィールドで走っている。必ず居られるのが目の悪い方が伴走者で一緒に走っている。それから足の悪い方が義足を履いて走っておられる。それで皆さん1人で来ても、一緒に会うと楽しそうに話の輪ができる。とても大事なことだ。それがひとつ大きな生きがいとなっている。その方達と僕もよく話すが、とても明るく、最初来た時に戸惑っていた人が随分変わってきている。とても嬉しい。ただ、それはなかなか陸上ランニング以外の競技では難しいようだ。もっと広げたいと思う。

 スポーツクラブは地域社会の核となる存在だ。例えばスポーツクラブで同じエクササイズをとっている人同士が親しくなり、非常に頻繁にコミュニケーションができ、言ってみれば家庭以外あるいは職場以外のところで仲間ができる。そういったことが大事かと思う。

 現代は、かつてのように農業を通じ、否応なしに地域の中で生きるしかないという世界ではなくなった。そういう意味では仕事を離れ、心が通い、癒せる、コミュニケーションができる仲間を、スポーツクラブなどで得ることは大変貴重だ。それが、実際に可能性があって働いているのかどうかにも関心がある。

 エンタメも同じだ。私自身も寄席が好きでよく寄席に行くが、やはりそういったところでいつも会う人というのは、結構気が合う。そういった場であってほしい。

ディスカッションを行う南川秀樹・元環境事務次官(左)と吉澤保幸・場所文化フォーラム名誉理事(右)

■ 人材育成の場作りを


 最後に人材育成、場所作りを挙げたい。「仕掛け」を作れる人材の育成は欠かせない。今日のフォーラムにも参加したユナイトスポーツは東京五輪の中で、例えばマラソンの開催地が変わるような出来事があるなかで、やり遂げたことは非常に重要なことだ。ここで育った人材は他の所でも活躍できる。また、先ほど挙げたスポーツクラブは大事で、人材にとっては平時の収入源にもなる。

 それから、スポーツもエンタメもその表舞台に立つ人とその舞台を作る人がいて、要はその両方がある。プレーする、それを支える、両方あって初めて大きな大会ができる。両方を経験する人をできるだけ増やしたい。そういう人が企業マインドを持ち、新しい産業を起こすことによってある種の実効性がありアニマルスピリッツのあるアントレプレナーができると私は思う。エンタメもスポーツも、プレーし、支え、の両面から応援していかなければならない。


プロフィール

南川秀樹 (みなみかわ ひでき)
東京経済大学元客員教授、日本環境衛生センター理事長、中華人民共和国環境に関する国際協力委員、元環境事務次官

 1949年生まれ。環境庁(現環境省)に入庁後、自然環境局長、地球環境局長、大臣官房長、地球環境審議官を経て、2011年1月から2013年7月まで環境事務次官を務め、2013年に退官。2014年より現職。早稲田大学客員上級研究員、東京経済大学客員教授等を歴任。地球環境局長の在職中は、地球温暖化対策推進法の改正に力を尽くした。また、生物多様性条約の締約国会議など多くの国際会議に日本政府代表として参加。現在、中華人民共和国環境に関する国際協力委員を務める。

 主な著書に『日本環境問題 改善と経験』(2017年、社会科学文献出版社、中国語、共著)等。


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【フォーラム】吉澤保幸:集客エンタメ産業で地域を元気に

司会を務める吉澤保幸・場所文化フォーラム名誉理事

 東京経済大学は2022年11月12日、学術フォーラム「供給サイドから仕掛ける地域共創の可能性」を開催、学生意識調査をベースに議論した。和田篤也環境事務次官、中井徳太郎前環境事務次官、南川秀樹元環境事務次官、新井良亮ルミネ元会長をはじめ産学官のオピニオンリーダー16人が登壇し、周牧之ゼミによるアンケート調査をネタに、新しい地域共創の可能性を議論した。吉澤保幸・場所文化フォーラム名誉理事がセッション1「集客エンタメ産業による地域活性化への新たなアプローチ」の司会を務めた。

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東京経済大学・学術フォーラム
「供給サイドから仕掛ける地域共創の可能性」

会場:東京経済大学大倉喜八郎進一層館(東京都選定歴史的建造物)
日時:2022年11月12日(土)13:00〜18:00


「集客エンタメ産業」という言葉を作ったわけ


 学術フォーラムの「供給サイドから仕掛ける地域共創の可能性」、そのセッション1として「集客エンタメ産業による地域活性化への新たなアプローチ」という話をしたい。この集客エンタメ産業という言葉自身も、実はコロナ禍で生まれてきた言葉だ。

 これまでは、ぴあでいうとライブエンターテインメントという言葉だけを使っていた。今回のコロナによって文字通りの供給サイドが止まったわけだが、そのときに一番悲鳴を上げたのが、先ほど学生の方々がいった映画館で上映できないことだ。スポーツもJリーグも含めて試合ができなくなった。

 これでは困るということで、昨年の正月にJリーグの村井満チェアマンが弊社に来た。何とかしないと、コト消費の権化である集客エンタメ産業、人々の心を支えるものがなくなってしまう。ライブエンターテインメントだけではなく、スポーツ・映画等も含めてさまざまな人々の心を支え、人々が集まる産業としての集客エンタメ産業という言葉を作って、ようやくコロナ禍がある程度平準化する中で、人々がそこに集うような反動増が生まれるぐらいにまた盛り上がってきたというのが、この集客エンタメ産業というものだ。

 供給サイドが止まったことの一番の象徴は、2020オリンピック・パラリンピックだったろうと思う。それから1年遅れて、札幌でマラソンがあった。

 集客エンタメ産業による地域活性化を、どういったアプローチで実現できるだろうか。ぴあ総研と日本政策投資銀行で昨年共同研究をした。地域に及ぼす効果というのは、経済的効果だけではなくて、さまざまな社会的効果がある。

 ぴあは今年創業50周年ということで1972年、映画好きの大学生が起業したベンチャーだった。何もない中で、お金も人脈もない中で、何とか乗り越えて50年やってきた。ぴあのパーパスは「ひとりひとりが生き生きと」という言葉だ。そういう社会を作りたい。一人ひとりが生き生きと、それでみんな豊かになる社会を作りたい。

 これは文字通りSDGsの「誰一人取り残さない」という言葉といわば同値かなと我々は思っている。そういう中で集客エンターテインメントを通じて、どういう豊かな社会を作っていけるのか。ぴあ社全体としての課題であり、集客エンタメ産業の課題でもあると思っている。

 ちょうどこの5月、「集客エンタメ産業による日本再生の意義」と題して300人ぐらいの方に集まってもらい、シンポジウム等を開いた。都倉俊一文化庁長官、元Jリーグの川淵三郎チェアマン等々、お歴々にいろいろな話をしてもらい、金融と集客エンタメ産業の繋がりを中曽宏大和総研理事長にも話してもらった。

第1セッション・ディスカッション風景

■ 集客エンタメ産業で国分寺を魅力的に


 私は過去に国分寺に通ったことがあり、もったいないと思ったのが、国分寺の跡地のスペースだ。副市長が活用して、イベントをやられたのは大変大きな一歩じゃないか。あそこで多分、今、リアルとバーチャルの融合からすると、例えばぴあが始めているXRLIVEは考えられる。アニメのキャラクターとリアルを融合させライブ配信するのだが、ああいった跡地で、テントでもいいから、そういう場所を作れるのではないか。

 国分寺市民あるいは東経大の学生のイベントをやるとか。そういう形でひとつ集客の場を、市から借りて作っていくとか、単なるリアルだけじゃなく、DXを使うともっとできるのではないか。

 自然の中で楽しめる場ができると、自然の豊かさにも気づく。先ほどの周ゼミ学生のアンケートでは、「都会に住みたい」と「地域に住みたい」、「自然の豊かさ」と「娯楽」がまるで代替財のようになっている。こっちができるとこっちができないみたいな世界だが、これがぜひいい補完財のように、一緒に楽しめる場を作ってやることができないか。中央線沿線の中では国分寺は非常にいいポジションにある。なぜなら自然が豊かで、跡地も残っている。それをうまく活用していくといいのではないかと考えている。

ディスカッションを行う南川秀樹・元環境事務次官(左)と吉澤保幸・場所文化フォーラム名誉理事(右)

 前述したシンポジウム「集客エンタメ産業による日本再生の意義」で川淵チェアマンが熱く語ったのは、Jリーグを立ち上げる時に、鹿島アントラーズが手を挙げてきた。その時に3万人規模の世界じゃ無理だろう、鹿島町で町民も地元企業も行政も、そしてリーグもみんな協力し合って、そして5万キャパのスタジアムができたら、Jリーグに入れてあげると言った。絶対に無理だろうと(川淵氏は)思ったのだそうだが、なんとそれを解決してしまった。

 そして今、Jリーグの中で一番地域と密着に動いているのは鹿島アントラーズ。そういう歴史もある。だから、地域で行政と市民と、そして企業が合体していくと、スポーツということを一つのきっかけにできる。さらに、川淵氏はスポーツだけではダメだと。他のエンターテインメントを結びあうことによって、スタジアムを本当に活かす。これはある意味では新結合世界だと思うのだが、そういうことを提唱して動いている。

 なので、絶対にこの国分寺で解決策は出てくるだろうと思っている。一例として、里山スタジアム構想を紹介する。元日本代表の岡田武史氏が10年かけているプロジェクトだが、岡田氏はコミュニティをつくりたいのだと。さまざまな文化、芸術、食、農業、さらには福祉の場。これを作りたいと。だから、社会福祉法人の方々、足の悪いリハビリをしないといけないような方々が集まれる場所もスタジアムの横に作ると。これが実は目的だといっている。

 フットボール事業は一つのコアの事業だが、次世代教育、地方創生をハイブリッドでやって、今治にあるが、今治にとらわれないコミュニティづくりだと語っている。

 さらにもう一つだけ。スタジアム、エンターテインメントは極めて環境負荷が小さい産業である。だから、同時に成長の分野でもある。2030年あるいは2050年を目指す中で、特に脱炭素も含めた産業としての意味で、ぜひもり立てていきたい。

■ すべての老若男女が集える場作りを


 スポーツでは、障がい者スポーツが今後、極めて大事になると感じている。元財務次官の真砂靖氏が理事長を務める、全国盲ろう者協会という組織がある。盲ろう者がスポーツをする、喜びを得る機会は非常に限られている。何とかもっとサポートできないか。障がい者スポーツを地域活性化に絡められないか。SDGsとして抜け落ちてしまうのが、本当の弱者の方々である。この方々が健常者と一緒にどうやって結びあうか。それを地域の活性化の中に織り込んでいく必要がある。

 オリパラの事務総長だった武藤敏郎氏が、今後日本で国際的なイベントを成功させるための必要条件を3つ挙げている。ひとつはそのイベントがサステナビリティに合致しているかどうか。ふたつにはダイバーシティアンドインクルージョンに合致しているかどうか。そして三つ目にはジェンダー平等であるか。それによってすべての老若男女が集まって、集える場所を作り、そして集える繋がりを作る。それが集客エンタメ産業の意義だと思っており、場を提供するのが地域ではないのかと、強く感じている。これは地域創生をしていくために必要な条件ではないかと思う。


プロフィール

吉澤 保幸(よしざわ やすゆき)
場所文化フォーラム名誉理事、ぴあ総研(株)代表取締役社長

 1955年新潟県上越市生まれ、東京大学法学部卒。1978年日本銀行に入行、日本銀行証券課長など歴任。2001年ぴあ(株)入社、現在同社専務取締役。
 場所文化フォーラム代表幹事、ローカルサミット事務総長などを歴任し、地域の活性化に尽力。
 主な著書に『グローバル化の終わり、ローカルからのはじまり』(2012年、経済界) 等。


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【コラム】周牧之:中国のメガロポリス政策につながった開構研での下積み

周牧之 東京経済大学教授

『UEDレポート 研究所が歩んで来た半世紀をふりかえる』、一般財団法人 日本開発構想研究所、2022年

編集ノート:財団法人日本開発構想研究所は1972年7月に設立され、今年2022年に50周年を迎えた。日本の国土政策、東京湾臨海地域開発などにおいて数多くの知的貢献を果たした。同研究所の50周年記念で発行されたレポート『研究所が歩んで来た半世紀をふりかえる』に東京経済大学の周牧之教授が寄稿し、若き日の下積み時代と中国の都市化政策における日中政策協力について回顧した。


 大学院修士課程を終える時、私の政策研究志向をあと押ししようと、東京経済大学の増田祐司教授が日本開発構想研究所を紹介してくださった。

 中国の国土政策、都市政策へ私が多少なりとも力を果たせたとすれば、それは日本開発構想研究所で経験した調査活動から得られた知の蓄積が土台になったことに間違いはない。

1.東京湾臨海部調査で受けた刺激


 阿部和彦さんが増田先生とは東京大学の同窓だったこともあり、1991年4月、私はたいへん温かく研究所に迎えられた。

 開構研で、「臨海工業地域活性化戦略事業」、「川崎臨海部産業整備調査」、「東京湾地域における総合利用と保全に関する調査」、「東京湾南西地域総合再生計画調査」、「東京湾超長期ビジョン策定基礎調査」、「川崎臨海部将来像の在り方に関する調査」、「京浜臨海部再編整備調査」など東京湾関連調査に参加したことが、私の後の研究活動に大きな影響を及ぼした。とりわけ臨海部の企業を数多くヒアリングし、「工場等制限法」のもとでも企業が歯を食いしばるようにして湾岸部にへばりついていた理由をリアルに聞けたことが、大変刺激的だった。   

 中国機械工業部(省)で、新日鉄の君津製鉄所をモデルにした宝山製鉄所プロジェクトに携わっていた私は、臨海部の立地メリットに関心が高かった。宝山製鉄所建設にあたり長江入り江の臨江部に何故立地するかの論争があり、一時期、建設がストップさせられた程であった。開構研での調査は、臨海部における産業集積の性格と重要性を理解するまたとない経験であった。後年私が珠江デルタ、長江デルタ、京津冀など中国の臨海部でグローバルサプライチェーンをベースとした大集積の形成を前提とする「メガロポリス政策」を提唱したのは、まさにこうした調査から得られた確信があったからだ。

 当時はデータベースのソフトもようやく使えるようになった時期で、「桐」という名のデータベースソフトを使い、日経テレコムの新聞検索を利用し東京湾臨海部の企業動向をデータベース化した。これによって臨海部の動きがはっきりわかるようになった。この経験で、私は基礎情報のデータベース化の重要性を強く意識するようになった。後年、中国の297都市をすべて網羅する評価システム『中国都市総合発展指標』を作った遠因のひとつだと思う。

 Windowsが発売され、Word、123、エクセルなどのソフトが普及し始めたころだ。開構研のレポート作成はまだ、専用のワープロでタイピストに打っていただく状況だった。研究所の中で初めてパソコンでレポートを仕上げたのはおそらく私だっただろう。パソコンに大変詳しい杉田正明さんに助けていただきながら取り組んだことが、懐かしく思い起こされる。最新のカラー液晶付き折りたたみ式のパソコンも購入していただいた。しかし重さが10キロを超えていたため携帯用といっても自宅には一度しか持って帰れなかった(笑)。

 開構研で仕事をしながら週に一度東京経済大学に行き、野村昭夫教授へレジュメを出して指導を受ける生活を送っていた。こうした生活を3年ほど続け、博士論文の最終仕上げのために退職した。『メカトロニクス革命と新国際分業―現代世界経済におけるアジア工業化』と題した博士論文を、日本の臨海工業地帯における産業変遷の研究をベースに、東アジアの工業化の性格が情報革命に触発された新国際分業のもと展開されたとする仮説でまとめた。同論文は1997年、ミネルヴァ書房で出版し、日本テレコム社会科学賞奨励賞を受賞した。

『メカトロニクス革命と新国際分業』

周牧之著『メカトロニクス革命と新国際分業―現代世界経済におけるアジア工業化』(ミネルヴァ書房、1997年)

2.楽しかった開構研の日々


 開構研所在地だった霞が関、虎ノ門、日比谷周辺での昼食時は、さまざまなテーマで議論した。仕事後も杉田さんは若い所員を集めて勉強会を開いていた。日本経済、世界情勢の話から、マルクスなど古典を含む経済書の読書会まで、実に幅が広かった。しかしその勉強会のメンバーは次々と脱落し、最後まで残ったのは杉田さんと私だけだった(笑)。

 新橋あたりでの秋山節雄さん、大場悟さん、本多立志さんとの飲み会も大変楽しかった。情緒あふれる飲み屋さんで延々と続く話……意識朦朧のなか帰宅したものだ。

 毎年行われていた研究所の所員旅行にも同行させていただいた。浦東開発が始まったころに行った上海で阿部さんが、著名な哲学者であられるご尊父阿部吉雄先生のご著書を、私の父に手渡してくださった。ふるさと中国を離れ留学後も引き続き日本で暮らす私のことを、父は「阿部さんとお目にかかって安心した」と喜んでいた。

 私の結婚を祝う会を杉田さんの呼びかけと名司会、そして開構研所員の皆さま全員のご参加で、開いていただいた。大変心温まる嬉しい会だった。おかげさまで銀婚式も超えて、我が家の日中関係はいまだ磐石です(笑)!

 理事長の本城和彦先生には結婚祝いとして霞が関ビル最上階のレストランで妻共々ご馳走にあずかった。本城先生は、国際協力事業団(JICA)が中国で実施した初めての地域総合開発調査「海南島総合開発計画調査」の団長を務められた。後に私は中国で実施された同スキームの2回目の「江西省九江市総合開発計画調査」に関わり、その後同スキームの「吉林省地域総合開発計画調査」を始め、「中国中小都市総合開発ガイドライン策定調査」、「中国郷村都市化実験市調査」、「中国西部地域中等都市発展戦略策定調査」など案件形成と実施を、実質主導した。

 開構研初代理事長の向坂正男氏は、改革開放政策実施直後、中国政府の要請で大来佐武郎氏、下河辺淳氏とともに中国に数多くの経済政策や国土政策のアドバイスをされた。私が開構研に入った時はすでに鬼籍に入られていた向坂氏との面識はない。振り返れば中国の国土政策には開構研に繋がるさまざまな方が関わった。

3.中国メガロポリス政策作りへの協力


 1992年に財団法人国際開発センターから中国調査の手伝いの誘いを受けた際、阿部さんが快く承諾してくださったことが、私がODAの仕事に携わるきっかけとなった。博士号取得後、国際開発センターで中国の都市化政策調査を実施した折、開構研の関係者の皆様に大きな力添えをいただいた。

 開構研で知り合った今野修平大阪産業大学教授は、私が中国で取り掛かった都市化調査に数多くのアドバイスをし、現地調査やシンポジウムに度々参加してくださった。今野先生は、私がメガロポリス政策を打ち立てる時の一番の相談相手だった。メガロポリス政策は、今野先生との議論から生まれたといっても過言ではない。

1999年10月6日江蘇省現地調査にて左から今野修平、周牧之

 JICA中国都市化調査の集大成として主編した『城市化―中国現代化の主旋律(Urbanization―Theme of China’s Modernization)』(湖南人民出版社、2001年)に今野先生は阿部さんと共に寄稿された。中国の都市化に関する今野先生と私との対談は拙著『托起中国的大城市群(Megalopolis in China)』(世界知識出版社、2004年)に掲載した。

『城市化―中国現代化の主旋律』と中国メガロポリス戦略イメージ図

周牧之主編『城市化:中国現代化的主旋律 (Urbanization: Theme of China’s Modernization)』(湖南人民出版社、2001年)

 今野先生のご紹介でお目にかかった星野進保元経済企画事務次官にもさまざまな薫陶を受けた。星野先生の事務所に何度も呼ばれて議論を重ね、しばしばご馳走にまでなった。私が企画したシンポジウムにも幾度もご登壇いただいた。星野先生、今野先生との議論から、私は確信を持ってメガロポリス政策を提案することができた。私が主編した『大転折(The Transformation of Economic Development Model in China )』(世界知識出版社、2005年)には星野先生、塩谷隆英元経済企画事務次官がともに寄稿してくださった。

『托起中国的大城市群』と『大転折』

左:周牧之著『鼎―托起中国的大城市群(Megalopolis in China)』(世界知識出版社、2004年) 、右:周牧之編著『大転折―解読城市化与中国経済発展模式(The Transformation of Economic Development Model in China)』(世界知識出版社、2005年)

 拙著『中国経済論―高度成長のメカニズムと課題』(日本経済評論社、2007年)には、星野先生、楊偉民中国国家発展改革委員会副秘書長らと私の「中国メガロポリスの発展と東アジア経済」と題したディスカッションを掲載した。

『中国経済論』日本語版と中国語版

左:周牧之著『中国経済論―高度成長のメカニズムと課題』(日本経済評論社、2007年)、右:周牧之著『中国経済論―崛起的机制与課題 (The Chinese Economy: Mechanism of its rapid growth)』(人民出版社、2008年)

 アンチ都市化政策が採られていた中国で、都市化政策そしてメガロポリス政策を進めるべく政策提案を打ち立てることは実に大変だった。JICA中国事務所の櫻田幸久所長の全面的な支援を受け、于光遠元中国社会科学院副院長ら大御所のバックアップで、中国国家発展改革委員会の楊朝光地区経済司副司長、杜平国土開発与地区経済研究所長らとともに綿密な調査を重ねた。2001年9月3日、同7日に、中国国家発展改革委員会と日本国際協力事業団の主催で、上海と広州の二カ所で「中国都市化フォーラムーメガロポリス発展戦略」を大々的に開催した。

2001年9月3日「中国都市化フォーラムーメガロポリス発展戦略」上海会場

 清成忠男法政大学総長、伊藤滋早稲田大学教授、増田先生、阿部さん、林孝二郎元国土庁大都市圏整備課長らも日本から駆けつけ登壇された。シンポジウム後、メガロポリス政策が一夜にして中国の政策議論の的になった。

China faces challenges in urbanization

2001年9月3日「中国都市化フォーラムーメガロポリス発展戦略」開催当日、チャイナデイリー掲載の周牧之:China faces challenges in urbanization

 その後、メガロポリス戦略については五カ年計画策定担当の中国国家発展改革委員会計画司(局)楊偉民司長との間で現地調査、議論及び専門家会議を重ねた。とくに財務省、国際協力銀行、日中産学官交流機構の協力を得て開かれた「都市創新ワークショップ」の東京会議、北京会議、長江船上会議や、日中産学官交流フォーラム「転換点に立つ中国経済と第11次五カ年計画」、「中国のメガロポリスと東アジア経済圏」で、国土政策における日本専門家を大勢集め、中国国家発展改革委員会発展計画司と、メガロポリス政策に関する意見交換を頻繁に持った。

産学官交流機構フォーラム報告書

報告書『都市創新ワークショップ議事録』、『日中産学官交流フォーラム:転換点に立つ中国経済と第11次五カ年計画』、『都市創新ワークショップ:中国のメガロポリス・ビジョンとインフラ構想研究会(長江船上会議)』、『日中産学官交流フォーラム:中国のメガロポリスと東アジア経済圏』

 上記のワークショップやシンポジウムに日本側から星野進保元経済企画事務次官、福川伸次元通商産業事務次官、保田博元財務次官、塩谷隆英元経済企画事務次官、林正和元財務次官、佐藤嘉恭元中国大使、安斎隆セブン銀行社長、大西隆東京大学教授、寺島実郎日本総合研究所会長、小島明日本経済研究センター会長、船橋洋一朝日新聞社コラムニスト、横山禎徳マッキンゼー元東京支社長、生源寺眞一東京大学教授、森地茂運輸政策研究機構運輸政策研究所所長、石田東生筑波大学教授、谷内満早稲田大学教授、田近栄治一橋大学教授、矢作弘大阪市立大学教授、加藤和畅釧路公立大学教授、城所哲夫東京大学助教授、木南章東京大学助教授、小手川大助財務省関東財務局長、田中修内閣府政策統括官付参事官、鵜瀞由己財務省財務総合政策研究所次長、麻生良文同研究所総括主任研究官、西沢明国土交通省国土情報整備室長、進和久全日本空輸元専務取締役、杉田正明日本開発構想研究所主幹研究員、新屋安正日本設計企画部長、大谷一朗経済政策コンサルタントらが参加し、お知恵をいただいた。中国側から現在副首相を務める劉鶴中央財経領導小組副主任をはじめ、朱之鑫中国国家発展改革委員会副主任、楊偉民同委員会発展計画司長ら大勢の政策責任者が参加した。これだけの専門家を動員した高密度の政策交流は、日中の歴史上初めてだった。

「日中産学官交流フォーラム−中国のメガロポリスと東アジア経済圏」

2006年5月11日「日中産学官交流フォーラム−中国のメガロポリスと東アジア経済圏」にて、上段左から福川伸次、楊偉民、保田博;第二段左から星野進保、杜平、塩谷隆英;第三段左から船橋洋一、周牧之、寺島実郎;第四段左から中井徳太郎、朱暁明、佐藤嘉恭;下段左から大西隆、小島明、横山禎徳

 こうした日中政策協力において、後に金融庁長官を務めた畑中龍太郎財務省大臣官房文書課長の指示を受け大変な尽力をされた中井徳太郎東京大学教授(当時財務省から出向、後に環境事務次官)の名を特記しておきたい。楊偉民氏、中井徳太郎氏、私の三人の固い友情はいまも引き続いている。楊偉民氏は現在も中国経済政策をまとめるキーパーソンの一人として活躍されている。

2019年1月26日【シンポジウム】『「交流経済」×「地域循環共生圏」—都市発展のニューパラダイム』懇親会にて左から中井徳太郎、楊偉民、周牧之

 2006年から施行の第11次五カ年計画で、メガロポリス戦略が打ち出され、中国は都市化の時代へと舵を切った。五カ年計画が空間計画に踏み込んだことで、中国国家発展改革委員会発展計画司が都市化政策を所管することとなった。楊偉民氏はさらに、「主体功能区」という中国の国土計画の原型を作り上げ、それを同司の所管とした。私の、「発展戦略和計画司」と改称された同司との交流は今日まで続き、『中国都市総合発展指標』を共同開発し、毎年発表している。

『中国都市ランキング−中国都市総合発展指標』

4.ユーラシアランドブリッジ構想から長江航路浚渫提案へ


 中国のメガロポリス戦略には、集約化経済社会、流動化社会、市民社会、持続発展可能社会というビジョンを掲げた。同調査にあたり、モデルとして「江蘇省都市化発展戦略」を策定した。これは中国で初めて省単位で策定された都市化発展戦略であった。長江下流を包む江蘇省は、グローバルサプライチェーン型産業集積形成のポテンシャルが最も高い地域であった。同戦略の中の提案は江蘇省のさまざまな計画に取り上げられた。

「江蘇省都市化発展戦略」における長江デルタメガロポリスイメージ図

周牧之主編『城市化:中国現代化的主旋律 (Urbanization: Theme of China’s Modernization)』(湖南人民出版社、2001年)

 杉田正明さんは専門家として複数の中国調査に参加し、たくさんのお知恵をいただいた。長江沿いの港湾開発調査にあたり杉田さんと議論し、江蘇省南京から入江までの航路について「マイナス12.5メートルまで浚渫する」提案をしたことを特記したい。私たちは長江の下流地域を「湾」として開発すべきであると考えていた。中国政府はこの提案を受け、マイナス12.5メートルの浚渫という大工事を実施し、今日の長江デルタメガロポリスの基礎を打ち立てた。

 江蘇省鎮江市のニューシティマスタープラン策定にも、杉田さんは参加した。大西隆先生を始め大勢の日本の専門家が現地に訪れ、お力添えをいただいた。路面電車をベースとした敷地面積220平方キロメートル、人口100万人規模のスマートシティ計画は高い評価を得て、中国の都市計画の手本となった。

江蘇省鎮江市のニューシティマスタープラン

 今野先生、阿部さんと向かった中国現地調査では、あわやという体験もした。遼寧省営口港で、止まっていた超特大ダンプカーが、私たちが乗る車が後方にいるのに気づかず、急発進でバックし始めた。ダンプカーに潰される寸前に車から逃げ降り、間一髪のところで大事故から免れた。

 1990年代末には、カスピ海から中国沿岸部までパイプラインで天然ガスや石油を運ぶことを念頭に、日本と中国の大型協力案件として、欧州から日本に至るユーラシア大陸横断の広域インフラ (ガス・石油パイプライン、鉄道、道路、光ファイバー網等)整備と沿線開発を進める構想を打ち立てた。「現代版シルクロード(絹の道)」といえるこの構想が進めば、エネルギー資源や食糧の輸送が効率化でき、それらの世界的な需給ひっ迫も防げると考えた。1999年4月1日付日本経済新聞の経済教室欄に『現代版「絹の道」、構想推進を―欧州から日本まで資源の開発・輸送で協力―』とした私の署名文書が掲載され、大きな反響を呼んだ。その直後、下河辺淳先生から「大変いい構想だ。航空路の話も是非加えるように」との鋭いご指摘をいただいた。その後のランドブリッジ構想や、メガロポリス戦略には空港の重要性を鑑みるようにした。

現代版「絹の道」構想推進を

周牧之『現代版「絹の道」、構想推進を―欧州から日本まで資源の開発・輸送で協力―』、日本経済新聞経済教室、1999年4月1日

 改革開放政策を打ち出した直後の中国で、経済政策を指揮した谷牧副首相は、国土事務次官時代の下河辺淳先生と交流があった。この交流から中国で国土計画を作る動きが生まれた。国土司(局)が中国国家建設委員会に出来、後に計画委員会へ移り、いまの中国国家発展改革委員会の地域経済司に繋がった。そうした動きの中で、中国政府はJICAに「海南島総合開発計画調査」を要請した。中国の改革開放政策には実に多くの日本の政策メーカーが貢献した。

結び


 恩師の増田祐司先生は東京経済大学から東京大学そして島根県立大学へ移られ、北東アジア地域研究センターのトップとして第一線で活躍された。日本、中国や韓国でさまざまな調査、研究にご一緒させていただいた。北京でのフォーラムに出てくださったあと、ホテルで朝まで飲んでお話ししたことが昨日のように思い浮かぶ。先生が島根県立大学を退職されるとき、私は米国ボストンに滞在していた。東京に戻ってきてから、増田先生を慕い敬う方々と一緒に、東京での先生の知的活動場となる研究所づくりに動き始めた矢先、先生ご逝去の悲報を受けた。

 いまでも、大学院生だった当時、午後の暖かい日が差す大学の図書館でばったり会ったときの増田先生の笑顔が目に浮かぶ。あの日、増田先生は私の目の前で開構研の阿部さんに電話をかけ、私を紹介してくださった。あの瞬間こそが、開構研とのご縁の始まりであった。

2001年9月7日「中国都市化フォーラムーメガロポリス発展戦略」広州会場にて。左から林孝二郎、阿部和彦、増田祐司、周牧之

(肩書きは当時)


【参考文献】

周牧之著『メカトロニクス革命と新国際分業―現代世界経済におけるアジア工業化』(ミネルヴァ書房、1997年、第13回日本テレコム社会科学賞奨励賞を受賞)

周牧之『現代版「絹の道」、構想推進を―欧州から日本まで資源の開発・輸送で協力―』(『日本経済新聞』経済教室欄、1999年4月1日)

周牧之主編『城市化:中国現代化的主旋律 (Urbanization: Theme of China’s Modernization)』(湖南人民出版社、2001年)

周牧之著『鼎―托起中国的大城市群(Megalopolis in China)』(世界知識出版社、2004年)

周牧之編著『大転折―解読城市化与中国経済発展模式(The Transformation of Economic Development Model in China)』(世界知識出版社、2005年)

議事録『都市創新ワークショップ:東京会議』(日中産学官交流機構、2005年3月18日)

議事録『都市創新ワークショップ:北京会議』(日中産学官交流機構、2005年7月23~24日)

報告書『日中産学官交流フォーラム:転換点に立つ中国経済と第11次五カ年計画』(日中産学官交流機構、2005年11月7日)

報告書『中国経済研究会』(日中産学官交流機構、2005年11月9日)

報告書『中華人民共和国西部地域中等都市発展戦略策定調査専門家活動報告書』(国際協力機構、2006年1月)

報告書『日中産学官交流フォーラム:中国のメガロポリスと東アジア経済圏』(日中産学官交流機構、2006年5月11日)

報告書『都市創新ワークショップ:中国のメガロポリス・ビジョンとインフラ構想研究会(長江船上会議)』(中国国家発展改革委員会、日中産学官交流機構、2006年7月22~24日)

周牧之著『中国経済論-高度成長のメカニズムと課題』(日本経済評論社、2007年)

周牧之著『中国経済論-崛起的机制与課題 (The Chinese Economy: Mechanism of its rapid growth)』(人民出版社、2008年)

周牧之、楊偉民共編著『第三個三十年―再度大転型的中国(The Third Thirty Years: A New Direction for China)』(人民出版社、2010年)

周牧之、徐林共編著『中国城市総合発展指標2016(China Integrated City Index 2016)』(人民出版社、2016年)

周牧之、陳亜軍、徐林共編著『中国城市総合発展指標2017(China Integrated City Index 2017)』(人民出版社、2017年)

周牧之、徐林共編著『中国都市ランキング―中国都市総合発展指標』(NTT出版、2018年)

周牧之、陳亜軍、徐林共編著『中国都市ランキング2017―中心都市発展戦略』(NTT出版、2018年)

周牧之、陳亜軍共編著『中国城市総合発展指標2018(China Integrated City Index 2018)』(人民出版社、2019年)

周牧之、陳亜軍共編著『中国都市ランキング2018―大都市圏発展戦略』(NTT出版、2020年)

Zhou Muzhi, Chen Yajun, Xu Lin (2020.6) China Integrated City Index ― Megalopolis Development Strategy, Development Strategy of Core City, Pace University Press.


プロフィール

周 牧之(しゅう ぼくし)/東京経済大学教授

1963年生まれ。(財)日本開発構想研究所研究員、(財)国際開発センター主任研究員、東京経済大学助教授を経て、2007年より現職。財務省財務総合政策研究所客員研究員、ハーバード大学客員研究員、マサチューセッツ工科大学(MIT)客員教授、中国科学院特任教授を歴任。〔中国〕対外経済貿易大学客員教授、(一財)日本環境衛生センター客員研究員を兼任。

【専門家レビュー】明暁東:〈中国都市総合発展指標2020〉から見た新型コロナパンデミック下の中国都市発展

明暁東

中国国家発展改革委員会発展戦略和計画司元一級巡視員、中国駐日本国大使館元公使参事官


〈中国都市総合発展指標2020〉英語版 2022年1月7日付中国国務院新聞弁公室HPで発表

 2021年12月28日、雲河都市研究院が中国都市総合発展指標2020を発表した。2020年を振り返ると、世界を席巻する新型コロナウイルスパンデミックや世界経済の深刻な不況などの影響に直面しながらも、中国は都市の強靭性を盾に新型コロナ蔓延の予防・制圧と、経済社会発展の両面で、大きな成果を上げた。中国都市総合発展指標2020は、地級市およびそれ以上の都市(日本の都道府県に相当)の297都市における感染症対策と経済回復の実績を、多角的なデータで客観的に評価した。同指標で新型コロナウイルパンデミック前後の都市のパフォーマンスを比較すると、以下のような知見が得られる。


1.トップランナー構成は安定


 中国都市総合発展指標2020の総合ランキングでは、都市の発展を環境・社会・経済の3つの側面から分析・評価している。2020年の総合ランキングでは、トップ10から11位に転落した武漢とトップ10に入った蘇州を除き、トップ30都市は2019年とほぼ変わらない。

   これら30都市は、中国GDPの43%をも創出し、中国の経済成長を牽引するトップランナーである。新型コロナウイルスショックにより、中国経済は“一時停止”したものの、トップランナーとしてのこれら30都市に大きな浮き沈みはなく、成長を維持し、中国発展のエンジンとして重要な役割を果たした。


2.都市環境が引き続き改善


 中国都市総合発展指標2020環境大項目ランキングは、都市の自然生態、環境品質、空間構造を評価している。2020年の環境大項目ランキングでは、2019年と比較してトップ30の構成に大きな変化は見られない。ナクチュは33位から22位に、泉州は35位から28位に、中山は36位から29位に上昇し、蘇州、宝山、三明は30位以内から外れた。

   カーボンピークアウトとカーボンニュートラルという国家目標を達成するべく、各都市は新型コロナの影響を克服しながら、産業構造の調整、空間構造の最適化、グリーンエコノミーの推進に取り組んでいる。そのため、ランキング上位の都市はいつ下位都市に抜かれてもおかしくない状況にある。都市の環境改善への努力は、中国全土の生態環境改善に直に寄与している。


3.都市ガバナンスは着実に向上


 中国都市総合発展指標2020社会大項目ランキングは、都市のステータス・ガバナンス、伝承・交流、都市生活を評価している。新型コロナウイルスパンデミックにより、都市のガバナンスは厳しい挑戦に立たされた。2020年の社会大項目ランキングでは、2019年と比較してトップ30の構成に大きな変化は見られない。珠海は23位から31位に下がり、南昌は33位から25位に上昇してトップ30入りを果たした。コロナ禍で最も厳しい試練に晒された武漢は9位から16位に下がった。

   新型コロナパンデミック初期、各都市はロックダウン対策を講じ、一時的な影響を受けたものの、都市住民の生活はいち早く正常化した。新型コロナ禍にあって、都市運営で一時的に厳しい措置が余儀なくされたものの、新型コロナを制圧したことでこうした措置は短期間で解除され、都市の生活クオリティ、文化娯楽に深刻な影響は及ぼさなかった。


4.都市経済は順調に回復


 中国都市総合発展指標2020経済大項目ランキングは、都市の経済規模だけでなく、経済構造や効率性も評価している。2020年経済大項目ランキングで、トップ30にランクインした都市は、2019年と比較してほぼ変わりはない。珠海だけが30位から32位に下がり、温州は31位から28位に上昇した。

   中国の都市は新型コロナウイルスパンデミックの影響を克服し、安定した経済成長を維持している。中国経済はすでに構造高度化の局面にあり、新型コロナ禍はこのプロセスを加速した。中国の発展フレームワークは国内循環を主軸とし、国内外の「双循環」が相互に促進する段階に至り、都市は新たな発展段階における構造高度化を進めている。

   さらに〈中国都市総合発展指標2020〉のいくつかの具体的な指標データからは、以下のような知見が得られる。


5.都市のレジリエンス(回復力)を存分に発揮


   2020年中国各都市の新型コロナウイルス新規感染者数(海外輸入感染症例と無症状例を除く)において、最も感染者数が多かった10都市は、初期に新型コロナウイルスパンデミックに見舞われた武漢とその周辺に集中した。且つ中国全土新規感染者数の80.8%はこの10都市に集中した。中国は、およそ1カ月余りでこれら都市での感染拡大を抑え、約2カ月で1日当たりの新規感染者数を1桁にとどめ、約3カ月でゼロ・コロナ状態にした。

   最も感染者数が多かった11位から20位都市の中には、全国におけるGDP規模トップ10都市である上海、北京、深圳、広州、成都、重慶、杭州のほか、ハルビン、長沙、南昌、合肥、ウルムチ、寧波、温州、蚌埠、南陽などの省都や地域経済の中心都市が含まれた。なかには何度もウイルスに襲われた都市もあった。

   最も感染者数が多かった1位から20位の都市の医療リソースを、「中国都市医療輻射力2020」で見ると、北京、成都、上海、広州、杭州、武漢の6都市が同輻射力トップ10に入り世界の大都市にも匹敵する医療機関や医療従事者の厚みを持っている。

   しかし、恵まれない都市も多い。最も感染者数が多かった1位から20位の中で、湖北省に属する12都市を見ると、武漢を除く11都市は医療リソースが少ない。例えば孝感、黄岡、随州、信陽、南陽の5都市は「中国都市医療輻射力2020」で200位以降だった。荊州、鄂州、襄陽、黄石、荊門、咸寧の6都市は100位~200位にあった。 

   こうした状況に鑑み、中国では全国で医療派遣が実施された。医療輻射力の強い都市が弱い都市を支援し、すべての都市に科学的な予防と医療を実施できるリソースを迅速に行き届かせた。よって、いち早く生産活動の再開を実現し、市民生活を取り戻した。

   中国は、感染症制御と経済復興を両立させ、新型コロナウイルスパンデミック以来、主要国で初めて経済成長を実現した。中国の都市の強靭な回復力と活力を見せつけた。

6.陸空海輸送はコロナ対策と経済回復を保障


 「中国都市空港旅客取扱量2020」と「中国都市航空貨物取扱量2020」のランキングを見ると、空港旅客取扱量と航空貨物取扱量のトップ10都市はほぼ一致している。これら10都市は、中国の空港旅客取扱量の45%、航空貨物取扱量の72.8%を占め、中国における航空輸送の主要拠点都市となっている。

   「中国都市港湾コンテナ取扱量2020」トップ10都市は、上海、寧波、深圳、広州、青島、天津、廈門、蘇州、営口、大連であり、この10都市で中国港湾コンテナ取扱量の70.8%を占めている。新型コロナウイルス感染拡大期には、ロックダウンにより一時生産がストップしたことがあったものの、各主要都市では、陸空海輸送を駆使し、緊急物資輸送を円滑に実施した。

   中国交通運輸部(省)のデータによると、2020年の中国港湾貨物取扱量は145億5000万トンに達し、前年比4.3%増となった。国際貿易および産業サプライチェーンの安定化を保障した。

7.デジタルエコノミーが急成長


 「中国都市IT輻射力2020」ランキングのトップ 10 都市は、北京、上海、深圳、杭州、広州、成都、南京、福州、武漢、廈門である。いずれも中国で最も経済的に発展した都市であり、多くの上場IT企業及び従業員を有し、ITインフラが充実している。新型コロナウイルスパンデミックにより行動が制限された時期もあったが、新鋭のITインフラと豊富なIT人材を活用し、中国でオンラインショッピング、在宅勤務、オンライン会議、クラウド展示会などが急速に普及した。都市のデジタル経済は大きく成長し、産業経済のDX化が加速した。

   新型コロナ禍でも、ECは小売消費を押し上げ、越境ECは対外貿易を安定させた。中国国家統計局によると、2020年中国ネット通販売上高は11兆7, 601億元に達し、前年比10.9%増となった。このうち、物品のネット通販売上高は9兆7,590億元で14.8%増となり、中国の社会消費財小売総額の24.9%を占め、前年同期比4.2ポイントもアップした。

   中国税関総署のデータによると、2020年における中国の越境EC輸出入は31.1%増加した。なかでも輸出が1兆1,200億元で40.1%増、輸入が5,700億元で16.5%増となった。新型コロナパンデミックが国際貿易を揺さぶる中、越境ECは貿易を安定化させる重要な力になってきている。

本稿英語版2022年1月11日付中国国務院新聞弁公室HPで発表

日本語版『〈中国都市総合発展指標2020〉から見た新型コロナパンデミック下の中国都市発展』(チャイナネット・2022年3月3日掲載)

中国語版『明晓东:从《中国城市综合发展指标2020》看疫情中城市发展』(中国网・2021年12月31日掲載)

英語版『City development amid COVID-19 from the perspective of China Integrated City Index 2020』(China.org.cn・2022年1月11日掲載、中国国務院新聞弁公室HP・2022年1月11日掲載)

【コラム】横山禎徳:都市デザインの発展段階説

横山 禎徳

東京大学総長室アドバイザー、マッキンゼー元東京支社長


 都市の歴史は長い。少なくとも7000年の経験の蓄積がある。これまでに、考えられるほとんどの都市形態が試されたといっていいだろう。都市をデザインするアプローチも進歩してきた。しかし、必ずしも十分ではない。時代からくる制約も大いにあったのだが、都市の活動を組み立てるという視点から重要な考え方が欠けているのではないかと思う。ここで、筆者が新しい発想に基づいた時代の要求に対応するために最も望ましいと思うアプローチを提案してみたい。

 都市のデザインには発展段階説が当てはまると考えられる。実体論的段階、機能論的段階、構造論的段階、そして、筆者が提案するソフトウェア論的段階である。

 実体論的段階とは、形の美しい都市はいい都市だという議論である。中世のヨーロッパには「理想都市」と呼ばれた都市が存在した。現代でもスイスには多角形のきれいな形をした城塞都市が残っている。しかし、誰が考えてもすぐわかるように、形と都市の質とは直接関係はない。実際、それらの「理想都市」は汚れた不衛生な都市であった。また、ペストなどの疫病にも無防備であった。それだけでなく、形自体が閉じていて、都市のダイナミックな発展を阻害した。すなわち、スタティックな発想である。

 今から考えると、素朴なアプローチである。しかし、こういう都市デザインの考え方が現代に全くなくなったわけでもない。例えば、ブラジルの首都、ブラジリアは飛び立たんとする鳥か飛行機の形をしている。最近、ドバイで開発された高級住宅地域のパーム・ジュメイラは空からみると、ヤシの木のような形をしていて美しい。実際にその地域を訪れた印象では、住んでみたいという気持ちが湧いてこない、殺風景な住宅街であった。

 形が美しいだけでは不十分だ、機能が伴っていないといけないという考えが当然出てくる。それが機能論的段階である。都市の機能とは何か、それは、住む、働く、遊ぶという三つの機能だというのが20世紀前半のCIAM(近代建築国際会議)の考え方であった。その思想影響を受けたと考えられるのが、オーストラリアの首都、キャンベラである。基本形は実体論的段階で幾何学模様の組み合わせであるが三つの機能を湖のある地形を生かしながら美しく配置した。

 しかし、一旅行者としての現地の印象は、建設を開始して何十年もたっているにもかかわらず、魅力ある都市への自発的な展開はまだまだのようだった。都市活動の自由な発想は人が動き回ることから出てくることが多いのだが、歩行者にもそれほどフレンドリーでもないことが、その展開を遅らせているようにも感じた。例えば、国会議事堂の一般参観者に対してオープンな雰囲気とその地下にある巨大で閑散とした駐車場の対比が印象的であった。車に頼らないとアプローチがむつかしい設計になっているのだ。

 次に、当然、それらの機能をどのように人間の活動を生かすように配置するのかというアプローチが必要となってくる。すなわち、構造論的段階である。幾何学模様では人が生活する都市の自発性と活気を作り出すことがむつかしいことも分かった。それではどういう形、あるいは構造が望ましいのだろうか。もっとも基本的で普遍的な形であり、様々な都市生活者の活動を受け入れる自由度のある碁盤の目の形は都市の構造として古代から現代までよく使われてきた。ローマの都市、長安や京都、そしてニューヨークのマンハッタンの街区、近年では、ル・コルビジェがデザインしたインドのチャンディガールがある。

 道路を境界とした機能の配置、すなわち、ゾーニングを計画し実行することで、都市の活動をコントロールできるし、あるいは、都市活動をデザインする人間の能力の限界を感じたのか、1kmのグリッドを決めただけで何も計画せず、ダイナミックな都市活動の自律展開に任せた、英国のミルトンキーンズのような大胆な発想も可能である。

 しかし、一時期マンハッタンでは犯罪が多発したことがあったが、その理由を碁盤の目構造をした道路網のせいにすることはできないであろう。もっと別の理由があったのである。当時のリンゼー市長が私服の警官を大量に増やすことで犯罪は減少した。構造論的アプローチだけでは都市生活の質を確保するデザインはできなかったのである。そして、こんごでてくるであろ、これまで経験しなかった新しく多様な課題に対応することはできそうもないのである。

 ではどうするか。それは、筆者の提案するソフトウェア論的段階のアプローチを活用することである。すなわち、都市はその形態の裏に多種の「社会システム」の重層構造で成り立っているという考え方である。誰でもすぐにわかるのは電力供給システム、上下水システム、交通システム、情報・通信システム、医療・衛生システム、治安システム等である。これらはすべてシステムを作動させるオペレーティング・システム・ソフトウェア(OSS)がデザインされている。これらのシステムが都市に備わっていないと都市は機能しないことは明白だ。

 このような当たり前のことも、近年やっと広く認識されるようになった。筆者が40年以上前、ハーバード・デザイン・スクールのアーバン・デザイン学科にいた当時はまだ、タウンスケープとかアーバニティとか都市形態の考え方が主流であり、「都市のソフトウェア」という概念は明確でなかった。教授陣も建築家出身がほとんどであり、そこから転身して「アーバン・デザイナー」としての職能を確立しようとしている段階であった。そのころ、日本のある文芸評論家が「建築家が都市をデザインするのは、万年筆メーカーが小説を書くようなものだ」と皮肉ったが、そういわれても仕方がない面があった。

 アーバン・デザイナーも発展途上であっただけでなく、「アーバンはデザインできない。デザインできるのはアーバン・システムなのだ」ということもわかっていなかった。従って、それらのアーバン・システムをデザインするのがアーバン・システム・デザイナーであり、アーバン・システムを活用するのがシティ・マネージャー、アーバン・マネージャーだという概念も出来上がっていなかったのだ。それから数十年経ち、アーバン・システム・デザインという考え方が段々と出来上がりつつあるように思う。

 都市は「触れて目に見える」フィジカルなシステムから「触れなくて目に見えない」社会習慣や文化に至る大量なレイヤーが重なった複合的システムで出来上がっている。そして、これまで経験したことのないような新しい課題が時代とともに出現している。空気汚染、大量のごみ・廃棄物の処理、集中豪雨や経験のないほど高い気温、そして、これは過去にもあったのかもしれないが、よりグローバルな形で今回のCOVIT-19のような疫病の蔓延などが出てきている。これらの課題に対して新たな「社会システム」をデザインし実施することが強く求められる時代になってきているといえる。

 その課題解決のためには担当部署という「箱」と施設というハードウェアを作る前に、まずOSSをまずデザインすることだ。東京都の地下にある巨大な雨水貯蔵空間も「集中豪雨時対応排水システム」に必要なハードウェアである。

 今後必要が高まってくる都市システムのサブシステムとしての各種の「社会システム」をデザイン能力が都市をデザインする職能の必要条件になってくるであろう。すなわちソフトウェア論的段階の都市デザインのアプローチである。


プロフィール

横山 禎徳 (よこやま よしのり)

 1942年生まれ。東京大学工学部建築学科卒業、ハーバード大学デザイン大学院修了、マサチューセッツ工科大学経営大学院修了。前川國男建築設計事務所を経て、1975年マッキンゼー・アンド・カンパニーに入社し、同社東京支社長を歴任。経済産業研究所上席研究員、産業再生機構非常勤監査役、福島第一原発事故国会調査委員等を歴任し、2017年より県立広島大学経営専門職大学院経営管理研究科研究科長。

 主な著書に『アメリカと比べない日本』(ファーストプレス)、『「豊かなる衰退」と日本の戦略』(ダイヤモンド社)、『マッキンゼー 合従連衡戦略』(共著、東洋経済新報社)、『成長創出革命』(ダイヤモンド社)、『コーポレートアーキテクチャー』(共著、ダイヤモンド社)、『企業変身願望−Corporate Metamorphosis Design』(NTT出版)。その他、企業戦略、 組織デザイン、ファイナンス、戦略的提携、企業変革、社会システムデザインに関する小論文記事多数。

【インタビュー】周牧之:中国経済の成長と新たなアジア世界の展望



編集ノート:独立行政法人経済産業研究所(RIETI)の機関誌『リエティ・ハイライト(RIETI Highlight)』2021SUMMER号で、『シン・アジア』をテーマとした特集が組まれた。周牧之教授は同誌の特集インタビューにて「中国経済の成長と新たなアジア世界の展望」について語った。


独立行政法人経済産業研究所(RIETI)『リエティ・ハイライト』2021SUMMER号


リード:
中国経済は、世界的な新型コロナウイルス感染拡大や米中対立による貿易摩擦の中でも着実な発展を遂げており、GDPではアジアの半分、日本の約3倍の規模となっている。今回のハイライトでは中国の経済成長の原動力を都市ととらえ、中国の国家発展改革委員会などと協力して環境・社会・経済という3つの軸で都市を評価する「中国都市総合発展指標」の開発を主導した周牧之教授(東京経済大学)に、指標から見える中国経済の姿や今後の見通しなどについて聞いた。


コメンテータ: 
安藤晴彦 
RIETI理事

インタビュアー:佐分利応貴 RIETI国際・広報ディレクター


 

メガロポリス戦略


 周:2010年2月10日、「ニューズウィーク」のカバーストーリーに、「ジャパン・アズ・ナンバースリー」という非常に衝撃的なタイトルで、社会学者エズラ・ヴォーゲル教授と私の対談が掲載されました。当時は中国の国内総生産(GDP)が日本を超えた頃で、私は中国の経済成長の原動力を聞かれ、輸出拡大と急速な都市化だと答えました。輸出拡大は、日本の場合はフルセット型のサプライチェーンだったのに対し、中国の場合はグローバルサプライチェーンの下で展開しました。

 

周牧之、エズラ・ヴォーゲル対談『ジャパン・アズ・ナンバースリー』『Newsweek 』2010年2月10日号


 グローバルサプライチェーン、産業集積、そして都市化はドクター論文から今日まで私がずっと追いかけているテーマです。2001年8月には『城市化:中国現代化的主旋律 (Urbanization: Theme of China’s Modernization)』(湖南人民出版社・2001年)という本を出しました。これは国際協力機構(JICA)と中国国家発展改革委員会との共同プロジェクトで、中国で数年間にわたって実施した都市化政策に関する大調査の結果です。私はその責任者でした。

   当時、中国では都市化という言葉すらまだタブーだったのですが、私は中国におけるメガロポリス時代の到来を予測し、都市化政策の必要性を論じました。上海などの長江デルタ、 広州・香港などの珠江デルタ、北京・天津などの京津冀(けいしんき)の三大メガロポリスが中心となって中国経済を引っ張っていくという仮説を立てたのです。

2001年の予言:メガロポリス時代の到来


 中国政府は、このメガロポリス論を政策に取り入れました。私は、当時第11次5カ年計画を作成していた計画司(局)長の楊偉民さんとともにメガロポリス政策を推進しました。それまでのアンチ都市化政策をひっくり返したメガロポリス政策は大当たりし、今や三大メガロポリスで全国のGDPの4割弱、輸出の7割弱を占め、人類史上最大規模の産業集積地が生まれ、世界経済を引っ張る存在になりました。

メガロポリス:2001年の予言と2020年の現実


中国都市総合発展指標とは


   周:中国の都市化の初期段階では、経済を重視し過ぎるあまり、環境問題や民生、社会問題への対処がかなり手薄になっていました。そこで都市を総合的に評価し、時代に合ったディレクションを示す必要があると痛感しました 。いろいろな人と議論して最後にたどり着いたのは、都市を細胞ととらえて、 しっかりと細胞をつなぎ合わせることで体全体が出来上がるような構造を作ろうという、中国都市総合発展指標のアイデアだったのです。指標では環境・社会・経済の3つの軸から中国の全ての都市を評価しました。現在では、統計データの限界を補うため、衛星リモートセンシングとインターネットのビッグデータを集め、全国298都市(都道府県に相当)を網羅した評価システムとなっています。

「中国都市総合発展指標」:五感で都市を感知するマルチモーダルインデックス


 2000年から2019年までで、中国の輸出規模は10倍に伸び、中国の実質GDPは5.2倍になりました。そして都市エリアも約3倍に増えました。まさに輸出と都市化という2つのエンジンが中国経済を引っ張ってきたわけです。

 297都市の製造業輻射力(その都市の製造業の能力を計る指数)を見ると、トップ10都市で貨物輸出の5割を占め、そのうち9都市は沿海部にあります。さらにこの10都市中7都市は昔、製造業とは無縁の小さな地方都市や漁村でした。まさにグローバルサプライチェーンの展開によって誕生したスーパー製造業シティなのです。

新型コロナウィルスへの対応


 周:今回のコロナ禍で研究を進めたことが2つあります。1つは、コロナ対策にオゾン(O3)が結構使えるのではないかということです。私は2020年の2月18日に論文を発表し、オゾンを推奨してきました。オゾン研究でコラボを組んだ中国の遠大科技集団で製作したオゾン発生器付き空気清浄機を武漢の緊急病院に設置した結果、院内感染を抑え、その後ほとんど院内感染は報告されていません。現在、オゾンに取り組んでいる企業が世界中で増えています。

オゾン利用での新型コロナウイルス対策を提唱


 2つ目はコロナ対策に関する研究で、2020年4月からいくつも論文を出しました。私は、世界各国の対策を「ゼロ・COVID-19感染者政策」と「ウイズ・COVID-19政策」の2つのタイプに分けてとらえました。中国は最初から「ゼロ・COVID-19感染者政策」を取っていました。その理由は、2003年に中国がSARS(重症急性呼吸器症候群)を経験し、感染症対策のための強力な法整備を進めていたからです。

いち早く「ゼロ・COVID-19感染者政策」を研究


 2020年1月20日に中国は、新型コロナウイルス感染症を「中華人民共和国伝染病防治法」に適用し、23日に武漢がロックダウンされました。その後、全国各地で相次いでロックダウンがなされました。そして、ロックダウン解除の条件は、域内の新規感染者を2週間ゼロにすることで、これが功を奏しました。人口14億の国でここまでコロナ対策が徹底できたのは、SARSの時の経験を生かせたからです。

ロックダウン77日間で武漢は新型コロナを封じ込めた

中国経済の今後の見通し


 周:2000年以降、世界経済は大きく変わりました。私は、この時期にゲームチェンジが起こり、世界の経済社会の枠組みが変わったととらえています。それまでなかった徹底的なグローバルベースのビジネスの仕組みができ、人類史上最大の繁栄期を創りました。一方で、発展のゆがみも大きく、貿易の不均衡はもちろん、富の分配の極端な偏り、国民国家というコンセプトとグローバリゼーションとの摩擦も激しくなっています。

   ただ、認識しなければならないのは、現在の世界の輸出の7割弱はこの20年間で新たに生まれたものだということです。そのうち4分の1が中国と米国による貢献でした。残念ながら日本は、その増加分の1.8%しか貢献していません。

   世界のGDPの6割以上はこの20年間で増えたもので、その4分の1が中国、2割が米国によるものです。つまり、米中がこの新たなグローバル経済の最大の推進力になっていたのです。この仕組みを壊すのはほぼ不可能ですし、さまざまな衝突と協力の中で進化していくことは間違いありません。

アジアは世界経済成長のエンジン


 佐分利:今後中国を含む新たなアジア世界、シン・アジアが世界経済の中心となると言われていますが、いかがでしょうか。

 周:すでに中国を含むアジアは世界経済のエンジンになっており、アジアと米国は世界の成長エンジンの両輪として過去20年機能してきました。中国の急成長は米国の変革とも絡んでいて、米国はこの20年間で大きく変貌しました。その変革に米中双方が深く組み込まれているのです。

 例えば民主党と共和党は20年前と比べ立場も支持層も随分変わりました。本来、労働者は民主党支持者だったのですが、今ではトランプ支持になっています。まったく様子が変わってきたのです。米国のこれまでの変革に対する反動も米中関係に直接反映されています。

 中・長期的に見れば、米国と中国・アジアとの連携は間違いなくもっと高まるでしょう。グローバリゼーションやグローバルサプライチェーンも、さら に進化していくと思います。

 佐分利: 国民国家は、今後どうなっていくと思われますか。

 周:私は、世界は都市の集合体になっていくと思うのです。国民国家という枠組みが薄まっていく中で、都市をもっと重視した世界的な仕組みを、スケールアップした発想力で考える時に来ています。

 佐分利: 最後に、日本へ向けてのアドバイスをお願いします。

 周:厳しい話をすると、こんなに大きな感染症が起こって1年半たっても今のような状況というのは、大いに反省して、コロナを収束させることを至上命題にして取り組まなければなりません。人の命がかかっているのですから。ロックダウンを2カ月ぐらいきちんと実施すればコロナは制圧できるのです。そうなっていないのは、恐らくコロナウイルスに対する認識が足りないのかもしれません。また、長期的に見ると、過去20年に起こった世界におけるゲームチェンジに対する認識も甘いと思います。

日中の架け橋となる生活文化産業


 安藤: 周先生のメガロポリス政策はまさに「革命」でしたね。中国は、グローバルな戦略を進める一方で、地方が金融リスクを負ってしまい、環境問題も結構厳しくなっていて、国内では貧困の問題も残っています。その点で、中国の「三大堅塁攻略戦」(重大金融リスク防止、貧困脱却、環境汚染防止)は本当に素晴らしい政策だと思います。

 周先生とは生活文化産業に関するシンポジウムを北京の中国科学院で開かせていただきました。素晴らしい会議でしたね。

国際シンポジウム:中国の生活革命と日本の魅力の再発見、2012年3月24日北京で開催


 周:
10年前、アジアに日本の生活文化産業を輸出できるのではないかと考案したテーマでした。後のインバウンドもその意味では生活文化産業の「輸出」です。日本はそれが一番の強みになると予測し、結果的にそうなりつつあります。このテーマに乗った安藤さんの先見性もすごいです。北京での会 議は、大体途中でみんな席を立って消えていくのですが、生活文化産業シンポジウムは土曜日にもかかわらず600人も詰めかけ、みんな最後までいました。やはり日中両国がこの分野で手を携えていくべきだと皆さん感じていたのでしょう。

 佐分利: 生活文化産業は、日中両国の将来を担う重要な分野だと思います。本日は貴重なお話をありがとうございました。

(敬称略)

 


プロフィール

周 牧之(しゅう ぼくし)/東京経済大学教授

1963年生まれ。(財)日本開発構想研究所研究員、(財)国際開発センター主任研究員、東京経済大学助教授を経て、2007年より現職。財務省財務総合政策研究所客員研究員、ハーバード大学客員研究員、マサチューセッツ工科大学(MIT)客員教授、中国科学院特任教授を歴任。〔中国〕対外経済貿易大学客員教授、(一財)日本環境衛生センター客員研究員を兼任。

【コラム】周牧之:恩師を偲ぶ東京物語

《東京経済》 No.374 2020年10月


編集ノート:東京経済大学学友会の雑誌『東京経済』のインタビューで、周牧之教授が野村昭夫、劉進慶、増田祐司の恩師三人との思い出を語った。本企画では、恩師三人への偲ぶ文を加え、留学時代の東京物語を綴る。

 



1.
日本留学までのいきさつ


 中国で大学を卒業した後、機械工業部という日本でいえば経済産業省に当たるところに配属され、宝山製鉄所の建設プロジェクトに従事しました。これは山崎豊子氏の代表作『大地の子』の舞台になったところです。中国建国以来最大のプロジェクトで、1,000 万トン級の最新鋭の製鉄所を造る壮大さは、改革開放のシンボルでした。私は第2期のオートメーション関連の担当責任者でした。今でもその傾向が強いですが、当時中国の関係者は技術の吸収に非常に熱心でした。が、私は技術よりむしろ政策や社会システムの方に関心が高かったのです。機械工業部では当時、技術の習得のため人員を海外へ大勢送り出していました。私が敢えてそうした枠組みを利用せずに日本に私費留学したのは、技術よりは産業政策を学びたかったからです。当時は、日本の産業政策が国際的に高い評価を得ていました。10 年前に私は『ジャパン・アズ・ナンバーワン』の著者エズラ・ヴォーゲル氏と対談した時、同氏ら日本を高く評価する人たちの著書に影響されて日本留学を決意したと、冗談半分に言ったものです(笑)。 

1995年7月21日、周牧之の経済学博士学位授与式にて、前列左から富塚文太郎学長、周牧之、野村昭夫教授、劉進慶教授。後列左から堺憲一教授、小島寛教授


2.増田祐司先生との出会い


 最初は東京学芸大学の大学院で梅谷俊一郎先生に就いて経済学を学びましたが、近くの東経大に私が関心を持っている分野に秀でた先生がいると聞きつけ、この先生の授業に潜りました。それが増田祐司先生でした。

 増田先生は日本でいち早くIT産業に注目した方で、IT革命やIT産業政策の一大論者であり、海外でも幅広い人脈を持っていました。最先端にいた先生と会った途端に意気投合し、「ぜひ僕のところに来なさい」と言われたのです。 

3.野村昭夫先生の門下へ


 しかし最終的に私が指導教員をお願いしたのは、野村昭夫先生でした。

 増田先生とは IT 革命というフィールドが共通していたにもかかわらず、何故分野の違う野村先生なのか。それにはエピソードがあります。野村先生と出会った日に、先生は大阪市立大学の留学生だった金泳鎬(キム・ヨンホ)氏が書いた『東アジア工業化と世界資本主義—第4世代工業化論』という開発経済学で当時新しい風を吹かせた本を持ち出して、「これに匹敵するものを書きなさい」と言われました。「君が決意したら僕は他のことはすべて投げ捨ててでも指導に当たる」とまで言ってくださった。私はこの言葉に感動して野村先生の門下に入ることにしたのです。野村先生のフィールドはヨーロッパだったのに対して、私はアジアで、技術や産業に重点を置いています。野村先生は私が何を研究しても干渉しませんでしたが、如何に学問として仕上げるか、に関しては厳しく指導してくださいました。全く違う研究分野の先生を納得させるのは大変でした。以心伝心などは野村先生と私との間にはありませんでした。しかしこれが、かえって良かったのです。先生と学生は以心伝心があってはいけないと私自身も思っています。先生にペーパーを提出すると、最初は真っ赤にして返されました。徐々に赤は減りましたが、卒業後、報告のために送った発表済みの論文にも野村先生は赤を入れて返してきました(笑)。

 1995年に『メカトロニクス革命と新国際分業—現代世界経済におけるアジア工業化』という博士論文を提出し、ミネルヴァ書房で出版し、日本テレコム社会科学賞奨励賞というささやかな賞をいただいた。野村先生のご期待にはある程度答えられたかなと思っています。野村先生の指導は本当に良かった。工学から経済学に移った私にとって、先生の厳格な存在がなかったら、学者としての私はなかったと思います。

周牧之著『メカトロニクス革命と新国際分業—現代世界経済におけるアジア工業化』


4.兄貴のような存在の増田祐司先生


 増田祐司先生に甘えてしまうことを怖れ、野村先生のところに入ったことを増田先生に正直に話し理解していただきました。しかし、その後もずっと増田先生に甘えっぱなしでした(笑)。先生は公私ともに相談できる兄貴のような大切な存在でした。修士卒業後、私の政策研究志向を後押しするために増田先生から財団法人日本開発構想研究所を勧められました。経済企画庁と国土庁所管で国土政策や東京湾の開発などを扱うシンクタンクで、私のフィールドも産業政策から、国土政策へと広がりました。霞が関辺りで多くの人たちと議論をし、リアルなシンクタンク経験をすると同時に、毎週野村先生にも会い、 レジュメなどを提出し、ご指導を仰ぐ。そういう大学院生活後半を過ごしたのです。

2001年9月7日に広州で開かれた「中国都市化フォーラム〜メガロポリス発展戦略〜」にて、右から周牧之、増田祐司


 増田先生編纂のご著書への寄稿、国際シンポジウムでの発表など、増田先生は私を一貫して引っ張ってくださった。私の海外の研究調査にも幾度も応援に駆けつけてくださいました。国内外の出張先では徹夜で飲み議論して、実に楽しい時を過ごしました。私にとってかけがえのない先生でした。

 

5.劉進慶先生と「中国経済論」


 台湾出身の劉進慶先生も私が研究生活で大きな影響を受けた方です。博士論文の審査を終えた直後、劉先生から『中国経済論』を書くようアドバイスされました。劉先生は、『韓国の経済』を書いた隅谷三喜男先生の愛弟子で、世に『台湾の経済—典型NIESの光と影』を出しました。一国の『経済論』を書き上げるのは大変な挑戦ですが、劉先生はご自身の経験から私を後押ししてくださいました。その後、劉先生は隅谷邸で伊藤誠先生、涂照彦先生、私などをコアメンバーにした中国経済に関する研究会を立ち上げました。当時、私は中国をはじめ海外に頻繁に調査出張していた時期でした。東京に戻るたびにこの研究会で調査を報告し、喧々囂々の議論を繰り返しました。隅谷先生は経済思想が非常にしっかりしていた方で、産業経済、労働経済の大御所でもあられました。隅谷先生を囲んだ議論で、中国経済論のフレームワークや思想が相当鍛えられました。

2002年12月7日、「隅谷研究会」にて、前列左から劉進慶教授、隅谷三喜男教授、呉天降教授、後列左から張紀潯教授、伊藤誠教授、周牧之。


 2007年に私は『中国経済論—高度成長のメカニズムと課題』を書き上げ、出版しました。隅谷先生、 劉先生が他界された後だったことが、大変残念でなりません。

周牧之著『中国経済論—高度成長のメカニズムと課題』(日本語版、中国語版)

 

6.そして東経大に戻るまで


 1990年代末、劉先生には、ご自身のメイン課目だった「中国経済論」を私が担当するようにと言われていました。当時、私は財団法人国際開発センターで、ODA関係の研究調査に没頭していました。年間 8カ月も海外出張をしていましたので、なかなかお受けできませんでした。それでも劉先生は定年退職される2年前に、私に非常勤講師として「中国経済論」を引き継がせました。いろいろスケジュールを調整し、海外出張から戻り集中講義をするのはなかなか大変でしたが劉先生のご期待に添えるようにと必死でした。

 劉先生に引っ張っていただき2002年に専任教員として東経大に戻ってきました。劉先生の研究室にあった書籍も、そのまま譲り受けました。

 院生時代、東経大では大勢の先生方、職員の皆様にお世話になりました。天安門事件のときには毎週、富塚文太郎先生のゼミでの社会主義についての議論が一種の精神安定剤でした。高山満先生の研究室での授業には毎回、おやつが出ました。長島誠一先生にはよく授業の後にカラオケに連れて行って頂きました。堺憲一先生はよくテニスを勧めてくださいました。柴田徳衛先生には中国政府からの訪問団のレクチャーをお願いしました。

 数年前、後に在中国日本大使にもなった横井裕氏から、「あなたが大学院に在籍していた時の東経大には優秀な中国人留学生が集まっていた。このことは当時外務省にいた僕も認識していた」と言われました。私に言わせれば、これは、当時の東経大の素晴らしい教員陣に魅了されて優秀な留学生が集まった結果です。母校にもっとも恩恵を受けたものの一人として、ご恩返しに努力しなければいけません。

《東京経済》 No.374 2020年10月


 

劉進慶先生を偲んで

周牧之 東京経済大学教授

編集ノート:劉進慶先生は、日本統治下の台湾に生まれ、東京大学に留学し、隅谷三喜男教授のもとで経済学博士を取得。東京経済大学教授、(中国)対外経済貿易大学客員教授、北京大学客員教授、スタンフォード大学客員研究員、1992年ハーバード大学客員研究員を歴任。

 劉進慶先生は、1975年に『戦後台湾経済分析—1945年から1965年まで』を著し、台湾経済研究のフレームワークを初めて世に提示した。その後『台湾の経済—典型NIESの光と影』、『激動のなかの台湾—その変容と転成』、『台湾百科』、『日韓台の対ASEAN企業進出と金融—パソコン用ディスプレイを中心とする競争と協調』、『台湾の産業政策』、『東アジアの発展と中小企業—グローバル化のなかの韓国・台湾』をはじめとする数多くの著作を出版し、激動するアジア経済について多くの論点を提起、アジアの時代を展望する膨大な業績を残された。2005年10月23日に他界。

 周牧之教授は三度にわたり「劉進慶先生を偲ぶ会」を主催し、日本、中国大陸、台湾から大勢の方々が参加し劉先生の功績を讃えた。これを踏まえ、東京経済大学報2005年12月号に寄稿し、劉進慶先生への想いを綴った。



 台湾ご出身の劉進慶先生が勉学のため一九六二年、来日されたのには深い志があってのことでした。戦後の台湾経済に関する研究が長い間進まず、台湾での社会科学研究がゆがめられてきた状況を、戦前は「日本帝国主義の抑圧下にあって(台湾出身者が)自ら台湾の政治経済を研究することが困難な状況にあった」ことと同時に「抑圧に屈した台湾知識人自身のふがいなさ」の結果であったと、劉先生はご著書『戦後台湾経済分析』(東京大学出版会)のはしがきで言明されています。

   さらに戦後の台湾は、国共内戦のため長きにわたって戦時体制下にあり、戒厳令がしかれて思想言論が厳しく統制された時代が続きました。「学問研究、とりわけ人文社会科学の分野においては、多くの政治的「禁忌」が研究の前に立ちはだかっていたことが、台湾での研究活動を萎縮させ、学問の進歩や研究の成果を期待できる状況をもたらさなかった」(同上)とし、当時の台湾の「研究状態のゆがみが、研究のゆがみをもたらしている」点、さらには「台湾経済研究の乏しさが台湾経済発展の足かせになっている」点について先生は殊更意識されました。とりわけ、「台湾出身者による台湾研究の必要性と重要性」に鑑み、台湾経済の発展に役立つ真の経済研究を志して、日本留学を決意されたと伺っております。劉先生のたゆまない学究生活の出発点には以上のようなことがあったのです。中国に生まれ東京で中国経済研究を続ける者として、私は先生のご研究の出発点となったこの高い理念について、いま改めて深い感銘と共感を禁じえません。

2002年3月14日、「劉進慶先生のご定年を祝う会」にて、左から劉進慶教授、陳焜旺日本華人華僑連合総会会長


 来日後は、東京大学の隅谷三喜男先生の元でご研究を重ねられ、『戦後台湾経済分析』を世に出されたのは一九七五年でした。戦後三十年の台湾経済を総括した同書は、大陸、台湾双方で翻訳出版され、台湾では一九九二年度十大優秀図書賞を受賞されました。劉先生は台湾経済研究を初めて体系化された、まさに先駆的存在でした。

 台湾が一九七〇年代から工業化の道をひた走り、輸出が急増してNEISの一員となると、先生はそれまでのご業績をふまえ、台湾のNEIS化のメカニズム解明にあたり、NEIS研究の第一人者としても大きな役割を果されました。

 さらに一九九〇年代からは中国経済発展のメカニズムを解き明かすために研究を進められました。先生の大陸研究の着眼点は農民農村問題でした。それまでの台湾研究のエッセンスを土台にし、まさしく現代中国が抱える最重要課題のひとつである農民農村問題についていち早く注目されたことで、私たち中国経済研究の後進に中国農村農民研究への貴重な示唆を与えてくださいました。

 個人的には、劉先生の恩師であられる隅谷三喜男先生のご自宅に、劉先生に伴われ月に一度伺い、議論の輪に加わらせていただきました。若輩の私が失礼も省みず隅谷先生に真正面から論争を展開し、議論の応酬になってしまいましたのを、劉先生はあの独特の優しい眼差しでじっと見守っておられましたが、実は内心少々困ったなと思っていたのだと後で笑いながら打ち明けてくださったことが懐かしく思い起こされます。隅谷先生は私のことを面白がってくださったのか、その後数年間、隅谷先生がお亡くなりになるまで毎月ご自宅をお訪ねし、勉強させていただきました。劉先生の直接の弟子ではなかった私が劉先生に身近にご指導いただくようになったのは、この「隅谷研究会」が始まりでした。学問上のご指導に留まらず、劉先生の信頼感あふれる温かいお人なりから多くのことを学びました。

 劉先生はまた何よりも東京経済大学を「わが大学」としてこよなく愛してこられました。二十七年間研究、教育に全力を傾け、学部長、図書館長、入試委員長ほか数々の要職にあって大学の発展に情熱を注ぎ、多くの後進を育ててこられたことは周知の通りです。 

 劉先生が東経大にことのほか思いを寄せておられたのには特別の訳があります。「一九七三年、台湾政府に睨まれて、パスポートを取り上げられた。母国に戻れぬ外国の「棄民」のこの身を、わが大学はなんら問うことなく、終身雇用していただいた」(東京経済大学報 二〇〇二年春号)とあります。東経大の当時の執行部のリベラルな見識が劉先生の東経大への強い帰属意識を培ったのだと伺いました。

   劉先生はご出身の台湾と、大陸との両岸関係の正常化への努力を惜しまず続けてこられました。ご定年後も大陸と台湾との間を奔走された先生は、病窓で何度となく両岸関係正常化をこの眼で見られないことの無念さをおっしゃっていました。

   ご遺志を引き継ぎ、たゆまず研鑽を重ねることで劉先生の魂をお慰み申し上げたいと思っております。

《東京経済大学報》2005年12月号

2002年3月14日、「劉進慶先生のご定年を祝う会」にて、周牧之が劉進慶教授ご夫妻へ祝辞

 

野村昭夫先生を偲んで

周牧之 東京経済大学教授

編集ノート:野村昭夫先生は、世界経済研究所、日本リサーチセンター研究員を経て、桃山学院大学、福岡大学で教鞭をとられ、1985年から東京経済大学教授。

   野村昭夫先生は、世界経済の構造変化とヨーロッパ経済の産業構造の転換について一貫して研究を重ね、『現代資本主義と経済統合』、『自由化とEEC』、『世界経済と多国籍企業』、『現代世界経済論』、『国際経済論』、『現代の世界経済』をはじめとする数多くの著作によって、世界経済とヨーロッパ経済について多くの論点を提起し、広範かつ激動の歴史過程を体系的にとらえる業績を残された。2008年5月7日に他界。

   2009年10月3日に周牧之教授は関係者を募い偲ぶ会を主催、恩師への想いを述べた。



 野村昭夫先生に初めてお目にかかったのは1988年、いまから20年前です。

   当時、わたしは東京学芸大学大学院に在籍していました。学芸大はたいへんいい大学ですが、教員養成大学で、経済学を専門的に学び続けたいと思っておりました私には進路を新たに考え直す必要を感じていました。

   ちょうど当時、野村先生の学生だった人が私の同郷の友人であったことから野村先生を紹介してくれました。

   初めてお目にかかった日、2時間以上、相当長くお話しをしました。野村先生がその日、お話しの最後におっしゃったことが非常に印象深く残っています。

   金泳鎬(キム・ヨンホ)という、のちに韓国の通産大臣になり、その当時は大阪大学で博士学位をとって論文を出版された直後の方の話でした。この本が当時、日本の開発経済学界では大変高く評価されていまして、私も読んでいましたが、野村先生は、「私のところで、大学院生としてやっていくなら、この本を超える論文を書く志をもちなさい」と言われました。その決心があるのなら最大限に指導し、協力しましょうとおっしゃったのです。そのお言葉に励まされ、先生の元で学ぶ決心をいたしました。

   野村先生は、一貫して新仮説を打ち出すことを前提として論文指導をしてくださいました。わたしはIT革命を東アジア工業化と結びつける仮説の提示を研究の軸としておりました。先生のその後のご指導は厳格かつたいへん御丁寧でした。私の書いたものに毎回赤字を入れながら、一字一句丹念に読んでくださいました。私はそれを受け取り、さらに精進するという共同作業を、論文完成まで6年間続けました。

   野村先生は現場と理論とのバランスをとりわけ重視されました。

   その後、私は財団法人日本開発構想研究所という経済企画庁、国土省所管のシンクタンクに在籍しながら、ドクターコースで学んでいました。

   霞が関での調査、中国での調査で芽生えた発想、考え、アイディアを、野村先生に報告いたしますと、先生はそれを大変重視してくださり、学問への結びつきについて指導してくださいました。

   実は野村先生と私とは、専門分野が違います。野村先生はヨーロッパ経済が軸で、私は中国、東アジアを中心にした産業論、国土政策、都市計画です。

   しかし専門は違っても先生とわたしの師弟関係は非常にうまくいったのではないかと思います。

   それは野村先生ご自身もシンクタンクにいらっしゃったご経験があり、現場の実情と理論との調和や、現場の事実を学問的に、体系的に捕らえる方法に非常に長けていらしたゆえです。

2002年3月14日、「劉進慶先生のご定年を祝う会」にて、左から隅谷三喜男教授、野村昭夫教授


 野村先生はまた、男のロマン、人間として大きなロマンをお持ちでした。私は大陸出身で、大きなことを考えがちですが、先生はそれをいいことだ、とおもってくださるようなところがありました。恩師がロマンチストだったことが、私にはたいへん幸せでした。

   IT革命をどう東アジアの躍進に結び付けていくのか、ということ。あるいは現代版シルクロードの構想、中国の都市化、メガロポリス化の発想に先生は賛同してくださり、理論化への指導をしてくださいました。

   先生はさまざまなロマンをお持ちだったと思うのですが、そのうちのひとつとして、江戸時代を題材にして歴史小説を書きたいと、いつかおっしゃっていたことがありました。お酒をご一緒しながら、あるいは先生のシャンソンを聞きながら、先生のロマンを伺いました。

   私の結婚に際して、野村先生にいただいたお言葉があります。

   「静かにゆくものは健やかにゆく、健やかにゆくものは遠くゆく」

   このお言葉には何よりも野村先生ご自身の生き方が現れていると思います。このお言葉をこれからも、研究者としての、また生活者としての指針として、歩いてまいりたいと思います。

   本日は大勢の先生、みなさまにお集まりいただきまして、ほんとうにありがとうございました。会のコーディネーターを務めるにあたり、多くのみなさまのお力をいただきました。人と人とのつながりの大切さを、あらためて深く感じました。

   心より御礼を申し上げます。ありがとうございました。

2009年10月3日「野村昭夫先生を偲ぶ会」にて

2009年10月3日、「野村昭夫先生を偲ぶ会」にて、右から周牧之、富塚文太郎教授、野村公子夫人


増田祐司先生を偲んで

周牧之 東京経済大学教授

編集ノート:増田祐司先生は、機械工業振興協会経済研究所で研究者として第一歩を踏み出した。アメリカ・クリーブランドの研究所に出向後、東京経済大学教授、欧州委員会(EC)科学技術局第XII総局上級研究員、東京大学大学院教授、島根県立大学北東アジア地域研究センター所長・副学長を歴任。

   増田祐司先生は、1970年代半ばから、『経済評論』、『週刊 東洋経済』、『週刊 エコノミスト』などの経済専門誌の常連執筆メンバーとして脚光を浴びた。『技術先端産業』、『情報通信の新時代 ニューメデイア技術の行方』、『知識化社会への構図』、『情報経済論』、『情報の社会経済システム』、『人間重視の社会経済』、『北東アジア地域研究序説』、『北東アジア世界の形成と展開』、『北東アジアの新時代─グローバル時代の地域システムの構築』をはじめとする数多くの著作によって、情報革命が世界経済そして北東アジアに与える影響について多くの論点を提起し、時代のパラダイムをとらえる思考で現代社会を展望する膨大な業績を残された。2010年11月2日他界。

   2011年4月23日に周牧之教授は関係者を募って「増田祐司先生を偲ぶ会」を開き、恩師への想いを述べた。



 増田祐司先生とは1988年の秋、東京経済大学のキャンパスで初めてお目にかかりました。先生の御専門の産業技術論は、私が志望していた専門と大変近かったことに加え、先生の発想の豊かさ、心優しいお人なりに惹かれ、大学院のゼミに加えていただきました。

   私の大学院生活で最も楽しかった時代が、増田ゼミでの2年間でした。ゼミの時間が終わってから時折、国分寺駅周辺へ飲みに連れて行ってくださり、深夜まで語り合いました。お酒の席での先生の寛がれたときの笑顔は、いまも目に浮かんできます。

   東京経済大学が創立90周年を迎えた1990年には、増田先生が中心となられて90周年記念国際シンポジウムが開催されました。先生の幅広いご人脈で世界中から高名なエコノミストが招かれ、論点の鋭さ際立つ議論により大成功をおさめました。

   昨年は東京経済大学の110周年記念の年でした。110周年記念シンポジウムは、今度は私が力を尽くす番でした。20年前のシンポジウム開催時の増田先生のご尽力に思いを馳せ、そのお姿に学び、海外から高名なエコノミストや実業家を多数招いて盛大に行いました。

   博士課程に進んだときに、先生から「大学の中に閉じこもって机の上だけで研究するのでは足りないから」と言われ、財団法人日本開発構想研究所をご紹介いただき、私はそこで職を得て働きながら学ぶこととなりました。先生のご学友の阿部和彦氏、杉田正明氏をはじめ所員の皆さんに大変よくしていただき、日本の国土開発政策そして地域開発政策について実地に学ぶ機会を得られました。

   先生はその後東京経済大学のサバテイカル休暇を利用しヨーロッパに出向かれ、EU委員会科学技術局第XII総局上級研究員を務められました。東京大学社会情報学研究所の教授に就任された後も、私の博士論文の執筆には先生から数々の示唆をいただきました。先生のご指導を仰いだ同論文で博士号を取得し、『メカトロニクス革命と新国際分業』(ミネルヴァ書房)として出版いたしました。

   増田先生は私たち後進にとって素晴らしい研究リーダーでもありました。常に私たちの研究意識を高め、数多くの研究プロジェクトを立ち上げられました。わたしも先生のお誘いを受け、いくつかのプロジェクトに呼んでいただき、先生主編の5冊以上の本に、執筆者として加えていただきました。

   私は1995年、財団法人国際開発センターに移籍し、中国を中心とするアジア各国の政策支援とプランニングに従事しました。増田先生を私が関わったプロジェクトにお迎えしたことも度々ありました。とくに先生は私が中国で提唱したメガロポリス政策に関連して、清成忠男、伊藤滋、田中直毅、星野進保、福川伸次、保田博、塩谷隆英、今野修平氏ら日本の蒼々たる学識者らとともに、中国でのシンポジウムに御登壇され、中国政府関係者との議論に積極的に参加してくださいました。努力が実り、中国の第11次5カ年計画にて従来の大都市抑制政策が見直され、メガロポリス政策への転換が図られる事となりました。今日の中国の大発展はこの政策実施の結果でもあります。増田先生がこのプロセスに大きく貢献されたことをここに明記しておきたいと思います。

2000年12月15日に中国南京で開かれた国際シンポジウム「中国都市化戦略とアプローチ」にて、増田祐司教授(左)、右から今野修平教授、周牧之


 振り返れば北は北京から南は広州にいたる中国各地、そして韓国と、アジアへの調査及びシンポジウム参加のため様々な機会を利用して、増田先生とは毎年のように旅をご一緒しました。旅先での先生との議論は一層格別でした。宿泊先のホテルで飲み明かしたときは、先生はよく奥様自慢をされ、ご家族思いでいらっしゃることに感銘を受けました。

   私は2007年から2009年まで米国マサチューセッツ工科大学の客員教授を務めました。渡米前に、増田先生は送別会を開いてくださいました。私の妻も呼んでいただきました。その日先生は大変にお元気で、いつもに増して明るく、ユーモアを連発されました。あの晩は、恩師増田先生と友人と共にこれからの日本、中国、アジアの社会を大きく展望しました。生涯忘れる事のできない夜となりました。あの日が増田先生とお目にかかった最後の日になるとは思いもよりませんでした。

   米国から東京に戻ってまもなく、先生自らお電話で入院されたと仰いました。お見舞いに伺いたいと申し上げたところ、先生は「もう少し元気になったら呼びますから、家族連れで銚子にいらっしゃい。アジアの広さとつながりを展望できるとても良い場所ですよ」とおっしゃいました。昨年、増田先生を知る友人と、島根から戻られた先生に、東京でご活躍していただく場を作りましょう、と相談していた矢先、突然の訃報を受けました。まさに青天の霹靂でした。

   人生最良の師を失った私にとって、残された道は、増田先生が抱かれた壮大な夢と志、そしてひと際豊かな発想力を継承し、テクノロジーがいかに社会を変えていくか、そして東アジアをいかに統合させていくかについて探求し、東アジアの統合と発展、そして平和に力を尽くすことです。これを恩師増田先生のご恩に報いる最善の道と心を新たにしております。

2011年4月23日「増田祐司先生を偲ぶ会」にて

2001年9月7日に中国広州で開かれた「中国都市化フォーラム〜メガロポリス発展戦略〜」にて、左から周牧之、増田祐司教授 

プロフィール

周 牧之(しゅう ぼくし)/東京経済大学教授

1963年生まれ。(財)日本開発構想研究所研究員、(財)国際開発センター主任研究員、東京経済大学助教授を経て、2007年より現職。財務省財務総合政策研究所客員研究員、ハーバード大学客員研究員、マサチューセッツ工科大学(MIT)客員教授、中国科学院特任教授を歴任。〔中国〕対外経済貿易大学客員教授、(一財)日本環境衛生センター客員研究員を兼任。

【コラム】福川伸次:日中関係、新次元への昇華の途を探る 〜質の高い経済社会の実現と新グローバリズムの形成に向けて〜

福川 伸次

東洋大学総長、元通商産業事務次官



本稿英語版『Tokyo and Beijing can pave way for global trust』(CHINA DAILY, 3 Dec 2021)


1.日中関係新次元への昇華への期待

 日中両国は、2022年9月国交正常化50周年を迎える。中国は、その間、目覚ましい経済成長を遂げ、政治、経済を通じて世界で重要な地位を占めるに至った。両国の協力関係も中国が「改革と開放」政策に重点を置いた段階から新たな次元に昇華しなければならない。

 1979年12月、私は、故大平首相の訪中に秘書官として同行する機会を得た。毛沢東主席も、周恩来首相もすでに他界され、中国は1978年に実施した「改革と開放」政策のもと、「新しい中国」への歩みを始めていた時期であった。

 12月7日、政協礼堂で講演した大平首相は、国交正常化交渉の当時を振り返り、「我々の胸中は、大きな期待とそれに匹敵する不安に満たされておりました。しかし、その不安も故周恩来首相の『小異を残して大同を求める』という言葉によって表現された中国の指導者、並びに中国国民の大きな度量によって解消され、日中国交の正常化の大業は成就いたしました」と当時の思いを語った。大平氏は、当時外相として田中首相を補佐し、国交正常化に向けて緻密に準備し、その実現に漕ぎつけただけに、その後の中国の動向には深い関心を懐いていた。

日本経済新聞「私の履歴書」をベースにした福川伸次著『ジャパナビリティ 世界で生き抜く力』

 「改革と開放」政策に確かな手応えを感じた大平首相は、滞在中に中国の産業活動の基礎となるインフラ整備などに円借款供与の方針を明らかにした。

 その後、中国は、日本をはじめ諸外国の経済改革の経験を取り入れながら構造改革を着実に進めた。1990年代以降高度成長の過程に入り、2001年には世界貿易機構(WTO)に加盟した。そして2010年には日本の経済規模を抜いて世界第2の経済大国となり、現在では日本の約3倍の経済規模を持つ。その間、中国は、経済改革と技術開発を進め、日本の最大の貿易相手国となり、先端技術分野において米国に迫る能力を持つようになった。その反面、政治、経済、技術、軍事などの運営について他の先進国から警戒感をもって見られている。

 故大平首相は、先に引用した演説を将来への警告で締めくくっている。「国と国との関係において最も大切のものは、国民の心と心の間に結ばれた強固な信頼関係であります。日中両国は、一衣帯水にして2000年の歴史的文化的なつながりがありますが、このことのみをもって両国国民が十分な努力なしで理解し合えると考えることは極めて危険なことではないかと考えます。・・・一時的なムードや情緒的な親近感、さらには経済的な利益、打算の上にのみ日中関係の諸局面を築きあげようとするならば、所詮砂上の楼閣に似たはかないものになるでありましょう」と。

 当時、両国では大平演説におけるこの部分はさして注目を惹かなかったが、彼は、長きにわたる日中関係の信頼と発展を真摯に願い、次世代の政治家、経済人、研究者に真剣な努力を求めたのである。 

 歴史は、世界の政治経済構造が常に変化することを教えている。中国は、やがて経済力で米国と比肩し得る水準に達し、国際政治の運営にそれなりの責任と役割を担うことになろう。情報関連分野をはじめ高度技術の分野でも、世界に知的な貢献を果たすに違いない。

 2021年1月米国大統領に就任したバイデン氏は、自由経済と民主主義に基づく世界秩序の再建に努力しようとしている。同年7月習近平国家主席はAPEC非公式首脳会議で「新発展枠組みを構築し、より高いレベルの開放型経済新体制」を築くと述べた。日本は、「平成の停滞」を超えて、新しい次元に立った「令和の改新」の途を探求し始めている。

 私は、こうした変化を見るとき、故大平首相が示唆したように日中関係を絶えず新しい基盤の上に昇華する努力を続けなければならないと考えている。

 

2.AI(人工知能)基軸の「質の高い経済」を構築すること

(1)「質の高い経済」の目指すもの

 日中両国が21世紀において努力すべき課題の第一は、AI主導の革新的な情報通信技術を基軸とした「質の高い経済」を実現することである。世界経済が資源の有限性と地球環境の悪化に苦悩しているとき、我々が選択できる道は、資源への依存度や地球環境への負荷が低く、創造性と付加価値が高く、人間機能が発揮できる「質の高い経済」の実現でしかない。幸いにして、人類は、AIを活用した情報革新を進め、これによって「質の高い」新しい経済(New Economy)を実現する手段を手に入れることができた。

 日本産業は、1980年代から90年代前半にかけて世界でトップ・レベルの産業力と技術力を誇ったが、その後バブル経済が崩壊して産業力が停滞し、現在その回復に努力している。中国は、情報通信技術を先導した米国を追って優れた成果をあげ、先端技術分野では米国に比肩し得るようになった。米国はこれを警戒し始めている。

 2020年初頭から急速に拡大した新型コロナ感染症(COVID-19)は、人類の健康と生命に脅威を与え、経済社会を停滞に追い込んでいるが、一方でDX(Digital Transformation) を加速し、「新しい経済」システムの構築の契機ともなっている。

 「質の高い経済」の実現に向けて日中両国が協力すべき分野は多方面にわたる。

(2)イノベーションの積極展開

 第一は、イノベーションの積極展開を図ることである。21世紀は、AIなどを中心に、イノベーションが新展開をみせる時代である。20世紀に入った当時、世界は石油時代を迎え、ヨーゼフ・シュンペーター教授は、1910年イノベーションを「経済活動の中で資源、労働力などの生産手段を今までと異なる方法で新結合すること」と定義したが、私は、現代の情報通信革命時代のそれを「経済活動の中で革新的なIT技術の活用を通じて情報を整理、統合、活用し、新しい知的価値を創造すること」と定義したい。

 我々は、今や、AIなどの情報技術の活用により人間の肉体的限界を超越して情報価値の伝達を効率化し、複雑性の限界を克服して付加価値の向上を実現することができる。サイバー空間と物質空間の融合を通じて正確性の確保、効率性の向上、時間価値の充実を実現し、経済活動を物的生産主義から価値利用主義へと進化させることになる。

 AIの活用は、設備の自動化により工場や店舗の無人化を実現し、高度な遠隔治療を可能にし、スマホ決済、キャッシュレス化、仮想通貨を実用化する。情報伝達の正確性、迅速性、効率性、最適選択性を高め、付加価値の向上を実現することが可能となる。

 イノベーションの進展分野は、高度情報技術を軸に、生化学、新素材、宇宙、海洋、高度医療、新エネルギー、電気自動車、蓄電装置、ドローン、水素利用など多岐に及ぶ。

 イノベーションの国際競争は、ますます激しさを増し、先導する米国を中国が迫っている。ドイツ、英国、フランス、イスラエル、そして日本、台湾、韓国などがこれに続く。日本は、1990年代に入っていわゆる「バブル経済」が崩壊して経済が停滞し、イノベーション力が落ちてきたが、最近それに気づき、政策的に力を入れ始めている。

 イノベーションを加速するため、主要国は、研究開発への政策支援、知的人材の育成、新たな競争条件の整備などに力を入れている。市場条件の整備に当たっては、革新性、公平性、効率性、そして競争性が鍵となる。最近のイノベーションは、米国のシリコンバレー、中国北京の中関村、深圳の南山区などが示すように、都市の知的機能の集積が大きく貢献している。周牧之教授が指導する中国都市総合発展指標の研究は重要な意義をもつ。

2008年9月19日「北京―東京フォーラム晩餐会」にて

(3)グローバル市場の効率運用

 第二は、グローバル市場の効率運用に協力することである。それには、グローバル市場ができるだけ自由で、合理的で、かつ公平、安全なルールのもとに運用される必要がある。日中両国は、それに向けて米国、EUなどと協力して合意を形成するとともに、世界貿易機構(WTO)の機能の復活に先導機能を果たす必要がある。 

 そのつなぎとしては、RCEP、TPP、APECなど地域的な自由貿易協定を合理的に推進、活用する必要がある。日中両国は、人口、世界貿易規模で世界の3割を占めるRCEPの早期発効とインドなどの加盟国の拡大に努める必要がある。TPPに関しては、英国が参加を表明し、中国が加入の検討を示唆しているが、その具体化は、世界貿易体制の整備に役立つに違いない。また、米国と英国の間で、新大西洋憲章の締結が協議されている。

 情報通信技術の進歩は、技術独占など世界の競争条件に大きな影響を与え、企業活動の拠点が集中化する危険がある。これらについても、適正な国際ルールを設定する必要がある。日中両国がこうしたルール設定に向けて、先ずはその経験を持ち寄り、「質の高い経済」の実現に向けて先導すべきだと思う。

(4)企業経営の改革

 第三は、企業の経営手法の改革に協力することである。経営の側面では、情報通信技術の進展によってその効率化が進むとともに、電子オフィスなど働き方の改革が進む。コロナ感染症の拡大は、企業経営のDX化を促進する契機となっている。企業経営のDX化は、それに止まらず、企業経営を根本から変革する力をもつ。例えば、利益構造を規模の利益から情報、連結、時間の利益へと変革し、全体最適を実現する手法を可能にする。企業経営の目的は、収益価値、顧客価値、従業員価値及び社会価値の総和の極大化にあるが、AIは、これを実現する手法を提供してくれる。

 今後の企業経営には、人間安全保障の実現など新しい制約要因が加わる。同時に、知的所有権の保護、情報独占の弊害の除去などの市場管理が求められる。こうした市場の枠組みは、合理的で、全体最適でなければならない。日中両国は、その最適な条件整備に英知を結集する必要がある。

3.政治安全保障体制の確立を図ること

(1)国際構造の歴史的変化

 国内利益の擁護と拡大を図ることは、政治の宿命である。トランプ前大統領が「米国第一主義」を掲げ、国内産業を保護しようとしたことは、短期的には、政治の必然である。しかし、それは、国際政治体制を動揺させ、長期的には米国経済の衰退を招く。

 18世紀から19世紀にかけて、欧州を中心に、君主制が崩れ、市民社会が形成されたが、主要国の政治は、拡張主義、強国主義、軍国主義、植民地支配を志向した。その結果、主要国の間で熾烈な抗争が生じ、20世紀には2度の世界大戦を招く。そして、主要国は、国際連合を設立し、国際協調主義を志向するようになる。しかし、政治体制の違いから米ソの東西対立の時代となるが、1989年ベルリンの壁が崩壊し、世界の政治は、これを契機にグローバリズムを志向するようになる。

(2)国際社会の多極化

 かかる国際社会構造の変化は、自由な経済活動の動きから中進国、発展途上国の経済拡大を招き、世界経済は多極化へと向かう。その結果、主要国の主導力が低下し、多極化した世界の政治構造では、国連をはじめ国際機関の合意形成が困難となり、世界秩序が動揺する。

 こうした中で、米国ではトランプ前大統領が前述のように、国内利益を擁護する政策に出た。一方中国が経済力を強化し、技術力を充実させ、米国との間で貿易紛争が厳しさを増し、さらに経済、政治、技術、軍事などの面で米国と覇権を争うようになる。

 こうした変化と並行して、情報関連技術は益々進歩し、経済活動は、世界で同じルールによって運営することが求められる。かつてのように、特定の国がその政治力を背景に国際市場を支配することはもはや困難になっている。加えて、地球温暖化など国際協力が不可欠な現象が起きている。国際政治は、もはや国内政治の延長では律しられない。

 最近、中国をめぐる国際情勢は、複雑なものがある。4月16日の日米首脳会談では、尖閣列島の帰属、台湾海峡の安全問題などが取り上げられた。日米を中心にインド太平洋の協力、QUAD(Quad-lateral Security Dialogue) の協力体制などが進められ、中国は、「一帯一路」政策を推進している。これらについて、相互理解が進むよう緊密な対話が期待される。

(3)グローバリズムの意義

 国際社会においては、人権の尊重、自由貿易の保証、主権の尊重、法の支配が保証されなければならない。そうしたうえで、国際協力が展開される必要がある。

 国際社会を形成する各国がどのような政治体制を取るかは各国の選択である。問題は、各国が国際社会のルールを設定するにあたり、グローバリズムの健全な運営に貢献することが決め手となる。日中両国は、連帯、信頼、自由、創造に支えられた望ましい世界の構造は何か、人類が人間としての価値と能力を発揮できる国際環境はいかなるものか、世界に「新しい経済」を導く最善の仕組みをいかに形成するかなどにつき議論を深め、米国、EUなど他の主要国との対話を進める必要がある。

2004年「アジアシンポジウム」にて、上段左から福川伸次(通商産業事務次官)、邱暁華(中国国家統計局副局長)、加藤紘一(日本衆議院議員);第二段左から楊偉民(中国国家発展改革委員会計画司長)、周牧之(東京経済大学助教授)、馬建堂;(中国国有資産監督管理委員会副秘書長)第三段左から安斎隆(セブン銀行社長)、林芳正(日本参議院議員)、小林陽太郎(富士ゼロックス会長);下段左から横山禎徳(産業再生機構監査役)、塩崎恭久(日本衆議院議員)、国分良成(慶應大学教授)

4.人間の安全保障体制を充実すること

(1)人間の安全保障の必要性

 私は、日中両国が人間の安全保障体制の充実に向けて共同して世界をリードすることを期待したい。これは、中国都市総合発展指標においても、重要な機能を持つ。

 国連環境開発計画(UNDP)は、1994年人間の安全保障政策を公表し、健康、医療、教育、テロ防止、自然災害への対応などを提案した。そして、国連総会は、これを発展させ、2015年9月SDGs(Sustainable Developments Goals)を目標に、No Poverty、Zero Hunger、 Decent Work and Economic Growth、Climate Actionsなど17の目標、169の行動計画を採択した。SDGs は世界の各企業が真剣、かつ、効果的に実践すべきものであり、日中企業もその展開に協力する必要がある。

(2)新型コロナ感染症

 新型コロナ感染症(COVID-19)への対応は、人間安全保障の確立の重要な一環をなす。日中両国は、主要国と協調してこれに対応する体制を先導すべきである。残念ながら、世界保健機構(WHO)は、感染源の特定、治療法の確立、ワクチンの普及などに十分な機能を発揮できず、主要な感染国はロックダウンと経済回復策の選択に苦悩している。

 2021年に入って、コロナ感染症対策として、英国、イスラエル、米国、中国などでワクチンの普及が広がってきた。ワクチンの有効性の確認と供与は、政治上の駆け引きの対象とすることなく、人道上の見地に立って、国際協力のもとに供与すべきものである。日中両国は、そういった意識を世界に定着させるとともに、今後の感染症の拡大に備えてその原因と考えられる諸要因、例えば自然破壊の防止、”Human-Animal Relations”の健全化などにも貢献することを期待したい。

(3)地球温暖化対策

 地球温暖化現象は、今や、人類の最大の脅威となっている。米国、中国、欧州などでは今年もすでに激しい熱波や豪雨に見舞われ、多くの犠牲者が出た。地球温暖化の主要な原因である二酸化炭素の排出の抑制や循環経済(Circular Economy)体制への移行は、もはや人類にとって喫緊の課題となっている。

 日本では、菅政権が2050年にカーボン・ニュートラルの実現を公約し、中国も2060年に同様の目標を掲げている。地球環境問題は、中国都市総合発展指標でも取り上げられ、その精緻化によってこの問題の解決に役立つに違いない。

 米国は、バイデン政権がパリ議定書への復帰を宣言し、今や世界は「グレート・リセット」の体制を整えつつある。それには、技術開発を軸に循環経済への改革が決め手であり、太陽光、風力などの新エネルギーの開発と供給のネットワーク化、電気自動車の開発普及、蓄電設備の改革、二酸化炭素の固定化、さらにはSmart Cityの実現などが喫緊の課題である。EUは炭素税の導入を検討しており、フランスのジャック・アタリ氏は、世界共通の炭素税を提案されたことがある。本年10月にはG20が、11月にはCOP26が予定されており、日中両国が積極的な貢献を果たすことを期待したい。

 日中両国は、これまでもエネルギー消費の効率化、公害防止技術の移転などについて、日本側経済産業省、中国側商務部の連携のもと、日中経済協会などがエネルギー・環境フォーラムなどの開催を通じて協力を続けてきたが、両国は、今後とも、技術開発を含めて広範な協力を展開し、世界にその技術成果を普及する努力を続けることが肝要である。

(4)少子化、高齢化対策

 もう一つの課題は、少子化と高齢化による人口構造の変化への対応である。日本は、すでに人口減少と高齢化の段階に入っている。中国も、最近人口政策を変更し、「一人っ子政策」を打ち切っているが、近い将来おそらく人口の減少過程に入るであろう。日本では、人口の高齢化に対応して、高齢者の健康、介護、医療など社会保障の充実が財源の確保も含めて深刻な課題となっている。中国でも、やがてその問題に直面することになる。両国は、相互に経験を交流し、社会福祉政策の充実に協力する必要がある。

2006年5月11日「日中産学官交流フォーラム−中国のメガロポリスと東アジア経済圏」にて、上段左から福川伸次(通商産業事務次官)、楊偉民(中国国家発展改革委員会副秘書長)、保田博(元大蔵事務次官);第二段左から星野進保(元経済企画事務次官)、杜平(中国国務院西部開発弁公室総合局長)、塩谷隆英(日本総合研究開発機構理事長、元経済企画事務次官);第三段左から船橋洋一(朝日新聞社特別編集員)、周牧之(東京経済大学助教授)、寺島実郎(日本総合研究所会長);第四段左から中井徳太郎(東京大学教授)、朱暁明(中国江蘇省発展改革委員会副主任)、佐藤嘉恭(元駐中国日本大使);下段左から大西隆(東京大学教授)、小島明(日本経済研究センター会長)、横山禎徳(産業再生機構監査役)

5.文化により国際社会の絆を強めること

(1)文明の衝突

 サミュエル・ハンチントン教授は、1996年「文明の衝突」と題する著書を発表した。これは、世界を8つの文明圏に分け、21世紀中にイスラム文明の中の争い、キリスト教文明とイスラム文明の衝突、そしてキリスト教文明と儒教文明の対立を予言した。確かに米国ではトランプ前大統領時代からそのイスラエル支援をめぐってアラブ諸国との対立が深刻となったほか、米中間では2018年頃から貿易紛争が激化し、さらに政治、経済、軍事、技術、通貨などをめぐって覇権争いが激しさを増している。

(2)文化の持つ力

 人類発展の歴史を見ると、文明は、目覚ましく進歩したが、文化もまた確実に進化してきた。ギリシャ、ローマ時代の文化の発達は目覚ましく、やがてこれが中世の欧州文化に開花した。中国、インド、イスラムなどはそれぞれに固有の文化の発達を競い合ってきた。日本は、遣隋使、遣唐使を派遣してその文化を取り入れ、固有の文化との融和を図るとともに、その後も欧米の技術や文化を導入し、社会発展の基礎を創った。日本は、伝統的に異文化に対して寛容であり、歴史的に積極的に異文化を取り入れてきた。

 文化は、本来人類が持つ高次元の価値であり、精神文明の極致である。「美」は、人類の共通の憧れである。日本は、自然との共生のなかに「美」を見出し、自然との調和の中に文化を形成してきた。「匠の技」によって優れた芸術品を産み、自然と人工の調和によって「美」を表現する日本庭園を造り、自然の味覚を尊重して独特の日本料理を提供し、世界から高い評価を受けている。一方、中国は、優れた文学、書画、陶磁器、仏像などスケールの大きい文化を提供している。中国料理は世界中に広がっている。

 こうした伝統的な文化に加えて、最近では情報通信技術の粋を集めた新しい文化が生まれている。2001年米国のジャーナリスト、ダグラス・マックグレイは、「日本はGNPでは停滞しているが、GNC(Gross National Cool)では優れたものがある」と指摘した。アニメ、漫画、キュイジンヌ、ファッション、文化情報関連機器などがそれである。情報関連技術は、産業と文化、技術と芸術の融合発展に新境地を開いている。最近、中国でも伝統的な文化、そして新しい文化を対象に情報関連技術を取り入れつつ、文化の振興、文化市場の拡大、芸術家の育成などに力を入れている。

(3)文化による世界の融和

 「文明の衝突」はあり得るが、「文化の衝突」は先ずないというのが私の考えである。「文化」は、芸術性と技術性の総和であり、国際融和の象徴である。とりわけAIなどの情報関連技術の進歩は、商品、サービスそのものの文化性の向上、表現方法の芸術化、文化情報伝達の高度化、文化性と効率性の両立を実現する。

 日中両国がこの分野で協力する可能性は大きい。文化の交流により文化市場の拡大を図るとともに、市場における文化性の測定方法の開発、関連データの収集、技術と文化の適合可能性の研究などがそれである。感性価値の計量化もその例である。中国都市総合発展指標においても、この分野の研究に貢献することが期待される。

 私は、日中両国が、産業と文化、技術と芸術の融合に協力していくことは、人間の価値意識の向上を通じて文化の相互理解を導き、ひいては世界の安定と人類の融和に大きく貢献できるであろうと考えている。

6.質の高い経済社会の実現と新グローバリズムの形成に向けて

 私は、最近の内外の政治経済社会を分析するとき、日中両国の協力が世界の安定と人類の進化に貢献する可能性が高まっていると考えている。

 日中両国の国民は、一時期の不正常な時期を除いて、二千年余の長きにわたり、経済、技術、文化、教育などの分野で密接な交流を続けてきた。私は、今後、両国の国民が百年、二百年、そして千年に向けて固い「信頼の絆」で結ばれ、その交流を通じて人間の「知」を深め、「価値」を高めていくことを期待したい。それができれば、地球社会の安定と繁栄に大きく貢献していくことができると確信している。

2018年7月19日「『中国都市ランキング−中国都市総合発展指標』出版記念パーティ」にて、前列右から杉本和行(日本公正取引委員会委員長、元財務事務次官)、安斎隆(東洋大学理事長)、福川伸次(元通商産業事務次官)、古川実(日立造船会長)、阿部和彦(日本開発構想研究所理事)、竹内正興(国際開発センター理事長)、竹岡倫示(日本経済新聞社専務)

(※肩書きは各イベント開催当時)


プロフィール

福川 伸次(ふくかわ しんじ)/東洋大学総長、地球産業文化研究所顧問

通商産業事務次官、神戸製鋼所代表取締役副社長・副会長、電通顧問、電通総研代表取締役社長兼研究所長、日本産業パートナーズ代表取締役会長、東洋大学理事長、機械産業記念事業財団会長、日中産学官交流機構理事長、日本イベント産業振興協会会長など歴任。


英語版『Tokyo and Beijing can pave way for global trust』(CHINA DAILY, 3 Dec 2021)

【コラム】初岡昌一郎:「人新世」(アントロポセン)時代の曲がり角 〜都市は文明を先導、だが崩壊危険要因も顕在化〜

初岡 昌一郎
国際関係研究者、姫路独協大学元教授


 百科事典で検索すると、文明とは都市化であるという意味の解説が一般的になされている。広く日本で用いられている『広辞苑』では、「都市化(civilization)」と記載されている。歴史を振り返ると、これまでのところ都市文明は発展の一途をたどってきたように見える。しかし、すべてが生成し、発展の後に、やがては没落・消滅するという万物の一般的法則から見ると、都市文明の永続的な繁栄が右肩上がりに持続的に続くのを想定するのは根拠不十分な楽観論にすぎない。


メガ都市化で危険がメガ化した現代


 歴史を紐解いて見れば、戦争や外部からの侵略によって破壊された都市もあるし、火山の噴火や自然環境の変化によって消滅したものもあった。 それだけではなく、自らの発展に起因する内在的な要因により自滅したものもある。例えば、ごみ処理や水の安定供給を組織できず、居住不能となり放棄された例もある。現代の都市も自らの発展が生みだした発展や成功の重みで自滅する要因を抱えており、メガ都市はその潜在的な危険もメガ化している。

 自然災害や予期しない人災は、巨大都市におい想定外にそのインパクトを増幅させ、制御不能な深刻な危機を生む。現下のコロナ禍はそれを可視的に警告している。都市の過密はパンデミックの温床となりやすい。ばい菌やビールスは人類を今後も脅かし続けるだろうが、都市の特性である過密自体が高い伝染の蓋然性を内包しているし、自然災害をも増幅する条件となっている。都市の将来を考察する時、都市工学的な技術主義的視点だけではなく、地球史的なマクロの観点も視野に入れる必要がある。

 多くの巨大都市は沿岸部に位置しているので地球温暖化による気候変動の影響を受けやすく、自然災害に脆弱な構造を内包している。海水位の上昇は多くの国で基幹的都市部の水害・水没の危険を招来する。すでに、洪水と高波による浸水と氾濫による災害を頻発させている。さらに、工業化や都市生活に急増するす資源需要を賄う地下水の過剰な汲み上げが規制されていない都市も少なくなく,広範囲の地盤沈下による海没の危機を生みつつある都市さえ増加している。


成長神話と過剰消費からの脱却が不可避


 最近、「人新世」という、これまでに聞きなれない用語を時々見かけるようになった。アントロポセンという原語はもともとドイツの科学者が地球史的時代区分に用いたのを嚆矢とするそうだ。人間が自然に従ってその環境の中で暮らす生活から、自然環境を自分の都合に合わせて改変する時代に移行したこと表す用語である。

 瞥見するところ、その時代区分上の定義は確立しているとはみえない。人が「火」を用い始めたことや、農耕と定住に人新世の起源を求める人もいるが、時代区分としては産業革命と化石燃料に依存した工業化の時代以後を指してこの概念を用いるのがその趣旨から見て分かり易い。 

 地球環境の本格的な改造と破壊は産業革命以後のことだから、アントロポセン史観は地球環境の保全に人類とすべての生物の未来を託することを当然最重視する。したがって、産業革命とその後の工業化の否定的な側面の規制と今後の資源利用の抑制を重視することになるが、それだけではなく、人間とそれを取り巻く動植物種の保全を含む、自然環境の保護・再生を目指している。

 地球環境と資源の過大な利用や乱用が問題視され、持続的発展が国際的な幅広い合意とされている現代は、人新世後期の入り口に差し掛かっていると理解されよう。この時代には、従来の価値観とこれまで当然とされてきた前提や開発目標が再検討を求められずにはおかないし、資源消費度の高い産業や地球環境を破壊する恐れのある産業と経済活動はより厳しい規制ないし禁止の対象となる。これは、現行の人間生活様式の全般的な見直し、特に都市型文明の再検討をラジカルに迫るものである。


近未来の水不足と食糧危機に備える環境政策と行動を


 都市生活はこれまで継続的かつ飛躍的にエネルギー、水、食料の消費を拡大してきたが、それらの原料や資源、生産物の大部分を外部に依存しており、その安定的かつ継続的な供給がほぼ自明のこととされてきた。こうした文明の形は資源を食い荒らし、すべての都市文明が国土、特に森林を犠牲にしてきた。その結果、大規模な自然環境破壊と森林喪失、大気汚染や地球温暖化を招いている。全般的な環境悪化の中で、特に深刻なのは、水(真水)の不足が顕在化していることだ。農業と工業化は水の大量需要に依存している。生活が高度化している国・地域では水の消費量が拡大し、都市における水不足はますます深刻化すると予測されている。さらに、森林の急速な喪失が国土の保水力を低下させ、水資源の枯渇に拍車をかけている。枯渇が騒がれた石油には自然エネルギーという代替が準備されているが、真水には代替できるものがない。海水の淡水化はまだ実用化にほど遠く、莫大なコストがかかる。現状では国土の大規模な緑化と節水と効率的利用など、重層的かつ総合的な対策が求められている。

 水不足に劣らない切迫した危機は近未来における食糧供給難であり、その不安の足音が昨今聞こえてくるようになった。これまで「人の増加が食料供給力を上回る」という、マルサスの予言は幸いにして現実とならなかった。私の人生スパン中の1935年から80有年の間に人類は3倍近く急増し、今世紀半には100億人の大台を突破することは確実とみられている。3分の2以上の人口が都市に住んでおり、その割合は増加の一途をたどっている。これは、半面では農村の過疎化、農地の荒廃と農地の粗放的使い捨て的な利用をほうちして、若者の農業離れと都市生活への移動を招いてきた。

 しかしながら、都市と農村の生活格差を縮小し、その間の双方向的な移動を促進する可能性を生かす知恵と技術を現代のわれわれは持っている。これをもっと意識的に追求すべきだ。生活と労働のIT化により、居住地にかかわりなく情報を共有しうる。加えて交通輸送手段の発達が、都市と農村の格差と壁を引下げ、新しい有機的な融合の可能性を生んでいる。

 安全で健康的な生活を保障するために、水と食料の供給をグローバルな視点から構築するチャンスを人類はまだ生かせるはずだ。そのためには、人類は地球環境の限界と可能性より良く認識し、人類の間でより調和のとれた連帯と公正な関係を実現するように努力するだけでなく、すべての動植物と共生する生活様式を獲得しなければならないだろう。謙虚に身を処し、身の丈に応じた暮らしを薦めた先人の知恵を噛みしめるために、私たちは脚下照顧の時を迎えている。


鉄とセメントによる強靭化よりも共生と連帯の社会


 時代の変化につれて、都市の発展度を測る尺度も当然変化する。人口、GDP、集積度などの量的な指標よりも、人間開発指標と社会文化的なインフラ、そして指数化困難な社会的レジリエンシー(耐性、弾力性)が重視されるだろう。都市の社会経済的なインフラだけではなく、それにもまして市民の社会的な参加と連帯(自発的な活動と協力、ボランティア活動や助け合い)という、社会の強靭性によって都市生活の質を高めることが評価の重要な側面となる。

 都市と文明の成熟は鉄とコンクリの工学的な強度よりも、人間的な結びつきの成長と社会的結束力によって評価される時代になる。そして、都市とヒンターランドである農山村部ともっと調和のとれた発展、さらに地球環境保全のために地域と国境を越えた都市の貢献を都市政策の根幹に据えるべきだ。大気汚染対策は世界的に進んできているが、大量なごみが投棄による深刻化する海洋汚染により魚類と海中生物の急減が進んでいる現状を国際的な連携により改善することが急務となっている。海が死することは、その中から生まれた生物の仲間である人類の死の前兆に他ならない。

 

サハリンで開催のセミナーにて、右から周牧之、初岡昌一郎、江田五月(2019年8月29日)

プロフィール

初岡 昌一郎(はつおか しょういちろう)

 国際郵便電信電話労連東京事務所長、ILO条約勧告適用員会委員、姫路獨協大学教授を歴任。研究分野は、国際労働法とアジア労働社会論。

【専門家レビュー】明暁東:〈中国総合都市発展指標2019〉から見た中国都市化の新局面

明暁東
中国国家発展改革委員会発展戦略和計画司元一級巡視員、中国駐日本国大使館元公使参事官


 2016年末、中国都市総合発展指標(以下、〈指標〉)が発表されたことを受け、私は大変嬉しく思った。当時、私は在日中国大使館に勤務していた。東京経済大学の周牧之教授が同指標に取り掛かる段階から、私は同研究の方向性や指標の選定について非常に注目していた。というのも、私の中国国内における勤務先は、中国の新型都市化の戦略や計画を主管する部署であるからだ。具体的な指標を用いて都市発展を定量的に分析することは、中国の都市発展や都市化戦略を研究する上で、斬新なツールになると思い、私は周教授にメールで、指標が正式に発表されたことへの賞賛、そして指標が都市の総合評価における国際標準になることへの期待を伝えた。2018年春、中国に帰国する際、私は周教授に「指標の作成を継続し、毎年更新するようにしては如何か」と提案した。実は、周教授はすでにそのように進めていた。現在、指標の第1弾が公表されてから4年が経過し、指標の第4弾(2019年版)が正式に発行される運びとなった。

 指標は、中国都市の発展に焦点を当てたもので、297都市を対象としている。これら都市は、中国のすべての地級市およびそれ以上の都市(日本の都道府県に相当)をカバーしている。指標は、環境、社会、経済の3つの軸から、27の小項目で191の評価指標を用いて、297都市の経済発展、社会進歩、環境改善を体系的に分析・評価している。これらの191の評価指標は、878の基礎データによって支えられている。指標では、膨大な情報量で中国の主要な開発戦略および新型都市化関連政策の実施状況や、都市発展における多くのメカニズムを発見し検証できる。最近、私は指標を注意深く研究し、多くの有益な発見を得られた。

 1.データと現状


 指標のデータを総合的に分析すると、近年の中国の都市発展におけるいくつかのシナリオが見えてくる。

図 2019年中国都市GDP、DID人口、製造業輻射力ランキング トップ30


 (1)GDPランキング

 4度の発表にわたりGDPランキングとDID(人口集中地区:Densely Inhabited District)ランキングのトップ30都市の構成は基本的に安定している。特にGDPトップ10都市は、上海、北京、深圳、広州、重慶、天津、蘇州、成都、武漢、杭州で、2016年から2019年に至るまで、年次によってわずかに順位が入れ替わるものの、10都市の顔ぶれ自体に変化はなかった。地理的な分布を見ると、これら10都市は、京津冀(北京・天津・河北)、長江デルタ、粤港澳大湾区(広東・香港・マカオ)、長江中上流地域に位置し、2019年のGDP総額は国家全体のGDP総額の23.2%を占める。これらは、世界経済との関わりの深い成長地域である。

 GDPトップ11~30都市は、主に中心都市であり、その地理的な分布特徴も明らかである。例えば、鄭州と西安はそれぞれ中原と関中に位置する中心都市であり、済南、青島、煙台は山東半島メガロポリス、長沙は長江中游メガロポリス、大連は遼中南メガロポリス、福州と泉州は福建省沿岸部メガロポリス、長春はハルビン・長春メガロポリスの代表都市である。GDPで見ると、これらの都市は顕著な雁行型発展の構図を示している。

 (2)DID人口ランキング

 指標2019のDID人口ランキングからは、トップ30都市はGDPのトップ30都市と相似度が高く、異なるのは5都市のみである。人口の集積は経済の集積と高い相関関係があることが伺える。2017年と2019年のDID人口ランキングを比較すると、トップ30都市の顔ぶれは変わらないが、順位には変動がある。上海、北京、広州、深圳はトップ4を維持し、成都、南京、杭州、泉州、福州、鄭州、昆明、済南、長沙は順位を上げ、天津、瀋陽、西安、寧波、汕頭、合肥、青島、無錫、長春は順位を下げた。これらの変化は、東部のメガシティが引き続き強い集積能力を維持していることを示し、中部・西部地域から沿岸地域への人口移動が進み、中西部および東北地区では外部へ人口が流出すると同時に地域の中心都市にも人口が集積しつつある。

 (3)人口流動分析

 指標の「人口流動」指標から、2019年における人口流入のトップ10都市は、上海、深圳、北京、東莞、広州、天津、佛山、蘇州、寧波、杭州で、人口流出のトップ10都市は、周口、重慶、畢節、富陽、信陽、朱馬店、南陽、商丘、遵義、茂名となっている。 2016年と2019年における人口流入都市と流出都市の規模・順位の変化を比較すると、中国の流動人口の規模が変化していることがわかる。流動人口のデータと照らし合わせると、以下のような人口移動の特徴が見えてくる。

 まず、流動人口の規模が減少している。2016年から2019年にかけて、中国の流動人口の規模は、2016年の2億4,500万人から2019年の2億3,600万人へと、年々減少している。

 2つ目は、都市間の流動人口の割合が増えたことである。人口流入・流出都市とDID人口ランキングの変化を総合的に分析すると、農村から都市へのパターンより、都市から都市への人口流動の割合が継続的に増加していることがわかる。2019年に県庁所在地や市区から流出した割合は45.1%で、前年より6ポイント増加し、急速な増加傾向を示している。

 3つ目は、人口流動の方向が多様化していることである。中国における人口流動の一般的な傾向は、中西部地域・東北地域から東部沿岸地域へと向かうベクトルである。しかし、人口流動データを見ると、近年、中西部・東北地域における一部の中心都市ではDID人口が大きく増加しており、地域内の人口が中心都市へ集約していると同時に、中西部に人口が還流し始める兆しすら見える。


 2.分析と考察


 指標の経済総量および人口流動のデータに加え、製造業輻射力、高等教育輻射力、科学技術輻射力、コンテナ港利便性ランキングを加え総合的に分析を行った結果、以下のような考察を得ることができた。

 (1)新しい都市空間フレームワークの形成

 「第11次5カ年計画」では、メガロポリスを中国都市化の主要な形態とすることを唱った。10数年の歳月を経て、中国における都市集積効果は顕著に現れ、人口、技術、資源などが急速に中心都市やメガロポリスに集中している。これを受けて従来の行政区経済は都市圏経済やメガロポリス経済にシフトしている。都市化は空間的にいくつかの極に集中するような傾向が現れた。

 北京、上海、広州、深圳などのメガシティを中心に、京津冀(北京・天津・河北)、長江デルタ、粤港澳大湾区(広東・香港・マカオ)の三大メガロポリスが形成され、中国経済成長の最も重要な原動力となっている。

 また、成都、重慶、武漢、鄭州を中心に、成渝(成都・重慶)メガロポリス、長江中游メガロポリス、中原メガロポリスの3つの内陸メガロポリスが形成され、青島、済南、煙台、西安、大連、長春、福州を中心に、山東半島、遼東半島、ハルビン・長春地域、福建省沿岸部などにメガロポリスが形成され、中国の経済成長の新たなエンジンとなっている。同時に、多く中心都市の都市圏的な展開が進み、中国経済の新たな成長の柱となっている。

 (2)都市発展における格差の顕現

 指標にDID人口の概念が導入されたことで、都市の管轄区域に農村部が含まれることによる都市人口密度データの歪みの問題が解消され、都市人口の変化をより正確に把握できるようになった。例えば、重慶市は人口流出の多い都市であるが、DID人口は近年大幅に増加している。DIDエリアではなく、行政エリアのみで人口変化を測定すると、都市の人口変化の方向性を見誤ることになる。DIDの人口データを利用することで多くの都市開発の課題を発見することが可能となる。例えば、DID人口ランキングを年次で比較すると、一部の都市のDID人口が大幅に増加している一方で、一部の都市のDID人口が急激に減少しており、中国の都市の発展に分化が生じていることがわかる。特に、中西部・東北地方の多くの中小都市では人口減少が継続しており、全国で100近くの人口減少都市が存在している。これらの縮小都市は2種類に分けられ、1つは人口減少が継続する一方で、人口構成の変化が少なく安定した経済成長が維持されている都市である。もう1つは高齢化や産業の縮小を伴う人口減少で経済が低迷している都市である。

 (3)都市化発展の新たな傾向

 長い間、中国都市化の主な原動力は、農村から都市への人口移動であり、大量の余剰農業労働者が土地を離れて都市で働くことで、都市の常住人口が増加してきた。中国の都市化率は、改革開放当初の17.9%から2019年には60.6%まで上昇した。指標2019の「DID人口ランキング」と「人口流動・広域分析」を総合的に分析すると、一部の都市のDID人口は増加していると同時に、一部の都市では減少している。これは都市間の人口移動が徐々にトレンドになっていることを意味する。東部地域の都市で人口は純流入しているが、同地域での農民工(農村部からの出稼ぎ労働者)の数は2016年に48万人減少し、2019年にはさらに108万人減少した。かつて、都市への移住は農村若者の夢であったが、現在、大半の都市で戸籍制限が解除されたにもかかわらず、多くの農民工が都市への移住を躊躇している。中国の都市化のダイナミクスとパターンは、新たな変化が生じている。


 3.目標と課題


 以上の分析から、中国都市化の空間フレームワークは着実に形成され、大半の都市では農村人口への戸籍制限が緩和され、都市の人口収容力が大幅に向上した。「第11次5カ年計画」で示された都市化の促進、都市化空間フレームワークの形成、都市計画と都市建設の管理強化といった都市化の課題は基本的に達成した。中国の都市化は今後、新たな発展段階に入り、新たな目標と課題に直面するであろう。今後の重点は、都市・農村の二元体制を打破し、都市と農村の融合的な発展を促進し、中小都市の活力を高めることへと変化していくだろう。

 (1)都市・農村の二元体制打破

 戸籍や土地利用制度の違いに基づく都市・農村の二元体制が、貧富の格差拡大や地域の不均衡発展の主な原因となっている。中国の都市化率は60%を超え、都市と農村の関係は重要な変化が生じ、今後の政策の重心は都市・農村の二元体制の改革にある。

 まず、農村から都市への定住制限を全面的に撤回し、人々が定住先を自由に選択できるようにし、住民戸籍の自由な移動を実現させる。農村・都市部を問わず、都市に移り住む人々は皆市民の一員である。移住者は「新しい市民」として迎え、移住できない「農民工」をなくす。都市に移り住む新市民とその家族が自由に移動できるだけでなく、中間所得層に入る機会を得られるようにしなければならない。

 第二に、農村の土地管理制度を改革し、集団経営の建設用地が国有建設用地と同様の開発権利などを得て、農民が自分の土地から資産収入を得られるようにするべきである。

 第三に、公共サービス制度を改善し、人口の規模に応じた公共サービスの提供を進め、住民各々が同質の公共サービスを享受できるようにする。

 (2)都市と農村の融合発展の推進

 日本では、急速な都市化の過程において、都市の「過密化」と農村の「過疎化」が共存する時期があった。現在、人口の半分以上が三大都市圏に集中している一方、農村部は高齢化と空洞化が進んでいる。また、国としては海外への食料依存度が極めて高い。これに対して、急速な都市化を経験している中国は、日本の教訓に学び、都市と農村の融合発展を推進し、都市の発展と農村の繁栄を共に図るべきである。

 そのためには、都市と農村の相互作用を促すことが重要である。都市は、資本、技術、人材を農村へ投下することを奨励し、農業開発の恩恵を受けると同時に、農村との人的交流を促進すべきである。農村は、規模経営をはかり、都市へ原材料や農産物を供給すると同時に、都市との産業の融合発展を促進することである。同時に、農村部の居住地の集約化をはかり、都市部の公共サービスの農村部への拡大を進め、都市部と農村部の公共サービスの均質化を求める。

 (3)中小都市活力の向上

 現在中国では一部の中小都市が、人口減少、産業縮小、経済成長鈍化に苦しんでいる。しかし農村と大都市とをつなぐ県庁所在地を含む中小都市の存在が、健全な国土空間にとっては不可欠である。中小都市の発展は、大都市の一部機能の分散化に空間を提供すると同時に、農民の地方都市への就職・定住を誘導し、農村・農耕文化の保存にもつながる。したがって、中小都市の発展は今後の中国都市化の重要な課題の一つであり、中小都市における生活環境の改善、公共施設の建設、公共サービスの質の向上、産業力の高度化への政策支援を強化すべきである。

 (4)都市再生の推進

 改革開放以降、中国で都市化は進み、都市のアーバンエリアは急速に拡大している。急進的な「都市づくり」の中で、低品質の建物が大量に建設されたと同時に、建物の老朽化も進み、都市の再開発が急務となっている。日本には、都市の再開発を手がける「都市再生機構」(UR機構)がある。中国では国土空間計画制度が確立され、都市開発の境界線が厳密に定められることで、都市発展の重心は規模の拡大から再開発へと移行している。都市再開発は、既存の都市を美しくし魅力を高め、住民の生活環境を改善するものである。そのため、スマート・シティ、ヒューマニスティック・シティ、ヘルスケア・シティなどの新しい目標を掲げ、より良い生活を求める都市住民のニーズに応えるよう努力していかなければならない。


中国網日本語版(チャイナネット)」2021年4月2日