【対談】有賀雄二Vs周牧之(Ⅱ)驚きと感動のものづくり

2024年6月6日、東京経済大学でゲスト講義をする有賀雄二氏

■ 編集ノート:

 日本産の日本酒、ウイスキーそしてワインがいま世界を魅了している。東京経済大学の周牧之ゼミは2024年6月6日、有賀雄二勝沼醸造代表取締役をゲストに迎え、国際的に高い評価を得るワイン作りの極意とその道程について披露していただいた。

※前半はこちらから


作り手の思いを伝える流通で


有賀:販売も特殊な方法を取っている。限定流通だ。我々作り手にとってパートナーは伝え手で、その先にお客さんがいる。ところが今の流通は、問屋、スーパー、コンビニ、デパート、ネット販売などだ。本来、ワインに限らず

 ものづくりは、作り手の考え方や思いの表現である。だから、世の中に形があるものはどんなものもそうだが、必ず作っている人の考え方や思いが隠れている。作り手の考え方や思いを、商品と一緒にお客さんに伝えることが私の考えている本来の流通だ。

 社会はいま流通が、運ぶ物流に変わってしまった。それを私は危惧している。私どもはお客様に我々作り手の考え方、思いを一緒に伝えてもらうやり方で流通をしている。

 現在全国に140社の特約店さんがある。幸い、アルガブランカを2007年にJALが国際線で初めて採用し、ファーストクラスとビジネスクラスで出されるようになった。ビジネスクラスは1年間でクラレーザが1,000ケースも出た。2017年と2018年の2年間で2,000ケース。2,000ケースは2万4,000本だ。本当にありがたかった。日本のワインが世界で話題になったのは、JALでの甲州ワインの登場がきっかけだった。

周:私のJALの国際線に乗る時のひとつの楽しみは有賀さんのワインを飲むことだ(笑)。

有賀:2008年には、フランスのワイナリーシャトーが、私どものワインを世界に販売してくれるようになった。フランスのボルドーグラーブにあるシャトーで、シャトーパッククレマンという。オーナーの息子さんが、私どものワイナリーに急にやってきて、一緒にワインビジネスをしましょうと言った。

 びっくりして聞いたら、日本の甲州を世界に出す手伝いをしたいと言ってくれた。我々のワインはフランス、イギリス、スイス、ベルギー、カナダ、アメリカに彼らが販売してくれていて、非常に大きな反響を呼んでいる。

 彼には「君には間違いが二つある」と指摘を受けた。どういうことか聞くと、「なぜ君は世界をマーケットにしない?」と問われた。「君のこのワインがわかる人は日本にそんなに多くいるのか?君のワインは世界に出せば、今よりももっと価値がはっきりする」と言われた。

 世界にはワイン好きがたくさんいる、価値のわかる人が世界にいるから、世界に出せということだった。

 もう1個の間違いについて聞くと、「君はワインの価値を知らない」と言われた。私がワインにつけている値段が間違っていると言うのだ。「君がつけているその値段でいいなら、僕に全部分けてくれ。僕は君の3倍で売る自信がある」と。日本では、ワインに限らず、いろいろなものを作っている方々はみんな原価積み上げ式で値段をつけていると思う。うちもそうだ。ぶどう代、営業費、労務費、減価償却を重ねていき、利益を乗せて値段付けるのが、一般的だ。彼は、それは価値ではないと言った。つまり、コストと価値は全く別のものだということを彼が教えてくれた。

2018年7月19日、有賀雄二氏が東京で開催の『中国都市ランキング−中国都市総合発展指標』出版記念パーティにて挨拶

地域ブランディング戦略


周:周辺で契約した農家のぶどうでワインを作るのは、規模が限られている。この規模でブランディングするのは限界がある。ヨーロッパもそうだ。だから地域をまとめたブランディングは、ワインの世界で特筆すべきところだ。アルガブランカは今かなり愛好家に親しまれているが、これにとどまらず、甲州のワイナリーのまとめ役としての有賀さんは、地域ブランディングに尽力している。 

有賀:翌2009年にはKOJというプロジェクトがスタートした。KOJは、ジャパンオブ甲州(Koshu of Japan)の略だ。世界へのワイン情報発信基地はロンドンなので、ロンドンに甲州ワインを出すことで評価が得られれば、その評価が世界に伝播するという訳で、2009年からロンドンプロモーションを始めた。

 2010年にはフランスのパリに本拠地がある国際ぶどうワイン機構に甲州をワイン用ぶどうとして登録した。2013年には赤ワイン用のマスカットベリーも登録し、これによって今、世界のワイン関係者は日本の甲州と赤のマスカットベリーに非常に興味を持っているのが現状だ。

 一昨年ボルドーにワインミュージアムができた時、先方から甲州ワインを飾りたいと要請があった。今、いよいよ甲州ワインとこのマスカットベーリーAのワインが、やっと世界を舞台にできるかどうかの瀬戸際になってきたと思う。

 2013年に地理的表示山梨が、国税庁から認定された。山梨のワインの場合はエチケットのどこかにこのGIYAMANASHIと書いてあるものを選ぶと、そのワインは全部山梨のぶどうを使っていることが証明されている。しかも、審査会に合格しないと付けられないので、山梨のワインを選ぶ時は一つの基準としてぜひ知っておいていただきたい.

 GIは日本ではちょっと馴染みが薄いが、ジオグラフィカルインディケーションという意味で、ヨーロッパでは非常に信頼が高い制度だ。例えばボルドー、ブルゴーニュ、シャンパンという言い方は、全部GIだ。チーズでも、カマンベールとかブリという言い方をするのも全部GI。

 だから日本で作ったチーズに、カマンベールと付けては、本当はいけない。ワインに山梨と表示があったら、そのワインは山梨のぶどうを100%使っている。

周:GIとは地理的表示保護制度(Geographical Indication)で、地域のブランディングに非常に有効な手段だ。とくにワインのような地域性の高い農産品にとっては、その価値を高める保護制度となっている。GIYAMANASHIの恩恵が山梨全域に渡り、山梨が世界に知れ渡るツールとなる。

有賀:GIは、日本では最近は北海道、大阪などだんだん増えてきている。

勝沼醸造ワイナリー前に広がるぶどう畑

目指すは「和食にはアルガブランカ」


有賀:今世界は和食ブームなので、それに合わせたワインとして興味を持たれ、大きな反響を呼んでいる。

 2010年頃からどこをマーケットにするかを考えた場合、今まで長い間、私もワインというと、洋食に合わせるものだと思ってきた。しかし、和食とワインという取り合わせもある。特に日本の風土で出来たこの甲州ワインは和食との取り合わせがいいので、積極的に力を入れている。

周:和食に合うワインを作る発想は凄い。アルガワインの大事なキーワードだ。

有賀:東京・日本橋に「ゆかり」という和食店がある。店主の野永さんは早くから和食には甲州ワインがよく合うということで弊社のワインをお使いいただいている。

 ニューヨークにロバートデニーロと一緒にレストラン「NOBU」を出した松久信幸さんは、和食にグローバリゼーションをもたらした第一人者で、東京にも店がある。私は彼に会いたくて、15年前から東京の店に通い、そのご縁が実りやっと2013年からロンドン始め、世界の「NOBU」でワイン会をさせて頂き、大きい反響があった。

 ただ、まだ世界で和食に甲州ワインが当たり前のように供されている状況ではない。和食に甲州ワインを合わせることが当たり前にするのが私の夢だ。

 東京のミシュラン星付きの和食店では割と今、私どものアルガブランカを使って頂いているが、京都などの和食店ではどうしてもワインといえば、輸入ボトルワインだ。ブランドで飲むことが多いので、和食にはアルガブランカと言ってもらえるよう今後やっていきたい。

周:東京はいま世界で最もミシュランの店が多い街だ。なかでもとにかく和食の店が多い。インバウンドで海外からの大勢の客がこれらの店に集まってくる。そこに有賀ワインが浸透していけば凄いことになる。

アルガブランカを推奨するレストラン「NOBU」

■ 和食の進化にワインの役割大


周:日本に来て30数年になる私の目から見ても、和食は大きく進化を遂げた料理だと思う。

有賀:そうだ。世界で和食の関心は更に高まっている。「NOBU」のニューヨーク店の年商は、40億円だ。一軒の店の売り上げが年間40億円というのは、毎日1000万円を売り上げて36億5000万円になる程、和食が世界でエネルギーを持っている。それだけ和食を食べたい人がいる。これを我々日本人は知らない。

 ロンドンにKOJで毎年行くようになってわかったことに、ロンドンには和食店が沢山ある。そこで働いているマネージャーは大体日本人の女性が多く、何故か出身が揃って日本の外資系ホテルだ。

 ある時、今一番話題の和食店に案内してもらったところ、セクシーフィッシュという店に案内され、行ってみると、サービス係にも料理人にも日本人が誰もいない。メニューは日本語で、下に英語が書いてある。出てくる料理は本物の和食で、美味しい。

 案内してくれた女性とその店のシェフとは、ある和食レストランの立ち上げのときに一緒で知り合いだったそうで、その日はサービスで沢山料理が出てきた。彼女から「私はこうしたサービスをしてチップを毎日10万円から20万円もらう」と聞き驚いた。そうした大きなエネルギーを和食が持ち、日本文化が持っている。

 今ロンドンで寿司がしっかり握れたら年収2,000〜3,000万円は保障されると聞く。それほど和食は今、世界中で注目されている料理になっている。

周:和食は日本文化の伝播に大きな役割を果たしている。いま中国でも和食は人気で、北京や上海などでは数千店舗の和食レストランがある。毎年数千万のインバウンド客にとって来日の目的の一つが、本場の和食を味わうことだ。

 この和食の進化にワインの役割は大きい。ワインに合う和食作りに一生懸命取り組むことが和食の進化を促すと思う。

 これに対して中国料理は世界で沢山展開しているものの、ワインに合わせる努力がまだ足りない。私がマサチューセッツ工科大学(MTI)の客員教授をしていた時にボストンの何軒ものトップクラスの中国料理店に、ワインに合う料理作りを促すアドバイスをしたが、なかなか進まなかった。中国料理のこれからの進化の一つのキーワードがまさにここにある。

有賀:今、中国は世界の第4位か5位のワイン生産国だ。 

周:ワインの消費量では中国が世界の第1位。私が見ると中国人がワインを中国料理に合わせようと試みたら、中国料理がもっと飛躍すると思う。

 前述した有賀ワインを研究していた私の大学院の学生の、故郷山東省も沢山ワインを作っている。中国も新世界に仲間入りしようとしているが、中華に合うワインを作り出すと面白い展開になるだろう。

 有賀さんが和食と相性の良いワインを作っていることは、和食の進化、さらにはワインの進化を推し進めることにつながっている。ワインに合う素晴らしい和食と、和食に合う素晴らしいワインが日本の文化力を一層高める。

有賀:私は現在69歳で、23年前36歳のときに作ったレストランがある。23年前はやはりワインは洋食に合わせるものだと思い洋食のレストランにした。もしこれから私が新しくレストランを作るとしたら、和食にしたい。

周:この「風」という店では、ヨーロッパ風の建物で和牛を使った料理と有賀さんのワインとの絶妙なコンビネーションが味わえる。そして広大なぶどう畑の景色が楽しめる。最高の店だ。

有賀:店の自慢の料理はローストビーフだ。ローストビーフをわさびとたまりじょう油を使って刺身に見立てる。肉に甲州ワインを合わせる。そうするとみんな驚いて、「お肉には白ですね」と言われるようになったので、ぜひ皆さんも機会があったらお越しいただきたい。長崎の大浦天主堂をモチーフにして作ったレストランだ。

有賀雄二氏が手がけるレストラン「風」

■ 新世界の中の新世界を目指す挑戦と継承


周:ヨーロッパの旧植民地でヨーロッパのぶどうでワイン作りをし、国際的に流通させるワインを新世界ワインとするのに対し、有賀さんは甲州という食用ぶどうを使っている。甲州はワインにとっては異質なぶどうだった。今まで世界で売られているワインのぶどう品種ではなかった。また、山梨の風土は旧世界でもない新世界でもない異質なものである。有賀さんは、その風土で出来た異質なぶどうを研究と工夫とで美味しいワインにし、世界に認められるレベルまで持っていった。

 その意味では有賀さんのワインは、簡単に新世界のワインと位置付けるべきではない。これは新世界の中での新世界を目指したワインだと思う。

 さまざまな新しい課題に挑戦すると同時に、有賀さんのワイン作りは、ヨーロッパの旧世界でも通じ合うコンセプトを徹底的にクリアし、成し遂げた。

 今、三人の息子さん全員がワイン作りの事業を継いでいらっしゃる。新しいワインをご長男が一生懸命美味しく作り、お父さんの味とちょっと違う味を出そうとしているのは、素晴らしい。挑戦する魂はちゃんと遺伝するものだ(笑)。

学生:いま販売されているワインは、学生でも手にとれるような値段なのか?

有賀:日本の場合はコストが高いため、コンビニで売られているワインに比べると私共のワインは値が張る。ただ、うちのワインも実はコンビニに並んでいる。いろいろな窓口に入れるようにしている。一番リーズナブルな価格のものは、フルボトルで1800円ぐらい。一番高いのは6000円。値段が安いから美味しくないということはない。一番おすすめしたいのは2000円に消費税で2200円のワインだ。

 県内いろいろなところから収穫されるぶどうを収穫地ごとにワインにし、最終的にブレンドする。そうすると、単一の場所より味わいも香りも複雑さが増す。量と品質を両立させるためには、ブレンドに値しないものを外せば品質が高まる。

 私どもは2007年のヴィンテージのワインから、田崎慎也さんに私どものワイナリーにお越しいただき、どんなブレンドがいいかを一緒にやっている。私どものワイナリーは山梨で一番多くワイン生産し、品質的にも非常に自信を持っている。そのワイナリーで一番たくさん作っているワインの品質がどれだけ高いかが大事だ。

学生:収穫から商品ができるまでどのくらいの時間がかかるのか?

有賀:ヌーヴォーという収穫した年に発売するワインがある。甲州で作るヌーヴォーは収穫期が大体9月中旬から10月いっぱいだ。収穫期の違いは、盆地の地形がすり鉢状のところで栽培するため、標高の低いところが一番早く熟す。高い方に行くに連れてだんだん収穫期がずれていく。

 ヌーボーは一番の低地で最初に作ったのを9月20日ごろ収穫し、発売が11月3日と結構早い。多くのワインは10月までに収穫したもので、翌年の4月から6月ごろ発売するのが一般的だ。しかし中には樽に入れて長く熟成したり、瓶に入れてあえて熟成を楽しむワインを作る場合は、3年後に発売するものもある。いろいろなタイプを楽しんでもらうといい。

 他にシャンパンのようなスパークリングワインは、炭酸ガスが中に入っている為、他の炭酸ガスが入ってないワインより長い熟成に耐える。酸化しにくい。できれば10年熟成し、熟成を楽しむようなワインにしていきたい。

 甲州は糖分が低い。糖分が低いぶどうは逆にメリットもある。シャンパンは寒い地方だから、ぶどうは熟さない。だからシャンパンも糖度が低い。

 シャンパンやスパークリングワインは糖分が低いので、最初にアルコールの低いワインを作る。そのワインに砂糖と酵母を入れ、それを瓶の中に閉じ込める。最初は王冠にしておき、瓶の中でもう1回アルコール発酵が起きるときに炭酸ガスが出る。その炭酸ガスを閉じ込めたやつがシャンパン。あるいは本格的なスパークリングワインで、これを瓶内2次発酵という。

 それを作る上では甲州はすごく向いている。アルコールが低いワインを作らないと2次発酵がしにくくなる。つまり、最初にアルコールが高いワインだともう1回発酵を起こすのは難しくなる。だから、ベースワインという最初のワインを作るにはアルコールの低い方が都合よく、それに甲州はぴったりくる。甲州は糖分が低いから駄目だと考えず、それが特徴だと考え、メリットを生かしたやり方をすればいい。

 アルコール市場ではウイスキーが大変な人気だが、ワインを蒸留するとブランデーになる。ブランデーに人気が出ないのは何故か疑問だ。ブランデーを作る上でも、ベースワインはアルコールが低いワインの方が良い。甲州は日本固有の品種でいろいろな可能性がある。

2023年11月24日、リニューアルしたワイナリーにて有賀雄二氏

■ 甲府盆地のぶどう畑保全を


周:最近リニューアルした有賀さんのワイナリーは素晴らしい和風建築物だ。

有賀:日本でもワイナリーの数がすごく増えていて、10年前には200社ぐらいだったのに、今はなんと500社を超えた。国内のワイナリーの数が増えて全国各地にあり、いろいろなワインを作っている。甲州は山梨が中心だ。ワイナリーなので建物はみんな洋風だが、私どもは和風な建物で、令和元年に登録有形文化財になった。和風のワイナリーを特徴にしていきたい。インバウンドの方々を迎えた時に畳の部屋でテイスティングできるワイナリーがいい。

周:建物の上に登り、ぶどう畑を眺めるのも爽快だ。

有賀:中央線国分寺駅から1時間乗ると、山梨のぶどう産地の景観が車窓から見えてくる。私は学生時代、世田谷に下宿していて、毎週中央線に乗って実家に帰る時、笹子トンネルを抜け甲府盆地が見えて、気持ちが良くなった。

 八ヶ岳があり南アルプスがあり盆地のすり鉢状の東側傾斜地帯を使ってぶどうが栽培されている。このぶどう畑の景観は、先人が何世代にもわたり我々に残してくれた尊い遺産だ。それが老齢化や後継者不足で、どんどん蝕まれ失われている。レストランへ行ったらアルガブランカがあるか聞いてほしい。あったらぜひ1本飲んでいただき、ぶどう景観保全の手伝いをしてほしい。

 ぶどうの栽培面積が大型ショッピングセンターにならずに、ずっとぶどう畑の形でいられる。それを私はしっかりと守って、次の世代にバトンタッチしていきたい。その手伝いをしてくれたら嬉しい。

 ワインは前述したように、ボトルの裏側に、以上のような背景が隠れている。そして、一つ一つの畑に人間が携わっている。畑とその人に価値をつけることがワインになる。ワインのボトルの裏側にはこうした背景があることを、ぜひ感じ、飲んでいただけたら嬉しい。

(了)

2023年11月24日、ワイナリーの上から眺めるぶどう畑

プロフィール

有賀 雄二(あるが ゆうじ)/勝沼醸造 代表取締役社長

 東京農業大学卒業後、1981年に勝沼醸造に入社。99年に社長に就任し、2006年に山梨県ワイン酒造組合副会長に就任。2023年から同組合会長。

【対談】有賀雄二Vs周牧之(Ⅰ)世界を唸らせる甲州ぶどうワイン

2024年6月6日、東京経済大学でゲスト講義をする有賀雄二氏

■ 編集ノート:

 日本産の日本酒、ウイスキーそしてワインがいま世界を魅了している。東京経済大学の周牧之ゼミは2024年6月6日、有賀雄二勝沼醸造代表取締役をゲストに迎え、国際的に高い評価を得るワイン作りの極意とその道程について披露していただいた。


世界をマーケットに


周牧之:きょうは日本ワインの旗手である有賀雄二さんをゲスト講師に迎え、甲州の地から世界へ飛び込み、日本のワインを一気に飛躍させた物語をご披露いただく。

有賀雄二:祖父が製紙業を営む傍ら1937年、勝沼醸造を創業しワイン造りを始め、私で3代目になる。生産量はボトルでワインが年約40万本、ぶどうジュースが同約8万本だ。

 ぶどうは思いっきり絞ると75%ぐらいまでジュースが取れる。ワインボトル1本作るのに必要なぶどうの量は、1kgだ。私共が使う甲州という名のぶどうは、一房が200gから250gなので、1本作るのに4房から5房必要になる。

 ワインとジュースを合わせると約50万本で、毎年500tのぶどうがないと作れない。山梨県には今、約100社のワイナリーが点在している。山梨のぶどうでワインを作る量では、私どもの勝沼醸造ワイナリーが最大になる。

 ワインは、国際商品だ。どこの国のワインを見ても、生産する自国だけではなく、世界をマーケットにしている特性がある。そういう意味ではワインは国際商品だ。ところが長い間日本のワインは、国内だけで消費されてきた為、ワインが持つ本来の国際商品としての特性を備えてなかった。私共は世界に通ずるワイン、世界のマーケットに通じるようなワイン作りを目標にしている。

2012年3月24日、有賀雄二氏が北京で開催の国際シンポジウム「中国の生活革命と日本の魅力の再発見」にて挨拶

■ 新世界の代表はアメリカ


有賀:ワインの伝統的な生産国を旧世界と言う。それに対して新しい生産国をニューワールド、つまり新世界と言う。旧世界はフランス、ドイツ、イタリア、オーストリア。新世界はアメリカ、オーストラリア、ニュージーランドなどだ。

 フランスのワインに次ぐブランドは、いまアメリカのワインと言っても過言ではない。新世界と言われるには一定の法則がある。1976年にイギリス人のワイン商が、アメリカの良いワインを集めた。白はシャルドネというぶどうで作る。赤ワインは、カベルネソーヴィニヨンというぶどうで作る。シャルドネは、フランスのブルゴーニュが産地で、同地の良いワインを全部集めた。カベルネソーヴィニヨンはフランスのボルドー地方が本家本元なので、ボルドーの1級シャトーのワインを集めた。そして、パリでフランス人のワイン専門家を10人集め、前述したアメリカ産ワインとフランスワインを全て目隠しにして並べ、一番いいと思うワインを挙げてもらった。

 結果、選ばれたワインは、白も赤もすべてアメリカのワインだった。フランス人が選んだ結果だから、フランス人はぐうの音も出ない。これが当時ワインの世界で「パリスの審判」と呼ばれた大事件だ。この事件によってアメリカのワインは世界的な注目を集め、ニューワールドの代表になった。

周:それまでの良いワインは基本的に地中海の周辺、すなわち旧世界で作られた。新世界は北米、南米、オーストラリア、ニュージーランドで、そこが植民地の拡張をしていた頃、欧州からワインぶどうが持ち込まれた。本当に認められるワインの味を出せてから歴史的に時間はそれほど経ってはいない。

アメリカワインの一大産地カリフォルニア州ナパ・ヴァレー

■ 甲州ぶどうに特化したワイン作り


有賀:ぶどうは世界に1万種類以上ある。どのぶどうでワインを作っても良いが、問題は産地の風土、つまり自然と、どのぶどうが適合するかを検証していくことだ。それがいわばワイン作りの土台になる。

 ぶどう1万種類を大きく分けると、ワインに向くヨーロッパ系、原産地はジョージア即ちかつてロシア領だった頃のグルジア。一方、ワインに向かないアメリカ系があり、他に東洋系がある。この三つに分かれる。

 東洋系は山ぶどうなどで、アメリカ系はコンコルド、ナイアガラ、デラウェアといったぶどうだ。アメリカがアメリカ系のぶどうでワインを作っていた頃は、アメリカのワインを殊更取り上げて言う人は世界にいなかった。

 ロバートモンダビとスタックスリープというワイナリーが、カリフォルニアにあり、これらのワイナリーがフランスワインをしのぐような良いワインを作ろうということで、ヨーロッパ系の白ワイン用のシャルドネやベルネソービニヨンといったぶどうをアメリカの地に植えた。そうした努力が実ったのが1976年の大事件だ。

 それで私もこのようなぶどうを日本で栽培したいと考え、1990年からヨーロッパのような垣根式栽培で、カベルネソーヴィニヨンを300本、シャルドネを300本植えた。日本の風土で、たとえ一樽でも最高のものが出来ればという思いで、私自ら栽培し、懸命にやってきた。

 私は子供が4人いて、一番上は女の子、下の男の子3人がワイナリーを一緒にやっている。長男はフランスのブルゴーニュ、サヴィニー・レ・ボーヌにあるシモンビーズというワイナリーで4年間研修をしてきた。

 長男はフランスから帰ってきて3年後、私がせっかく植えたシャルドネとカベルネを全部抜いて、全て甲州に植え替えてしまった。日本では棚式栽培が一般的だが、シャルドネとカベルネはヨーロッパのような垣根式でやっていた。日本は雨が多く、降った雨の水分が下草から蒸散する。ぶどうはその水分の影響で病気になりやすくなる。長男がこれを抜いた理由に「ここまでやっても、フランスのワインに勝てるようなものは作れない」という思いがあった。「うちは甲州に特化したワイナリーになるんじゃないのか」と息子に諭され、ワイン作りが何かということに、逆に気付かされた。

周:ヨーロッパから持ち込んだワインぶどうを使うこれまでの新世界ワインの作りと違うコンセプトで、世界に通用するワインを作る大きなチャレンジだった。

勝沼醸造ワイナリー前に広がるぶどう畑

■ 感動とブランドで勝負


有賀:日本の風土、あるいは私共の山梨県勝沼の風土は、ぶどう栽培に最適な条件とは正直言い難い。より良い場所を求めれば世界にたくさん良い場所がある。効率だけ求めたら最適な場所に行って作った方がいい。

 少々哲学的な言い方だがワインは自然と人間が向き合うことだ。ぶどうに傘掛けなどの手間をかければ、コストは世界一高くなる。日本産ぶどうでワインを造るには厳しい現状がある。日本のぶどうだけでワインボトルを一本作るなら2000円以上の値段をつけないとワイナリー経営は難しい。

 しかし市場で売れている2000円以上のワインは6%しかない。日本のマーケットで圧倒的に売れているのは、コンビニなどで買える一本500円から700円ぐらいのワインで、それが5割を占める。

周:シビアな日本のワインマーケットでは、感動とブランドで勝負するしかない。

有賀:コストが高いと競争力がないのかといえば、そうではない。物の価値は驚きで決まる。コストよりも驚きや感動が大きいものを作る必要がある。これは一つのポイントだと思う。

 ものの価値を決めるのに、コストで決める部分も常にあるが、やはり驚きや感動に訴えかける物作りをしていかないと続けるのは難しい。

アルガブランカ(出典:勝沼醸造ホームページより)

■ シルクロードで日本に渡来したぶどう


有賀:日本古来のぶどう品種である甲州ぶどうは、1300年前に仏教と一緒にシルクロードを通り中国から日本に渡来したと考えられている。勝沼の町の東に国宝の寺があり、薬師如来がぶどうを携えている。甲州ぶどうは、718年にこの国宝の寺を開いた仏教僧の行基が、当時薬として伝えたとの説が有力だ。

 1300年も前の話だから明確な根拠はないが、最近はDNA鑑定ができるようになり、カリフォルニア大学や、広島の国立の酒類総合研究所でDNA鑑定したところ、甲州は中央アジアのコーカサスが原産地だと証明された。中国で刺ぶどうと呼ばれる、ぶどうの蔓にトゲが出るぶどうがある。それと交配されている。25%それが混ざっているからこそ、日本の厳しい風土、厳しい自然に耐性を持ったと思う。私どもは、この甲州ぶどうで世界に通ずるワインを作る目標でやってきた。

周:甲州ぶどうは、元はヨーロッパからシルクロードを通り中国に来た。甲州は今日に至るまで連綿と栽培されてきた。唐の時代、中国の人々はワインを飲んでいた。唐の偉大な詩人、李白の詩の中にもワインの話題が沢山出てくる。だがやがて中国にワインがなくなってしまった。いま中国の酒となると茅台など白酒や紹興酒など黄酒だ。

 甲州ぶどうは日本での1300年以上の歴史を経て食用ぶどうになった。このぶどうを用いて、日本ワインを世界に認められるものにしようとした有賀さんの発想は凄かった。これを実現するには大変な努力が必要だった。

リニューアルしたワイナリー内部

■ 革新的な冷凍果汁仕込み製法


有賀:白ワイン用であれば有名なシャルドネ、リースリング、ソーヴィニヨンブランなど世界で有名なぶどうは沢山あり、そうしたぶどうとこの甲州ぶどうを比べると、甲州はちょっと糖分が低いデメリットがある。

 山梨にある100社のワイナリーのうち、勝沼町に40社が集中していて、そうしたワイン作りの仲間と話すとき、仲間はいつも「甲州はね」と言う。シャルドネ、リースリング、ソーヴィニヨンブランなど世界で有名なぶどうには敵わないという意味で、「甲州はね」と言っていた。それが私はすごく嫌だった。世界に通用しないワインしか作れないなら、早くこのぶどうを諦めて、他を探す必要がある。だから私は甲州で作るワインが、世界を舞台にできるかどうかを検証したい思いから、他のワイナリーとは違う作り方を考えた。

 また、みんなが甲州は他のぶどうに敵わないと言うのは、糖分が低いことが原因ではないかと考えた。

 つまり、伝統的な日本のワイン作りはぶどうを搾り、ジュースを作り、糖分が足りないから砂糖を入れる。アルコールの原料は糖分だ。酵母が二酸化炭素とアルコールに分解して、アルコールが出来る。例えば米、麦、芋、そば等の穀類を原料にしている酒は、実は糖分がない。だから穀類のデンプンを一度アミラーゼという酵素で糖分に変え、それをまたアルコールに変えることをする。しかし穀類は水分がない。だから必ず水が必要になる。

 私がよく山梨でワイン作っていると言うと、「山梨は水がいいですものね」と言われるが、ワインは水を使わない。ワインはぶどうを絞ったジュースの中の糖分をアルコールにするだけだ。ぶどうが持つ糖分によって、出来たワインのアルコール度数は決まる。水は一切使わない。糖分が低いぶどうは、ワインにしたときもアルコール度の低いワインしか作れないため砂糖を補ってきた。

 それに対して私が考えたやり方は、冷凍果汁仕込みというやり方だ。一般的なワインは15度ぐらいしかないのを、22度に補填するやり方だ。甲州を絞ってジュースを作ると75%ぐらいまで取れる。私が考えたのは75%取るときに圧力を加えずに取るジュースと、加えて取るジュースを二つに分ける。加えないで取るジュースをあえて凍らせる。凍る時は水分から凍るため、凍った氷を取ってしまい、溶けているところだけを集めると、ジュースは濃くなっている。そうして砂糖を入れず濃いジュースでワインを作ることを私共のワイナリーは1993年からやっている。

周:冷凍果汁仕込み製法は、東京農業大学醸造学科卒の有賀さんだからこそ出来た一大イノベーションだ。

勝沼醸造ワイン工場

■ 国際的に認められるワインに


有賀:世界中にワインコンクールがたくさんある中で、2003年にフランス醸造技術者協会が主催する国際コンクールに初めて出品した。世界35カ国から2300種類も出品される中で、初めて銀賞が取れた。翌2004年にも続けて取れたので、甲州で世界に通ずるワインができると自信がついた。

周:有賀さんのワイン、そして山梨のワインが世界に躍り出た瞬間だった。

有賀:フランスを初め、イギリスやスロベニアなど世界中のワインコンクールで、我々の甲州ワインが入賞することが珍しくなくなった。

 その頃から、「お宅の甲州はおかしい、甲州らしくない、変な甲州」と言われるようになった。変な甲州でないと世界には通じない、あるいは変な甲州を作るのが、我々の目標だと気づかされた。それで、我々は2004年、甲州ワインの新しいブランドを発表した。アルガブランカというシリーズだ。アルガは私のファミリーネームでブランカはポルトガル語で白の意味だ。

 ワインの瓶のラベルをエチケットと言う。ラベルに、何年の収穫で、どこで採れて、何の品種かをしっかり書くのがエチケットだということから来ている。このエチケットにはどこにも甲州とは書いていない。他の甲州ワインの多くが漢字で甲州と書いてある。うちのは変な甲州なので、甲州と書かず、アルガブランカにした。ブランドコンセプトはあくまで変な甲州だ。

勝沼醸造の入賞歴(出典:勝沼醸造ホームページより)

■ テロワールで世界へ


周:私の大学院の学生が、有賀ワインのテロワールを研究して、修士号をとった。テロワール(terroir)とは、もとは「土地」を意味するフランス語terreから派生した言葉で、気象条件(日照、気温、降水量)、土壌(地質、水はけ)、地形、標高などブドウ畑を取り巻くワイン産地の自然環境的特徴を指す。フランスワインは、よくこのテロワールをブランドにしている。例えば、ロマネ・コンティ、ムルソー、モンラッシェなどは産地名をワインの名前にしている。有賀さんは日本で初めてテロワールのコンセプトを使い、アルガブランカ・イセハラというワインを売り出した。

有賀:山梨県内各所に甲州を栽培する場所は沢山あり、少し前までは、収穫場所に因ってできるワインに違いがあり個性があるという考え方はなかった。そこに一石を投じたのは、アルガブランカ・イセハラというワインだ。山梨の笛吹市御坂町の伊勢原というところから取れる甲州でワインを作ると、それまでの甲州ワインの概念を全く変えてしまうような、全く違う形のワインができることを発見した。

 イセハラは、天皇陛下の即位の礼に採用されたワインだ。ANAのファーストでも出している。甲州の中では実に特異で世界の人がびっくりするような良い味わいになっている。

周:イセハラは天皇陛下の即位の礼に採用されたことでまさしく日本ワインの顔になった。

※後半に続く

天皇陛下の即位の礼

プロフィール

有賀 雄二(あるが ゆうじ)/勝沼醸造 代表取締役社長

 東京農業大学卒業後、1981年に勝沼醸造に入社。99年に社長に就任し、2006年に山梨県ワイン酒造組合副会長に就任。2023年から同組合会長。

【シンポジウム開催のお知らせ】2024 東京経済大学 国際シンポジウム:グリーントランスフォーメーションにかける産業の未来

2024 東京経済大学 国際シンポジウム
グリーントランスフォーメーションにかける産業の未来


 気候変動や資源枯渇など地球規模の問題は近年ますます深刻化し、持続可能な社会の構築は喫緊の課題となっている。環境負荷の低減のため産業界も大変革を迫られているが、同時にこれは新たなビジネスを生み出すチャンスでもある。東京経済大学は2024年11月30日(土)に、国際シンポジウム「グリーントランスフォーメーションにかける産業の未来」を開催する。

 楊偉民(中国共産党中央財経領導小組弁公室元副主任)福川伸次(元通商産業事務次官)、鑓水洋(環境事務次官)、南川秀樹(元環境事務次官)、中井徳太郎(元環境事務次官)、周其仁(北京大学教授)、邱暁華(中国統計局元局長)、小手川大助(IMF元日本代表理事)、田中琢二( IMF元日本代表理事)、索継栓(中国科学院ホールディングス元会長)、岩本敏男(NTTデータグループ元社長、元会長)、石見浩一(エレコム株式会社社長)、徐林(中米グリーンファンド会長)、趙林(中国インターネットニュースセンター副主任)ら、第一線で活躍する日本と中国の産学官民のオピニオンリーダーを招き、環境保全と持続可能な発展を目指すグリーントランスフォーメーション(GX)をメインテーマに産業の未来について徹底的に討論する。

 新しい技術やビジネスモデル、持続可能な未来を実現するための方策と課題について議論し、未来に向けた提言を行う。


主    催  東京経済大学
後    援  北京市人民政府参事室、China REITs Forum
メディア支援  中国インターネットニュースセンター
日    時  2024年11月30日(土)
        13:00〜18:00 (開場 12:30)

会    場  東京経済大学/大倉喜八郎進一層館 
開  催  方   式  対面開催(後日録画をYouTube公開)


お申し込みフォーム https://forms.gle/Um5aTK4LF83VKyYd8

お問合せアドレス先 info.symposium.tku@gmail.com



プログラム


開会挨拶(30分)13:00〜13:30

福川 伸次 東洋大学総長、元通商産業事務次官
鑓水  洋 環境事務次官
趙   林 中国インターネットニュースセンター副主任
岡本 英男 東京経済大学学長

基調講演:迫り来るGX時代(30分)13:30〜14:00

楊  偉民 清華大学教授、中国共産党中央財経領導小組弁公室元副主任
中井徳太郎 日本製鉄顧問、元環境事務次官

セッション1:GXにかける日中の取り組み(110分)14:00〜15:50

司   会 南川秀樹  日本環境衛生センター理事長、元環境事務次官
パネリスト: 邱 暁華  マカオ都市大学教授 中国統計局元局長
       徐  林  中米グリーンファンド会長、中国国家発展改革委員会発展計画司元司長
       田中琢二  IMF元日本代表理事
コメンテーター:    周 其仁  北京大学教授

セッション2:GXが拓くイノベーションインパクト(110分)16:00〜17:50

司   会: 周 牧之  東京経済大学教授
パネリスト: 岩本敏男  株式会社NTTデータグループ相談役、元社長、元会長
       石見浩一  エレコム株式会社社長、トランス・コスモス株式会社元共同社長
コメンテーター:    小手川大助 大分県立芸術文化短期大学理事長兼学長、IMF元日本代表理事

総合司会:尾崎寛直 東京経済大学教授



■ 登壇者関連記事(登壇順)


【コラム】福川伸次:日中関係、新次元への昇華の途を探る 〜質の高い経済社会の実現と新グローバリズムの形成に向けて〜

【フォーラム】鑓水洋:地域活性化策には明確なコンセプトが求められる

【刊行によせて】楊偉民:都市のハイクオリティ発展を促す指標システム

【刊行によせて】楊偉民:全く新しい視点で中国都市の発展状況を評価する

【講演】中井徳太郎:カーボンニュートラル、循環経済、自然再生の三位一体のイノベーション—地域循環共生圏構想

【フォーラム】中井徳太郎:分散型自然共生社会を目指して

【刊行によせて】中井徳太郎:生態環境社会への移行に寄与

【ディスカッション】中井徳太郎・大西隆・周牧之:コロナ危機を転機に 

【ディスカッション】中井徳太郎・安藤晴彦・和田篤也・周牧之:省エネ・再生可能エネルギー社会への挑戦と自然資本

【フォーラム】南川秀樹:コミュニケーションの場としてのエンタメを

【刊行によせて】南川秀樹:中国大都市の生命力の源泉は何か

【コラム】邱暁華:高度成長からハイクオリティ発展へシフトする中国経済

【ディスカッション】小島明・田中琢二・周牧之(Ⅰ):誰がグローバリゼーションをスローダウンさせた?

【ディスカッション】小島明・田中琢二・周牧之(Ⅱ):ユーラシア大陸を視野に入れた米中関係

 【専門家レビュー】周其仁:生態都市建設と都市総合発展指標

【刊行によせて】周牧之:新型コロナウイルス禍と国際大都市の行方

【論文】周牧之:二酸化炭素:急増する中国とピークアウトした日米欧

【論文】周牧之:アメリカ vs. 中国:成長と二酸化炭素排出との関係から見た異なる経済水準

【論文】周牧之:世界の二酸化炭素排出構造と中国の課題

【刊行によせて】徐林:中国の発展は都市化のクオリティ向上で

【対談】小手川大助 vs 周牧之:(Ⅰ)転換点で激動の国際情勢を見つめる

【対談】小手川大助 vs 周牧之:(Ⅱ)複雑な国際情勢をどう見極めるか?

【対談】初岡昌一郎 Vs 周牧之(Ⅲ):日本政治の行方

2019年8月29日、サハリン視察にて、初岡昌一郎氏と周牧之教授

■ 編集ノート:

 アメリカ大統領選挙の混迷、ロシアのウクライナ侵攻、イスラエルのガザ侵攻など世界情勢は揺れ動いている。東京経済大学の周牧之ゼミは2024年5月23日、国際関係研究者の初岡昌一郎姫路独協大学元教授をゲストに迎え、戦後の長いスパンで国内外の政治情勢について解説していただいた。

(※第一弾第二弾はこちらから)


■ 戦後民主主義の始まりは三大改革


初岡:岩波の雑誌『世界』が1960年の安保闘争後に「3分の1の壁をどう破るか」と題した座談会を開いた。『世界』は当時、左翼やリベラルの間で読まれていた。私が社会主義青年同盟を作っていた時で、5人の論者の一人に呼ばれた。なぜ3分の1の壁を破らなければいけないか、どう破るか議論した。  

 私達は当時、一つのイデオロギー、一つの綱領を持った政党のようなものでなく、共同戦線党を作るしかないと考えた。今からすれば空論だと言われるかもしれないが私は当時も今も考えは同じで、軍事同盟に属さず軍備を持たない日本、民主主義を徹底させる日本を目指そうとした。

 日本の民主主義は憲法ができたからだけが出発点ではない。三つの大きな改革があったからだ。一つは農村改革。地主制度を解体し、土地を耕す人に分配した。私は田舎の地主の一家に生まれ、祖父は村で一番大きな地主で村長もやっていた。だから自分の生活基盤が戦後解体していくプロセスがよくわかった。ただ、不徹底な改革で、山だけは地主の手に残った。

 二番目は教育改革。私は小学校4年まで戦時中で、天皇家の歴史を神武天皇から暗記させられた。そのような歴史教育が戦後全部変わった。

 三番目は、労働改革。労働三法ができ労働組合が認められ、労働基準法ができた。日本の労働法は全て戦後の改革の中で出来上がったものだ。

周:軍事同盟に属さず軍備を持たず、民主主義を徹底させる日本という理想像は、大勢の人が共感を持っているはずだ。

岩波書店『世界』

■ 立場の弱い人々の受け皿は?


周:社会党と公明党はなぜ組めなかったのか? 

初岡:政策では社会党と公明党が一番近い。平和主義、福祉、格差是正。支持階層で、公明党と一番競り合ったのは共産党だ。社会党には広い層がいた。支持基盤は労働組合が一番だった。社会党の基盤は特に公共企業の労働者。なかでも郵便電信電話と国鉄の労働組合は一番行動力があった。組織としては教員と地方公務員の方が多い。

周:アメリカでは民主党は労働組合に支えられているが、ラストベルトの白人が共和党のトランプを強烈に支持している。日本でも似た構図になっているようだ。昔の社会党、いまの立憲民主党は労働組合が支持基盤になっているが、組織されていない弱い立場の人たちをケアしていない。その人たちは共産党や公明党に流れているのではないか?

初岡:当初、公明党のスリートップは全員個人タクシー運転手だった。当時東京都の個人タクシー運転手に公明党が非常に多かった。公明党は、彼らにとって自分の社会的ステータスを得る梯子になっていた。

 しかし公明党も高齢化だ。共産党と同じで若い人が入っていない。まず学生の中で決定的に人気がない。

 私は元から社会党と公明党が組むべきだと思っていた。私が支持していた江田三郎さんも同意見だった。綱領を突き合わせてみると、公明党は基本的に平和主義で、当時の社会党と近かった。また、公明党は社会保障を充実させ格差をなくしたい点で社会党と一致した。    

 ところが政策だけで政治は動かされるのでなく、人間が介在する。人間の意見や欲も介在するので公明党は本来近くない自民党と組んだ。それで創価学会が自民党を推し、民主党の足を引っ張るようになった。民主党が労働組合に支配されていることはなく、むしろ民主党の議員は労働組合以上に選挙で新興宗教に頼るようになった。

周:自民党は公明党をうまく抱き込むことで政権取りゲームに勝ったわけだ。

 日本社会の格差が広がっている中で、弱い立場の人々を宗教はすくい上げ、将来は大きな受け皿になるかもしれない。本来、日本憲法は政教分離だが、創価学会が政治力を持つ前例を作った。その意味では宗教は日本の政治で益々力を持つようになる。

労働組合のデモ(出典:情報労連

■ 人工心臓に頼る自民党の脆さ


初岡:自民党が決定的に崩壊し、政権を離れる一番の引き金になるのは、創価学会公明党との関係だと思う。今の自民党は、40%以下の得票率だ。投じられた票の40%で、議席の3分の2を取っている。そのマジックはどこにあるかというと、公明党だ。

 率直に言って小選挙区で勝敗を握っているのは第3党の公明党だ。自民党は、本当の意味では政権を維持できていない。40%を超えたことがないからだ。

 公明党が離れた場合は、自民党の国会議員の半分以上がいなくなる。公明党の元委員長の矢野絢也さんは実力者で、京都大学在学当時、学生運動をやっていた。共産党員だったと思う。ただお父さんが創価学会だったため、矢野さんは大阪で府会議員になった。池田会長とはうまくいかず公明党から追放され、政治評論家になった。自民党と公明党が連立政権を組んだのは、自民党単独では国会で過半数を割り安定してきた政権運営ができなかったからだ。野中さん等の力が大きかったと思う。

周:元共産党員にして自民党と公明党を組ませる矢野絢也氏の発想は、戦略的かつ柔軟だ。

初岡:矢野さんは当時、「自民党は人工心臓をつけた。人工心臓を3日つけたらもう外せない。外したら死んでしまう」と言っていた。

 戦国時代、一向一揆があった。一向宗は親鸞が作り、関西と北陸が強かった。従来の仏教では様々仏典を読み込み、修行しないと成仏できない。それを一向宗は南無阿弥陀仏を唱えれば誰でも天国へ行けるとした。現状に肯定的な当時の仏教を革新する新興宗教として親鸞が作った一向宗はその後社会的に認められて、封建社会の枠組の中で次第に本願寺化した。創価学会の本願寺化は矢野さんが言ったようにはまだされていない。

周:駐日中国大使を務めた程永華氏は、創価大学卒業だ。中国政府派遣で日本留学する際、受け入れ大学が無く、池田大作創価学会会長が引き受けた。

初岡:池田大作以降、公明党は親中国政策が非常に目立つ。おそらく日本の政党の中で親中メッセンジャーのような立ち位置だった。

周:自民党と中国のつながりが無いときも、メッセンジャーとして活躍した。池田さんが平和主義を訴え、世界に積極的に出かけて中国、ソ連、インドなど各国のリーダーに会っていた。外交面において自民党は公明党に頼るところが多々あった。

初岡:しかし、公明党と自民党はいま離れ始めたと思う。今まで民主党を支持していたその他の新興宗教が今や自民党に回帰しているのがその証しだ。

 二大政党は、枠の中に入っている要素と皿が同じでも材料や調理の仕方によって全然違うものになる。二大政党論を枠組みとしていいかどうかを抽象的に議論してもあまり意味がないと私は個人的に思う。 

周:選挙そのものは実利的な面が強い。選挙民にしてみれば親身になって実利的に良くしてくれる人を応援する。特に弱い立場にいる人にとって拠り所となる組織が選挙に強い。選挙区が小さくなればなる程その傾向が強い。小選挙区制改革の結果、公明党にパワーを持たせた。公明党という人工心臓をつけた自民党は変わったのか。

初岡:変わった。今までは3-5名区で自民党の候補者が複数出て、同じ党内で争った。自民党内で争って勝つためには後援会を作らないといけない。自民党の中で何かのスキャンダル人は決定的にアウトになった。

 ところが1名区では公明党の支持があれば誰でも安定的に勝つ。切磋琢磨がなくなり、派閥は弱くなった。派閥を強くするため金を集め派閥内の人に配ることで派閥を維持する安倍方式の一番悪い面が出ていた。

周:ところで、維新の党はなぜ議席をここまで増やせるのか?大阪の地域政党のイメージだが、結構東京まで進出してくる。

初岡:やはり大阪で橋下というスターを作ったのが大きかった。しかし、その遺産は失われつつある。今のトップ層は魅力も見識も政治的経験も知名度にも欠ける。維新は候補者にスキャンダルが多い。しかも考えられない初歩的なスキャンダルだ。大阪万博で大失敗した維新は今度大阪で公明党とバトルだ。維新はかなり後退するはずだ。公明党は実利的な政党だから、維新が一番推してきた大阪万博をガンガンやっつけている。

周:少し長いスパンで見ると、スターのカリスマ性に依存する政党は組織力のある政党には勝てない。

1999年10月5日、自由民主党と公明党が連立政権が誕生(出典:公明党

■ 政権担当能力のあるリーダーはいるのか?


周:前回民主党が政権を取った時の政権担当能力はひどかった。今度再び政権を取るチャンスがあった時、任せられるリーダーがいるのか?

初岡:民主党では岡田さんが一番いい。民主党党首だった鳩山氏や菅氏は、野党の党首ならいいが、首相には向かない。岡田さんは外務大臣として立派だった。外務大臣に何が出来て何が出来ないかをよくわかっていた。例えば大臣は機密文書を公開できた。これは大臣権限で国会で決めなくてもやれた。いくつかあった中で覚えているのは、外務大臣の記者会見は事前に届けを出していれば誰でも出られるようにした。岡田さんが辞めたら元に戻ってしまった。

 その程度の改革でも民主党の大臣が誰でもできるわけではなかった。大臣の権限が解らない人が大勢いた。私は当時の労働大臣をよく知っていて、電話をかけて「民主党政権では超過勤務の法的規制をやるべきだ」と言った。その人は国労の出身だが「そういう細かい問題は担当を紹介するからそちらに言ってくれ」と言われた。これが細かい問題だという感覚がもうおかしい。

 超過勤務は、労働問題の一番大きな問題だ。安倍の改革で少し規制するようになったが、国際基準では法的に規制しなければいけないことになっている。日本の労働基準法36条は、超過勤務は従業員の過半数を代表する組合と使用者の間で決めるとしている。公的な法律上の規制を設けていない。これが非常に悪用され、世界的に稀な過度の超過勤務時間が今も残っている。

 ILO(国際労働機関)に160ぐらいの国際条約がある。国際労働法はILOの条約と勧告を指す。労働時間に関する条約を日本政府はこれまで一つも批准していない。超過勤務を公的に規制する条項が日本の法律と合わないからだ。

 日本の超過勤務で今パニックが起きているのは建築業界と輸送業界だ。解決法は移民労働を入れると言う。

周:岡田さんは確かに腹の据わった誠実な人だ。東京・北京フォーラムに来ると自分の出番が終わっても終日ずっと耳を傾けていた。中国にも一緒に行った。私が司会を務めた時にパネリストに制限時間内での発言を求めると、岡田さんはきっちり時間を守る。

初岡:本当におかしいのは、民主党で外務大臣をやり小池百合子氏と組んで希望の党を作って失敗した人だ。彼は京都大学の高坂先生の弟子、京セラ前社長に応援してもらって出た前原氏だ。高坂さんに、学者になるのは無理だから国会議員にでもなるか、と言われたとか。前原はなかなか頭のいい人だが、政治センスが全くない。小池百合子と組んで党を作るなど、誰が考えても無理だ。

周:前原氏が外務大臣を務めた時、日中関係が極めて深刻になった。

2008年9月19日、「東京―北京フォーラム」にて、左から司会を務める周牧之教授、松本健一(麗澤大学教授)、岡田克也(衆議院議員)等。

■ 金と権力で出来上がる世論


初岡:中国やロシアのように日本は露骨な言論統制はしていないが、マスコミ、特にテレビでの国際情勢の解説者を見ると、20年前は大学教員や新聞記者がやっていた。最近は現役の新聞記者や大学の先生がテレビ、新聞に出て発言をする機会が少なくなった。マスコミでウクライナ問題について発言する人の経歴を見ると、防衛省や政府与党系の研究者ばかりだ。学者も外務省の専門員として海外勤務をした人が多い。

 これは実に良いことではない。言論の自由が犯されていると思う。金と権力の力で作られた世論になっている。ウクライナ戦争の報道ではソ連が100%悪くウクライナが100%正しいという世論が構成されつつある。現実とは違う。ヨーロッパのNPOに、世界の政権腐敗度を調査している機関がある。調査結果を見ると、ウクライナもソ連も政権腐敗度ではボトムの方を争っている。

 ソ連も腐敗しているがウクライナもそれに劣らず腐敗しているといった記事は、日本の新聞やテレビには出ない。アメリカの新聞には書かれている。

周:私の友人でIMF日本代表理事を務めた小手川大助さんは、2023年10月のゲスト講義で、「NHKは海外取材の力が無いことを自認し、アメリカのCNNをコピーしている。そのためNHKの海外報道は結果として誤りがあっても、悪いのはCNNだと言える構造になっている。朝日新聞とテレビ朝日は、ニューヨーク・タイムズと契約しており、戦争関連についての記事はニューヨーク・タイムズの翻訳版だ」と嘆いていた(※詳しくは、『【対談】小手川大助 vs 周牧之:(Ⅰ)転換点で激動の国際情勢を見つめる』を参照)。

初岡:外国特派員クラブで私は若いときアルバイトをして、外国特派員クラブのメンバーをよく知っていた。そこの機関紙「No.1 Shimbun」を見て、笑ったことがあった。アメリカ人の記者が、「日本の記者は大新聞と大テレビの従業員だ。ジャーナリストではない」という意味のことを書いていた。つまり自分で調査して書かない。

 私が労働組合にいた時に経験したことだが、労働省記者クラブでの記者発表で喋ったことよりも、3行か5行でポイントを配ったものだけが翌日記事になっていた。だから読売、朝日、毎日、どの新聞を見ても同じ記事だった。

周:ネット時代の現在、世界から情報を集めて判断し、独自のコンテンツに創り上げる力が求められる。

ウクライナ戦争を報じるNew York Times誌(出典:Wall Street Journal

■ ゆとりある思想、価値観で


周:1966年文化大革命の初期、毛沢東が妻の江青に大変有名な手紙を送った。手紙には、自身はいま左派を率いて文化大革命を手がけているが、いずれ中国に右派が戻ってトップになる。その反動で数十年後は左派勢力が再び台頭し、右派のやることを是正する、と書いてあった。毛沢東は、社会における左派と右派の勢力リバランスで相手の問題点を是正するイマジネーションがあった。

 日本は左派勢力が低迷している今、格差拡大などを是正する政治的な受け皿がどこにあるのか。 

初岡:天動説と地動説はかなり違う。天動説だったら、地球は平面だ。左派と右派は全く相いれないほど距離がある。地動説で地球が丸いと見ると、左派と右派の距離は非常に近くなる場合もある。私の知人が、昔は非常に左派だったのがいまは非常に右派になっている人が多い。真ん中を通らない。左派がずっと歩いて行くと直通で右派に合流してしまう。

 今この年になって思うのは、人間にはイデオロギー以外の要因が介在してくる。人間の要素は非常に可変的だ。人間は可変的な故に、言う意見も変わる。状況によっても立場によっても変わる。イデオロギーなど政治的意見は一夜によって変わることもある。だが人間性は変わらない。15から20歳ぐらいの間に形成された人間性はほとんど変わらない。 

周:人間性をベースにすると、若い人の将来はどうなるのか。

初岡:一つは、昔の左翼のような自分の利害を投げ捨てて目的のためにやろうという人が、今いないということはない。それなりに増えてきている。イデオロギーと政治によって動かされていないだけで、ボランティア活動あるいはNGO、NPOで、自分の進路を昔の左翼学生とは違う形で決定し、生き方を追求する人は少なくない。イデオロギーなど大局観だけでなく、自分の価値観によって生活を見つけようとするのは大事なことだと思う。

 当時の左翼の悪かったところは、自分の価値観を殺してしまうことがあった。ある意味、宗教と似ている。 

周:初岡先生が最初に言われたように、今の日本の左派はマルクス主義一元論のもとで激しくやっていた昔の時代とは違ってきたということだろう。

初岡:自動車でも、本当に安全な自動車は遊びやゆとりのある構造になっている。自分の思想、価値観の中にもそうした良いゆとりが必要だ。ハンドルを左に切ってこれは誤ったと思ったらすぐ右に切るような進路であってはならない。思想の場合も同様だ。常に自分の考え方を修正していく余地の残る学問なり、思想であってほしいと思う。

(了)

2019年8月29日、サハリンで開催のセミナーにて、右から周牧之教授、初岡昌一郎氏、江田五月(元参議院議長)

プロフィール

初岡 昌一郎(はつおか しょういちろう)/国際関係研究者、姫路独協大学元教授

 国際郵便電信電話労連東京事務所長、ILO条約勧告適用員会委員、姫路獨協大学教授を歴任。研究分野は、国際労働法とアジア労働社会論。


初岡昌一郎氏:関連記事

【コラム】初岡昌一郎:「人新世」(アントロポセン)時代の曲がり角 〜都市は文明を先導、だが崩壊危険要因も顕在化〜

【対談】初岡昌一郎 Vs 周牧之(Ⅱ):自壊した社会党、そして民主党政権

対談をする初岡昌一郎氏および周牧之教授

■ 編集ノート:

 アメリカ大統領選挙の混迷、ロシアのウクライナ侵攻、イスラエルのガザ侵攻など世界情勢は揺れ動いている。東京経済大学の周牧之ゼミは2024年5月23日、国際関係研究者の初岡昌一郎姫路独協大学元教授をゲストに迎え、戦後の長いスパンで国内外の政治情勢について解説していただいた。

(※第一弾はこちらから


■ 環境変化に適応し進化しない者は滅びる


周:旧来の体制を崩壊させ、新体制作りに苦労する社会主義国家と違い、日本の場合は、戦後GHQが主導する社会改革をある程度やったものの、基本的な社会のメカニズムが温存した。そこで、右派左派がまとまった野党としての社会党は、政権にある自民党を牽制し意見を言う割と気楽な存在だった。且つこの55年体制のコンビネーションはある程度うまくいっていた。誰が、何故、この体制を駄目だと言い出し、社会党も迎合し、壊したのか。

初岡:周先生の問いに、納得いく答えを持たないが、まず万物は生成、発展し消滅するという過程から歴史的にものを見ると、ガタガタしても生き残ったものも客観的な必要性を失ったときは滅びる。植物でも環境が変わったら自分が適応し進化して生き延びる。進化しなかったら滅びる。社会科学の理論も同じだ。

 マルクスにもダーウィン的な、万物は生まれ、発展し、死ぬという考えがある。向坂逸郎という当時著名なマルクス主義の学者のところに出入りしていたことがあって、向坂先生にある日、マルクス主義も同じ道をたどるのか聞いたことがある。先生の答えは、「それは観念論だ」。宗教学者に「神様は存在するのか?」と問うたレベルの質問と、受け取られた(笑)。 

周:マルクスを神様として崇める人たちには考えられない質問だ(笑)。

初岡:そうした流れからいけば、今の55年体制が最初に崩れたのは、世の中の変化を十分見据えることができなかったからだ。社会党は、今言ったようなマルクス主義の本流ではなかった。しかし社会主義協会の呪縛から逃れられず、そういう考え方を支持する人が党内で多数派になり、例えば江田三郎さんなどすぐれた政治家の多くが、社会党から離れてしまった。その中の人が今の民主党を作るものの、民主党なりの問題があった。

 55年体制は、まず社会党が滅び、これに対峙していた自民党が遅れて滅びの過程に入ったのだろう。

1945年9月2日、東京湾上の米軍戦艦ミズーリ号で調印された降伏文書に署名する重光葵外務大臣とそれを見守るダグラス・マッカーサー元帥

■ 理論的な崩壊と政治的な崩壊に時差


周:社会党が滅びた一つの大きな原因には、ソ連崩壊があったのだろうか? 

初岡:間接的な影響はあったと思う。

:富塚文太郎先生のように「社会主義を卒業した」と思った人たちが、結構いたのだろうか?

初岡:スターリン批判があったときから理論的な崩壊が始まった。ソ連は1989年から91年にかけて政治的に崩壊した。理論的な崩壊と政治的な崩壊の間には時差があった。 

周: 1956年ソ連共産党第20回大会におけるフルシチョフの秘密報告『個人崇拝とその結果について』は、日本の左翼に大きなショックを与えたはずだ。日本ではちょうどこの時差は55年体制期に当たる。当時の世界情勢の変化は、日本に多大な影響を与え、55年体制が生まれ、そして崩壊した。

スターリン批判を行うニキータ・フルシチョフ(出典:日経新聞

■ 55年体制から90年体制へ


初岡:55年体制もそうだが、世界的に見て90年体制つまり1989年から92年くらいまでの変動の余波も大きい。

周: 1989年はソビエトが解体に向かい、日本はバブルの最高潮期で、株も頂点にあり、世界GDPに占める日本のシェアは10%に達し、これも頂点だった。その年に竹下登政権が消費税を導入した。

初岡:日本では国内政治を国際政治と関係付けた研究は案外少ない。政治学者は国内政治だけで完結してしまう。世界を全部合わせて見た方がいい。戦後の日本の左翼の問題も、国際的な見方が全く感じられない。

 例えば1947年から49年ぐらいまでに「東欧の革命」があった。共産党が少数で、社会民主主義政党の方がチェコにしてもポーランドにしても大きかった。東欧の革命はソ連軍の存在をバックに、少数派の共産党が社会民主党を飲み込む形で強行された。

 私が最初に出した本は『東欧の革命』の翻訳。著者のヒュー・セトン-ワトソンは第二次大戦に活躍したイギリスの情報関連の将校で、戦後ロンドンスクールオブエコノミーの先生になった。彼の『東欧の革命』は版権が切れていた。勝手に海賊版的に翻訳し、社会党系の本屋から出した。これを読むと、当時の状況がよく解る。

周:外部の力が大きく働いた。

初岡:戦後、日本政治の一番大きな要因は、占領だ。日本を占領していたのはアメリカ。これがソ連軍だったら共産党政権になっていた。

周:冷戦終結を受けて日本の政治も一気に動いた。1993年に細川護熙政権が樹立し55年体制が終わった。

ヒュー・セトン=ワトソン (著)、初岡 昌一郎 (訳)(1969)『東欧の革命』(新時代社)

■ 政権奪取が野党崩壊を招いた?


初岡:55年体制は安定性を欠いていた。55年体制を壊すときの野党に対する最大のアピールは、中選挙区を壊すと同時に、政党助成金を制度として創出して、企業団体献金をやめさせることだった。ところが、新しい体制はその制度をそのまま残し、新しいものと組み合わせたところに混乱が起こった。

 例えば小選挙区制の選挙は、経済的にも言論でも自由かつ公平に戦われたのか。55年体制の一番悪いところは、与党が企業団体献金に乗っかったことだ。与党はまた、官僚機構を我が物に(私物化)した。

 私が野党に関わっていた当時、三極委員会すなわちトライラテラルコミッションがあった。日本国際交流センターが日米の議員を中心にいろいろな人を集めて日米下田会議をやっていた。左翼の方からは人があまり出ていかず、しかも英語で喋る人が少ないとのことで私はよく呼ばれて参加した。その時に「政権交代が起きないのは、野党に政策能力がないからだ」と言った著名なアナリストがいた。私は「その通りだが、情報は全部与党が握っている。野党には政策どころか情報も与えず、説明も十分にしない」と反論した。官僚機構が与党の政策機構になり、情報の透明性が全くなかった。

周:なぜ野党は政権を担当したがるのか?

初岡:政党の目的は政権を担うためだ。

周:チェックを徹底的にやれば、真の反対力を発揮できたのではないか。政権奪取に走ったため社会党も民主党も崩壊し、今の状況につながったのではないか?実際、民主党が政権を担当したらひどかった。 

初岡:それは十分な用意が無いときにやったからだ。おそらく、今度の選挙ではそれについてもう一回試されることになる。

小選挙区・立候補者ポスター

■ 政治家と官僚のバランス


周:日本国民は、本当に民主党の今の人たちに政権を引き渡す勇気があるのか?安倍政権があれだけ長く持ったのは、民主党政権のダメージ記憶があるからではないか?2005年、民主党党首だった岡田克也さんが総選挙で小泉純一郎首相と戦った時、私も参加した会合でマニフェストの議論になった。私は「岡田さんが総理になったとき、霞が関をどう掌握するのか。民主党として官僚とどう関係を作っていくのか」と質問した。岡田さんは「局長以上の辞表を全部預かる」と答えた。つまり、話を聞けという体制を作ると即答した。会場に参加していた財界人が「これではうまくいかない」と口々に言っていた。後に実際民主党政権になった時、官僚を悪者扱いするようなことをした。 

初岡:民主党は当時、政治が官僚によって支配されているとして、官僚政治を強く攻撃した。

周:政権を取らなければこのようなプロパガンダはあってもいいと思うが、真面目に政権運営をするなら官僚を抱き込むのは必須だ。

初岡:民主党政権では局長はともかく次官は全部交代させるとした。ところが次官を1人も交代させなかった。当時、民主党政権を一番攻撃したのは農林次官だった。農林大臣になった赤松さんは親父の代から私もよく知っていた。彼は「水に流して、歴史的妥協をしよう」と言っていた。

 岡田さんが言ったような、選挙で自民党を応援し野党の政策を攻撃した次官に退陣を求め、さらに局長も大使も辞表を預かるような政策は、韓国で金大中が大統領になった時にやった。金大中は圧勝したので比較的スムーズに、局長以上と全ての大使を交代させた。おそらく今度、アメリカのトランプが再選されたらそれをやるだろう。

周:日本は明治維新後、廃藩置県と官僚制をセットに新たな国の体制を作った。他方、選挙で政治家を選ぶ制度も出来た。後者は戦後さらに強化された。つまり、試験で選ばれた官僚と、選挙で選ばれた政治家という二つの勢力が存在する。いろいろ問題はあったにせよ、55年体制では、この二つの勢力がバランスよく協働した。

 中国では官僚制を2000年間敷いた歴史がある。試験で選ばれ、ヒラから課長、局長、審議官を経て事務次官へと、実績を評価され鍛えられた人たちの存在は、国にとってはそれなりの重みがある。選挙で選ばれた人たちが自己を過大評価し、官僚を敵視すること自体、政権担当能力に欠ける。民主党政権はその通りになった。

2008年9月19日「東京―北京フォーラム」にて、左から塩崎恭久(衆議院議員)、岡田克也(衆議院議員)、加藤紘一(衆議院議員)、松本健一(麗澤大学教授)、司会を務める周牧之教授。

■ 人材が決め手


初岡:社会党もいまの立憲民主党も、組織政党ではなく、個人の集まりだ。組織が人を選んでいるわけではない。特に今は手を挙げてやりたいという人の中から選んでいる。

 昔の社会党は、ある程度経歴や党に対する貢献度等を評価されて選考していた面があった。今、政治家になりたい人に一番重要なのが地盤だろう。地盤は世襲議員が有利だ。二番は看板、三番はカバンだ。世襲がないと長年秘書を務めた人がやる。

 今の民主党のトップは京都から来ている泉氏で、経歴は秘書と議員しかない。社会人として生活の経験がゼロ。永田町しか知らない人が首相になれるわけないと私は思う。

 永田町文化を民主党と自民党とで共有している。当選数で役職を決める文化は最悪だ。

周:中国の場合は、仮に中央省庁の公務員を出発点とした場合、課長、処長をやり、地方に回され県のトップをやり、さらに市(日本の都道府県に相当)、そして省トップへと進み、ようやく中央政府に戻り、大臣クラスに抜擢される。人材選抜がかなり厳しい。これらのプロセスを全部クリアして上り詰めた人はかなり逞しい。ハーバード大学教授だったエズラ・ボーゲル氏は私に「日本の政治家より中国の政治家の方が、人間的魅力がある」と言っていた。おそらく鍛えられた故に魅力が出たのだろう(※詳しくは、『【コラム】エズラ・ボーゲル氏を偲ぶ/ジャパン・アズ・ナンバースリー』を参照)。

初岡:そうだ。中国も世襲がないわけではないが。

周:中国の「太子党」は海外で取り沙汰されるが、日本の国会議員の世襲率よりずっと低い。プロセスを踏んで選抜されていけば二世からも優秀な人材が生まれる。例えば習近平氏のキャリアは1979年に国防大臣の秘書を務め、82年河北省正定県の副書記を務め、その後福建省厦門市の副市長を経て、さらに同省寧徳地区の書記になり、福州市の書記をやった後、福建省の副書記、副省長、省長になっていった。続けて、浙江省副省長、省長代理を経て、同省の書記になった。さらに上海市の書記を務めたのちの2007年、つまり地方政府での経験と実績を25年間積んだ後に、ようやく中央政治局常務委員になった。こうした経験が習近平氏の強さになっている。

初岡:今の民主党の議員選考制度は非常にお粗末だ。まず自力で当選できる人、つまり党が金を出さなくても世話しなくても当選できる人が優先される。議員をやりたくて、ある程度の金が自分で調達でき、高学歴で印象が良い人。だから若い無名の人で、外資系企業などに勤めてやる気のある人が案外出てくることが多い。そういう人は落選してもまた仕事を見つけられる。

周: 現場からのし上がるキャリアコースが無くなった。

初岡:私が労働組合に入ったときに、大学卒は稀だった。トップには非常に優秀だが家が貧しくて中学校に行けなかった人が多かった。連合会長だった山岸章さんは頭の良さでは、私が今まで会った人の中でも3本の指に入る人だ。彼は小学校の昼飯の時間は家へ帰り水を飲んで昼飯を食ったような顔をして学校へ戻ったと言っていた。弁当を持っていけなかった。家が貧しく死んだ方がいいと思って特攻隊志願したところ、飛ぶ飛行機がすでになかった。戦後、金沢逓信講習所に入った。それから小さな特定郵便局に入り、下から組合活動の実力で上がってきた。しかし今は連合のトップは2代続けて東大卒だった。

周:当時の労働組合は優秀で教育機会に恵まれなかった人たちがのし上がっていったからこそ強い。東大卒のエリート化が進むことで弱くなるだろう。現場に強く、大局観、そして政策能力のある人材を育てるのが鍵となる。

1996年9月28日、民主党結党大会で、壇上に勢ぞろいした衆院選公認候補たち(出典:時事通信

■ イデオロギーよりは実利を


初岡:議員になることが目的で民主党から当選しても平気で自民党に行ったりする。自民党から本来出たいが自民党はすでに立候補者が決まっているから民主党から挑戦し、当選したら自民党へ行く。

 二大政党がイデオロギー的にぶつかっているときにはそういうことはほとんどできなかった。

周:一部の民主党の議員はイデオロギーよりは当選チャンスで民主党を選んだわけだ。イデオロギーが違う二大政党で競い合う政治改革の理想図は実現されていない。

初岡:私はいま各政党の間に深い谷間があるようには思えない。私の観察で言えば現在、国会議員の3分の2は、国会議員になることが大事で、極端なことを言えばどの党に属してもいいと思っているのではないか。民主党員になった人のかなりの数の人は自民党で公認されなかったから民主党のチケットを持った。今度の選挙もおそらくそうなると思う。二大政党というチームの分け方はできない。イデオロギーなど明確な対立軸がない場合にこの現象が起きやすい。 

周:今やイデオロギーよりは当選できるかどうかが重要で、さらに好き嫌い、そして政権を取れるか否かの打算が働く。

初岡:小選挙区制は大局観のない政治家を生む。例えば世田谷区選出であれば、区議会議員は世田谷区全区から選ばれる。世田谷区の国会議員は、五つぐらいに分かれた小さな選挙区で支持を得れば議員になれる。小選挙区制は非常に悪い制度だ。 

周:この悪い制度を導入する時、議員にとって不安定な選挙基盤になるにもかかわらず、なぜ当時社会党などはそれに協力したのか?

初岡:議員個人によって差があるだろう。私も小選挙区制に反対だ。社会党も本当は反対していたが当時は新聞世論に勝てなかった。新聞と政治学者が全て賛成していた。

周:世論は怖い。一瞬の強風には皆弱い。

初岡:今思うと、社会党はイデオロギー政党になろうとした。自民党は大衆的な利害、さまざまな意見を調整する政党だった。これに満足できない本当の保守の人は、保守党などいろいろな政党を作り、自民党の外へ出ていった。この傾向は一つの崩壊現象と言える。

周:55年体制が駄目になったのは社会党も自民党も、分裂現象が起こったからだ。1993年、小沢一郎等実力派が造反し、自民党の外に出て行ったことがこれまでの体制を一気に壊し、さらに翌94年の細川政権で小選挙区を導入したことでゲームチェンジとなった。

初岡:過ちは正せるが時間もコストもかかる。55年体制に戻ることはできないと思う。二大政党という形には、選挙区がどう変わってもならない。価値観や利害関係が多様化し、二つの政党によって代表されることはできない。まして一つの政党によって代表されることもできない。二大政党体制を展開するアメリカでも、事実上それは崩れつつある。共和党内にも、トランプ派と反トランプ派がいる。民主党内にも様々な人が幅広くいる。

講義を行う初岡昌一郎氏

プロフィール

初岡 昌一郎(はつおか しょういちろう)/国際関係研究者、姫路独協大学元教授

 国際郵便電信電話労連東京事務所長、ILO条約勧告適用員会委員、姫路獨協大学教授を歴任。研究分野は、国際労働法とアジア労働社会論。


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【対談】初岡昌一郎 Vs 周牧之(Ⅰ):理想と現実の葛藤

2024年5月23日、東京経済大学でゲスト講義をする初岡昌一郎氏と周牧之教授

■ 編集ノート:

 アメリカ大統領選挙の混迷、ロシアのウクライナ侵攻、イスラエルのガザ侵攻など世界情勢は揺れ動いている。東京経済大学の周牧之ゼミは2024年5月23日、国際関係研究者の初岡昌一郎姫路独協大学元教授をゲストに迎え、戦後の長いスパンで国内外の政治情勢について解説していただいた。


周:東京経済大学は、非常に左派的な大学で、マルクス経済学の一大牙城だった。1989年初めて訪ねた時、校門の外は、警察の車が止まっていた。聞くと、大学の中に闘争的な左翼の先生がいるからだとの話だった。大学のポリシーでこのような先生達を守っていた。後に私の恩師となった劉進慶先生が台湾政府に迫害を受け、パスポートを取られ無国籍状態だった時、東経大が教員として雇い入れた。そうした私の想像を超えた面白さに魅力を感じ、この大学の大学院に進学した。もう一人の恩師の野村昭夫先生は日本共産党から除名された左派的な先生だった。学長・理事長を務められた富塚文太郎先生も私の恩師の一人で、初岡先生とも親しかった。

初岡:増田祐司先生とも大変親しかった。

周:増田先生のベースはIT経済で国際派の先生だが左派的な考えの持ち主だった。ソ連解体を受け、大学院のゼミで富塚文太郎先生が「社会主義から卒業した」と仰っていたのが印象深かった。

2001年9月7日に中国広州で開かれた「中国都市化フォーラム〜メガロポリス発展戦略〜」にて、左から周牧之、増田祐司教授 

■ 55年体制は一種の運命共同体


周:戦後日本の政治は長い間、自民党と社会党という万年与党と万年野党とで成り立っていた。この55年体制を打破する動きが何故出てきたのか?しかもなぜ小選挙区の導入もセットだったのか?55年体制には悪い面があったが、日本の高度成長をもたらした功績があった。社会党も、支持基盤の労働組合も、なぜ55年体制の崩壊に協力したのか?

初岡:55年体制の問題について語る前に、回り道したい。私はもう少しで89歳になる。1955年は私が大学に入った年だ。同年、二つの保守政党が統一して自民党ができた。自民党に対立する側は、当時左派社会党と右派社会党があったのが統一して社会党が出来た。それで二大政党になった。とはいえ議会での勢力は自民党が3分の2、社会党3分の1なので、二大政党というより、1.5と0.5の政党だ。

周:1955年に万年与党と万年野党の体制が出来上がった。

初岡:非常に都合がいい体制だ。1955年当時、東京経済大学は左翼が強い大学だった。私は左翼が強くはなく非常に穏健とされていた国際基督教大学に進学した。国際基督教大学で私は左翼学生で、社会科学研究会(社研)に所属していた。

周:凄い時代だ。左翼が強くない穏健な国際基督教大学にも社研があった(笑)。

初岡:三多摩では当時、砂川の米軍基地を拡大し農民の土地を強制的に取り上げることに農民が反対し、学生の支援する砂川闘争が起きた。社会党や労働組合の力もあったが、学生が最大の動員力を持っていた。全学連が一番強く、社研は全学連運動の中にあった。津田塾大、一橋大、東経大、国際基督教大、成蹊大の5つの大学が三多摩社研連を作り、それを軸に関東社研連を作った。

 当時、社研はマルクス主義研究会として非常に行動的な組織だった。国際基督教大学の社研はバリケード闘争を行った1970年代以降は無くなった。

 1959年に私は卒業し、政党から自立した青年学生組織の社会主義青年同盟の創立に参加した。1960年の安保闘争時には社会主義青年同盟準備会に専従していた。その頃は学生運動が過激化すると同時に、社研連の中でもイデオロギー的な闘争があり、政治的な見解を巡り意見がなかなかまとまらなかった。

周:初岡先生は、大学を卒業後、社青同を作るために就職せずに頑張った。

初岡:55年体制ができた当時は、イデオロギー的な対立が非常に深刻だったが、それに国民的な基盤があったかは疑問だ。55年体制はある程度バーター政治だった。ホールバーターではないが3分の1か4分の1はバーターで聞く耳を持たないと政治は動かなかった。当時の政治家には懐が深い人が大勢いた。反対を言われても3分の1は聞くふりをする。3分の1は相手のことも聞くか、あるいは聞いたふりをしないと、55年体制はできない。

周:互いにある程度容認し合うことが大切だ。

初岡:労使関係もそうだ。私は、55年体制は同心円の二つの輪だと思う。それぞれ独自のところはあるが、運命共同体の面もある。

1993年8月6日、新首相に指名され、同僚議員に祝福される細川護熙氏(出典:時事通信社

■ ソ連行きを敢行


初岡:安保闘争が終わった年の秋に、初めて日本国外に出る機会に恵まれた。戦後、日本は形式的には1951年のサンフランシスコ講和条約で、主権を回復するが、まだ自由に国外に出られず、パスポートは自由に取れなかった。ビジネスではパスポートを申請して行けたが、一般の人が海外に行くには二つの条件が要った。一つは、国外での費用を誰かが全額負担してくれる、つまりオールギャランティの招待状があること。二つ目は、外貨の持ち出しが200ドルに制限されていた。当時は1ドル360円だから、7万円だ。大学卒の給料が当時1万円程だから、7万円を持ち出すのは学生にはあり得ない難しいことだった。

 ソ連に初めて行ったのはそうした時だった。当時ソ連行きは簡単ではなかった。パスポートをもらっても、モスクワと日本の間に飛行機はなく、行くとすればアメリカかヨーロッパを経由するしかなかった。今のようなディスカウントケットはなく、正規料金でソ連へ行くのは44万円から47万円必要だった。

周:当時の金額で47万円は大金だ。

初岡:そうだ。結局一番簡単で安く行ける方法は、ロシアの貨物船に乗っていくことだとアドバイスされた。八幡製鉄が薄い鋼板をロシアへ輸出していたので、その船に乗っていくことにした。東京から行って待っていたのだが、雨が降って鋼板が錆びるから作業しないまま1週間八幡で過ごして予定が狂った。一番困ったのは、宿代がなくなったこと。さらに困ったのは待っていた7日間に国際会議が終わってしまったことだ。当時外国へ行くのは簡単ではなく、仲間がカンパで100円、500円と集めてくれたので、行くしかないと思い、そんな状況でも行った。

周:とんでも無い状況の中でソビエト行きを敢行した。ソ連に招待されたきっかけは?

初岡:ワールドユースフォーラム(和訳で世界青年学生討論集会)というところから、日本の各青年団体へ招待があった。日本は自民党系が強かった青年団(日青協)、共産党の民青も含め5団体で準備会を作った。5団体のうち三つが社会党系だった。社青同、総評、日本農民組合の青年部。他の人は家庭もあり職場もあるから1カ月も行けない。私は学生で、その後社青同に属し定職がなかったから行けた。国際基督教大学出身だから英語ができるはずだと思われたかも。いずれにしても自分で行こうと思って行ったことではない。

周:初岡先生にとって人生の転機だった。

初岡:人生には「まさか」という坂がある。その時、私は社会党青年部で、全国的な役員をやっていたのは学生では私ひとりだった。あとは組合や地方の人だった。当時社会党は学生に広く支持されたが、党員になる学生には運動をやるより選挙に出るために入ってきた人がいた。特に早稲田大学の学生は大勢いて、伝統的に選挙に出る人が多かった。私は選挙に出るという考えがなかった。

 私がソ連に行ったのは中ソ論争が始まった時で、日本共産党もそれを機に分裂した。ソ連は私が日本共産党員でないと知り、受け入れたのかもしれない。

周:都合が良かった。

初岡:最初に行ったソ連は当時、左翼陣営が震え上がるような大きな政治的な激震、すなわちスターリン批判が、1955年から56年に始まって進行中だった。スターリン批判によりソ連の新指導部ではフルシチョフがリードして、国内改革と同時に、初めて米ソの平和共存、国際対立の平和的な解決を言い始めた。

 ソ連はこれでアメリカに追いつこうとし、共産党以外の政治勢力とも対話したいと考えていた。共産党系の青年組織と学生組織が国際的にあり、日本の全学連と民青は所属していた。しかし、当時私たちは中立非同盟の考え方に立ち、ソ連や全ての国と友好的な関係を持ち、どこのブロックにも入らない立場をとっていた。

周:それはアメリカと同盟関係にある日本政府のポリシーとは相反する考えだ。

初岡:野党、とくに当時の日本社会党左派の考え方だった。社会党右派はアメリカと協調するべきとし、日米安保条約も必要との考え方だった。左右両派が統一した時これは曖昧になった。

 日本共産党もそれまでは武力によって政権を取る方針を持っていて、三多摩の山中で拠点を作るなどしていた。今思うと空想的だが、当時は真面目に支持する人が国民の中で5%ぐらいいた。学生の中には大学を中退し、三多摩などで山村工作隊に入った人もいた。1955年以前の学生運動と社研は共産党一色だった。私が大学に入ったときは違う風が吹き始めていた。

1959年9月19日、ニューヨークのアイドルワイルド空港で演説するニキータ・フルシチョフ書記

■ モスクワで世界的なネットワーク


初岡:モスクワ準備会では世界から代表10名を選び1961年に予定された本会議の準備を進めることになった。常任書記局メンバーは各地域から二、三名選ばれた。アジアは中国と日本だった。翌年発足した常任書記局に日本からは私が行くことになり、この時は焼津からソ連の漁船で行った。1961年の冬から夏まで半年間モスクワにいた。国際準備会のメンバーは皆立派なホテルに泊まっていた。アジアからは中国、ヨーロッパはフランスとイタリア。それにロシア。北米は無く、南米はキューバとブラジル。アフリカはマリ、モロッコ、ガーナ。私は元々共産党員ではなく、ソ連の体制についてはある程度好意的に見ていたが、肯定もしていなかった。

周:まさしく左派青年の世界的なネットワークだ。初岡先生と一緒だった中国の青年、胡啓立氏は後に中国でナンバーワンになる可能性があった人だ。

初岡:彼は本当に立派な人。七つか八つ年上だった。中国共産主義青年団に胡という名の人は多い。胡耀邦さんを除いて他の方はみんな体格がよかった。

周:胡耀邦さんは非常に若い時から革命に参加して、身体が伸びる時期は井崗山や長征で充分食べられなかったのだろう。私と同じ湖南省出身であることも一つの原因かもしれない。

初岡:確か胡啓立さんは、北方の陝西省出身だ。モスクワで一番不自由だったのは、新聞がなかったこと。ホテルで売っているのは共産党の新聞だけ。フランスやイタリアのように共産党が強いところは、普通の日刊紙と変わらない新聞を出していたが、日本は共産党機関紙の赤旗だけだった。ソ連と日本共産党との関係が悪くなると、赤旗もモスクワで買えなくなった。私は朝日新聞モスクワ支局で新聞を読ませてもらっていた。

周:一応世界中から共産党系の新聞が届いて読めたわけだ(笑)。初岡先生がモスクワにいた時の飲食を含めた生活費は全てソビエトが負担したのか?

初岡:ホテル代はソビエトが負担した。当時、書記局員の給与は月額400ルーブル。日本円にして月8万円出してくれた。もちろん交換性がないから、ルーブルは外国へ出たら紙くずになる。

周:全部向こうで飲んで食べて消費したわけだ(笑)。

初岡:日本人は珍しかったので、モスクワ放送や、あまり聞いたことない新聞雑誌からのインタビューで、結構謝礼をもらった。当時インタビューを多く受けた外国代表は、多分キューバと日本ぐらいだったと思う。日本はまだ珍しかった。 

周:初岡先生はその後ソビエト以外の東欧諸国にも出かけた。

初岡:英語ができる人がいなかったので、外国はお前が行けと言われ、モスクワのあと、ヘルシンキへ行った。社青同を辞める口実として、ユーゴのベオグラードに留学に行くことにしていた。行ってから二、三カ月しないうちに、イタリアで国際会議があるのでその常任書記局に行ってくれと日本の仲間に頼まれて、フィレンツェに行くことになった。3カ月いたが金はない、当時は酒は全く飲まず旨いモノも食べられなかった。昼はフィレンツェ大学の学生食堂でスパゲティーを食べていた。

 モスクワの同じホテルには、日本の商社の人が3人いた。彼らはお互いの部屋で食事を作って食べていた。商社の人は炊飯器を持ち込んでいた。聞いたことない商社ばかり。いわゆる三大商社のダミーだ。 

周:中国でいう友好商社だ。

初岡:アメリカに遠慮して、アメリカから制裁されないように。 

周:問題にならないように作ったダミー会社だ。冷戦当時日本と中国、ソ連、東欧諸国との貿易で大きな役割を果たした。

2019年8月29日、サハリンで開催のセミナーにて、右から周牧之教授、初岡昌一郎氏、江田五月(元参議院議長)

■ 社会主義国家の理想と現実の乖離


周:初岡先生はソビエトへ行き、視野がかなり広くなった?

初岡:物事を相対的に見ることができるようになった。ソ連は、ものすごいコネ社会だった。最初に覚えたロシア語は、「席はありません」だ。レストランの門番にお金を出すと中に入れてくれた。或いはソ連の団体の人と一緒に行き、中央委員会のゲストだというと満席でも席が作られた。社会主義とは無縁なおかしな社会だと強く感じた。私は元々共産主義に対して幻想を持っていなかったが、あれほどひどい社会とは思わなかった。

周:共産主義の理想と現実のギャップの大きさを体感された。

初岡:日本に帰ったら青年同盟の中でイデオロギーに関する内部の戦いがあった。私はどちらかというと右派的なグループにいて、左の中の右派ということで集中攻撃を受け、辞めた。

 ヨーロッパの中でもう少しマシな共産主義もあるはずだと思い、今度はユーゴスラビアに行った。ユーゴスラビアは当時、非同盟中立だったが、制度としては一応共産主義を取っていた。モスクワとの仲が非常に悪く、自立していた。ユーゴスラビア、インドネシア、インドが、非同盟ブロックを作り東西対立の真ん中にいた。ユーゴスラビアは、モスクワを「共産主義と言いながら官僚、エリートが牛耳っている社会だ」と批判していた。しかし、ユーゴスラビアの労働者自治管理を見たら、そこも実態はうまくいってなかった。

周:中国のソ連批判の時、ユーゴもかなり加担した。

初岡:ジョークは大抵社会のタブーから生まれる。ユーゴスラビアで聞いた政治ジョークがある。「国連がアフリカのコンゴに調査団を3者構成で派遣した。すなわち東はソ連、西はアメリカ、中立国がユーゴだ。ソ連の代表がまず調査に入り「コンゴにスプートニクあるか?」と聞いたら「ない」。「ICBMはあるか」と聞いたら「ない」。それでは後進国だ。次に、アメリカの代表が「キャデラック乗っているか」と聞くと「乗っていない」。「電気冷蔵庫は?」「ない」。それでは「コンゴは後進的だ」と言った。最後にユーゴ代表が「労働者自主管理やっているか」。「やっていない」。ユーゴ人は「へえー、コンゴは労働者の自主管理をやっていないのに後進的だね」と言ったというオチだ。

 労働者自主管理と言いながら、実態は共産主義同盟員が幹部となり仕切っていた。フランスの労働者自治管理論についても、理想としては良く、官僚主義のアク抜きになる思想ではあっても、現実の運用は難しかった。ミッテラン政権以降は誰も言わなくなった。

周:中国も同じ問題が起こっていた。社会主義国家になったもののどんな社会にしていくか苦労した。一番なりがちなのは官僚主義社会だ。ソ連の官僚主義はひどかった。中国では早くも1957年から毛沢東が官僚主義に対し、さまざま外部から意見を言わせて直そうとした。ところが官僚の反発がひどく、反右派運動になり、意見を言った人たちが右派として打倒された。

 のちの文化大革命の本質も、官僚主義を打倒する運動だった。戦後社会主義国家になった国々が苦労しているのは、旧来の体制を崩壊させた後、どんな体制が真に世直しできるかの答えを模索し続けた点だ。その意味ではソ連も中国も政権を取った後、大変苦労した。社会主義国は皆苦労した。その苦労を、初岡先生がさまざまな国を点検し、目の当たりにしたのは貴重な経験だ。

旧ユーゴスラビア首都・ベオグラード

■ マルクス主義は一元論的発想


初岡:マルクス主義のルーツを見ると、カトリックの教義から派生している。私は高校からキリスト教の学校に行ったので、ある程度勉強したが、マルクス主義とカトリックが非常に似ていると思ったのは「真理は一つしかない」と信ずる点だ。自分が真理を握っているとし、他の人が違う意見であれば他の人は完全に間違いだという発想だ。真理は一つしかないとする一元論だ。

 逆の面から言えば、それは非妥協になる。寛容さを失う。マルクスの共産主義と比較すると、社会民主主義の思想は多元論だ。自分を正しいと思うが、他人が正しいこともありうるとの立場だ。

 キリスト教カトリック本流にとって一番危険なのは、キリスト教の分派をつくることだ。マルクス主義左翼も同じだった。日本共産党も自民党より共産党分派の方をひどく攻撃した。 

周:マルクス主義の政党における内部闘争の凄まじさは、これで説明がつく。中国共産党も同じで内部闘争が激しかった。根底にあったのは、この一元論的なロジックだ。

 共産主義を一元論「宗教」とすれば、教祖様はユダヤ人だ。実際、初期のソビエト共産党上層部はユダヤ人が大半だった。

初岡:レーニン時の中央委員会の中で、ユダヤ人が半数を超えた。政治局のトロツキーもカーメネフもジノヴィエフもユダヤ人。

周:当時の政治局5人の中で、レーニン、スターリンを除き他3人は全員ユダヤ人だった。スターリンによる粛清について一説は、ユダヤ人を共産党から排除するためとされる。

初岡:スターリンが死んだとき、ロシアのアネクドートだが、当時の医者が「スターリンが死亡」と診断を下せない。死んだと言ったらスターリンを殺したといわれるかも知れない。スターリンの側近が「こんな医者はだめだ、もっといい医者を呼べ」と。そうしたら他の側近が「無理だ。もっとましな医者はみなユダヤ人だから処刑された」。それでやむなく「息が止まっている」と言った。

 ロシアはジョークの宝庫だが、イタリア共産党の人から聞いたのが半分以上だ。当時のイタリア共産党青年同盟書記長は、後にイタリア共産党書記長になったオケット。サルジィニアの代々貴族の家の出身だ。国際部長ペトロ‐ネも面白いやつで「お前、日本社会党だそうだけど、日本社会党はイタリア共産党と同じように腐敗しているか」と私に聞いてきた。とにかくイタリア人は面白い。

 一番傑作で笑ったのは、フルシチョフに対するジョークだ。赤の広場で青年が、「フルシチョフは馬鹿だ、あいつはアホだ」と叫んだ。即決裁判でシベリア重労働20年。罪名は、国家重要機密漏洩(笑)。

カール・マルクス,フリードリッヒ・エンゲルス(1951)『共産党宣言』(岩波文庫)、カール・マルクス(1969)『資本論』(岩波文庫)

■ 左翼も変身する  


周:左翼の人の変身ぶりも見所だ。

初岡:秋田の国際教養大学の創立者で初代学長だった中嶋嶺雄さんは、全日本学生自治会総連合(全学連)の最後の国際部長で私より一つ若い。学生のときから知っていた。最初は毛沢東支持。後に台湾支持へと極端に変わった。政治評論家として活躍した森田実さんもそうだ。

周:拓殖大学学長だった渡辺利夫氏もそうだ。中国や韓国などへの態度はかなり変化した。日本李登輝友の会会長まで務めた。だが、人間味のある人で、私の恩師劉進慶先生が亡くなったことを知らせたら、大きな花を送ってきた。その後会った時「いや実は劉先生はあまり存じ上げない」と言われた。私が知らせたので花を送ってくれた。 

初岡:中道を行かない。ただ、全部の人が変わったわけではない。例えば富塚文太郎さんなど共産党から除名されても、リベラルな左翼であり続けた。

周:私の恩師、野村昭夫先生も共産党から除名され、リベラルな思想を貫いた。

初岡:増田祐司先生も非常に真面目な方で、ガチガチのマルクス主義者だったが、共産党に除名されたおかげでリベラルになった。腹に一物がない善人だ。

周:増田祐司先生は私が出会ったときは大らかな方だった。東京経済大学のサバテイカル休暇を利用し、EU委員会科学技術局第XII総局上級研究員を務めた。その後東京大学社会情報学研究所の教授になった。

1995年7月21日、周牧之の経済学博士学位授与式にて、前列左から富塚文太郎学長、周牧之、野村昭夫教授、劉進慶教授。後列左から堺憲一教授、小島寛教授

■ マルクス経済学は日本社会に大きな影響


初岡:私は、全学連の委員長を務め後に学習院の先生になった香山健一さんとは波長があった。戦争中は右翼で、戦後いち早く左翼になった清水幾太郎という名物学者がいた。晩年は穏健左翼になり江田三郎を支持した珍しい人だ。清水先生は学習院の教授で、自分が辞めるときに香山健一を後釜にした。今の天皇は、香山ゼミだった。ある時香山に「学習院で何やっているの?」と聞くと「皇太子の教育係」と言う。「あんた危険思想教えているんじゃないの」と言ってひやかした(笑)。香山もあまり共産党的ではなかったが元共産党員だった。満州からの引き揚げ者で、人柄と頭は良かった。

隅谷三喜男(1976)『韓国の経済』(岩波書店)、劉進慶 等(1992)『台湾の経済』(東京大学出版会)

周:左翼的な思想、そしてマルクス経済学も日本社会に大きな影響を及ぼした。私はマルクス経済学大御所の隅谷三喜男先生に大変お世話になった。恩師の劉進慶先生は台湾出身で隅谷先生の愛弟子だった。『韓国の経済』を書いた隅谷先生は、劉先生に『台湾の経済—典型NIESの光と影』を書かせた。私がドクターを取った後、両先生から『中国経済論』を書くよう勧められた。一国の経済論を書き上げるのは大変な挑戦だ。隅谷邸で中国経済に関する研究会を立ち上げ、宇野経済学の流れを汲むマルクス経済学者の伊藤誠先生も加わった。当時、私は海外に頻繁に調査出張していた。東京に戻る度に研究会で調査報告し、喧々囂々の議論を繰り返した。奥様手作りのサンドイッチを食べながら隅谷先生を囲んだ議論で、『中国経済論』のフレームワークや思想が相当鍛えられた。

初岡:隅谷先生が本をたくさん出された中で1冊だけだった翻訳書の光栄ながら共訳者になった。私はそのとき全逓の一職員で、役員でもなかった。公労委の大先生だった隅谷先生の本に、全逓信労働組合書記、初岡昌一郎の名で加わった。

 この本を出してくれたのは、当時日本評論社の出版部長だった森田実で、彼が全学連共闘部長だった頃から私はかなり仲が良かった。彼は東大工学部に8年いた人だ。全学連の役員をずっとやっていたが、東大には8年しかいられないから卒業して、今度は中央労働学院という各種学校の学生になり、全学連役員を続けた(笑)。

(※以下、第二弾に続く

周牧之(2007)『中国経済論—高度成長のメカニズムと課題』(日本経済評論社)周牧之(2008)『中国经济论:崛起的机制与课题』(人民出版社)

プロフィール

初岡 昌一郎(はつおか しょういちろう)/国際関係研究者、姫路独協大学元教授

 国際郵便電信電話労連東京事務所長、ILO条約勧告適用員会委員、姫路獨協大学教授を歴任。研究分野は、国際労働法とアジア労働社会論。


初岡昌一郎氏:関連記事

【コラム】初岡昌一郎:「人新世」(アントロポセン)時代の曲がり角 〜都市は文明を先導、だが崩壊危険要因も顕在化〜

【ディスカッション】小島明・田中琢二・周牧之(Ⅱ):ユーラシア大陸を視野に入れた米中関係

■ 編集ノート:

 米中貿易戦争、ロシアのウクライナ侵攻、イスラエルのガザ侵攻などで世界情勢は揺れ動いている。東京経済大学の周牧之ゼミは2024年4月18日、小島明日本経済研究センター元会長、田中琢二IMF元日本代表理事をゲストに迎え、激動の世界情勢について解説していただいた。

※前半はこちらから


40年間の改革開放で中国は自信をつけた


周:私は2018年に華為(HUAWEI)のある取締役から「アメリカのマーケット、アメリカからの技術輸入を諦めた」と聞いた。つまり、その時からアメリカから槍玉に上げられた同社はすでに脱アメリカを進めてきた。いまは、中国の半導体、ハイテク産業で脱アメリカが猛烈に進んでいる。

 13億の人口とユーラシア大陸をバックに持つ中国の脱アメリカは、確実に進んでいる。小島先生が敬愛されるドラッカーの言葉で「すでに起こった未来を確認する」というのが、私は一番大切だと思う。

小島:冷戦後のグローバルなスーパーパワーはアメリカだけだった。中国は自分の力が上がってきてアメリカから言われるだけでなく言うべきことを言うようになった。アメリカは超大国だが縮み始めた。アメリカ自身もそのことを認識し始めたから厳しい対中政策が出てくる背景になった。

田中:中国の立場になって考えたときに「とても覇権を握ろうと考えていない」という人たちが同世代にいらっしゃるのも事実だとは思うが、今のリーダーシップは、「アメリカ人に対抗する」あるいはそれ以上の昔の中華大帝国を再生しようという意欲は持っていらっしゃると思う。

 その中で、ポジティブな面で着々と進められているのは、今おっしゃったように、脱アメリカでしっかりと経済を成長させていく基盤を作ろうというのはもう間違いない。その中で、BRICSなどで仲間の国を増やし、ドルを使わず人民元で、例えば石油を決済するような試みをされていると思う。

 これは良い意味で中国が世界のグローバルパワーになっていく意図を体現していくプロセスだと思う。ただ一方で今、非常に困難な状況に陥っているのは、中国の経済活動だ。例えば不動産の問題がひとつ。投資偏重で供給力が少ないときには投資によってインフラを整備することは政策効果があったが、供給能力が出てきたときに、目先のことだけ考えて短期的な投資で経済成長率を一定程度維持することが、本当に持続的なのかどうか。この点は周先生に伺いたい。今中国の経済は中期的に見て、グローバルパワーへの道筋は、しっかりと戦略に持っている。中国の立場から見るとそう思う。ただし一方で、経済の現実が、それをどう阻んでいるのか、あるいは阻んでいないのか?

2018年8月2日、華為( HUAWEI)主催のフォーラムにて基調講演する周牧之教授

■ 中国で「新勢力」が急速に台頭


周:私は中国の産業や企業を「新勢力」と「旧勢力」に分類できると考えている。例えば不動産は、中国経済を改革開放から今日まで引っ張ってきた「旧勢力」だ。

 他方、近年急速に台頭してきた「新勢力」がある。これは電気自動車、半導体、新エネルギー、越境ECなどが典型的だ。中国では最近、これら「新勢力」を「新たな質の生産力」と言うようになった。

 中国経済のミソは「旧勢力」が失速する時に、「新勢力」が台頭したことだ。例えば昨年、深圳の輸出輸入のデータを見ると、輸出は伸びているが輸入が減っている。輸入に頼っていたチップの国産化が進んだためだ。

田中:自国生産だ。

周:中国はいま世界最大の半導体マーケットだ。これがアメリカの半導体産業の研究開発や設備投資を支えてきた。アメリカがチップを売ってくれないため中国は自国で作るようになった。中国は自分のマーケットがあるため思い切って研究開発や設備投資が出来る。年間新たに数百万人のエンジニアが生まれる中国では投資し続ければ半導体産業は育つ。

 日本の半導体は何故凋落したのか?私から見ると、投資を続けなかったからだ。日本の半導体産業は最初、社内やグループ内のマーケットをあてにして成長してきた。しかしムーアの法則に従って半導体が進化し、次第により大きな投資が必要となった。それに相応するマーケットをゲットする能力がないと投資が続かなくなる。

田中:売り上げがなくなる。

周:ムーアの法則によると18カ月間で半導体は一世代進化する。能力が倍増し値段が半減する。1960年代から半導体はずっとムーアの法則通りに進化し続けてきた。半導体メーカーの投資がこのリズムに間に合わなくなると、3年間で脱落する。エヌビディアがなぜ今すごいか?CEOの黃仁勳が、ムーアの法則を上回るスピードで投資し続けたからだ。

■ 組織と社会のイノベーションが必要


小島:1980年代、日本の半導体産業は元気であり、米国にとっては脅威だった。いまは半導体産業は安全保障上も経済発展の為にも戦略的に重要産業と見なされ、日米ともに自国優先で技術力と経済力を国内に止めようという戦略的な動きになっている。

 WTOはアメリカが先導して作ったが、最近はWTO違反の輸出規制や輸入規制をアメリカが勝手にやっている。本来ならWTOのルール違反だとなるはずが、紛争解決パネルの判事の任命を、アメリカが拒否している。WTOにとって一番重要だと思われた紛争解決のパネルの機能が停止したままだ。WTOは半分死んでいる。

周:その意味ではWTOなどの国際組織の役割をきちんと果たせるようにし、グローバリゼーションを一層推し進めなければならない。

講義をする小島明氏

小島:日本はグローバリゼーションが、片道切符だ。日本企業は約10兆円海外に投資しているが、日本国内の投資は少ない。外国から入る投資も少ない。直接投資ギャップがある。日本は世界のグローバリゼーションに貢献したが、日本国内のグローバリゼーションは非常にスローだった。日本はこの30年間内向きになり過ぎた。

 グローバリゼーションの中で、技術革新で新しいものを作るのが重要だが、どうも日本社会では技術革新を単に人の発明と思っている人が多い。1950年代当時、経済白書でイノベーションを紹介している。そのとき、イノベーションを技術革新とした。ところが、イノベーションという言葉を最初に普及させたシュンペーターは、「新しいモノの生産、市場開拓、流通、付加価値をもたらすこと全てがイノベーションだ」と言った。日本ではそのような広がりのある発想で、経済社会の動きを考えていかなければならない。

 これが日本政府の課題であり、実際に経済社会を動かす1人1人の力にかかっている。日本はグローバリゼーションを加速させ、チャンスを掴み、活用していかなければならない。

周:小島先生の仰る通り、そもそも日本はグローバリゼーションの波の中で、スローだった。2000年以降、世界は新たに増えた輸出総額において中国は20%を占めたのに対し、日本は僅か1.7%に過ぎなかった。グローバリゼーションの波に乗るのは、組織のイノベーション、そして社会のイノベーションが必要だ。

図 マッキンダーのハートランド論

出典:”The Geographical Pivot of History”, Geographical Journal 23, no. 4 (April 1904)

「島国」とユーラシア大陸との緊張感


学生: 中国が脱アメリカで、大中華帝国を目指して大きい国になろうとしている点がどんなところに具体的に見られるかお聞きしたい。

周:大中華帝国を目指して議論する中国の学者や官僚に、私自身は会ったことはない。何故か日本の新聞などにそうした論調が時折出ている。これは島国から大陸を見た時の発想かもしれない。

 ヨーロッパの島国といえばイギリスだ。数百年にわたり、イギリス人の外交は、ヨーロッパをまとめないよう努めてきた。スペイン、オランダ、ナポレオン、ドイツ、ロシアといったヨーロッパをまとめる勢力が出て来れば、イギリスは必死に叩いた。これは島国の一つの生き方だ。先ほど田中さんが言及したマッキンダーのハートランド論はまさしくそのような発想の産物だ。ハルフォード・マッキンダーは、イギリス出身の地理学者・政治家で、ユーラシアのランドパワー抑えるため練った戦略により、20世紀初頭にイギリスやアメリカで大きな影響力を及ぼした。

 日本は明治維新以降、大陸に関わった時間は歴史的に見れば一瞬だった。本来はイギリスほどの緊張感は要らないはずだ。

 アメリカは大きい国だが、ユーラシア大陸から見ると大きな「島国」ともとらえられる。アメリカ対ユーラシア大陸の姿勢は、イギリスのそれを引き継いでいる。覇権を維持したいアメリカは、ユーラシアに大きなパワーが出てくることに、凄まじい緊張感を持っている。

 第二次大戦が終わった直後、ファシズムに共に戦ったアメリカとソビエトの関係が何故急激に悪くなったのか。急に対峙して冷戦になったのは、アメリカとソ連の双方に緊張感があったからだ。

 冷戦後も、ロシアに対する根強い緊張感がアメリカにある。ハリウッドも映画でロシアを悪役に描き続けている。初期のプーチンは親米だった。米大統領に、NATOに加盟したいと言ったのが、拒否された。その後NATOはあれやこれやでロシアの近くまで拡張し続けた。それが今のロシアとウクライナ戦争の原因になっている。

 いまアメリカ対中国が、アメリカ対ロシアと同じ構図になっている。実は中国も欧米に対して大変な緊張感を持っている。先ほど述べたアヘン戦争とその後に列強に侵略された歴史があるためだ。それを理解しないと大変なことになりかねない。中国がでかくなったからアメリカと対抗意識を持つようになったと言われるが、朝鮮戦争の時の中国はでかくなかった。新中国建国一年未満ですべてこれからの国だったがアメリカと必死に戦った。ベトナム戦争時も中国の国力はまだ弱かった。当時、世界経済における中国の存在は3〜5%しかなかった。今20%弱だ。弱い時ですら戦う時は戦う。双方のこの緊張感をどう和らげたらいいのか、今の状況を心配している。

講義をする田中琢二氏

相互依存関係こそが最大の安全保


周:もう一つは、日中関係だ。2005年、日中関係が非常に悪かった時に私がかなりコミットして作った北京・東京フォーラムがある。小島先生も何度も参加して協力してくださった。このフォーラムの2回目開催時、安倍晋三氏が登壇し、日中関係の改善を訴えた。それを契機に、日中関係は急速に改善した。何か良いきっかけがあれば関係改善が可能だ。

 恐らく米中関係も同じだ。誰かが仕掛けを作れば関係は改善される。もちろん緊張感を煽ろうとする人もいる。緊張関係、そして戦争などで得する人もいるのが事実だ。しかし実際、相互ベネフィットが多ければ関係は良くなる。冷戦終結後はみなそれを信じてきた。

田中:その通りだ。

周:2022年9月にバルト海を経由してロシアとドイツを結ぶ天然ガス供給海底パイプラインを爆発したのは誰だったのか?パイプラインを遮断し、ロシアとドイツの共通利益をなくすことを誰が望み、誰が得したのか?

 グローバリゼーションの中で、互いにしっかり利益を得られるようにし、世界の平和に努力することが大事だ。不平和で利益を得ようとすれば、世界は大混乱に陥る。

2008年9月19日「東京―北京フォーラム」にて、司会を務める周牧之教授。左から塩崎恭久(衆議院議員)、岡田克也(衆議院議員)、加藤紘一(衆議院議員)、松本健一(麗澤大学教授)。

田中:中国全体では大中華を構想するつもりはないとの前提が一つあるとしても、今後中国がより大きな役割を担うとしても、それは今、中国だけの意図でやれるものでなく、アメリカがそれをまた封じ込めようとする力が出てくる。中国自身も研究が進んでいるソフトパワーの力で、どういったやり方で世界との調和の中で自分たちの経済力なり成熟度を高めようとするのかを、考える必要がある。したがって一国だけが大きくなる姿を想定して議論をするのはちょっとやや危険な感じがするので、どういう形で国際的な協調を保ちながら、まさにさっき言ったいろんなスーパーパワーが共存する社会になっていくと思う。そういう方向で対話が必要になる。

 もう一つ覇権論、ヘゲモニースタビリティセオリーが、19世紀はイギリス、20世紀はアメリカ、イギリスの前はオランダ、その前はスペインと、150年ぐらいのスパンで世界のスーパーパワーが変遷するとの議論がある。そうした議論に乗ると、必ず次は中国だろうという議論が一時盛んに行われた。ただし今アメリカが踏ん張り、覇権から降りることに抗う難しい歴史的局面かと思う。

 イギリスが徐々に衰退し、アメリカが上ってきた時、世界大恐慌、世界戦争が起こった。いま中国が大きくなり、アメリカの相対的な力が落ちてきていると争い事が起きやすい。そんな時こそ対話が大事だというのが周先生のお話だ。フォーラムなどいろいろ作ってみんな参加し、議論を進めたらいい。

小島:G7、G20と言われる中で最近聞くのはGゼロだ。80年間もアメリカがグローバルリーダーとして理念やシステムを作り上げた。いまでは、中国は力を持ち、アメリカ一国で紛争その他を調整することが出来なくなった。

 Gゼロで、指導する力を持った国がなくなったところで今本当に紛争が多発している。冷戦後は、国と国との戦いはない、テロや一部の民族同士の争いはあっても国同士の戦いはないというイメージだった。が、地域紛争が増えてきた。古典的な国と国との紛争が復活し歴史が反転したという見方もある。

 少なくとも、どの一国も問題を管理しコントロールすることが出来なくなってしまった。中国は発言権を高め発言し始めている。グローバルシステムはアメリカ製だと言う人もいる。それを修正すると言っても、どのような世界のシステムや制度を出すのかは、まだ中国からのメッセージとして生まれていないと思う。中国はそのプロセスにあるかもしれない。アメリカ中心のグローバルな理念やシステムが揺らいでいる中で、それに代わるものがない。

 強いグローバルパワーはなく、Gゼロという状況になり、国際システムは、非常に不安定な状態がこれから中長期にわたって続くことを考えなくてはいけない。政治のレベルで特に重要だが、それによって政治が不安定になる中で、企業はあるいは個人がどう対応するかと耐えず考えなければならない。時代的なチャレンジだ。

 VUCA(ブーカ)という言葉がある、もともと軍事面で言われた概念だが今は経済面で、企業経営の面で言われる。VはVolatility(変動性)、UはUncertainly(不確性)、CはComplexity(複雑性)、AはAmbiguity(多様性)で、先々の展開がよみにくい時代だ。

周:時代の要請を受けて国際社会を仲良くするようチャレンジし、若い世代もこれからの時代を背負って、平和な繁栄を築き上げていくことが大切だ。

(終)

2008年9月19日「東京―北京フォーラム」にて、左から趙啓正(中国国務院新聞弁公室元主任)、小島明氏、周牧之教授。


プロフィール

小島明(こじま あきら)/日本経済研究センター元会長

 日本経済新聞社の経済部記者、ニューヨーク特派員・支局長、経済部編集委員兼論説委員、編集局次長兼国際第一部長、論説副主幹、取締役・論説主幹、常務取締役、専務取締役を経て、2004年に日本経済研究センター会長。

 慶應義塾大学(大学院商学研究科)教授、政策研究大学院大学理事・客員教授などを歴任。日本記者クラブ賞、ボーン・上田記念国際記者賞を受賞。新聞協会賞を共同受賞。

 現在、(一財)国際経済連携推進センター会長、(公財)本田財団理事・国際委員長、日本経済新聞社客員、(公財)イオンワンパーセントクラブ理事、(一財)地球産業文化研究所評議員

 主な著書に『横顔の米国経済 建国の父たちの誤算』日本経済新聞社、『調整の時代 日米経済の新しい構造と変化』集英社、『グローバリゼーション 世界経済の統合と協調』中公新書、『日本の選択〈適者〉のモデルへ』NTT出版、『「日本経済」はどこへ行くのか 1 (危機の二〇年)』平凡社、『「日本経済」はどこへ行くのか 2 (再生へのシナリオ)』平凡社、『教養としてのドラッカー 「知の巨人」の思索の軌跡』東洋経済新報社。

田中琢二(たなか たくじ)/IMF元日本代表理事

 1961年愛媛県出身。東京大学教養学部卒業後、1985年旧大蔵省入省。ケンブリッジ大学留学、財務大臣秘書官、産業革新機構専務執行役員、財務省主税局参事官、大臣官房審議官、副財務官、関東財務局長などを経て、2019年から2022年までIMF日本代表理事。

 現在、同志社大学経済学部客員教授、公益財団法人日本サッカー協会理事。

 主な著書に『イギリス政治システムの大原則』第一法規、『経済危機の100年』東洋経済新報社。

【ディスカッション】小島明・田中琢二・周牧之(Ⅰ):誰がグローバリゼーションをスローダウンさせた?

2024年4月18日、東京経済大学でゲスト講義をする小島明氏、田中琢二氏および周牧之教授

■ 編集ノート:

 米中貿易戦争、ロシアのウクライナ侵攻、イスラエルのガザ侵攻などで世界情勢は揺れ動いている。東京経済大学の周牧之ゼミは2024年4月18日、小島明日本経済研究センター元会長、田中琢二IMF元日本代表理事をゲストに迎え、激動の世界情勢について解説していただいた。


スローバライゼーションが何を意味するか?


周牧之:田中さんはいまグローバリゼーションからスローバライゼーションになっているとおっしゃった。実はグローバリゼーションで2000年以降、急激に世界の貿易量が増えた。私の記憶がもし間違ってなければ、今日の世界貿易の7割のボリュームは2000年以降作られた。今日、世界経済のGDPの6割は、2000年以降の4半世紀で積み上げられた。つまり2000年以降、急速に進んだグローバリゼーションが人類史上最も富を作った時期であった。

田中琢二:そう。

周:各国を潤わせたグローバリゼーションを、止めようとしたのはアメリカのトランプ政権だった。この点で、トランプ政権が終わった後のバイデン政権は更に酷くなった。これをどう説明するか。

小島明:グローバリゼーションは、冷戦が終わった1991年から30年ぐらいは引き続いた。冷戦前は世界が東と西に二つに分かれ、例えば西からの旧ソ連に対する投資は無かった。1990年代末にコカ・コーラが初めて中国に投資しロシアに行った事が話題になった。

 東西の垣根を越えて、資本、人材が移動し始め、世界経済は活性化した。しかし近年、エコノミック・ステートクラフトという言葉があるが、経済を外交の手段、あるいは軍事的手段にする動きが出てきた。

 この結果Deglobalization、或いはSlowbalizationと言われる反動的な動きが生まれている。

 冷戦が終わった直後の1991年〜93年には、民主主義は最終的に理想的な形を完成したとされ、それ以上は歴史の発展はないとする「歴史の終焉」の議論をする人が出てきた。民主主義があまねく世界を照らすということだ。

周:フランシス・ヨシヒロ・フクヤマの『歴史の終わり』は、このような考えの代表作だ。

図 世界輸出総額推移

(出典)国連貿易開発会議(UNCTAD)データセットより雲河都市研究院作成。

小島:しかし冷戦から30年近く経ち、民主主義がおかしくなった。民主主義に分類される国が減ってきた。或いは民主主義とは名ばかりの権威主義が出てきた。またアメリカの中で民主主義がおかしなことになった。 

 直面する重要な問題はグローバルな情報化だ。情報化はAIの活用が重要だが、落とし穴、つまりフェイクがある。ある調査結果では、インターネット情報をほとんど信用するという学生が圧倒的多数だった。近年のフェイク民主主義のきっかけはいろいろあるが、権力闘争が情報戦になったことが一因だ。フェイク情報戦の状況がどんどん広がって、ロシアもウクライナも相手のイメージを壊すためフェイク情報をどんどん作る。民主主義国ではトランプを始め選挙戦でフェイク戦が始まったのではないか?

 グローバリゼーションが、安全保障上あるいはヘゲモニー争いの中で、ブレーキがかかっている。最近、非経済的な貿易制限が増えている。従来なら、輸入に対する制限が貿易制限の一番の中心だった。戦略的、外交的に大事なものは輸出しない、重要な技術は輸出しないという制限だ。

 外交的手段として直接投資を規制し、技術や資源を輸出しない。全くこれまでなかった貿易の流れが、グローバリゼーションの逆風になっている。

 しかし基本的にはグローバリゼーションは進む。1991年以前に戻ることはない。これから重要になるのは無形資産だ。情報、各種サービス、パテントなど技術を有しているものだ。従来は単純なモノの生産と貿易が中心だった。今は付加価値においては無形資産がどんどん増えている。

 頭の中で生み出す無形資産が、これからは極めて重要になってくる。物を作る職人さんも重要だが、デジタル革命、情報革命、知識革命の中で、無形資産、知恵が極めて重要だ。

田中:周先生の問いは、「スローバライゼーションがなぜ起きたのか」だ。起きたという現象面で捉えるべきなのか、あるいは何か人為的に起こしているのであれば、それは何故かといえば、中米関係がすごく大きいと思う。中国のロジックはまた別として、アメリカ人のメンタリティをどう考えるかというと、世界貿易機関(WTO)に中国が加盟したのが2001年。1995年にWTOが出来て、2001年に中国が加盟する際に、アメリカは応援した。中国が自由貿易の世界に参加し、一緒に成長する青写真があった。

 ただ中国からアメリカへの輸出が凄まじく多くなり、アメリカの企業も安い労働賃金を目指し中国へ工場移転した。アメリカ国内の工場が減り、中国で生産した安い生産物がアメリカに入り消費者が享受した。その限りではよかったが、今まで工場で働いていたアメリカ人にとっては自分の職を奪われ中国に生産拠点が移動してしまった感覚があった。ラストベルトと言われるアメリカの中西部の白人が多く昔は豊かな中産階級を形成していたアメリカ人層が、非常に貧困になった。そこが、トランプ大統領が支持を集める背景になっている。

 トランプがアメリカファーストと言う意味は、アメリカ人が働いてアメリカ人が所得を増やしていくべきで、外国の人に作ってもらってもいいが自分たちの職が奪われるのはけしからんという発想だ。そうした発想が徐々に直接投資、貿易に関する一つの政治課題として上がってきた。

 そうすると、貿易を制限しようとなる。それが進むと、一番大事な半導体の技術が、対価無く報酬のないまま技術移転がなされているのではないか等、様々な議論が出た。そして中米関係が見直されてくる。今まで蜜月で自由貿易のパートナーとして一緒にやっていく考え方だったのが、180度変わった。

周:今のアメリカの中国批判は、私が日本に最初に出張で来た1986年当時から1990年代までの、アメリカの対日本批判によく似ている。

田中:そうだ。

田中琢二(2024)『経済危機の100年: 「危機なき世界」は実現するのか』東洋経済新報社

■ ユーラシア大陸とアメリカとの関係の中の米中関係


田中:日本にとっては極めて難しい状態になった。というのは、日中は大事な経済関係であり、日米も関係が深い。アメリカが中国に敵対的な意思を示せば示すほど、日本はどう動けばいいのか非常にわかりづらくなった。

 実はドイツもそうだ。ドイツもメルケル前首相が中国との関係が第一番だと言っている。中国にはフォルクスワーゲン、アウディがいっぱい走っている。北京の外国車といえば大体この二つだ。そのぐらい中国とドイツの関係が深くなったが、どうもトランプあたりが中国との関係を見直すことをしている。全体的に先進国と中国との関係に変容が起きてしまいつつある。

 モノと財に関しては、フラットな関係が2010年から10年間続いた。そこはもうちょっと詳しく議論する必要がある。もしかしたらリーマン・ショックの影響を受けて、世界全体の経済のパイが小さくなったからか? 2010年以降のフラットの前半と後半は少々理由が違うかもしれない。グローバリゼーションが止まっているとは言えないとの議論も検討していく必要がある。

周:ユーラシア全体で捉えると、今アメリカと緊張関係にあるのは、ユーラシア大陸の両側の日本と西欧北欧以外のほとんどだ。田中さんが先ほどの講義で紹介したシカゴ大学のジョン・ミアシャイマー教授の考え方は、私には評価できない。冷戦後、アメリカはロシアをずっと攻め続けてきた。NATOが東への拡大を続けてきた結果、ロシアとウクライナの戦争に繋がった。中東については、戦後アメリカがイスラエルを無条件で擁護したことで、アメリカと中東との関係は複雑化した。アメリカは中東地域に何度も直接出兵し、アフガニスタンやイラクなどに対して国潰しまで行った。

 米中関係はユーラシア大陸とアメリカとの関係の中でとらえるべきだ。ユーラシア大陸全体とアメリカとの関係は決して良くはない。ヨーロッパとアメリカの関係に至っても一枚岩ではなく揺れ動いている。中東そしてロシアとアメリカとの緊張関係はそう簡単に緩和されない。アメリカは中国に対抗するため、ロシアと中東との関係を緩和し東アジアに軸足を置くべきだとのミアシャイマー教授の主張は現実的とは思わない。むしろ中国とアメリカの関係は今まだ管理されている方だ。朝鮮戦争とベトナム戦争以降、米中の武力衝突はない。

田中:シカゴ大のミアシャイマー先生の話は、「ロシアと事を起こす必要はない」として今までの外交政策を批判した。アメリカの全体の議論ではない。

周:ミアシャイマー氏が主張した中国との対立は、結果的にアメリカの中東とロシアとの緊張関係に加え、更に中国との緊張関係を作り出すことになる。これはとてもスマートな考えとは言えない。アメリカと自分の庭先の南米との関係すら必ずしも幸せではない。しかし最も深刻なのはユーラシア大陸との関係だ。その意味ではアメリカにとっては、中国との緊張関係を煽るのではなく緩和する努力が必要だ。

田中:地政学という学問の中に、マッキンダーのハートランド論がある。ユーラシア大陸を制覇するところが世界を制覇するという理論だ。その古典と言われる理論の中で、ロシア、中国、イラン、サウジアラビアといった中核のところが、今ライクマインドという「仲間意識」を意味する言葉がよく使われ、ライクマインドの国になりつつある。これはBRICSを中心に、あるいは上海協力機構を中心にして何となく固まっている。

 だからこそアメリカは、そこのポイントであるところのロシア、中東、中国と対立せざるを得ない。中国とは管理された競争だが、そうせざるを得ない。周先生のユーラシアという言葉からマッキンダーを思い出してそう感じた。


講義をする小島明氏

アメリカ社会の亀裂は、外交姿勢にも大きなブレ


周:アメリカの国内においても今は考え方がかなり分裂していることに注目する必要がある。選挙でのトランプ陣営とバイデン陣営との闘いぶりを見ると、アメリカの社会的な亀裂は、今までになく深刻だ。この揺れるアメリカの国内状況は、アメリカの外交姿勢にも大きなブレを生じさせている。このようなリスクを最小限に抑えるため、ヨーロッパでは、トランプが政権に戻ったときの対処への議論も出てきている。日本でも麻生太郎元首相がこの4月、トランプに会いに出かけている。

田中:アメリカの分裂についてバイデン、トランプ両者の類似点と相違点を並べると、いろいろ論点があると思うが、政府の役割について、共和党は政府を小さくと言っている。バイデンは政府の役割を大きく認めている。

 アフガニスタン撤退や中国との関係は、バイデンもトランプも提唱しているが、国内政治の分断ではバイデンとトランプは民主主義に対する視点が違う。

 外交政策は同盟国中心か、あるいは同盟国でも競争相手とみなして厳しく対応するかだ。日本は同盟国だが、アメリカは日本との間の貿易赤字は許さない。

 貿易に関してトランプは保護貿易主義的で、バイデンも完全な自由貿易主義者ではない。考え方に若干の違いはあるが完全な自由主義ではなくなってきている。

 時代認識は、バイデン大統領はこの時代を民主主義と独裁主義の争いとみなし、アメリカは世界中の民主的な友好国を助ける必要があると主張している。一方でトランプは、意外とプーチンに対する共感があり、また習近平とも、もしかしたら個人的に交流しているかもしれない。朝鮮のリーダーについてもなかなか彼は見どころがあると言っている。ある意味では独裁者とされる彼らと仲が良く、彼らの政治姿勢に親近感を持っているようだ。

バイデン大統領とトランプ元大統領(出典:NBC NEWS

田中:気候変動問題に関してバイデン政権は推進している。しかしながら、トランプはCOPからの脱退、離脱も考えるだろうと言っている。

 移民政策においては多国間協力の必要性をバイデンは言っている。最近は不法移民対策を若干強化しているけれども、トランプは、不法移民は絶対認めない姿勢でアメリカ人ファーストの姿勢を出している。

 人工妊娠中絶に関しては、バイデンは容認し、トランプは容認しない。日本人の感覚ではわからないことで、アメリカの人工妊娠中絶に関する国内世論は非常に分裂対立関係にある。

 例えばLGBTに対する見方も論点になる。国民の関心ある論点に二つの両極の考え方が出て、なかなか妥協点を見出す話でもない。分断が顕著になっている。それに対して日本はどう付き合っていくのかが非常に難しい。

 去年までは安倍総理がトランプ大統領と非常に個人的にいい関係を結んでいたが、今の政治のリーダーシップでトランプと対等にやっていける人が本当にいるのかどうかの問題が一つある。ただ一方で、周先生とは異なる意見になるが、中国の台湾政策との関連で日米の軍事的な近さが何をさておいても大事だというトランプが大統領になるとすれば、政治外交上日本とアメリカは近いとは思う。

 ただし、経済政策に関しては、やはり先ほどのアメリカファーストという考え方をより打ち出してくると思う。同盟国に対しても、アメリカとの一定の貿易の赤字幅の縮小化への要求はすごく大きくなると思う。

 気候変動問題に関して日本はしっかりとコミットしているけれども、アメリカがCOOPから離脱していることに対して、国際社会がどう対応するのか準備できていないと思う。日本で一番大変になってくるのは、貿易問題だ。対応をこれからしっかりしなければいけない。

 一つ象徴的なのは、今日本製鉄がアメリカのUSスティールを買収しようとしているが、バイデンも反対を明確化し、トランプも絶対反対と言っているので、同盟国日本といえども、是々非々ということでアメリカが対応してくると思う。

田中琢二(2007)『イギリス政治システムの大原則』第一法規

アメリカに叩かれ従う日本と抵抗する中国


小島:アメリカとユーラシア特に中国とロシアとの関係を見ると、第二次世界大戦後、特に冷戦が始まった頃は、中国という存在はまだ成長発展の初期段階で、安全保障上レーザースクリーンから見ると小さかった。だからむしろ中国を応援しソ連に対抗させようとして、ヘンリーキッシンジャーが中国に行った。今では中国が急激に大きくなり、アメリカ経済に挑戦する脅威となった。

 1980年代日本はアメリカに叩かれた。日本はエネミーのNo.1で、自動車や鉄鋼が制限され、自由に貿易できない状況にあった。1985年にプラザ合議があり円が切り上げられた。

 その頃アメリカの対日世論は確実に悪化した。当時のアメリカの世論調査で、ソ連からの軍事的脅威と日本からの経済的脅威のどちらが重要かとの問いに対して、日本からの脅威が重要だとなった。

 当時はそういう戦いだった。しかし日本はその後縮んでしまい、アメリカにとって日本は脅威ではなくなった。そもそも日本はアメリカのヘゲモニーに挑戦する存在では初めからなかった。

 ところが中国の外交姿勢と経済発展のあり方を見たアメリカは、中国がアメリカの覇権に対抗するとの認識を持つようになった。

 1980年代の日米の経済問題と、今の中米の経済問題はかなり違う。部分的に調整されても、ヘゲモニーで考えると、中国とアメリカは、言葉では協調というがライバル意識や対抗心は長期にわたって続くと私は思っている。

周:中国では日本の失われた30年の原因の一つが、アメリカに叩かれて従ってしまうところにあるとの議論が多い。

小島:日本は、中国としっかり関係を続けるのはもちろん、経済など互いに重要な部分を軸に中国ともアメリカともそれぞれ仲良くするしかない。人によっては米中の仲介を日本がすればいいと言うが、そんな大それた力は日本にはない。仲良くし協力することしか日本には道がない。

 もう一つは、日本は政府が中国に対して何かを言い出すと、民間がみんなそれに倣う。アメリカは、政府レベルで中国と対立しても民間レベルでは中国と交流を展開している。アメリカの企業はどんどん中国に行き様々ビジネスをしている。

 日本の場合は、政府が中国との関係を調整しようと言うと企業がみんな中国に行かなくなる。そこが問題だ。中国が始めたアジア投資銀行への対応に日本はNOと言った。気をつけて見ていると、アメリカのゴールドマンサックスが中国政府機関のアドバイザーになっている。やはり経済は、お互いに手を繋ぐことは繋ぐ。政治や安全保障上はどうあっても、仲良くやるべきことはやり、互いの利益になることはどんどんやるべきだ。一時的な政府の外交政策に全部右に倣えといった日本の空気があるが、そうではなく、経済はもっとダイナミックに相互依存を続けて動いていいと思う。

 国として政策レベルでやるべきことと、それぞれの企業、産業がやるべきことはちょっとアプローチが違ってしかるべきだ。

周:おっしゃる通りだ。日本で新聞を読むと、こうした議論の際に、中国の視点がどうしても欠けている。アメリカの視点はあるが中国の視点はない。中国人がどう思っているかの視点がなさすぎる。私の世代は改革開放世代だ。改革開放時に大学に入学し、改革開放の恩恵を受けたこの世代が、いま政府の中枢にいる。アメリカのヘゲモニーへ挑戦しようという気持ちは同世代には毛頭ない。ただし、日本と違い、アメリカの押し付けには負けないとの思いがある。朝鮮戦争時もベトナム戦争時もその気持ちが強かった。押し付けられたら不愉快だ。けれども、アメリカのヘゲモニーへの挑戦はない。

 中国はソ連、アメリカ両方と対峙していた時期に自力更生で自国の産業基盤を作り上げた自負がある。二大スーパーパワーと同時に対峙した時の気概がある。

 ソ連の国作りは非常に短期間で行われた。レーニンはあまり苦労せずにドイツの支援を受け一瞬にして政権を取り、国を作った。結果、ソ連の崩壊も一瞬だった。一瞬にできた体制は大抵一瞬で終わる。これに対して中国の1949年にできた政権はアヘン戦争以来、100年以上の苦難の果てに作られた。そう簡単に屈服する訳がない。

小島明(2023)『教養としてのドラッカー 「知の巨人」の思索の軌跡』東洋経済新報社

■ 貿易大国中国の挫折感が対米姿勢に繋がる


周:1840年のアヘン戦争は、イギリスが植民地のインドで作ったアヘンを、中国に密輸入したことに起因する。イギリス政府はアヘンを自国内で禁止していた。にもかかわらず、中国政府がイギリス商人に密輸入されたアヘンを没収し燃やしたことを問題にし、イギリスは艦隊を派遣しアヘン戦争をしかけた。これが中国の近代史の始まりとなった。

 なぜこの戦争が起こったか。茶と磁器とシルクの中国からの輸出でイギリスは貿易不均衡が長年続いた。イギリスは中国に売るものがなかった。でも、生活革命で茶を始めとする中国物産を日常生活に取り込んだイギリス人は中国からの物資輸入が止められなかった。これについて私は20年前に海外の資料を集め論文を書いたことがある。

 長年にわたる対中貿易赤字に喘いだイギリスは、インドで麻薬を栽培して麻薬の吸い方まで開発し中国に売りつけた。その規模が徐々に大きくなって中国政府が取り締まりに乗り出し、アヘン戦争となった。

 トランプ政権は貿易問題をイシューにした時、中国だけではなく日本もヨーロッパも標的にした。しかし最後に深刻になったのは中国とだけだ。トランプの貿易戦争の結果、米中双方から両国間貿易に高額な税金が掛けられている。それでも中国とアメリカの貿易は減っていない。アメリカの対中貿易赤字も減っていない。要するに、アメリカが中国から物を買うのをやめられない。高い関税は、アメリカの物価高につながっている。

 その意味では、今の米中貿易問題は、アヘン戦争前のイギリスと中国の貿易問題に似た構図だ。中国からの輸入を止められないアメリカが、中国に対して「お前はけしからん」ということは理不尽である。これは中国にしてみたらあの屈辱的なアヘン戦争を彷彿とさせる。 

田中:そうだ。納得させることはできない。

周:アメリカは、アヘン戦争時のイギリスのように中国からの輸入を止められない一方で、大きな貿易赤字も我慢できない。

※以下、後半に続く

講義をする田中琢二氏

プロフィール

小島明(こじま あきら)/日本経済研究センター元会長

 日本経済新聞社の経済部記者、ニューヨーク特派員・支局長、経済部編集委員兼論説委員、編集局次長兼国際第一部長、論説副主幹、取締役・論説主幹、常務取締役、専務取締役を経て、2004年に日本経済研究センター会長。

 慶應義塾大学(大学院商学研究科)教授、政策研究大学院大学理事・客員教授などを歴任。日本記者クラブ賞、ボーン・上田記念国際記者賞を受賞。新聞協会賞を共同受賞。

 現在、(一財)国際経済連携推進センター会長、(公財)本田財団理事・国際委員長、日本経済新聞社客員、(公財)イオンワンパーセントクラブ理事、(一財)地球産業文化研究所評議員

 主な著書に『横顔の米国経済 建国の父たちの誤算』日本経済新聞社、『調整の時代 日米経済の新しい構造と変化』集英社、『グローバリゼーション 世界経済の統合と協調』中公新書、『日本の選択〈適者〉のモデルへ』NTT出版、『「日本経済」はどこへ行くのか 1 (危機の二〇年)』平凡社、『「日本経済」はどこへ行くのか 2 (再生へのシナリオ)』平凡社、『教養としてのドラッカー 「知の巨人」の思索の軌跡』東洋経済新報社。

田中琢二(たなか たくじ)/IMF元日本代表理事

 1961年愛媛県出身。東京大学教養学部卒業後、1985年旧大蔵省入省。ケンブリッジ大学留学、財務大臣秘書官、産業革新機構専務執行役員、財務省主税局参事官、大臣官房審議官、副財務官、関東財務局長などを経て、2019年から2022年までIMF日本代表理事。

 現在、同志社大学経済学部客員教授、公益財団法人日本サッカー協会理事。

 主な著書に『イギリス政治システムの大原則』第一法規、『経済危機の100年』東洋経済新報社。

【対談】小島明 Vs 周牧之(Ⅱ):ムーアの法則駆動時代をどう捉えるか?

2023年12月7日、東京経済大学でゲスト講義をする小島明氏

■ 編集ノート:

 小島明氏は、日本経済新聞社の経済部記者、ニューヨーク特派員・支局長、経済部編集委員兼論説委員、編集局次長兼国際第一部長、論説副主幹、取締役・論説主幹、常務取締役、専務取締役、日本経済研究センター会長、政策研究大学院大学理事を歴任、日本記者クラブ賞、ボーン・上田記念国際記者賞を受賞。新聞協会賞を共同受賞。

 東京経済大学の周牧之教授の教室では、リアルな学びの一環として第一線の経営者やジャーナリスト、官僚らをゲスト講師に招き、グローバル経済社会の最新動向を議論している。2023年12月7日、小島明氏を迎え、講義をして頂いた。

※前半はこちらから


ムーアの法則駆動時代に遅れをとった日本


小島:スイスの研究機関IMDが、毎年国別デジタル競争力ランキングを出している。日本のデジタル競争力は、最新データで30位に入ってない。昨年は28番、今年は32番まで落ちた。

周:その理由は?

小島:今のシステムを変えず、部分的に運用を変えているだけだからだ。時代のニーズ、マーケットに合わせシステムそのものを変えないとうまくいかない。

 例えばマイナンバーカードが普及しない理由は便利でないからだ。「マイナンバーカードがあれば、コンビニで住民票や印鑑証明を出せる」というが、ほとんどの国は住民票、印鑑証明などの書類はすでに必要ない。自分のIDナンバーを入れれば自動的に行政手続きを済ませられる。デジタルで行政手続きができるか否かの比較をOECDで実施したら、30数カ国の行政手続きのうち6割は全部ネットだけで出来た。日本はメキシコより下位だ。紙をプリントアウトし束ねて印鑑を持って役所へ行かなくてはならない。

 韓国も日本よりデジタル化が進んでいる。韓国は1998年に財政が破綻しデフォルトになりかけてIMFが介入した。予算は減り赤字が膨らみ役人の数を減らしたが、行政ニーズはあるため残業しても追いつかない。そこでデジタル化を進めた。書類への署名や発行がなくなり全部ネットでできる。

周:1980年代の初め、アルビン・トフラーの『第三の波』が出た当時大学生だった私は、読んで興奮した。凄かったのは、トフラーの未来社会予測がほとんど当たったことだ。素晴らしい想像力だった。

 私は工学出身でベースはITだ。その世界にはムーアの法則がある。後にインテル社の創業者のひとりとなるゴードン・ムーアは1965年、半導体集積回路の集積率は18カ月間(または24カ月)で2倍になると予測した。これがトフラーの未来社会予測の想像力の源泉だった。

 ムーアの法則を信じ、多くの技術者出身の企業家がリスクテイクして半導体に投資し続けた結果、半導体はほぼムーアの法則通りに今日まで進化した。結果、世の中は急激に変化した。

 私は、この間の人類社会は「ムーアの法則駆動時代」だと定義している。しかし、日本では、高級官僚も大企業の役員も法学部出身者が多く、世の中が日々著しく変わることが理解できない。規制と人事で世の中を動かそうとしている。

小島:依然として日本は、成功体験だった20世紀型産業経済、ものづくり経済を続けようとしている。当時日本はアメリカの自動車産業を脅かす程ものづくりをした。イギリスの産業革命から始まったものづくり競争の最終段階で、日本は一応成果を収めた。ところが、ピークに至ってムーアの法則が生きる情報社会になり、新しいパラダイムが始まったにもかかわらず日本は20世紀型産業のままいこうとした。今のアメリカのスタートアップ企業は企業価値の7割は無形資産だ。日本は7〜8割は有形資産で、もの中心だ。

 日本はバブル崩壊で七転八倒した金融危機の1995年あたりが、グローバルに見てインターネット元年だった。アメリカと日本の経済競争も、アメリカは自動車等ものづくりの世界では日本にかなりやられたが、デジタル、情報サービスという新しい世界でスタートアップできた。これに対してドラッカーは「日本は終わった戦争を依然として戦っている」と言った。

アルビン・トフラー(1982)『第三の波』中公文庫

■ ムーアの法則駆動産業になった自動車産業が大変貌


周:問題は、ものづくりもムーアの法則に染められてしまうことだ。電子産業はまさしく最初にムーアの法則駆動産業になった。電子産業は1980年代以降、世界で最も成長が速く、サプライチェーンをグローバルに展開する産業となった。電子産業のこうした性格が、アジアの新工業化をもたらした。これを仮説に私は博士論文を書いた。

 今や、電気自動車(EV)もムーアの法則駆動産業になった。猛烈なスピードで進化している。ガソリン車の王者であるトヨタは最高益を更新しているが、実際は大変なピンチだ。 

小島:完全にトヨタが読み違った。バッテリーが弱いからEVは売れないと思っていたがイノベーションが進んだ。今なって投資し、企業を買収している。実際にEVを大量生産できるのは2026年と言うのでだいぶ先の話だ。

周:EVのこれからの主戦場はバッテリーよりAI駆動の自動運転だ。テック企業のバックグラウンドがあるテスラや、小米、華為など自動車新勢力はこの分野に賭けて莫大な投資をしている。旧来の自動車メーカーにとってそこまで理解できているか否かが将来を左右する。

小島: iPadの値段を例えば500ドルとする。500ドルで売ったものをどの国がどう手に入れているか。重要な部品をドイツと韓国と日本が作る。部品がなければ製品はできない。だが部品を全部合わせて161ドルだ。中国は大量に作っているから、掛け算すると収入は多いように見える。だが、取り分は1台あたり6ドルだ。収入の大半はデザインしたアメリカへ行ってしまう。製造業に絡むスマイルカーブは今、急速に進み、デザインをしたところが儲かっている。

周:いまは大分状況が変わっている。華為がiPhone15の対抗馬として2023年9月8日に発売したMate 60 Proは主要な半導体からOSまで全てが国産になっている。

 電気自動車では、さらに中国がリードしている部分が多い。中国自動車産業の新勢力はEVの一番大切な部品であるバッテリーの競争力を非常に重視している。現在、世界で車載バッテリーの主導権を最も握っているのは中国企業だ。昨年テスラを超え、EVの世界最大手になったBYDは元々バッテリーメーカーだった。前述したようにEVの究極の生命線は、自動運転だ。そこも中国企業がテスラとしのぎを削っている。さらに、華為も小米もBYDも、ブランドとデザインを重視している。そして周辺の部品産業に投資し、コントロールできるようなサプライチェーンを再編している。

ムーアの法則駆動時代

■ 自分をマネージメントする時代に


小島:ドラッカーは組織のマネジメントを議論したけれども、これからの問題は、自分自身のマネジメントだ。企業など組織の寿命より人間の寿命が長くなった。これは人類史上初めてだ。企業の経営は企業がやればいいが、1人1人が自分をマネジメントすることが必要だ。自分でチャレンジし学ぶべきものを絶えず考え、自ら鍛え続ける癖をつけるのが学生時代だ。若い人には将来のチャレンジ、自分自身のマネジメント、人生マネジメントをしっかり行い、大学の体験をベースにし、本当の意味の生涯学習、リスキリングを続けてほしい。

 人間の寿命は伸び、社会システムの改革も必要だ。そうでないと医療費も医療制度もパンクし若者に負担が来る。 

周:その通りだ。今までの60歳定年は工業時代の労働年齢だ。

小島:筋肉が衰えて使えなくなるというので定年になった。いまは筋肉ではなく頭脳だ。ドラッカーも95歳まで原稿を書いて現役だった。

周:生産年齢を100歳までとして、人生設計しなければならない(笑)。

小島:日本は中途半端な制度だ。定年延長ではなく雇用延長という言葉を使っている。定年延長では賃金も減らせないので企業は反対するからだ。今の世界の流れは、定年廃止だ。ノウハウや能力を持つ人なら80歳でも雇用される。定年廃止とは、年齢を雇用の条件にせず、能力で評価することだ。日本の企業は圧倒的多数が60歳定年だ。私が学生時代のときは55歳定年だった。55歳定年は90年前に生まれた。三井の大番頭が、従業員に55歳まで働いていいと言った当時、日本の平均寿命は40代だったからつまりは終身雇用だった。日本の寿命はその後、倍になったが、定年は55歳から60歳にしか伸びていない。“終身”でなく“半身”雇用になってしまった。このギャップが人々のやる気をなくす。

 企業に雇用延長がなく80歳でも何歳でも働けて、年齢だけで区別しない制度になれば、いろいろな人がチャレンジできる。賃金体系も若い頃の安賃金から段々良くなるのでなく、仕事ができる人は最初から高水準であるなど労働価値が雇用主に判断されるようになればいい。

 新しいノウハウを持つ人には最初から社長クラスの給与を出していい。年齢だけで給与を決めているから、有能な人が割り込む余地がない。負担だけが大きくなる。インセンティブも失くしてしまう。

周:日本的な組織の中で、個性や個人の能力への評価と、貢献への対価の支払いが非常に遅れている。

小島:自分でトレーニングし努力してチャンスを掴むことが大切だ。私の息子は52歳だが5回転職した。自分に合ったスキルを持ち、金融関係でファンドをし、転職するたびに年棒が上がる。その代わり凄く勉強している。そのように働く時代が普通になる。終生勉強しなければ完全に時代に取り残される。終身雇用時代ではなくなった。昔は銀行が一番安定し賃金が良いと言われた。今は銀行も数が減り従業員が必要なくなった。モルガン銀行はトレーダーが100人いたが数人になった。AIでできるから窓口は要らなくなっている。

 若い人には未来を見据え自己研鑽し、チャレンジしてほしい。人生100年、時代の先端でやれるような自己研鑽の決意をぜひとも固めてほしい。そういう人がスタートアップもする。

ピーター・ドラッカー

■ 年金基金社会主義はいつまで続く?


周:ドラッカーはアメリカを年金基金社会主義国としている。その意味では日本もこれに当たる。ただ、GDPの三倍弱の借金を背負っている日本が年金基金社会主義国家としてソフトランディングできるのか。

小島:日本の手並みを世界が見ている。黒田元日本銀行総裁の金融政策は基本的に80%失敗だ。中小企業を救うため無担保無利子融資が政治の力で行われた。返済日が来れば、中小企業はパニックになる。政治が入りまた転がして貸してやれという話になる。本来は生き残るべきものが生き残り、ダメなものは撤退しなければならない。従業員は能力があれば、雇用機会があり移動できる。経営者は自己保身のためにしがみつく。

 日本の最近の財政は野党も与党もバラマキ競争で借金が増えている。カーメン・M・ラインハート(Carmen M. Reinhart)とケネス・S・ロゴフ(Kenneth S. Rogoff)がまとめた『国家は破綻する』は、過去800年の金融危機を分析し、「債務が膨張し悲劇を生んだ歴史から学ばず、危機を繰り返している」と警告している。

周:日本の選挙を見ていると、与野党共に、ばらまきを更に拡大するような政策を煽っている。これではいずれ借金で破綻する。そうなると、今まで積み上げてきた年金基金社会主義も破綻する。

小島:日本のGDPに対する政府債務は270%ぐらいになった。日本は第二次世界大戦時に軍部が金を使い、それを日本銀行に信用をつけさせて借金を増やした。今はそのときのピークをはるかに超えている。この借金をどう調整するか?日本の対応を注視している専門家は多いはずだ。間違うとえらいことになる。第二次大戦後後、大インフレが起こり、お金の価値がなくなった。新円発行で古いお札はもう使えず、新札は基準価値が全然違った。高額紙幣を500万円持ったとしても、10枚だけしかお金が使えなかった。敗戦でGHQ占領が入ってくる異常な状況だからできた。預金も封鎖、預金も下ろしてはいけなかった。そういうことは今の民主主義時代はできないから、マーケットにその圧力が全部来る。マーケットがどう吸収し、どう調整するかが大変難しい問題だ。

カーメン・M・ラインハート、ケネス・S・ロゴフ(2013)『国家は破綻する―金融危機の800年』日経BP

■ アジア金融危機はグローバルなキャピタルシステム危機


小島:次の5年間日本はどうなるか。学ぶべきものは、中国にとっても、どこの国にとっても大変多い。特に最近の変化は大きい。1800年代の中国、インドのスーパー経済大国時代は別として、その後のアジアは植民地化され停滞があった。歴史的には、アジア的低成長の議論が欧米では主流だった。しかし、1970〜80年代、アジアの新工業化はNICS、NEIS、そしてASEAN全体に広がった。1993年には世界銀行のリポートで、アジアの奇跡論が謳われた。その後1997年にタイを起点としてアジア通貨危機があった。突然の危機を予測も説明もできなかったとき、コネや縁故主義のアジア経済社会だから危機が生じたと言われた。純粋なマーケットではなく、アジアの縁故主義を病理として通貨危機が起きたという議論だった。

 しかしアジアはこの危機の後、短期間で急発展した。その急激な回復は、こうした病理説では説明できない。1999年にはロシアのデフォルトになる。それがきっかけにアメリカの中堅ヘッジファンドが破綻し、危機がウオール街まで波及した。アジアだけでなくグローバルな破綻につながった。現実に起こっている変化が、そのときに主流だった議論をどんどん追い越した。あるいは理論が追いつかなかった。となると、現実に何が起こっているかをしっかり観察することが大事である。

周:ドラッカーが言う「すでに起こった未来を」を確認することが大切だ。さらにそれをきちんと理論的に整理することが求められる。

小島:たまたまアジア危機の翌年、1998年1月、ダボスの会議でジョージソロスと一緒に食事をした。「アジア危機はどうか」と問うと、「これはアジア危機ではない。これはグローバルなキャピタルマーケットの、あるいはキャピタルシステムの危機である」と言った。従来は物の生産、流通、消費で、ものを中心に経済が動いてきた。もの作りの企画をし、デザインをし、工場を作り、それで部品を集め、組み立て、完成品を販売するには時間がかかる。

 しかしお金の世界は違う。金融の世界は瞬時に何億ドルという金が動く。ものの経済とお金の経済は、ベースになる価格形成のメカニズムが違う。お金の価格は、金利であったり、為替レートであったり株価だったりする。お金の世界は、マーケットがあると、おびただしい資金がそこで動く。デザインして加工し生産するのでなく、瞬時に需給が出てくる。ある情報がマーケットに出てくると価格が形成される。それは新しいレベルの為替レートであり、新しいレベルの金利である。それが出た瞬間また新しい情報が流れる。

周:新工業化で成功をある程度おさめたアジアの諸国は、こうした金融世界の恐さに対抗できる知識、体力、そして制度整備が必要である。

ジョージ・ソロス

■ 歴史の中で見たアジア新工業化


小島: ヨーロッパの経済学者アンガス・マディソンがOECDと共に『ワールド・エコノミー』という本を書き、過去1000年以上遡り、各国地域のGDPや人口を分析した。

 同書によると、中国の人口は今13億、西暦1820年は中国人口が3億人、インド人口は1億何千万人だった。1820年時の世界経済の中で中国のウエートは実は29%あった。インドは10数%、中印合わせて世界GDPの40数%を占めていた。当時日本は3%ぐらい。今の先進国ではフランスが7〜8%で高かった。アメリカはまだインディアンと戦っていた頃で日本より少なかった。

 その後、イギリス発の産業革命でヨーロッパに工業力が付き、植民政策が始まり、アジアが植民地化され、生活の中での経済のウエートが下がった。植民地から独立し、自国の経済社会を自ら動かし管理するようになった。

周:1840年のアヘン戦争は象徴的な出来事だった。イギリスが中国から茶を輸入し、生活に取り入れた。しかしイギリスは中国に売るモノが無く、長期に亘り貿易赤字になった。貿易赤字解消のため、植民地のインドから麻薬のアヘンを中国へ密輸入した。中国政府がこれを取り締まると、艦隊を中国に送って攻撃したのがアヘン戦争だ。

 経済力はあったものの、近代的な戦力を持っていなかった中国はその後急激に衰退した。新中国成立時は世界経済に占める中国のウエートは5%に落ちていた。

小島: 1991年、ソ連が崩壊し、日本はバブルが崩壊した。インドも経済危機に陥り、外貨準備を急激に失い、財政破綻状態になった。インドは、独立後ヨーロッパ的な制度を排除し、ソ連モデルを導入した。ところがソ連システムが合わなかった。ソ連崩壊を目の当たりにし、インド大蔵大臣のマンモハン・シンというオックスフォード大卒の優等生が、改革開放を始めた。

 翌1992年、中国では鄧小平氏が南巡講話をし、改革開放に思い切りアクセルを踏んだ。中国のリーダーはWTO加盟に必要な条件を満たすため、国内の諸制度を変える決断をした。それを見た世界が、変わろうとする中国とインドにどんどん投資をし始めた。中国に対する投資が圧倒的に多かった。1990年代、世界から中国への直接投資年間合計額が、第二次大戦後のマーシャルプランでアメリカが援助した予算と同額か、それ以上だったとデータにある。優良な資本、技術が入り、10年で中国が世界の工場となった。

周:1992年には中国の世界経済に占めるウエートは最低の1.7%まで陥った。思い切った改革開放をしなければならなかった。

小島:ソ連崩壊は経済分野では歴史上劇的な出来事だった。経済の世界は、国と国が国境を厳しくし競争しているときは重商主義だ。全部自国で作り、売るマーケットが必要な為、商船隊が出る前に軍艦が動いたのが重商主義時代だ。文句があれば軍艦を使った。

 そんなシナリオは第二次大戦後に終わり、自由貿易になった。直接投資は当初は大きくなかったものの、冷戦終結以降1991年を境に、世界経済のダイナミズムは国境を越えた直接投資になった。

 アメリカは直接投資を出す方と、受け入れる両方だったが、中国はとにかく受け入れた。受け入れて生産能力と技術を輸入した結果、30年で中国は今のような「世界の工場」になり、輸出大国になり、貿易面で大発展した。

 日本はバブルがはじけ、その間、国内投資はあまりせずに余分な金があると海外に投資した。日本国内はほとんどゼロ成長だったが、この30年間、中国、インド、ASEAN諸国その他アジア各国に投資をし、それを受け入れた国が発展した。ダイナミズムは直接投資だった。

周:中国、インド、ASEAN諸国の新工業化をもたらした最大の原動力は情報革命だ。私はこれをテーマに『メカトロニクス革命と新国際分業―現代世界経済におけるアジア工業化』と題した博士論文を書いた。ムーアの法則の駆動で、サプライチェーンが猛烈な勢いでグローバル的に展開した。さらに、は初めてのムーアの法則駆動型産業として、爆発的に成長した。それがアジアの新工業化につながった。もちろん直接投資は大きな役割を果たした。

周牧之(1997)『メカトロニクス革命と新国際分業―現代世界経済におけるアジア工業化』ミネルヴァ書房

■ アメリカの経済的「脅威」は日本から中国へ代わった


小島:ヨーロッパの歴史家が書いた『リオリエント』という本がある。アジアが再び新しい発展をし、新しい方向に行くという内容で、ヨーロッパ中心、西洋中心の世界史を、アジアを入れたものに変えていく必要があると述べて話題になった。

 現在中国とアメリカで経済貿易摩擦が起こっている。私が現役で新聞を書いていた頃、アメリカにとって中国は問題の相手ではなかった。ニクソンの1972年訪中は、キッシンジャーが準備立てた。当時アメリカの発想はパワーポリティクスでソ連を牽制するため中国を友として応援し、バランスを取るために米中交流が始まった。軍事的脅威は唯一、ソ連だった。

周:米中の急接近は当時双方にとっても切実な事情があった。ゆえに一気にハイレベルの関係になった。私はハーバードのエズラ・ボーゲル教授にアメリカは当時の米中関係をどう位置づけたかを聞いた。ボーゲルは、キッシンジャーが準同盟関係と言っていたと答えた。

小島:その後経済の問題が1970年代後半からアメリカにとって重大になった。1971年は、ニクソンショックがあった。ニクソンがいきなりドルはもう金と交換しないとし、輸入課徴金を課し、また、日本の円や、ドイツのマルクを大幅に切り上げると一方的に言い始めた。アメリカの貿易が、構造的に赤字になってしまった。1970年代後半から1980年代に、日本と米国には大変多くの交渉が行われ、摩擦が酷くなった。思い出すのは1985年のプラザ合意だ。為替レートが急変動した。それを演出したのはアメリカだった。為替を大幅に動かして日本の対米輸出競争力にチェックをかけようとした。

 アメリカは第二次大戦で、国土が戦場にならずに戦勝国になった唯一の国だ。ヨーロッパや日本やアジアがガタガタになった中、アメリカは産業力が完全に維持され、唯一の大製造業国家となった。貿易は圧倒的に黒字で、作るものは沢山あった。しかし売る相手がいないとして他国を援助しマーケットにした。

 ところが、アメリカは1970年代初めに貿易が構造的に赤字になり、1980年代に貿易以外のものも赤字になりパニックになった。プラザ合意があった年、シカゴに外交評議会というニューヨークの外交評議会の姉妹組織が世論調査をした。現在のアメリカの脅威は何か、という世論調査だった。ソ連の軍事的脅威と日本の経済的脅威を並べ、どちらが一番アメリカで深刻な脅威かと聞いた。結果、日本からの経済的な脅威がトップになった。酷くなった日米摩擦を抑えようと為替レートなどで様々な交渉があった。日本との戦争が近いなどという本さえアメリカで出てきた時代だった。

周:1980年代のアメリカの日本への態度は、いまのアメリカの中国に対する態度とかなり似ているところがある。

小島:1985年、中国のアメリカに対する赤字はアメリカにとって全く問題なかった。もっぱら最大の赤字の対象は日本だった。摩擦が続き、プラザ合意の後は日本が不況になり、それに対応するために金融緩和しすぎてバブルが生じた。1991年にソ連崩壊があり、アメリカにとっての赤字の相手は中国になった。現時点で日本は脅威の対象から外れた。

エズラ・ボーゲル教授と周牧之教授

■ 時代を読む力が運命を決める


小島:国の経済を分析し、政策を考えるときに自国だけで考える時代ではなくなった。歴史の流れの中で考える、あるいはグローバルな位置づけを考える。世界をどう見るかを織り込んで考える必要がある。

周:時代の変化に対応するには、時代を読む力が極めて重要だ。

小島:ドラッカーは2005年11月に95歳で亡くなった。同年の3月まで、クレアモント大学で教鞭をとっていた。生涯現役の教師だったドラッカーが1989年、80歳の時に書いた『新しい現実』という本がある。1989年出版時、まだ誰もその後ソ連が崩壊すると思ってなかったとき、ソ連が確実に崩壊過程にあるとドラッカーは断言していた。

 出版社が、ヘンリー・キッシンジャーにブックレビューを頼んだ。ところが、キッシンジャーが断った。ソ連の崩壊はありえないと思ったのだろう。キッシンジャーによる書評が叶わなかったが、出版2年後の1991年にソ連崩壊が現実になった。

周:キッシンジャーですらドラッカーの時代を読む力に付いていけなかったエピソードだ(笑)。

小島:ドラッカーは一つの領域の専門家というよりは、トータルで人間社会を考え、人の価値観を考え、歴史を考える人だった。

 初めて原稿を書いたのは20代半ば、本が出たのは29歳だ。当時ヒットラーが力を持ち、ヨーロッパ中がナチズムで蹂躙されていた。ドラッカーは「これはおかしい」と全体主義の研究をし、ヒトラーにインタビューした。全体主義について、イデオロギーが問題だと意識し、敵を倒した後は自分自身が矛盾により内部崩壊するとのロジックを基本とした本だ。

 ドイツで見つかったら処刑されるので、原稿を持ってイギリスに逃げたものの良い仕事がなかった為3年後にアメリカに移民し、出版社を見つけ出版した本が今も読まれている。ウィンストン・チャーチルがこの本を絶賛し、イギリス首相になってから同書を、士官学校卒業のエリートに「これは人生で一番の本だから大事に読め」と毎年プレゼントした。

周:あの傲慢で知られるチャーチルが若きドラッカーをそこまで賞賛した。ドラッカーが偉大だったのは、政治的、制度的にファシズムやソ連の行き詰まりを予言しただけでなく、知識社会の到来も予言し、社会や組織、個人の知識社会への向き合い方を研究したことだ。

 いま、ムーアの法則駆動時代への理解如何がまさしく国、企業そして個人の運命を左右する。

講義をする小島氏と周牧之教授

プロフィール

小島明(こじま あきら)/日本経済研究センター元会長

 日本経済新聞社の経済部記者、ニューヨーク特派員・支局長、経済部編集委員兼論説委員、編集局次長兼国際第一部長、論説副主幹、取締役・論説主幹、常務取締役、専務取締役を経て、2004年に日本経済研究センター会長。

 慶應義塾大学(大学院商学研究科)教授、政策研究大学院大学理事・客員教授などを歴任。日本記者クラブ賞、ボーン・上田記念国際記者賞を受賞。新聞協会賞を共同受賞。

 現在、(一財)国際経済連携推進センター会長、(公財)本田財団理事・国際委員長、日本経済新聞社客員、(公財)イオンワンパーセントクラブ理事、(一財)地球産業文化研究所評議員

 主な著書に『横顔の米国経済 建国の父たちの誤算』日本経済新聞社、『調整の時代 日米経済の新しい構造と変化』集英社、『グローバリゼーション 世界経済の統合と協調』中公新書、『日本の選択〈適者〉のモデルへ』NTT出版、『「日本経済」はどこへ行くのか 1 (危機の二〇年)』平凡社、『「日本経済」はどこへ行くのか 2 (再生へのシナリオ)』平凡社、『教養としてのドラッカー 「知の巨人」の思索の軌跡』東洋経済新報社。

【対談】小島明 Vs 周牧之(Ⅰ):何が「失われた30年」をもたらしたか?

2023年12月7日、東京経済大学でゲスト講義をする小島明氏

■ 編集ノート:

 小島明氏は、日本経済新聞社の経済部記者、ニューヨーク特派員・支局長、経済部編集委員兼論説委員、編集局次長兼国際第一部長、論説副主幹、取締役・論説主幹、常務取締役、専務取締役、日本経済研究センター会長、政策研究大学院大学理事を歴任、日本記者クラブ賞、ボーン・上田記念国際記者賞を受賞。新聞協会賞を共同受賞。

 東京経済大学の周牧之教授の教室では、リアルな学びの一環として第一線の経営者やジャーナリスト、官僚らをゲスト講師に招き、グローバル経済社会の最新動向を議論している。2023年12月7日、小島明氏を迎え、講義をして頂いた。 


「日本の失われた30年」の三つの原因


周牧之:最近話題になっているのは、「日本の失われた30年」が中国で繰り返されるのかどうかだ。私から見ると「日本の失われた30年」には原因が三つある。一つは消費税だ。消費税ではなく交易税という名にすべきだった。買い物をするときだけに払う税金だと思いがちだが、すべての交易にかかる税金だ。

 アダム・スミスの『国富論』第1章は分業論だ。グローバリゼーションが1980年代から進み、各国の関税は軒並み低くなった。国内で取引するたびに消費税を取られることが、国内における分業を妨げ、海外との分業を後押しした。日本はその交易税的な本質を見極めず1989年に消費税を導入した。その後バブルが崩壊し日本経済は長い停滞期に入った。

 二つ目はデリスキングの経営思考だ。大手企業、財界を見て強く感じるのは、経営リスクを取らないサラリーマン社長が多いことだ。リスク負いを避けたい人が多い。1989年平成元年の世界時価総額トップ10企業には日系企業が7社もあった。しかし時代が急変し、現在同トップ10社に日系企業の姿は無くなった。代わりにイノベイティブなスタートアップ企業が8社入っている。全て創業20〜40年のテック企業だ。これに対して、日本ではイノベイティブなスタートアップ企業が少ない。現在、日本の時価総額トップ30企業の平均創業期は1919年で、平均年齢は100歳を超えている。

小島明:その通りだ。

アダム・スミス

:三つ目は小選挙区制の導入だ。小島先生が信奉するドラッカーの発想の根底には、「すでに起こった未来」を確認することがある。ドラッカーは人口動態問題も知識社会の到来も世間に伝えた。その意味では日本にとって大切なのは現状をいち早く確認し、対処に取り取り掛かることだ。ドラッカーに関する小島先生のご著書には「日本は組織のイノベーション、社会のイノベーションがあまり問われない」とある。大変革時代に日本で組織的社会的なイノベーションが問われない理由は、小選挙区制の導入により政治力、政治家の質が劣化したからだ。時代変革の確認ができず、社会、組織のイノベーションが進まない。 

小島:周先生が言う「日本の失われた30年」の原因の、二つ目と三つ目は100%同意だ。一つ目は半分賛成。アメリカやヨーロッパには消費税という名でないセールスタックス或いは付加価値税と言われる税がある。各取引段階で、ダブらないよう調整する税だ。税率は、日本では10%。ヨーロッパだと25%。消費者個人の租税負担率では日本の方が低い。分業がうまくいかない最大の問題はリスクテイクができないことだ。

周:ここ数年多くの企業家から話を聞いた。「商売していて10%利益を上げることは大変なのに、取引するたびに税金が10%とられ、たまったものではない」と言う。欧米諸国も生産過程で取引するときに消費税が発生するなら、必ず国の産業空洞化につながる。

 消費税にしても小選挙区にしても、導入過程での議論の際に比較対象を間違い易い。日本は1億3,000万の人口がある。ヨーロッパ、特に北欧には小さい国が多い。日本は、自国の10分の1も無い人口規模の国の政治制度や税制度を国の制度改革モデルとする際、人口規模の桁違いを意識すべきだった。

 昔中国も同様なことが起こった。秦の始皇帝が中国を統一したものの十数年で崩壊した。諸説あるが、始皇帝が秦の制度を中国全土に一気に拡大させ、機能不全が起こったのが原因だ。桁の違う国土と人口の制度設計を簡単に一緒にして議論するのは危険だ。

小島:税金を払っても生きていける体力があるかどうか。

:税には良税と悪税の二種類ある。私は資産税を悪税ではないと考える。しかし取引税は分業を妨げる悪税だ。特に今の時代、関税が限りなく低くなっており、国内での取引税は海外との分業を推し進め、空洞化を産む。グローバリゼーションの観点からすれば悪い話では無いかもしれない。

小島明(2023)『教養としてのドラッカー 「知の巨人」の思索の軌跡』東洋経済新報社

■ ゾンビ企業の生き残り作戦


小島:リスクの問題について言えば、日本にはバブル崩壊後に収益を上げた企業があった。しかしその多くは新しい事業を始めたのではなく、人件費をカットした企業だ。人件費カットの仕方はボーナスを出さず、ベースアップをなくし、正規社員の2分の1か3分の1の賃金で働く非正規の人員を増やす、など様々ある。バブル崩壊前、全労働人口のせいぜい15%が非正規だった。今は非正規が4割近くにのぼり、企業側は人件費が節約できる。借金を返し、海外に行かず、投資はしないからビジネス機会が生まれない、雇用も増えない、賃金も上がらない。

:つまりリスクをとって積極的な投資とイノベーションで利益を出すパターンではない。

小島:リスクテイクをする資本家や企業経営者がいなくなった。バブルが崩壊し、金融機関までおかしくなったのは日本にとっては初めての経験だ。

 とくにデフレが始まった1998年の前年末に三洋証券が破綻し、北海道拓殖銀行などの銀行が潰れた。銀行が貸しはがしをし、投資を一生懸命やろうとした企業に、「お前のところは儲かっているから貸した金を返せ」と迫った。経営がダメな赤字の会社は返す金がない。そこを貸し倒れにすると帳簿上、金融機関の損になる。その損を出したくないから転がして追い貸しをする。儲かっている企業から現金を回収し、経営が駄目なところに転がしてやる。日本企業の99%が中小企業と分類されている。政治も中小企業は弱者だからと助け、銀行は追い貸しでいいから貸せと言った。結果、やる気がなく儲からず普通は持続できない企業が長生きしている。

 これはゾンビ企業だ。新陳代謝ができない。この分野は不必要、或いは続けたいが黒字の見通しなく赤字だという企業を援助すれば、経営者から政治家に給付金や献金が来る。日本のバブル崩壊後の対応として本来ゾンビ企業は市場から撤退させ、新しい人材や資本で新たな可能性を広げる必要があった。ところが、ゾンビ企業にカネが使われてしまった。国の財政もゾンビになった。バブルがはじけ不況が長引き事業転換しないと経営が苦しくなる。人件費節約を経営テーマにし、人事部や総務部など国内派が主導した。投資についても支出で収益が減るから投資しない。銀行からの借金は全部返す。株主がうるさいから自社株買いで買い戻す。全体のマーケットにおける株の供給が減るから値段が上がり株主だけでなく役員、従業員も株でもらえる。

:その結果、日本企業には、積極的な投資とイノベーションで新たな製品やサービス、マーケットを創出する勢いがなくなった。

1990年代末における日本の証券会社

■ チャレンジしない組織体質


小島:日本の場合はボトムアップではない。社長が人事権を持ち、人事が気になる社員が社長の顔色をうかがいながら仕事をする。社員みんなの意見聞いて社長がそれに従うのではなく、人事権を通じた徹底的なトップダウンだ。日本では、上場も非上場企業もバブルがはじけた後に怪我せずリスクを取らず、生き残った人が企業のトップになった。人事部、管理部など内部をやった人たちだ。海外でビジネスをし、マーケットを開いた人は、なかなかトップになれない。

:第一線で頑張っている人たちが評価されず、トップにも入り難い。これが企業の経営に大きな影響を及ぼしている。

小島:経理屋、人事屋は、新しいアイディアが下から来ると、マイナスだ、危険があると列挙し、やってみなければわからないのに可能性を考えずネガティブなことだけ列挙した。

 日本からベンチャーは出難い。ベンチャーキャピタルは銀行が作った子会社だ。銀行は絶対リスク取らず、貸したら必ず担保を取り、企業は潰れても担保の不動産はもらう。つまりリスクを取らないビジネスをやっている。いわゆる投資銀行は日本にないため、大蔵省の制度がそうしたやり方で、技術が海外にあれば技術をもらい、確実にこの技術を使えるとなるとカネがつく。ノーリスクでできると考えたからだ。

 技術のリスクは、例えば海外で鉄鋼生産、造船、自動車などそれぞれの国が既にリスクをクリアした産業を、日本が導入した。だから先行した国の後で動かせばいいだけだった。リスクテイクはしなかった。リスクの語源は古いイタリア語から来ていて、可能性にチャレンジする意味だ。可能性、将来性だ。今、日本はリスクというとネガティブにとらえ背を向けて逃げる。オーナー企業の経営者には一部まだリスクテイカーがいるが…

:森ビルの森稔社長は、中国でリスクを取って大きなビルを上海で建てた。大勢の人にやめた方がいいと言われても、やり遂げた。結果、大成功した。

小島:そうだ。人事部が取り仕切る企業は社長がこうしたリスクを取らない。日本は第二次世界大戦後に一時勲章制度を無くしたが、復活させた。勲章をもらうには産業、経済団体のトップにならないと難しい。このため団体トップの順番を待つから、日本は老人支配の社会になる。今の経済人は年を重ね経営能力を失っても会長、名誉会長、特別顧問として会社に居続ける。亡くなるまで社内に自分の部屋があり、秘書に支えられゴルフをする。次の人はその人たちから選ばれるから、誰も辞めさせられない。人事で動く世界だから、ボスの顔をいつも見ている。社長の仲間ばかりが上に行く。海外に出張し海外事業で成功しても数字上でしかトップはわからない。

 日本はリスクを取らない。リスクは潜在的な可能性を持ち、もとより危険なものだ。リスクマネジメントが重要だ。リスク評価とリスク管理の発想は、バブル崩壊後、日本から消えた。

森ビル「上海環球金融中心」

■ 個人が最大の価値を発揮できる組織を


:根底に必要なのは正しい組織論だ。ドラッカーの組織論は、マネージメントを定義した。組織の個人が最大の価値を発揮でき、価値を作り出すことができるのがいい組織だ、とした。

小島:人材はコストでなく、資産であるという発想だ。経営者がみな読んだ1973年出版の“経営のバイブル”とされた『マネジメント』の中で、ドラッカーが繰り返し強調しているのはこのことだ。日本はバブル崩壊後、人材がコストとみなされた。人は少ない方がいいし、賃金は安い方がいい。

:誰にでも取り替えができる人がいい人材で、人が辞めても同じ働きのできる人がいれば良しとする考え方が日本には根強い。昔の工業時代の人材の価値の見方だ。ドラッカーが言う知識社会の発想ではない。知識社会は個性が大事だ。

小島:その通りだ。

:本来、組織の中で権力はいらない。権限とは権力ではなく責任だ。それが今の日本の組織の中では、逆になっている。

小島:本当にそうだ。いつの間にか逆になった。

 バブルがはじけた後の不良債権処理が長引き、銀行が駄目になった。プラザ合意の1985年、日本の投資率が高かったとき、企業は自前の資金が足りず銀行からどんどん借りた。ところがその後日本の企業は成長見通しを下げ、投資率は下がった。貯蓄率はそのままで貯蓄余剰経済になってしまった。金融機関は従来、頭を下げて金を預かったが、余るようになった。結果、リスクを取らない銀行は、土地さえ担保であればいくらでも貸し、それがバブルを生み出した。地価が暴落した。

 1985年から金融機関が資金余剰となり体質改善の必要が出た。ところが金融機関は未だに同じ体質のままだ。ベンチャーやリスクテイカーを応援することにはなっていない。例えばマイクロソフトのビル・ゲイツが日本で創業したいとなったら、日本では彼に金を貸す人は出てこなかっただろう。ゲイツが、私はアイディアを持っていると言っても有形の担保が無く自分のオフィスも無い。賃貸ビルで、自前の工場は持たず、委託生産だ。持っているのは無形のノウハウだけである。日本の従来の金融機関ではそれは担保と見做さないから、断っただろう。日本では起業家を応援する金融システムがない。社会のニーズに対応する金融システムのイノベーションが必要だ。

 イノベーションは単に、ものを新しく作るだけではなく、時代のニーズに対応できるシステムイノベーションが欠かせない。

小島氏とドラッカー氏

■ 元気な新しい企業が出てこない


周:平成元年の1989年、世界時価総額トップ10企業の中に日本の銀行は5社入っていた。その後これらの銀行は合併を繰り返し、いまや世界時価総額トップ100企業の中に1社も入っていない。

小島:100社内にいる日本企業はトヨタともう一社くらいだ。 

:ゾンビ企業は大問題だが、ゾンビ以上に問題なのは元気な新生企業が少ないことだ。いま日本の時価総額トップ30企業のうち1980年代以降に創立した企業はたった一社、ソフトバンクだ。

小島:企業の少子化、設備の高齢化、資本ストックの高齢化が、日本の資本主義の問題だ。

■ 小選挙区制の弊害


小島:小選挙区問題もするどい指摘だ。政治劣化の原因は、小選挙区と政党助成金だ。官邸が役人の幹部に対する人事権を持った。このため役人が何も言えなくなった。

:マスコミも批判しなくなった。日本は選挙で選ばれた人々が政治家に、勉強で選ばれた人たちが官僚になる。公務員試験に受かった人たちが責任ある立場に立ち、実績を作りながら上に行く。さらに企業家、学者、マスコミが加わって、互いにチェックし依存し合うシステムだった。ところが、小選挙区の導入で、政治一強、官邸一強となり、官僚もマスコミも小さくなった。

 財界も迎合する。経団連が消費税を推進している。不勉強なのか、立場を忘れているのか、財界が消費税という取引税を推進すること自体が不可解だ。

小島:小選挙区導入当時は、政治改革すればいいという空気の中で、反対すると守旧派と言われ、言論封殺される。小選挙区の結果、二世議員、三世議員が増えた。しかも、政党助成金の名目で税金から政治資金が各政党のトップに行く。自民党であれば首相と幹事長から「次は公認にしない」と言われれば、選挙に出られずカネも来ない。自民党の中にも、昔は宏池会などさまざま派閥があり、政策論争もやった。今は政策論争がなくなった。

: その意味では昔の方がずっとバランス良く面白かった。

小島:今の政治家は、個人的に話している時は「問題はある」と言うが、リスクは取りたくない。日本の政治は、今だけ、自分だけ、口先だけの「三だけ政治」だ。アメリカも反知性主義的選挙になっている。

 東京大学の学長だった佐々木健は「日本の民主主義は、選挙ファンダメンタリズムだ」と言う。選挙さえ通れば良く、選挙が頻繁にあって短命の政権になる。平成の30年間で日本は17人も首相が生まれた。平均寿命が2年もない。選挙でお礼回りし、少ししたら次の選挙の準備が始まる。宇野宗佑や羽田孜のように2カ月ぐらい或いは数十日しかもたない首相もいた。皆が順繰りにポストが回ってくるのを待つ。安倍政権も長期政権とは言えず、6回国政選挙があった。次の選挙が近ければ、選挙前のあらゆる政策は、次の選挙のプラスになることしかやらなくなる。3年我慢し、4、5年経ったら花が咲き、実がなるという政策が、いま全部お蔵入りし、選挙目当てのバラマキ政治になった。

周:明らかに制度設計のミスマッチだ。民主主義は主義だけでなく制度設計の知恵、知識が必要だ。間違った設計がされたら大変なことになる。ドラッカーが言う社会的イノベーションが必要だ。また、安倍長期政権の一つの理由は、その前の民主党政権が酷すぎたからだ。

小選挙区比例代表選挙・候補者ポスター

■ 百花斉放の自由政策が繁栄をもたらす


小島:失われた30年の原因について、もう一つ私が付け加えたいのは、行政のレギュレーション、規制の問題だ。司馬遷の史記の列伝集『貨殖列伝』に、良い政治は民がしたいようにさせ、次善の政治は民をあれこれ指導する、一番悪い政治は民と利益を争う、とある。古代の中国では自由なときには百花斉放があり、自由な議論があり、文化も経済も発展した。

周:歴史上、中国の繁栄期は全て百花斉放の時だ。漢の文帝・景帝の時代、道学をベースとした自由政策をとり、百花斉放を謳った。その結果、「文景の治」という大繁栄期を築いた。しかし武帝になると、規律規制を重視する儒学を国学とし、それ以外の諸学が排除された。政府が前面に出て対外戦争も次々仕掛けた。結果、漢王朝は一気に下り坂になった。司馬遷は漢武帝の政策に批判的だった。その反省も込めて良い政治、偽善の政治、一番悪い政治というジャッジメントをした。

 延安時代の毛沢東は百花斉放を提唱し、共産党の勢いを形作った。

小島:ところが日本は規制大国だ。総務省が調べたものに、法律、政令、省令、通達、規制、内規、行政指導がある。役所の書類には、少なくとも20種類の言葉がある。評価、認可、免許、承認、承諾、認定、確認、証明、臨床、試験、検査、検定、登録、審査、届け出、提出、報告、交付、申告。これを全部明確に定義できる役人は1人もいない。日本における行政の裁量性が今一番の問題になっている。

 日本がアメリカとの摩擦を起こしたものの一つに、弁護士事務所を認め法曹界を自由にしろという要請があった。ところが自由にしても、アメリカの法律会社は日本に入ってこない。見えない規制があるからだ。法文を見て弁護士がこれは可能だと考えても、「何々等」という言葉が付いた曖昧な法案だ。法律を解釈して理解できるのは半分だけで、残りは役人が裁量権を持つ。接待がバブルのときに頻発したのは役人による裁量行政があったからだ。役人の裁量、権限は、不透明かつ裁量性だ。どの範囲でどう解釈されるかで、企業の存亡が決まることが沢山ある。デジタルも共通の言語がない為、役所ごとに解釈が違う。例えば、デジタルの世界ではモノ作りは経産省、通信は総務省で、繋がっていなかった。

 日本は長らくIT(情報技術)論であり、ICT(情報通信技術)の発想でなく、C(通信)が抜けた発想の政策だった。

周:政治家や官僚だけでなく、日本の経営者も学者も規制を作るのは大好きになった。大学の教授会ですら規制作りの話が多い。結果、皆リスクが取れなくなった。

司馬遷『史記』

■ 優れた経営者はなぜ輩出されなくなった?


周:一昔前には森ビルの森稔、リクルートの江副浩正など日本には優れた起業家がいた。なぜいまいなくなったのか?森稔さんから江副氏とは同級生だと伺っていた。

小島:その人たちは特別だ。実はあまりそういう人はいない。立派なスタートアップ企業がこの30年なかった。唯一ソフトバンクがあるが、これは一種のコリアンブランドだ。小倉昌男が起こしたクロネコヤマトはイノベーション企業だ。彼は、あのモデルが成功したときに沢山の出版社から本書いてくれと言われたが書かなかった。自分がビジネスをやっている間は一切本を書かないと断った。その理由は、ビジネスリーダー、経営者は、あらゆる環境変化にそれぞれの判断でやる必要があり過去に縛られてはいけない、過去の成功体験や前例に捉われず、その都度、真剣な勝負をすることだと言った。

周:昨年50周年を迎えたぴあという会社も学生が作った企業だ。

小島:ぴあの創業者矢内廣が50年間ずっと社長をやっている。

周:立派なスタートアップが昔はあったにも関わらず、この30年はほとんど出ていない。

小島:問題は、技術のパラダイムが変わっているときに、過去の技術でやり続けていることだ。成功体験が今日本の制約になっている。組織内の新陳代謝、発想の新陳代謝が起こらない。行政も縦割りで前例主義になっている。

周:技術のパラダイムシフトに対して、社会のイノベーションが必要だ。

※後半に続く

講義をする小島氏と周牧之教授

プロフィール

小島明(こじま あきら)/日本経済研究センター元会長

 日本経済新聞社の経済部記者、ニューヨーク特派員・支局長、経済部編集委員兼論説委員、編集局次長兼国際第一部長、論説副主幹、取締役・論説主幹、常務取締役、専務取締役を経て、2004年に日本経済研究センター会長。

 慶應義塾大学(大学院商学研究科)教授、政策研究大学院大学理事・客員教授などを歴任。日本記者クラブ賞、ボーン・上田記念国際記者賞を受賞。新聞協会賞を共同受賞。

 現在、(一財)国際経済連携推進センター会長、(公財)本田財団理事・国際委員長、日本経済新聞社客員、(公財)イオンワンパーセントクラブ理事、(一財)地球産業文化研究所評議員

 主な著書に『横顔の米国経済 建国の父たちの誤算』日本経済新聞社、『調整の時代 日米経済の新しい構造と変化』集英社、『グローバリゼーション 世界経済の統合と協調』中公新書、『日本の選択〈適者〉のモデルへ』NTT出版、『「日本経済」はどこへ行くのか 1 (危機の二〇年)』平凡社、『「日本経済」はどこへ行くのか 2 (再生へのシナリオ)』平凡社、『教養としてのドラッカー 「知の巨人」の思索の軌跡』東洋経済新報社。