
■ 編集ノート:
岸本吉生氏は経済産業省の官僚として長年第一線で日本の産業政策、国際交渉を担ってきた。退官後はデザインコンサルタントとして輪島塗、播州織など日本のモノづくり文化の継承と発展に力を注いでいる。
東京経済大学の周牧之教授の教室では、2025年5月23日、岸本吉生氏を迎え、トランプ関税発動後の国際社会への影響と行方について、また現代日本の社会、文化の様相についてお話しいただいた。
■ ニヒリズムが蔓延
岸本:『西洋の敗北』の著者エマニュエル・トッド氏の専門は人口と歴史だ。人口数が違えば国の政策は違う。若い人がたくさんいれば未来への希望が溢れる。高齢者が多く若い人が少なければ若い人の負担は大きい。ある国の人口構成がその国の国際政治にどんな影響を与えるかが著者のライフワークだ。
ウクライナとロシアの戦争後に出したトッド氏の『西洋の敗北』を読むとニヒリズムに注目している。周先生が大学生の頃、中国にニヒリズムはあったか?
周:私が大学生だった時は中国の改革開放直後だったので社会は高揚感に包まれていた。頑張れば夢をつかめられる時代だった。しかし40年後の今はニヒリズムが社会的な現象になっているようだ。「躺平」つまり何もしないという言葉が若い人の間で流行っている。
岸本:私が大学生の頃はニヒリズムがあった。ニヒリズムとは「どうせ俺なんて」ということだ。将来どんな希望があるかを言わない。思っても言わない。「私たちはどうせダメだ。こんな社会で頑張っても無駄だ」と斜に構えた感じだ。とくに2000年前後の日本にはニヒリズムが強かった。
ニヒリズムが台頭すると他人は他人、私は私になる。前を歩く人が大事なキーホルダーを落としても声もかけない。
トッド氏が指摘するニヒリズムの要因は高学歴だ。大学に行く人が増えるとニヒリズムが出てくる。大学が好きではない人もいる。大学を出てどうなるという悲観的な思いもある。就職氷河期の世代は、せっかく大学まで卒業したのに報われない結果になった人が百万人以上生まれてしまった。
周:努力しても報われないことが大きい。長期的な不景気や階層の固定化などがニヒリズムをもたらす。

■ 格差社会になる中で日本の社会システムはなお健全
周:ニヒリズムは格差社会になってきたことに起因している。40年前のNHKの調査で、日本では98%の人が自分は中流だと答えた。1億総中流社会だ。アメリカも1970〜80年代は大半が中流社会だと思っていた。いま日本は格差社会になりつつあるがアメリカほどではない。
アメリカでは今まで共和党の支持層ではなかった人がトランプ氏を支持している。本来、労働組合に組織されていた労働者が、民主党から離れ共和党支持になるねじれ現象が起きている。グローバリゼーションが進み、もたらされた分裂と格差が激しくなっている。
さらに深刻な問題は、アメリカの場合、階層社会の底辺にいる人々の生活基盤が崩壊している。バンス副大統領が自身の前半生を描いた小説『ヒルビリー・エレジー』がこの崩壊現象をリアルに描いている。これが今アメリカ社会における政治分裂を引き起こす最大のパワーとなっている。
日本はそこまで行っていない。東京経済大学はもともと左派的な学校だった。マルクス経済学の一大牙城のような大学とのイメージを持たれていた。私がこの大学に初めて来た時には、マル経の大物教授が沢山いた。
国際的に見て、日本の社会システムはかなり左派的な社会思想が浸透し、それがアメリカとの違いをもたらしている。この30年、日本は格差がある程度広まったが生活基盤が崩壊する階層がまだそれほど表面化していない。世界的に見ると、グローバリゼーションで富の作り方が更に効率的になったが、分配の仕方がまだよく出来ていない。
日本は社会のあり方が、アメリカと比べると断然うまくいっている。戦後の日本の社会システムを作るときに左派的な考えが強く働いたからではなかったかと思う。日本社会には格差を是正する社会主義的な思想や仕組みが強く働いている。
岸本:全く同感だ。エマニュエル・トッドの『西洋の敗北』を今日の話題になぜ選んだかというと、周先生が今おっしゃったことを、同書は偏見なく捉えていることに共感を覚えたからだ。トッド氏の結論は周先生とほぼ同じだ。日本は西洋のようには敗北しない。
『西洋の敗北』の結論は、ヨーロッパとアメリカが敗北するということだ。それは何故か。フランス人研究者である自分がこのことを書くのは辛いとも書いている。欧米に住めない、反逆行為で嫌われるとも書いている。
同書において、トッド氏はキリスト教の影響を分析している。プロテスタントは「人間は平等ではない、よくできる人間とダメな人間がいる」と教える。西洋が敗北するのは当たり前だと述べている。日本の仏教にそうした考え方はない。お寺のお坊さんは、優秀な人間とあかんたれがいるとは言わない。他人があかんたれと呼んでも、やりようでちゃんとできると教えている。
周:儒学の祖の孔子は「有教無類」、つまりどのような人であってもきちんと教育することを教育理念とした。平等主義の思想だ。日本の仏教は、インドから中国に伝わり中国の道教や儒学と融合され改造された中国仏教が源流だ。そこには、仏教が言う「衆生平等」つまり皆が平等という思想が根底にある。平等主義は中国の政治思想にも深く浸透している。西暦587年、隋文帝から始まった科挙で官僚を選ぶことも、世襲的な貴族支配を排除し、有能な人材を取り入れるためだ。選挙制度が1400年以上続いた中国では、政治的に平等思想が根深くある。そうした平等主義は、左派的な思想に通じ合うところがある。その意味では、マルクス主義が中国で一気に広がったことは決して偶然ではなかった。
岸本:仏教の平等思想は日本社会においても基盤になっている。
日本的精神は、神社、お寺、俳句、短歌、平家物語、お茶など沢山ある。集約すると自然崇拝だ。四季折々、今このときに感謝する。これは古来日本の普遍の原理だ。中国には5000年前からそうしたものが沢山ある。その中で、日本人が賛同したものが漢文として輸入された。日本に残る漢文を読めば日本人と中国人の同じ部分がわかる。
周:平等主義を含め、日本は選択的に中国から取り入れた。
岸本:親しみを感じ尊敬して取り入れた。日本の仏教は自然崇拝という生活慣習が基盤になっている。輸入された経典が日本の文化を作ったわけではない。神社もそうだ。祀られる神様が日本の文化を作ったわけではない。神様は自然と同体だ。日本には先祖崇拝がある。位牌や墓がある。過去の人類は全部先祖だと考えているから、他人は他人のようで他人でない。
周:中華文明の中で、先祖崇拝を確立したのは周王朝だ。殷王朝は、神の崇拝をやり過ぎ大勢の人々を生贄にした。殷王朝を倒した周王朝は、先祖崇拝で人間の優位性を確立した。中国王朝の天命は神から民へシフトした。これは非常に大きな出来事で、それ以降中国では神を絶対視する王朝は誕生していない。大きな宗教戦争の時代もなかった。これは日本を含む東アジアにも大きな影響を与えた。世界の宗教戦争と対立を見渡すと、中華文明が早熟であったことが分かる。
岸本:核家族、集合住宅、学校制度。現在の日本社会を全部かけ合わせたらそんな風になる気がする。集合住宅の頃は友達が自分の家にいるのは普通だった。今は他人の家に行くのは遠慮がある。親の了解が要る。他人の子が夕方遊びに来ていたら夕飯を一緒に食べさせた。よその子は自分の子と変わらなかった。

■ アメリカ製日本国憲法はなぜうまく機能したのか?
岸本:習近平氏の「歴史決議」では中国共産党結党時の1921年の中国は悲惨だったと書かれている。日本でも明治維新で政府ができた頃は大変だったと書かれている。さらに昭和の前半は、恐慌からはじまる暗黒の時代が続き、自国だけでも300万人以上の犠牲者を出して戦争が終わった。
『坂の上の雲』という司馬遼太郎氏の小説がある。他人のためを思って一生懸命頑張る。自己中心は否定され、他人のために頑張る人だけがいい人だという社会。それが悲惨な結果を生んだ。江戸時代からつながっていた日本的な精神が否定された。
私は昭和37年生まれで小学校に入ったのは昭和43年、戦後20年だ。戦争前のことを良かったという同級生がいたら、みんなで意地悪する感じだった。「私の祖父は軍人で偉かった」などと言おうものなら先生も「そんなこと言うものではない」と否定された。
周:日本国憲法を作ったのは日本人ではなく占領軍だ。占領軍の中の左派だ。彼らはアメリカでやれないことをやった。
岸本:占領下において社会運営の方針と制度づくりは占領軍の左派が担当した。労働組合法もGHQが起草した。明治時代にドイツ、フランスの制度を自らの意思で輸入したのとは違う。
周:日本国憲法のもとで日本社会がここまでうまく出来上がって来たのは、日本的な精神があったからだ。

■ 日米同盟は瓶の蓋
周:トランプ氏の対日関税交渉の姿勢は何故これほど強いのか?
岸本:トランプは、日米安全保障体制がアメリカにプラスだと思っていないのではないか。日米安全保障条約は瓶の蓋だ。日本はいつかアメリカに復讐するかもしれない。日米安全保障体制がある限り日本の再軍備は必要ない。
憲法九条の規定がありながら、防衛費に10兆円近くを使うよう日米政府が動いているのは周先生にはどう見えるか?
周:瓶の蓋だ。トランプは日本だけでなくドイツに対しても瓶の蓋を開けた。
岸本:瓶の蓋を開ける。自国を自衛できないようではいけないというのが自民党の一部の主張だ。社会党、共産党は日米安保に反対だ。立場がいろいろあって構わない。アメリカ大統領で日本に防衛費を増やせと言った人は過去何人もいるが、日米安保体制をなくして瓶の蓋を外してあげようかと明言した人はいない。トランプさんも明言はしていない。
日本の総理大臣が、軍事力を増強し日米安保条約を破棄すると言ったらどうなるか。関税、自動車工場、製鉄所という次元の問題ではない。
周:トランプ氏はカナダを「51番目の州」にすると言った。日本を52番目の州にするという要求はあり得るのか?
岸本:1950〜60年代はそれに近い要求を受けてきた。日米関係と日中関係を天秤にかけて打開していくのが良い総理大臣だと言う人がいる。アメリカとの関係、中国との関係を天秤にかけることはできない。それぞれが大事だからだ。中国と日本、東アジアの調和と進展。ロシアや北朝鮮との関係もその一部だ。52番目の州を考える前に、このテーマを深めていくことが大切だ。
(了)

プロフィール

岸本 吉生
ものづくり生命文明機構常任幹事
1985年東京大学法学部卒業後通商産業省入省。経済産業省環境経済室長、中小企業庁経営支援課長、愛媛県警察本部長、中小企業基盤整備機構理事、九州経済産業局長、中小企業庁政策統括調整官、経済産業研究所理事、中小企業基盤整備機構シニアリサーチャー、中小企業庁国際調整官を経て現職。コロンビア大学国際関係学修士、日本デザインコンサルタント協会会員。
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