【青島】中国北方で第3位の経済規模を誇る国際交易拠点【中国都市総合発展指標】第16位

中国都市総合発展指標2022
第16位




 青島は中国都市総合発展指標2022総合ランキング第16位であり、前年度の順位を維持した。

 「経済」大項目は第13位で、前年度の順位を維持した。3つの中項目で「都市影響」は第11位、「経済品質」「発展活力」は第14位で、この3項目のうちトップ10入りした項目はなかったものの、すべてトップ20入りした。小項目では、「広域中枢機能」は第6位と、9つの小項目のうち1項目がトップ10に入った。なお、「開放度」は第12位、「ビジネス環境」「イノベーション・起業」は第13位、「経済規模」「広域輻射力」は第14位、「経済構造」は第15位、「都市圏」は第28位、「経済効率」は第40位であった。

 「社会」大項目は第17位で、前年度の順位を維持した。3つの中項目のうち「伝承・交流」は第17位、「ステータス・ガバナンス」は第18位、「生活品質」は第20位だった。小項目で見ると、トップ10入りした項目はなかったものの、「社会マネジメント」は第11位、「文化娯楽」は第16位、「人的交流」「居住環境」は第18位と、4項目がトップ20入りした。なお、「生活サービス」は第23位、「消費水準」は第24位、「人口資質」は第29位、「都市地位」は第35位、「歴史遺産」は第115位であった。

 「環境」大項目は第55位で、3つの中項目のうち「空間構造」は第30位、「環境品質」は第88位、「自然生態」は第191位であった。9つの小項目のうち、トップ10入りした項目はなかったものの、「都市インフラ」は第11位、「環境努力」は第12位、「交通ネットワーク」は第24位と、3項目がトップ30に入った。なお、「コンパクトシティ」は第43位、「資源効率」は第89位、「水土賦存」は第134位、「汚染負荷」は第139位、「気候条件」は第178位、「自然災害」は第205位であった。

■ 山東半島の国際港湾都市


 青島は、山東省に属する計画単列市で、中国の主要な港湾の一つであり、国際的な海運業の中心地である。

 同市は、山東半島の南東、黄海の東に位置し、総面積は11,293平方キロメートル(秋田県と同等)で中国第163位、7つの区と3つの県級市を管轄している。

 青島は、海岸沿いの丘陵都市であり、全長816.98キロメートルに及ぶ海岸線は優美な曲線を描き、大小さまざまな島が点在している。市の地形は東部が低く、西部が高い傾向にある。南北の両端は盛り上がっており、中央部は凹んでいる。全体として、山地が総面積の15.5%を占め、丘陵が2.1%、平野が37.7%、低地が21.7%を占める。

■ 避暑地として人気の青島


 青島は温帯夏雨気候に属し、海洋の影響を強く受け、四季がはっきりと分かれている。夏季は湿度が高く降雨が多いが、厳しい暑さはない。そのため、避暑地としても人気がある。春と秋は短く、冬季は風が強く寒さは厳しいが、降雪は年10日程度と少ない。冬季の影響により、「気候快適度」は中国第187位となっている。「降雨量」は中国第186位である。

 風光明媚な景観により、観光・保養地としても名高い。「青島」の名は、市内に豊富に存在する常緑樹の景色にちなんで付けられた。

■ 租界の歴史


 青島は、屈指の歴史文化都市であり、道教の発祥地とされている。

 青島の膠州湾は唐宋時代以降、北方の重要な港となった。青島が最初に租借地となったのは1897年であり、当時、ドイツが青島とその周辺地域を占領した。翌1898年、ドイツと清朝との間で「膠澳租界条約」が締結され、青島はドイツの租借地となり、これが青島租界の始まりとなった。

 ドイツは青島を東洋における重要な軍事基地かつ商業中心地と位置づけ、都市開発を積極的に行った。また、ドイツの文化や技術が導入され、それが現在の青島の建築様式や世界的に知られる「青島ビール」などに影響を与えている。ドイツ占領時代の建物の多くは今も保存され、青島の風景の一部を形成している。その街並みの優美さから当時は「東洋のベルリン」と称されていた。

 第一次世界大戦勃発後、1914年に日本がドイツに宣戦布告し、青島は日本によって占領された。第二次世界大戦後、青島は1945年に中国に返還された。新中国成立後、青島は中国の重要な工業都市と港湾都市として発展し、今日の姿に至っている。

■ 中国北方の製造業スーパーシティ


 青島は中国北方の重要な経済中心地の一つである。2022年青島の地域内総生産(GDP)は1兆4,921億元(約29.8兆円、1元=20円換算)に達し、中国第13位であった。中国北方では北京、天津に次ぐ第3位の経済規模を誇る。一人当たりGDPは14万4,272元(約289万円)で、中国第22位だった(詳しくは【ランキング】世界で最も経済リカバリーの早い国はどこか? 中国で最も経済成長の早い都市はどこか?を参照)。

 青島は製造業基地として存在感が大きく、「製造業輻射力」は中国第12位である。山東省内第2位の煙台は中国第25位に留まっているため、省内で圧倒的な順位を誇っている。特に家電産業では、ハイアール等、中国有数の企業が青島市に拠点を置いている(詳しくは【ランキング】中国で最も輸出力の高い都市はどこか?を参照)。

■ 渤海湾の巨大貿易地


 青島は港湾都市としての存在が大きい。世界130カ国以上の地域と450以上の港との間で貿易が行われており、コンテナ取扱量は世界第5位に名を連ねている。「コンテナ港利便性」も中国第4位である(詳しくは【ランキング】世界で最も港湾コンテナ取扱量が多い都市はどこか?)を参照)。

 2022年における青島の輸出入総額は前年比7.4%増の9,117億元(約18.2兆円)で、中国第10位であった。うち輸出総額は前年比9.0%増の5,361億元(約10.7兆円)で、中国第10位。輸入総額は前年比5.1%増の3,756億元(約7.5兆円)で、中国第10位であった。輸出入ともに、青島は山東省内トップの規模を誇る。

 また、青島は日本とのビジネス関係が深く、対日輸出額は中国第2位であり、対日輸入額は中国第3位である。特に、野菜・水産物等の食品関連の対日輸出が大きなウエイトを占めている。

■ 国際的な総合交通ハブ


 青島は港湾だけでなく、空港、高速鉄道、高速道路を軸とした総合交通運送システムの構築も進めている。

 2021年8月12日には、39年間青島市民を支えてきた青島流亭空港が閉鎖され、山東省初の4F級空港である青島膠東国際空港が開業した。〈中国都市総合発展指標〉の「空港利便性」項目で青島は中国第16位、航空旅客数も同第17位である。いずれも山東省内では第1位である(詳しくは【ランキング】中国で最も空港利便性が高い都市はどこか?を参照)。

 鉄道では、〈中国都市総合発展指標〉の「鉄道利便性」は中国第22位、「高速鉄道便数」も第20位で、「準高速鉄道便数」は第19位であった。これらいずれの指標も山東省内第1位である。

■ 山東省の最大人口吸収都市


 2022年末の常住人口は約1,034万人で中国第17位、山東省内では第1位であった。人口の流出入を示す「流動人口(非戸籍常住人口)」では、山東省内16都市のうち9都市は、外へ人口が流出している。これに対して青島は、流動人口が約180万人の大幅プラスであり、周辺から多くの人口を吸い上げている。よって青島は中国第24位、省内第1位の人口流入都市となっている。

■ 一大観光都市


 青島はその美しい海岸線と歴史的な建築物で知られ、多くの観光客を引きつけている。主な観光地には、青島海洋世界、青島動物園、青島科学技術博物館、青島ビール博物館、八大峡公園などがある。特に海外からの観光客が多く、〈中国都市総合発展指標〉の「海外観光客」で、青島は第10位と、第15位の済南を上回り、山東省内で最も高い順位である。

■ ヨットと映画ロケの聖地


 青島は豊かな文化遺産と活気あるエンタメを持つ都市である。〈中国都市総合発展指標〉の「文化・スポーツ・娯楽輻射力」は中国第18位である。市内には、青島大劇院、青島市図書館、青島市美術館など、多くの文化施設を有する。「博物館・美術館」は中国第15位、「動物園・植物園・水族館」は中国第19位、「公共図書館蔵書数」は中国第29位である。

 また、青島は映画の都としても知られ、映画ロケ地を多く持ち、映画祭や音楽祭も多数開催されている。その影響もあり、青島の〈中国都市総合発展指標〉における「映画館・劇場消費指数」は中国第20位であり、山東省内で最も順位が高い(詳しくは【ランキング】世界で最も稼ぐ映画大国はどこか?を参照)。

 スポーツにおいても、青島は多くのスポーツイベントを開催している。青島は2008年の北京オリンピックのヨット競技の会場となり、その後も多くの国際的なヨット大会が開催されており、いまや中国におけるヨットの聖地となっている。また、青島はプロサッカーチーム、青島中能の本拠地でもある。〈中国都市総合発展指標〉の「スタジアム指数」は中国第8位と、トップの規模を誇る。

■ 科学技術・本社機能・高等教育


 青島は近年では科学技術の発展にも注力している。〈中国都市総合発展指標〉の「科学技術輻射力」で同市は中国第18位と、省内トップの実力を有する。「特許取得数指数」は中国第10位と全国トップ10に入る成績を誇り、「R&D要員」は第14位、「R&D支出指数」は第19位に躍進している(詳しくは【ランキング】科学技術大国中国の研究開発拠点都市はどこか?)。ただし、「中国都市IT輻射力」は第27位と、第14位の済南に水をあけられており、今後の発展が望まれている(詳しくは【ランキング】中国IT産業スーパーシティはどこか?を参照)。

 同市は屈指の交流交易機能を活かし、本社機能の立地も進んでいる。「メインボード上場企業」は中国第18位と済南の第27位を上回る。ユニコーン企業は5社立地している。

 また、青島には多くの有名な大学と研究所が立地している。青島科技大学、中国海洋大学、青島大学など、多くの学生がこれらの教育機関で学んでいる。

 〈中国都市総合発展指標〉の「高等教育輻射力」で青島は中国第17位と山東省内トップクラスの成績を誇る。


【長沙】エンタメ・グルメのニューメガシティ【中国都市総合発展指標】第15位

中国都市総合発展指標2022
第15位




 長沙は中国都市総合発展指標2022総合ランキング第15位であり、前年度の順位を維持した。

 「社会」大項目は第14位で、前年度より順位を4つ上げた。3つの中項目で「生活品質」は第11位、「ステータス・ガバナンス」は第15位、「伝承・交流」は第16位で、3中項目のうちトップ10入りした項目はなかったものの、すべてトップ20入りを果たした。小項目で見ると、9つの小項目のうち、「居住環境」は第9位とトップ10入りし、「消費水準」は第13位、「文化娯楽」は第14位、「人口資質」「人的交流」「生活サービス」は第16位、「都市地位」は第18位と、6項目がトップ20に入った。なお、「社会マネジメント」は第73位、「歴史遺産」は第97位であった。

 「経済」大項目は第15位で、前年度より順位を3つ下げた。3つの中項目で「経済品質」および「発展活力」は第15位、「都市影響」は第19位で、3中項目のうちトップ10入りした項目はなかったものの、すべてトップ20入りを果たした。小項目では、トップ10入りした項目はなかったものの、「広域輻射力」は第12位、「ビジネス環境」「イノベーション・起業」は第14位、「経済規模」は第15位、「経済構造」は第16位、「広域中枢機能」は第17位、「開放度」は第19位と、9つの小項目のうち7項目がトップ20に入った。なお、「経済効率」は第21位、「都市圏」は第25位と、9つの小項目のうちすべての項目がトップ30に入った。

 「環境」大項目は第20位で、前年度より順位を5つ上げた。3つの中項目のうち「空間構造」は第22位、「環境品質」は第31位、「自然生態」は第129位であった。9つの小項目のうち、「資源効率」は第2位とトップ10入りを果たした。また、「都市インフラ」は第14位、「交通ネットワーク」は第20位と、2項目がトップ20に入った。なお、「コンパクトシティ」は第30位、「環境努力」は第36位、「気候条件」は第95位、「汚染負荷」は第176位、「水土賦存」は第184位、「自然災害」は第265位であった。


「星城」長沙


 長沙市は湖南省の省都であり、「星城」と称される。同市は東に江西省の宜春、萍郷、西に娄底、益陽、南に株洲、湘潭、北に岳陽と隣接し、長江中流域の重要な地域中心都市である。また、米どころ・魚どころである。北京を始めとする中国の都市は長い歴史の中で、さまざまな理由により都市の中心地が変動してきた。そうした中、長沙は、三千年にわたって都市の位置が変わらない「楚漢名城」である。

 長沙の総面積は11,819平方キロメートルにおよび、15のニューヨーク、11の香港、6つの深圳に相当する広さである。中国国内では第157位の規模であり、日本では秋田県と同等の大きさである。

 2022年末の常住人口は1,042万人で、ニューヨークを上回り、スウェーデンの全人口を超えるメガシティである。中国国内では第16位の人口規模である。

 同年のGDPは1.4兆元(約20.8兆円、1元=20円換算)に達し、中国第15位の経済規模がある。これはスリランカのGDPに匹敵する規模である(詳しくは「【ランキング】世界で最も経済リカバリーの早い国はどこか? 中国で最も経済成長の早い都市はどこか?を参照)。

歴史の深さ、継続する文脈、名人の輩出


 長沙は、その長い歴史と豊かな文化資源で知られる。特に、「岳麓書院」は、宋、元、明、清の四つの王朝を経て、現在の湖南大学につながり、世界で最も古い高等教育機関の一つとして人材を輩出し続けている。毛沢東を始め曽国藩、左宗棠ら中国の近代史を形作った偉人が岳麓書院から大勢出ている。まさに岳麓書院正門に掲げられた「惟楚有才,于斯為盛(楚に人材あり、ここに集まる)」という対聯の通りである。

 現在、長沙には23の大学と37の専門学校から成る60の高等教育機関がある。湖南大学、中南大学、国防科学技術大学、湖南師範大学の4校は、国家重点大学「211大学」に含まれ、うち3校は「985大学」に名を連ねる名門校である。

 現在、同市の高等教育能力の高さを示す「高等教育輻射力」は中国第7位である。

 歴史上、長沙生まれ或いは長沙で活躍した傑出人物は数多い。前漢の思想家・文学家である賈誼、唐代の書家・文学家の欧陽詢。近代では画家・齊白石、辛亥革命先駆者の黄興、蔡鍔、文学者の周立波、周楊ら多くの著名人を生んでいる。

 同市は現在なお「傑出文化人指数」で中国第13位、「傑出人材輩出指数」で中国第22位と、好成績を誇っている。

 人材に活躍の場を与える長沙は、外からも人々を吸引し成長している。人口の流出入を示す「流動人口(非戸籍常住人口)」では、湖南省内13都市のうち12都市は、外へ人口が流出し、その規模は約845万人である。これに対して長沙は、流動人口が約264万人の大幅プラスである。よって長沙は中国第14位の人口流入都市となっている。

 住宅価格を低く抑える政策も独特である。中国の省都の中でも長沙の住宅価格は最も低い水準にある。これも、長沙の人口吸入力になっている。長沙は現在、「幸福感都市認定指数」で、杭州、成都と並び、中国第1位の都市である。

バラエティのリーダー・湖南衛星テレビ


 「湖南衛星テレビ」は、もともと「湖南テレビ局」という名称であったが、1997年に衛星放送を開始して以来、「湖南衛星テレビ」として知られるようになった。マンゴーを模したロゴから「マンゴーチャンネル」という愛称で親しまれ、現在では湖南文化や長沙を象徴する存在となっている。

 このテレビ局は、常に新しい分野を切り開き、全国の他のテレビ局の一歩先を進んでいる。番組の視聴率は、省レベルの衛星テレビ局の中で常にトップを走っている。20年以上にわたって人気を博している「快楽大本営」や、オーディション番組の「スーパーガール」など、多数のヒットバラエティ番組やエンターテイメント作品が生まれた。これらの番組は、SNSで話題となり、特に「スーパーガール」や「快楽男声」は、20年前から中国の若い消費層にトップレベルのエンターテイメントを提供している。

 湖南衛星テレビは、人気バラエティ番組を多数製作するだけでなく、優れた司会者、俳優、歌手を輩出している。何炅、汪涵、謝娜、李宇春など人気タレントが名を連ねている。

 エンタメ都市として名高い長沙は、「文化・スポーツ・娯楽輻射力」で中国第12位であり、「映画館・劇場消費指数」は中国第11位である(詳しくは『【ランキング】世界で最も稼ぐ映画大国はどこか?』を参照)。

■ グルメとインフルエンサーの都市


 長沙は現在、「インフルエンサー都市」と呼ばれる。長沙は優れた自然環境と、長い歴史と文化を背負った美食の都市でもある。湖南衛星テレビの積極的な宣伝が功を奏し、湖南料理が、全国的に根を張り巡らせた。SNSの時代となり、大勢のインフルエンサーが長沙の食の魅力を広げている。

 長沙には、小龍蝦(ザリガニ)、臭豆腐、米粉(ビーフン)といった、独特で多様なグルメが存在する。中国一辛いと言われる「湖南料理」が、多くの観光客を魅了している。ミルクティー業界のスタバとも言われる「茶顔悦色」が2013年に設立され、長沙の新しいグルメの象徴的な存在となった。

 長沙は眠らないエンタメ都市としても有名であり、ナイトエコノミーが、多くの観光客を引き寄せている。

 交通の便も観光都市長沙へのアクセスを容易にしている。「鉄道利便性」が中国第7位、「空港利便性」が中国第15位と、交通の便が高いことも魅力のひとつとなっている(詳しくは【ランキング】中国で最も空港利便性が高い都市はどこか?を参照)。

 観光都市・長沙の「卸売・小売輻射力」は中国第13位、「ホテル・レストラン輻射力」は中国第18位である。

■ 強い機械産業を持つ


 長沙はソフトパワーだけでなく、製造業も優れている。長沙には、三一重工、中聯重科、鉄建重工、山河智能といった世界トップクラスの機械製造企業を擁している。長沙の「製造業輻射力」は中国第36位である(詳しくは「【ランキング】中国で最も輸出力の高い都市はどこか?を参照)。

 併せて、研究開発も活発であり、「科学技術輻射力」は、中国第15位である。国家を代表する研究者の排出数を示す「中国科学院・中国工程院院士指数」は第15位と、ここでも人材の豊富さを窺わせる(詳しくは『【ランキング】科学技術大国中国の研究開発拠点都市はどこか?』)。


【講義】神津多可思:金融財政政策が結果に結びつかなかった訳

2023年12月21日、東京経済大学でゲスト講義をする神津多可思氏

■ 編集ノート:

 神津多可思日本証券アナリスト協会専務理事は、日本銀行の調査統計局経済調査課長、考査局考査課長、金融機構局審議役(国際関係)、リコー経済社会研究所所長を歴任し、現在まで一貫して日本の金融、財政の第一線で活躍されてきた。

 東京経済大学の周牧之教授の教室では、リアルな学びの一環として第一線の経営者やジャーナリスト、官僚らをゲスト講師に招き、グローバル経済社会の最新動向を議論している。2023年12月21日、神津多可思氏を迎え、日本の金融財政政策を解説し、これからの日本経済を展望について講義をして頂いた。


■ 安定化を狙う金融財政政策


神津多可思: 経済は、好況のときもあれば不況のときもある。金融財政政策が本来やることは、景気が良くなり過ぎた時に凹ませ、悪くなり過ぎた時には推し上げ、景気の変動の振れをなだらかにすることだ。テンションが高くなったり低くなったりすると、経済活動の中で企業が疲れる。消費者も景気がいいと借金して高いものを買い、景気が悪くなるとバイト代も下がり、クレジットが返せなくなり疲弊する。このため、景気の振幅がなるべく無い方が良いと考えられている。

 金融政策と財政政策の双方を合わせてマクロ安定化政策と呼ぶ。経済は長い目で見ると拡大する流れの中で凸凹があり、それを平準化するのがマクロ安定化政策の基本的な発想だ。つまり景気が良いときは金利を上げ、財政を出さない。景気が悪いときは金利を下げ、財政を出す。

 日本のバブル崩壊の後始末は2005年に終わったと言われる。その後、マクロ安定化政策は、経済成長の傾きを高めようとした。バブル崩壊後、成長スピードを上げるため金融緩和し、財政赤字を出した。成長のトレンドを高くするよう努めたものの、思ったほどうまくいかなかった。

 日本銀行が四半期に1回、ディフュージョン・インデックス(DI)もある短期経済観測調査を発表している。大企業1万社にアンケートを出して得た統計データだ。その中の業況判断DIは「あなたの会社は今景気がいいか、悪いか、どちらとも言えないか」の三つの選択肢で聞く。いいと答えた人、悪いと答えた人の双方の割合を計算し、引き算をしたのがDIだ。

 このDIを一定の期間でみると、景気が良くなっているのか悪くなっているのかを数字で見ることができる。

 意外に景気の実態を捉えているのが、この業況判断DIと呼ばれる日銀の短観データだ。景気が悪い時は金融財政政策で経済を下支えし、景気が良い時には、下支えをとり景気が過熱しないよう、またインフレにならないよう金融財政政策が考えられてきた。バブルが崩壊し景気が悪くなった後も、興味深いことに景気には上下があった。バブル崩壊後2005年ぐらいまでバブルの後始末をしていたが、その間にも景気が良い時、悪い時があった。

全国企業短期経済観測調査結果推移(製造業・非製造業)

[出所]日本銀行(2024年3月)「全国企業短期経済観測調査」

■ 叶わなかった実力相応の好景気実現


神津:特に問題なのはバブルの後始末が終わった後の金融財政政策だ。金融財政政策は、バブルが壊した日本経済を何とか元通りにしようと懸命になった。金融財政政策はバブル崩壊後の成長トレンドの低下を元に戻そうとして、かなり経済を刺激したが、ついこの間まで持続的なインフレにもならなかった。

 日本経済を2%の成長に戻すのが多くの人の希望だったように思う。しかし今1%そこそこの成長しかない。2005年以降、企業がどの程度景気がいいと感じたかを先ほどの業況判断DIでみると、バブル前に企業が景気はそこそこいいと感じていた頃と変わらないくらいのDIの水準もあった。

 2010年代の非製造業の業況判断DIは、バブル前の水準に比べむしろ高いくらいだった。しかし、いま日本経済が絶好調との話は聞かない。バブル時代が羨ましいと社会に出た若い人たちは言う。バブルの時代を思い起こせば、皆元気だったことは事実だが、同時に多くの人は疲れ果てていた。あまり良い思い出が残っていない。日本経済の実力相応の好景気を実現できなかったという大きな反省が残っている。

 バブルの後始末が終わった後、経済はまずまずいいと企業が思っていた時に、政府日銀はなぜ更に良くするべきだと考えたのか?それは答えがない問いだ。政策に携わる人の多くが日本経済の実力はもっとあるとの気持ちを根底に持っていたのかもしれない。客観的な企業の景況感と、経済社会全体が持つ経済が不調だという感じは、うまくフィットしない。

 人口が伸びていた頃は、経済成長率も高かった。人口の増加率が下がると、低い成長率になる場合が多い。人口が増える時と、減る時では経済の様子が違う。確かに人口増加率が1%の時の経済成長率の幅は広い。このことからは、経済成長率は人口の増加率だけが決めているわけではないことが分かる。したがって、人口増加率がマイナスでも、経済が成長することは十分あり得るが、働く人数が増えている時よりも高い成長を経済全体として遂げることは難しい。日本国内だけを見れば、金利を下げ、財政の支出を増やせば、経済成長率も上がると単純に考えていた。それが、うまくいかなかった最大の理由ではないか。

実質経済成長率と人口増加率の関係

[出所]内閣府ホームページ「国民経済計算」、総務省ホームページ「人口推計」

■ 進む少子化と新技術への期待


神津:厚生労働省の白書から「日本の平均的な家計」の変化を示したものを抜粋した。バブル前の1985年は、「父母と子」が平均的な家庭の姿だった。私の両親の世代は3〜4人兄弟が多かった。3人兄弟が各々結婚すれば、合計6人の子が4人の親の老後を支えればよかった。

 今は大きく変わった。一人っ子が多くなり、結婚すれば2人で老親4人の世話をしなければならない。現役の若い世代にとっては大変だ。今は昔と違い、AI、スマホ、ロボットがある。単純に割り算して「自分らの将来は大変だ、暗い」と思う必要はない。しかしコストを念頭に置き、成長率を元に戻すにはどれくらいコストがかかるかを考えなければいけない。

 統計で見ると、今の若い人は結婚しなくなった。高齢者の単身世帯が増え、結婚せずに高齢者になる人も多くなった。年をとった両親たちは、ご飯3杯は食べない。春夏秋冬ごとに新しいファッションを買うこともしない。車は次第に運転できなくなる。タンス、冷蔵庫を買うこともめったにしない。消費しない世代が増えてきている。結婚し子供をつくり、家や家具、食品も買おうと考える世代はどんどん減少している。

 マクロ経済学の悪いところは、常に代表的な家庭、平均的な家庭を考えるところだ。40年間、同じ家庭のままだとの仮定をする。しかし日本の場合、平均的な家庭のイメージは30年で大きく変わった。消費が以前のように元気にならないとは考えなかった。

 とはいえ、日本の社会は結構いい線で変化したのかもしれない。悪いところばかり見えるようだが、良いところは良い。だからこそ悪いところを直せる。

 日本経済に何が見合っているかをみる上では、何歳の人間が何人いるかを見る人口ピラミッドをみると良い。

 GDPは、働く人が生み出す新しい付加価値を金額で表現したもので、働く人が減れば、日本全体として生み出される価値の額は減る。20歳から64歳の人は1990年から2020年までの間に672万人減った。65歳以上でも20歳以下でも働いている人はいる。しかし、主力の働き手の数が672万人減った中で、1980年から90年までの間と同様の経済成長を2020年の時点で成し遂げようとすれば、減った働く人たちの数を補わない限り、同様の成長はできない。

 1990年代は法律が変わり、労働時間の上限が下がった。あまり長時間、過重な労働をしてはいけないことになったので、働く人の数が減っただけでなく、1人の人が働く時間も減った。経済成長率が下がっても、働かなくて済むような社会であれば、悪い社会ではない。悪い社会ではないが、成長率がより高まるともあまり考えられない。

 推計では、2020年から2025年は、働ける人の数の減少スピードが少々緩やかになり、300万人ぐらいしか減らない。しかし、2040年まで推計を伸ばすと、1000万人ぐらい減る。2040年、いまの大学生が社会に出て最先端で働く時期に、働く人は大きく1000万人減る。

 だからといって萎縮してはいけない。インターネットは1990年代、スマートフォンiPhoneが出たのが2000年代。技術進歩がありインターネットとスマホを前提にした様々なビジネスが出た。働く人が1000万人減る時代に、こうした技術進歩が経済成長率にどう影響を及ぼすだろうか。

神津多可思(2022)『日本経済 成長志向の誤謬』日経BP 日本経済新聞出版

■ 中国を始めとする新興国の経済大躍進と課題


神津:もうひとつ日本経済が考えなければいけなかったのが、新興国経済の大躍進だ。1980年代までの日本は、米ソが対立する東西冷戦構造の中で、経済が高度成長した。

 1989年ベルリンの壁が崩壊し、ロシアも中国も一斉に世界経済の中に組み込まれた。日本経済にとってはアジア、アメリカ経済にとっては南米、ヨーロッパ経済にとっては旧社会主義国だった東欧が、一斉に同レベルで経済活動の中に入ってきた。

 賃金の水準は、例えば2000年は日本の方が高かった。しかし、中国で日本と同じものが作れる時代が到来し、日本企業は賃金の安い中国で作ったものを輸入した。

 日本企業は、中国だけでなく世界で一番儲かる場所に工場と支店を作り、グローバル化のプロセスに入った。モノは輸出したり輸入したりできるが、サービスはなかなか輸出入ができないので、まずモノから始まった。その後中国でより安く作れるものは日本では作らないことになった。日本だけでなく世界中が中国に投資した。

 13億人口の中国が経済の大躍進を遂げた。かつての日本経済の「奇跡の成長」と、中国のそれとは、スケールが全然違う。グローバル化の影響を見れば、隣国中国からの影響は、日本経済にとって大変大きい。昔と同じやり方では日本は成長できない。

周牧之:神津さんの話はその通りだ。2000年から2022年の間に中国の輸出は14.4倍になった。その一部は日本に輸出した。中国は経済成長と同時に都市化が進んだ。私は中国各都市の人口問題を分析している。今、中国では日本より早いスピードで少子化、高齢化が進んでいる。

 2009年、中国経済が日本経済と同じ規模に達した時、私はハーバード大学のエズラ・ボーゲル教授と対談し、日本と中国は経済が台頭したときの条件が同様に輸出拡大だったと話した。輸出拡大で中国は元気の良い時期が続いたが、都市化が進んだ現在、問題となっているのは、その人口構造だ。

神津:日本の高齢化の急速な進展は1990年代後半からだ。生産年齢人口すなわち15歳〜64歳の人口が減り始めたのは1990年代後半だ。日本はバブルの後始末に追われた時で、人口減問題の重要性にあまり着目しなかった。当時の日本と同じぐらいのスピードで2010年代後半から中国は高齢化が進んだ。日本が気づかず失敗した要素が、中国の今後を左右するだろう。

 中国都市化で一つ知っていた方がいい言葉に「ルイスの転換点」がある。日本にも「ルイスの転換点」はあったと言われる。日本の都市化は地方から都市に人を集めることによって起こり、高度成長を実現させた。1950年代後半から60年代、列車に乗って地方から集団就職で向かった先の東京、大阪、名古屋など大都市で、今と比べれば厳しい条件で人々は働いた。統計をみると、都市部への人口流入が止まる点が必ずある。都市化が進むと「ルイスの転換点」を通過したかどうかが重要になる。中国は、ルイスの転換点を通過したか否かが議論されているだろう。

 北京、上海など大都市は完成した大都市になった。それ以外の各省の都市を都市化し、農村部にいる人たちを集め、経済成長の原動力にしようという努力を、中国はこの十年くらい懸命に取り組んだ。だが、人口の少子化、高齢化による経済成長率へのマイナス影響は、日本も中国も同じだ。

 ただ、中国が大変なのは人口が日本の10倍ある点だ。国家運営は本当に大変だ。中国は日本の10倍大変なはずだ。

周牧之、エズラ・ヴォーゲル対談『ジャパン・アズ・ナンバースリー』『Newsweek 』2010年2月10日号

■ 新グローバル化の影響とIT産業参入の遅れ


神津:以上が日本の経済成長を制約した2つ目の要素であるグローバル化の話だ。ロシアと中国は、これまでのグローバルな企業活動から、現在、どちらかというと自国の中での完結した企業活動に向かおうとしている。日本の企業がこれまで味わってきたグローバル化の影響が、今後少々違う形で出てくるかもしれない。

 日本の経済成長を制約した3つ目の要素は新しい情報通信技術の発展だ。日本は、その新しいテクノロジーに乗り遅れた。この10年間、インターネットとスマートフォンを中心にさまざまビジネスが出て、第3次産業革命とも呼ばれている。インフォメーション、コミュニケーションのテクノロジーのイノベーションに関連して、10年おきに1990年、2000年、2010年、2020年の大きな企業のデータを拾った。2021年の段階で、世界の時価総額トップ10企業には、Apple、マイクロソフト、アマゾン、アルファベット(Google)、フェイスブックなどGAFAMと呼ばれるアメリカのテック企業が並ぶ。他に石油会社のサウジアラムコがあり、中国はデジタルビジネスのアリババとテンセント、アメリカ自動車メーカーのテスラ、台湾はチップメーカーのTSMCだ。

 1980年代後半、バブル崩壊前の世界時価総額トップ10企業には日本企業が6つ入っていた。NTT(日本電信電話)、日本興業銀行、第一勧業銀行、富士銀行(今のみずほ銀行) 、住友銀行、三菱銀行だ。しかし日本経済は30年かけて変わり、現在の世界時価総額トップ10企業に日本の企業は1つも入っていない。日本だけでなくヨーロッパの企業も入っていない。

 日本の企業は新しいテクノロジーに噛めなかった。昔からやっているモノ作りにしがみついたところがある。そこに成長率を高められなかった理由の三つ目がある。

世界株価時価総額トップ10企業 1989年 vs  2023年

 [出所]米ビジネスウィーク誌(1989.7.17号),「THE BUSINESS WEEK GLOBAL 1000」(2020年8月末)、各種データをもとに雲河都市研究院作成

■ 供給構造の変化に遅れ


神津:そもそも何が起きていたのか再度考えてみたい。日本はデフレだと言うが価格がなかなか上がらないのは、日本中の総需要と総供給を考えたときに需要が弱いからだ。需要が強ければインフレになる。

 人口動態の話で言うと、免許を持つ人数は減るにも関わらず2シーターのオープンカーの生産を増やすことはあり得ない。もっと言えば環境問題が深刻な時にガソリンを使った内燃エンジン車をどんどん作ること自体が大問題だ。

 人口動態の変化があり、また日本では既に作っても儲からないものがあり、日本以外で作らないと儲からないもの、輸出ができなくなるものなど、需要には入れ替わりがある。

 人々が皆スマートフォンを持つことで様々なサービスを受けている。それに支払う費用は海外に行き、日本の国内供給は新しい需要に対応したものに変わる必要があるのに十分変わらない。金利を下げ財政を出すなど景気の刺激を一生懸命やってきたが、高齢化、グローバル化、IT化に追いつけない。古い供給が残り、需要は新しい方に移り、物価は上がらない。供給の入れ替えは難しい。昨日まで道路工事をやっていた人に急にゲームソフトを作れと言ってもできない。企業が倒産するか人員がクビになるかだ。

 供給構造を変えることは大変だ。リスキリング(職業能力の再開発、再教育)が最近言われ出したのは、供給構造を変えなければならないことに気づいたからだ。変化する世界の中で、日本国内だけが従来同様なら、国内での儲かるビジネスは先細りになる。失業の増加に繋がる。その危機感がリスキリングにも表れている。

■ 利下げは供給構造の変換に繋がらず


神津:金融政策を考える際イールドカーブという言葉がある。例えば国債の金利について、1年物の国債から40年物の国債までの金利、つまり短い金利から長い金利まで繋ぐ裾のようなものをイールドカーブと言う。

 銀行同士が「今日はお金が余った」「今日は足りない」というのを調整するインターバンク・マーケットがある。異次元緩和が始まる前は、そこで形成する今日から明日への1日分の短い金利を、日本銀行は誘導していた。それが、10年物国債の金利がマイナスになるまで金融緩和を強化したのが、ここ30年間の金融緩和の歴史だった。特徴は、長い金利を下げたことだ。それが設備投資や住宅投資に影響が及ぶからであり需要を刺激する。

 国債の金利は日本で一番信用できる金利だ。例えば長期10年の金利の上に、信用できない人からは高い金利を取る。信用できる人からは低い金利を取るという色々な金利がある。まあ、マイナスの金利では貸さない。住宅ローン金利は下がってきたとはいえプラスだ。

 これまでの金融緩和では、あらゆる金利を下げようとしてきた。金利が下がれば、経済活動が刺激されるが、しかし金融政策で金利を下げただけでは供給構造変換がうまくいかなかったのが、過去の反省だ。

 そうした金融政策をやってきて、どういうことになったか。財務省が昨年9月に作った統計では、発行された国債の残高は1,065兆円で、半分は日本銀行が持っている。つまり日本銀行が圧倒的に国債の金利に影響を与えている。日本銀行は国債を沢山買った。国債の需要が強くなれば、低い金利でも売れるようになるから金利は下がる。短期の金利がゼロになってしまった後は、長期金利を気にしながら、金融政策をやらざるを得なかった。

 昔は、日本銀行が調節するのは長期金利でなく短期金利とされた。今では、金融市場で金融資産を売買する人の経済先行きの予想に応じて長期金利が決まればいいとは言えない。マイナス金利はほとんど意味のない政策であるにもかかわらず、日本銀行がマイナス金利の解除に躊躇したのは、国債の需給への影響を気にしたからだと思う。

1990年以降のイールドカーブの変化

[出所]神津多可思(2022)『日本経済 成長志向の誤謬

■ 社会保障費増大が国債の膨張に


神津:財政政策はどうだったか。コロナ前の2020年の数字で、政府の債務残高の対名目GDP比率は、日本はギリシャ並みで200%を超えていた。日本国民全員が無給で2年働かないと今の借金は返せないということだ。

 1年間の財政赤字を国の経済の大きさとの対比で見ると、アメリカはものすごく赤字が大きい。バイデン政権の大きな政府政策の現れだ。日本より遥かに赤字幅を大きくし、経済を刺激する財政政策をやったため、インフレになったとも言われている。コロナが明けた後、インフレになり金融を引き締めなければいけなかったのは、2020年に今言ったようなことをしていたからという側面がある。

 日本について、財務省の数字で、1990年度の当初予算と2023年度の当初予算を比較した。ここで特例国債とは、赤字国債のことで、税収で賄えないほど歳出を膨らませたときに発行する国債だ。1990年度は、特例国債が発行されなかった最後の年だった。

 今はその赤字国債を約30兆発行しないと予算が組めない状態だ。以前と比較して一番大きく膨れ上がった歳出は社会保障だ。年金、医療、介護の分野にお金を使っている。11兆だった社会保障費がいま36.9兆円だ。増加分は25.3兆円。特例国債を出さなければならない理由の一つは、この社会保障の増大にある。社会保障の三つの柱、年金、医療、介護はどれも保険だ。

 具合が悪くなる人とならない人がいる。長生きする人としない人もいる。亡くなる最後の数年間に、介護が必要な人と必要としない人がいる。その見通しはつかないため、みんな同額を出し、助けを必要とする人はみんなの積立金の一部をもらう。その出すお金と使うお金のバランスをとるのが保険だ。そうでなければ保険会社はみんな倒産してしまう。

 しかし社会保障の保険三つに関して言うとそうではない。積み立てる保険金以上に、医療費を出し、年金を出し、介護費用を出している。政府が借金をして調達したお金で国民は年金、医療、介護のサービスを受けている。社会保障は命と健康の値段なので、借金して良いサービスができるならそれでいいとも言える。GDPの200%、2倍の借金を抱え何か悪いことが起きているわけではないという話にもなる。良い薬や治療法が出れば高額でも保険でまかなえるなら保険料は上がり、政府の税投入も増える。本格的に速いスピードで高齢化が進むのはこれから数十年だ。社会保障政策の維持が可能かどうか問われる。ここでは意見が分かれ、問題なしと言う人もいる。だが古今東西の歴史を見れば、大きな財政赤字を抱えて長く栄えた国は無い。

財政赤字の国際比較

[出所]神津多可思(2022)『日本経済 成長志向の誤謬

■ 社会保障費節約か?税負担増か?


神津:国債というと近代的に聞こえるが、そもそも国家が借金を始めたのは、戦費の調達のためだ。占領された地域の人たちは収奪されて借金を返すために酷い目に遭わされた。アメリカやヨーロッパは、歴史上、出た借金は先に返しておかないと次の戦争ができないという感覚があるのだろう。今日、日本以外の先進国は、借金が多い状態を放置できないという感覚が強い。借金が増えれば増えるほど、うまくいかなくなったときが大変になる。いくら借金をしても構わないといった議論はしない方がいい。

 OECDは、先進国クラブと呼ばれる32カ国がメンバーの組織だ。それぞれの国で財政支出と租税収入はどれくらいかを、GDP対比で比較できる形にして比べてみる。社会保障費、社会保障費以外の政府サービスを、どれくらい出しているか。社会保障費以外の政府サービスは防衛費、文教費、公共事業などだ。

 日本は先進国の中では社会保障費の割合は中程度だ。しかし社会保障以外の歳出は抑えている。他方、租税収入は少ないというバランスだ。例えば、フランスは社会保障費の支出比率がトップだ。社会保障費以外の支出は第9位、税金の取り具合は第4位。つまりフランスは沢山税金を取り、それを使っている。そうした政府のあり方をフランス国民は選んでいる。

 一方でアイルランドは社会保障を出さない。社会保障以外の支出もしない。しかし税金も取らない。国民は勝手にやり、政府は何もやらないことをアイルランドの国民は選んでいる。日本はあまり税金を取らず社会保障は出している。先進国の常識からすれば日本は租税収入を増やし、社会保障以外の支出を増やし、社会保障費は抑制するといいバランスになる。

 文部科学省の科研費など政府による研究助成はギリギリに削られ、学会出張すらできない先生がいる。出すか出さないかの議論が割れる防衛費もある。老朽化した橋や道路などインフラも改修しなければならない。日本には台風は来るし地震も多い。日本は社会保障だけにお金を使える国ではなく、バランスが必要だ。社会保障は命の値段といってもいい。単にサービスを減らすのは解決にはならない。しかし高額な薬を保険でもらえ、病院に行くと使いもしない貼り薬をもらえ、病気でもないのに友達に会いに病院に行く人が多いといったことがあるなら改善の必要がある。そこで節約した分を学校の教育、子育てに使い、壊れた道路や橋の補修に使うのがいいバランスだ。それができないなら租税負担になる。消費税、所得税など税金の取り方は様々あるができるだけ経済成長に影響を与えない形で、税負担を増やすのが一つの鍵になる。

OECD諸国・社会保障以外の歳出比較

[出所]財務省(2023)「これからの日本のために財政を考える」

■ 過度の国債発行は円安、インフレをもたらす


神津:財政が悪化するか否かの判断で大事なことは何か。銀行の窓口で融資を申し出ると銀行は、まず返済可能かを考える。所得と融資額を対応させ何年で返せるかを見通してお金を貸す。国の場合は、ほぼ税金の収入はGDPに比例している。GDPそのものは国の収入ではないが、GDPと借金の残高を割り算したとき、借金の残高が租税の収入に対して増え続けていくような場合には、金融市場でいつか国債を売れなくなる。なぜなら返ってこないお金は貸さないし、金融商品は買わないからだ。

 内閣府が出した借金残高の対名目GDP比率は、日本政府がこれから得る収入と、今の借金残高の割り算をしたものを近似している。これが上昇し続けるなら見限られる。もうこれ以上貸せない、つまり銀行が国債を買わなくなる。

 2030年ぐらいまでを展望すると、多少上に向かっていてもその数字は発散しないので、すぐにはひどいことにはならないとも思われる。が、経済同友会のタスクフォースで、2050年まで伸ばした2021年実施の試算を見ると、2030年代は上にぐんと上がる。圧倒的に高齢者が増えるからだ。高齢者が増えれば年金は増える。人間は死ぬ前の1年間の医療費が一番高い。今後高齢化が進むと医療費は確実に増える。介護も高齢化に伴い増えるという試算になる。

 そうしたことが明確になると、民間銀行は日本政府が発行する国債を買わなくなる。金融市場で必要な国債の発行が十分できなくなると、日本銀行しか国債を買わなくなる。政府が発行する国債を全額日銀が買うような国債は、全く人気がないということだ。人気がないので国債の金利を高くしなければ、誰も買わない。政府は金利を上げ、高金利となる。

 国民は、政府が発行する国債を直接大量に持っている訳ではない。しかし、民間銀行が国債を買っているので、銀行に預金のある人は間接的に国債を持っていることになる。預金の一部が国債に向かっているのである。

 従って、国債に人気がなくなれば、皆そんな国債を買っている銀行にお金を預けようとは思わなくなる。アメリカの株を買い、ドル預金をしようとする。それが進むと、円安になる。ドル建ての投資信託を皆が買えば、円をドルに替える動きが強まり、円安になる。円安になればインフレになる。民間銀行が国債を買わなくなる時点で、インフレ、円安になり、円安がまたインフレを呼ぶ。70年前の日本と同様のことが起きうる。そんなリスクはコントロールした方がいい。借金残高の対名目GDP比率が上昇し続けるような政策はしない方がいいとの主張だ。

公債残高の対名目GDP比率長期予想

[出所]経済同友会(2021)「持続可能な財政構造に向けて」

■ 緩和超過で為替レートに皺寄せ


神津:2023年4月に新しい日銀総裁になった植田さんが直面する問題の一つは為替レートだ。円、ユーロ、スイスフラン、英国ポンドなどを様々な国の通貨を加重平均した為替レートのことを実効為替レートという。英語ではeffective exchange rate(EER)だ。

 また実質為替レートとは、例えば円をドルに変えニューヨークで使う際にどれだけ買えるかを見たものだ。パリ、ローマ、ロンドンなどでも同じように考えて、貿易のウェイトで加重平均したのが実質実効為替レートだ。それを見ると1980年に円が持っていた力を今は持っていない。1980年は私が大学を卒業した年で、卒業旅行でカリフォルニアに行った。当時買えた土産すら今は買えない。日本の金融政策で金利を低くしている結果、その影響が自由に動ける為替レートの方に皺寄せとして現れている。

 今為替レートは安くなりすぎた。金融市場の為替レートを使い、日本とアメリカの1人当たりの名目GDPを比較した。アメリカには3億人ぐらい人がいて経済規模も3倍ぐらいあるので、日本との比較には、1人あたりを比べる。アメリカに住む人1人が、1年間に生み出す新しい付加価値と、日本に住む人1人が1年間に生み出す新しい付加価値を比較した。

 人口には赤ちゃんから老人までいるので、そういう働けない人も含めての平均的な1人だが、今、日本は3万5000ドルぐらい。アメリカは7万ドル。1人当たりの名目GDPは、日本はアメリカの半分ということになる。いくら何でも半分はないだろうとの実感がある。1990年代は円高で苦しかった。名目実効為替レートでは1990年代はとんでもない円高だったわけではない。が、当時の円高は実は日本の1人当たりの名目GDPの方がアメリカより高いという評価になるぐらいの円高だった。企業にとっては大変だった。GAFAMも全部アメリカの企業で、新しいビジネスを生み出す経済であるにもかかわらず、日本の方が一人当たりの付加価値生産額が高いのは、何となく妙だ。

 今は為替レートが75円であればアメリカと同じになる。大手輸出企業に話を聞くと、110円ぐらいなら居心地がいいというのが本音のようだ。日本は金融を緩和し過ぎて2%を上回るインフレで為替レートに皺寄せがいっていることが、植田さんが抱える宿題の一つだろう。

植田日銀の金融政策

[出所]神津多可思(2022)『日本経済 成長志向の誤謬

■ 10年先を見据えた設備投資を


神津:経済成長率を高めるためにはどうしたらいいのか。潜在成長率という概念があり、経済の成長の実力をさまざまな格好で推定するものだ。日銀が推計したものをみると、三つの要素に分かれている。

 経済成長の生産関数の中に入ってくるのは資本と労働、それから技術の進歩である。TFPというのはトータル・ファクター・プロダクティビティと呼ばれ、技術の進歩を表す。資本投入は企業が設備投資をし、機械を入れ、オフィスを増やすなどのことだ。労働投入は、人が一定時間働いて付加価値を生むことだ。労働投入は1990年代に潜在成長率を下押しした。当時、働く人数が減っていないのに下押しをしたのは法律によって労働時間が短縮されたからだ。昔は、就職すると長時間働かされていた。いまは働く時間が短くなっている。そうなれば、1人の人間が生み出す付加価値の額も小さくなり、それによって成長率が下がってくる。

 また、トータル・ファクター・プロダクティビティについては、どうすればその成長に対する影響が大きくなるかは研究の対象だが、今これが結構いいところまで来ている。労働投入つまり働く人の数と働く人の時間は、高齢化に伴い労働市場から抜ける人がいる為、昔に比べて経済成長を押し上げられない。

 2%の経済成長まで来るためにはどうしたらいいか。昔と今で一番違うのは資本投入だ。資本投入とは企業が設備投資をして、新しいビジネスをすることだ。古いことに設備投資するのは駄目だ。GX、DXの時代で、今後10年商売を続けていける分野を探し、積極的に投資をすれば日本経済の成長実力は上がる。財政がそれを手助けし、金利が低い方がそれをやり易いとの発想で2005年以降も金融緩和をし財政赤字を重ねてきた。

 財政赤字は社会保障から生まれたと言ったが、社会保障で配るお金は老人たちが医療費や、介護で使う。使うこと自体は需要が出てくるので経済成長に寄与する。だが、次の成長の種にはなっていない。次の成長の種を蒔くには、企業が設備投資をしなければならず、儲かる話に投資をしなければいけない。儲かるということの意味は、長く続く商売になるということだ。

 これまで懸命に金融政策と財政政策は成長率を押し上げる工夫をしてきた。が、十分ではなく、これからは、企業がどれくらい頑張れるかが大事になり焦点になる。一生懸命、企業がかんばらなければ駄目だと東京証券取引所も言う。金融庁も、高いコストで集めたお金を、定期預金に置いたままではいけないと言う。企業もそれに応え、新しい時代に次の成長の種となる設備投資を始めたというのが、現時点だ。

日本の潜在成長率

[出所]日本銀行(2024)「経済・物価情勢の展望:潜在成長率」

■ スタートアップ企業が続出する社会へ


周:1989年の世界時価総額トップ10の企業に、日本の企業、特に銀行がたくさん入った時の特徴の一つは、イノベーティブなベンチャー企業がゼロだったことだ。第6位のIBMは科学技術力があっても100歳近い古い企業だ。

 2023年で見てみると、テック系のベンチャーが8社も入っている。創業が一番若いのは、2003年のテスラと2004年のフェイスブックだ。若く、技術のイノベーション、ビジネスモデルのイノベーションに一生懸命だ。旧勢力の企業と新勢力の企業とは性格が全く違う。神津さんの話を表現を変えて言うと、日銀がやってきたことは旧勢力に金を注ぎ込んだものの経済効果に繋がらなかった。その原因は、新勢力についてあまり意識してこなかった点にある。

 結果は2023年日本企業時価総額トップ30、平均年齢104歳。1960年以降創業したのは5社だけ。1980年代以降創業したのは1社で1986年のソフトバンクだ。日本の政策は旧勢力に気を配りすぎた。しかし、旧勢力は未来が見えず投資しない。米中の新勢力企業によって世界の産業地図が大きく変わった。

神津:日本銀行は直接企業に金を貸さないので、今の周先生の話を正確に言うと、日本の銀行がこういう人たちばかりに結果的に貸していたということだ。

周:スタートアップ企業にどうお金を流せるかが課題だ。

神津:学生が就職するとき、ぽっと出のベンチャーに、来てくれよ、一緒に頑張ろうと言われ内定もらっても、旧勢力の方に行ってしまうことはあるはずだ。日本の銀行、日本の政策、あるいは金融庁の金融指導に問題があったのはその通りだが、日本は試行錯誤を許さない面も強い。1回失敗したらなかなか浮上できないような社会のあり方、企業組織のやり方がある。ベンチャーには千三という言葉があり、一千回やって三つあたれば御の字という意味だ。アメリカのベンチャーに何故お金が行くのか?金を持っている人がいて、千投資をして三つOKでもいい、面白いから投資するといったことが行われているからだ。

 日本の経済は残念ながらそこまでは豊かになっておらず、そこまでなかなか金が回らない。今は、例えば商社、KDDI、日立、ホンダなどが、口を出さず千のうち三つ成功すればいい分野に、お金の一部を選り分けるようにはなった。日本社会全体として、試行錯誤を許さないような風土では、若い企業が育たない。

 もう1つ日本の弱点は、IPOをやったらそこで終わってしまう人が多いことだ。大きい会社にならない。何か新しいことを思いついて、ビジネスを起こし、東証に上場する。未公開株を持っているところに値段がついて金持ちになる。そこでゲームオーバーにし、企業をさらに大きくする人が少ない。

 オイシックスの高島社長は「売上高を1桁増やすためには、いろいろに階段がある」と言う。「100億、1000億、1兆円と売り上げを増やす段階で、それまでと同じ事をやっていたのでは企業は拡大しない」と。Appleも最初はガレージでパソコン作り始めたところから生まれた。階段を上るためには、経験のあるさまざまな新たな人材を入れる必要がある。日本は試行錯誤も、リスクを取ることも奨励してこなかった。同時に、ちょっと成功したらもうこれでいいやと思う人が多かったところにも問題がある。

 以上のことは日本でもずっと議論になってきた。古い企業でも失業しなければいいとみんなが思っているときに、いやダメだ、リスクを取って新しいビジネスに挑戦しようと言っていても、例えば両親や学校の先生に就職先を相談したときに何と言われるか、という点から変えていかないとアメリカのようなダイナミックなケースにならない。あるいは中国のようなダイナミックな経済にはならない。我々の世代はそんな社会を作ってしまった責任を感じる。若い力がそこは少しずつでもいいから直してほしい。

 もう一点、いい人材は、古いタイプの企業に入社しても3、4年経つと辞めるケースが増えている。彼らはベンチャーに行くことが増えた。失敗が許されない文化で百年運営している会社の中で、あれが駄目これが駄目、お前は間違えただろうといったことを3年言われれば、嫌になってしまう人が出てきても仕方がない。魅力的に映るのは、意味のないことで怒られたりしない会社だ。ベンチャーは、雇用は不安定かもしれない。だが働き手にとっては、仕事は面白い方が良い。

日本企業・時価総額トップ30社(2023年6月)

 [出所]strainerデータベースより雲河都市研究院作成

■ 国際金融マーケットの整備を


神津:日本の証券市場に何が起きているのかと言うと、日本国内の金融市場のルールを、ニューヨークやロンドンに近いものにしようとしている。規制を部分的にやめて、さまざま金融取引を自由化してきたのがもう一つ。それから、日本国内でアメリカやイギリスの銀行、証券も活動できるようにしていく。非居住者も居住者と同じような活動ができるようにしたことがこの三つ目のトレンド。ほとんどやり尽くし東京のマーケットの国際化は形としては成し得た。

 では、なぜアメリカの銀行、ヨーロッパの銀行が入ってこないのか。それは失敗したくない日本人の国民性にも関係している。日本のポートフォリオ、つまり日本の家計がもつ金融資産の合計は2000兆円を超している。その中の半分以上が現預金だ。アメリカではたった13%、英国では30%だ。日本の銀行がまだ力を持っているため外国の証券や銀行が入ろうとしてもビジネスチャンスが日本においてはない。日本は金融資産立国を目指しているが、私の考えでは英国タイプになるだろう。アメリカ国民の多くが個別株を持っているが、日本人には投資信託、年金などに積み立てる方が合っているのだろうか。貯蓄から投資へ日本人の行動が変わっていけば、外国の証券会社もチャンスがあるので入ってくる。

 インベストメント・チェーンと政府が呼んでいることで、金融機関はアドバイスをし、アドバイスをされる側も勉強し、一体自分は何のために金融資産を形成し、何歳でいくらぐらいの金融資産がどういう目的で欲しいのかを自分でも考えてみる。個別株を持つのは大変だとすると、投資信託や年金基金にお金を預ける。良い資産運用、アセットマネジメントの会社に、資産の運用を頼むようにする。一方で、投資される企業は、株主の利益を意識し、無駄なお金を定期預金で積み上げず、株配当として還元し、賃金として還元する行為が一体となって、資産運用立国が出来上がるという考え方だ。若い人も考えることが大事だ。自分で10年後20年後30年後にこういう目的でお金がいるから資産を作りたい、定期預金やNISAなど比較をしながら、自分のポートフォリオを考えることだ。

 東京都は、国際金融都市構想を立ち上げている。東京で活動する企業が沢山あれば都は税収が得られる。東京都が今おそらく一番力を入れているのは東京を英語で暮らして不便がないような都市にすることだ。子供の教育や、病気になったときの医療サービス、あるいは市役所、区役所での手続きを欧米並みに簡潔化し英語が可能な環境にし、海外の人たちを呼び込んで金融都市を作る国際金融都市構想だ。

周:東京都のこの構想はたいへん良い。だがこれは東京だけではやれない。香港のマーケットの時価総額が1997年から大きく伸びた。中国の内陸の企業をたくさん上場させたからだ。香港には世界中からお金が集まる。東京は、世界中からお金を呼び寄せるためにアジアから元気のいい企業を呼び込み、アジアの企業を次々上場させることだ。東京の立地条件は素晴らしく、これにより高い成長が有り得ると私は思う。アジアの企業が成長してアメリカでなく、東京を目指すときに、日本の繁栄がもう一度来る。

 私は中国にある日中の合弁会社の世話してくれと言われ、行ってみたら、最初は全然話にならなかった。日本の本社とのコミュニケーションはうまく取れておらず、取締役会もペーパーすら出てこなかった。どうたて直したか?私はこの企業に、北京の新三版という中小企業にとって上場し易いマーケットに上場するようアドバイスした。その結果、証券会社が来て企業を指導し、同社の経営スタイルは大きく変わった。これも金融市場の一つ重要な役割だと思う。

 日本のスタートアップ企業が1回上場してゲームオーバーするのは、マーケットに問題があるからだ。上場するのにエネルギーを使い果たしてしまう。また、上場を維持するのも大変だ。東証がマーケットのあり方を改革するだけで、大きな可能性が出てくるだろう。 

神津:特区を作り、日本のルールとは違うマーケットを作れば、今の問題は一気に解決する。それを実現するためには、英語が通じる都市になる必要がある。片言でもいい。発音もアクセントが正しければ通じる。英語をコミュニケーションの普通の言葉として使えるようにしていくことだ。

講義をする神津氏と周牧之教授

プロフィール

神津 多可思(こうづ たかし)/日本証券アナリスト協会専務理事

 1980年東京大学経済学部卒、同年日本銀行入行。金融調節課長、国会渉外課長、経済調査課長、政策委員会室審議役、金融機構局審議役等を経て、2010年リコー経済社会研究所主席研究員。リコー経済社会研究所所長を経て、21年より現職。主な著書に『「デフレ論」の誤謬 なぜマイルドなデフレから脱却できなかったのか』『日本経済 成長志向の誤謬』(いずれも日本経済新聞出版)がある。埼玉大学博士(経済学)。

【寧波】港湾機能をベースとした製造業スーパーシティ【中国都市総合発展指標】第14位

中国都市総合発展指標2022
第14位



 寧波は中国都市総合発展指標2022総合ランキング第14位であり、前年度の順位を維持した。

 「経済」大項目は第12位で、前年度の順位を維持した。3つの中項目で「経済品質」は第11位、「発展活力」および「都市影響」は第13位で、3中項目のうちトップ10入りした項目はなかった。小項目では、「開放度」「経済構造」は第10位と、9つの小項目のうち2項目がトップ10に入った。なお、「経済規模」「広域中枢機能」は第11位、「経済効率」は第13位、「ビジネス環境」「イノベーション・起業」は第16位、「広域輻射力」は第18位、「都市圏」は第19位と、9つの小項目のうちすべての項目がトップ20に入った。

 「社会」大項目は第18位で前年度の順位を維持した。3つの中項目で「生活品質」は第16位、「ステータス・ガバナンス」は第21位、「伝承・交流」は第23位、3中項目のうちトップ10入りした項目はなかった。小項目で見ると、9つの小項目のうち、トップ10入りした項目はなかったものの、「居住環境」は第13位、「文化娯楽」は第15位、「社会マネジメント」「消費水準」は第18位と、4項目がトップ20に入った。なお、「生活サービス」は第24位、「都市地位」「人口資質」「人的交流」は第32位、「歴史遺産」は第33位であった。

 「環境」大項目は第25位で、前年度より順位を4つ上げた。3つの中項目のうち「空間構造」は第23位、「環境品質」は第60位、「自然生態」は第70位であった。9つの小項目のうち、トップ10入りした項目はなかったものの、「都市インフラ」は第17位と、1項目がトップ20に入った。なお、「環境努力」は第22位、「コンパクトシティ」は第26位、「交通ネットワーク」は第30位、「気候条件」は第68位、「資源効率」は第72位、「自然災害」は第81位、「汚染負荷」は第101位、「水土賦存」は第205位であった。

■ 古くからの一大貿易拠点都市


 寧波は、浙江省の東部に位置する計画単列市であり、中国東部沿岸の重要な港湾都市である。2021年までに、寧波は6つの区、2つの県級市、2つの県を管轄し、総面積は9,816平方キロメートル(青森県と同程度)である。寧波は雨量が多く、亜熱帯モンスーン気候に属し、温暖湿潤で、四季がはっきりしている。

 地理的に、東は舟山群島が点在し、西は紹興市、南は台州市と隣接している。海岸線が長く、その総延長は1,594キロメートルにも達し、大小614の島を有している。

 寧波は7000年前の稲作文化として名高い「河姆渡新石器遺跡」を有し、また秦の時代、徐福の大船団が寧波から出発した伝説がある。唐の時代、寧波はすでに揚州や広州と並ぶ中国三大貿易港の一つとなっていた。

 1127年に南宋が杭州に都を置いた後は、寧波の地理的な重要性が更に高まり、杭州の対外貿易のほとんどを担うようになった。この時代に寧波は、広州、泉州と並ぶ対外貿易の三大港の一つに数えられていた。

 しかし、明朝初頭に、倭寇や海賊対策のため、寧波は重要な海防基地となった。政府から遠洋舶の製造が禁止され、沿海部の貿易が厳しく制限されて寧波の経済発展が後退した。

 1545年に、ポルトガルが寧波で貿易活動を展開しはじめ、最初は密貿易であったが、1567年以後、公的な貿易も行うようになった。その後、オランダやイギリスからも商人が相次ぎやってきて、寧波は再び一大貿易拠点都市となった。

■ 群を抜く港湾能力


 現在、寧波は港湾機能中枢都市の地位をより高め、2022年に寧波―舟山港のコンテナ取扱量は世界第3位を誇っている(詳しくは、「【ランキング】世界で最も港湾コンテナ取扱量が多い都市はどこか?」を参照)。

 寧波―舟山港は中国の一大鉄鉱石中継基地、原油・石炭輸送基地、穀物輸送基地である。寧波は240以上の国際航路で、100以上の国・地域とつながっている。

■ 民営経済の活力をベースに


 改革開放以降、寧波経済は活力に満ちている。その原動力は民営経済である。寧波は、中国商人発祥の地とも呼ばれ、上海人の1/4は寧波出身者と言われている。また、寧波は華僑の故郷としても有名で、30万人以上の寧波人が世界50以上の国と地域に居住している。海外の寧波人は、寧波市と世界を結ぶ重要な架け橋となっている。

 2022年末までに、寧波には香港、上海、深圳の三大メインボードに上場する企業が89社立地し、中国で第9位の規模を誇っている。現在、寧波GDPの80%以上が民営経済によって生み出されている。

 2022年、寧波の地域内総生産(GDP)は1兆5,704億元(約31.4兆円、1元=20円換算)で、中国第12位であった。成長率は、前年比3.5%であった。一人当たりGDPは16万3,280元(約327万円)で、中国第14位だった(詳しくは「【ランキング】世界で最も経済リカバリーの早い国はどこか? 中国で最も経済成長の早い都市はどこか?」を参照)。

■ 人口吸収でメガシティが目前に


 経済成長が人口を吸引し、2022年末の常住人口は約962万人で中国では第21位の人口規模であった。人口の流出入を示す「流動人口(非戸籍常住人口)」では、浙江省内11都市のうち9都市は、外部から人口が流入している。寧波は、流入人口が杭州とほぼ同等で約336万人であり、全国から多くの人口を吸い上げている。よって寧波は中国第12位の人口流入都市となっている。寧波は人口1000万人を超えるメガシティになるのも時間の問題だ。

■ 製造業スーパーシティとしての発展


 寧波は、港湾と民間活力をベースに現在、一大製造業スーパーシティに成長した。「中国都市製造業輻射力2022」では寧波は中国で第5位。2022年、同市の工業付加価値は6,682億元(約13.4兆円)を達成し、前年比で3.3%の増加となった。輸出総額も前年比8%増の8,231億元(約16.5兆円)で、中国第5位(詳しくは「【ランキング】中国で最も輸出力の高い都市はどこか?」を参照)。

 製造業の成長に伴い、科学技術への投資も大きく拡大している。「中国都市科学技術輻射力2022」で寧波は中国第9位であり、トップ10にランクインした。「R&D人員」は中国第9位、「特許取得数指数」は中国第16位、「国際特許取得総数」は中国第12位と、科学技術力を測る多くの指標が高い成績を収めている。その結果、市内にユニコーン企業が2社立地し、その企業価値は1,060億ドル(約21.2兆円)に達している。


【西安】一帯一路で甦る古都長安のパワー【中国都市総合発展指標】第13位

中国都市総合発展指標2022
第13位



 西安は中国都市総合発展指標2022総合ランキング第13位であり、前年度の第12位から、順位が1つ下がった。

 西北地域の中心都市として「社会」大項目は第9位で、前年度に比べ順位が1つ下がった。3つの中項目で「ステータス・ガバナンス」「伝承・交流」は第8位でトップ10入りし、「生活品質」は第14位だった。小項目で見ると、「歴史遺産」は第2位、「社会マネジメント」は第5位、「人口資質」「人的交流」は共に第9位、「都市地位」は第10位と、9つの小項目のうち5項目がトップ10に入った。なお、「居住環境」は第11位、「生活サービス」「文化娯楽」は第12位、「消費水準」は第15位であった。西安市内に最高等級病院「三甲病院」は26カ所で、その規模は中国第8位である。医療従事者は12.3万人で、そのうち医師は4.3万人と中国第12位の規模を持つ。

 「経済」大項目は第14位であり、前年度の順位を維持した。3つの中項目で「発展活力」は第12位、「都市影響」は第17位、「経済品質」は第20位で、3項目のうちトップ10入りした項目はなかった。小項目では、「広域輻射力」は第9位と、9つの小項目のうち1項目がトップ10に入った。なお、「イノベーション・起業」は第12位、「経済規模」「経済効率」は第16位、「広域中枢機能」は第19位、「ビジネス環境」「経済構造」は第21位、「都市圏」は第24位、「開放度」は第83位であった。

 「環境」大項目は第57位で、3つの中項目のうち「空間構造」は第14位、「環境品質」は第160位、「自然生態」は第195位であった。9つの小項目のうち、「環境努力」は第6位と、1項目だけがトップ10に入った。「交通ネットワーク」は第13位、「コンパクトシティ」は第16位、「都市インフラ」は第20位と、3項目がトップ20に入った。

 なお「資源効率」は第91位、「自然災害」は第103位、「気候条件」は第173位、「水土賦存」は第189位、「汚染負荷」は第276位であった。2021年のPM2.5年間平均濃度は51.3マイクログラム/標準立方メートルで、前年より8.6ポイント悪化し、全国順位は第292位と芳しくない。二酸化炭素の排出量も多く、その規模はワースト30位と落ち込んでいる。西安市政府はその現状を打破するため、環境改善に向けた努力に多くのリソースを注いでおり、「環境努力指数」は第5位と善戦している。

■ 西北地域の最大都市


 西安は陝西省の省都で、中国西北地域の政治・経済・文化の中心地である。古くは長安や鎬京と呼ばれ、関中平原メガロポリスの中心都市となっている。2021年末現在、西安市は11区と2郡を管轄し、東西は204キロメートル、南北は116キロメートルにわたり、面積は10,752平方キロメートル(岐阜県と同程度)で中国第170位である。

 西安は紀元前11世紀からから約2,000年の間、秦、漢、隋、唐など13の王朝の都として栄えてきた。1981年に国連教育科学文化機関(ユネスコ)が選定した世界十大古都の一つに数えられている。西安は中華文明の重要な発祥地であり、シルクロードの起点でもある。

■ 豊かな自然資源の恵み


 西安は中国の北西部、関中平野の中央に位置し、北は渭河、南は秦嶺山脈に囲まれ、地理的な境界が明確な都市である。8つの河川が潤すことから、古くから「八水繞長安」と評されている。

 市内の海抜変化は大きく、中国で最も高度差が激しい地域である。秦岭山脈の海抜は2,000〜2,800メートルで、中でも最南西部にある太白山の最高峰は海抜3,867メートルあるのに対して、渭河平原の海抜は400〜700メートルとなっている。

 秦岭山脈には、高山の灌木草地、針葉樹林、針広葉混交林、落葉広葉樹林などの自然植生タイプが垂直に分布している。秦岭山脈は野生植物資源の宝庫であり、138科681属2224種の野生植物が存在し、中国の種子植物の重要な遺伝資源庫の一つである。また、野生動物資源も多く生息し、哺乳類55種、鳥類177種が含まれ、その中にはジャイアントパンダ、金絲猴、扭角羚秦岭亜種、スマトラカモシカ、オオサンショウウオ、黒鶴、白冠長尾雉、血雉、金雞などの希少動物も含まれている。自然生態系と珍種動植物資源を保護するため、3つの国家級自然保護区が設けられている。西安の「国家公園・保護区・景観区指数」は中国第21位である。

 西安は暖温帯の半湿潤大陸性季風気候に属し、寒暖、乾湿の差があり、四季がはっきりしている。年平均気温は13℃、年降水量は600-650ミリメートルで、その大部分が夏季に集中している。「気候快適度」は中国第173位、「降雨量」は中国第195位である。

■ 内陸部の一大消費地


 2021年における西安の地域内総生産(GDP)は1兆688億元(約21.4兆円、1元=20円換算)で、中国第24位であった。成長率は、前年比4.1%増、過去2年の平均成長率は4.6%であった。その中で、第一次産業GDPは308億元(約6,160億円)で6.1%増、第二次産業GDPは3,585億元(約7.2兆円)で0.9%増、第三次産業GDPは6,794億元(約13.6兆円)で5.7%増であった。一人当たりGDPは8万3,689元(約167万円)で、中国第91位だった(詳しくは【ランキング】世界で最も経済リカバリーの早い国はどこか? 中国で最も経済成長の早い都市はどこか?を参照)。

 住民消費価格(CPI)は前年比1.7%上昇し、商品小売価格は1.4%上昇した。新築住宅の販売価格は7.5%上昇し、中古住宅の販売価格は6.3%上昇した。

 企業の小売売上動向を示す社会消費品零售総額は4,963億元(約9.9兆円)で、前年比0.8%増であった。その中で、内訳がわかる限度額以上企業の小売売上高は2,420億元(約4.8兆円)で、前年3.8%減少した。

 西安の消費力は西北部地域で群を抜いて高く、「国際トップブランド指数」では深圳、広州などを抑えて中国第5位にランクインしている。

■ 内陸部三大貿易地の一つ


 2022年における西安の輸出入総額は前年比3%減の4,380億元(約8.8兆円)で、中国第21位であった。うち輸出総額は前年比16.7%増の2,748億元(約5.5兆円)で、中国第22位。輸入総額は前年比19.6%減の1,632億元(約3.3兆円)で、中国第21位であった。これは成都、鄭州に続く内陸都市としての好成績である(詳しくは【ランキング】中国で最も輸出力の高い都市はどこか?を参照)。

■ 一大人口吸収都市


 2022年末の常住人口は約1,300万人で中国第9位であった。人口の流出入を示す「流動人口(非戸籍常住人口)」では、陝西省内10都市のうち9都市は、外へ人口が流出している。これに対して西安は、流動人口が約317万人の大幅プラスであり、周辺から多くの人口を吸い上げている。よって西安は中国第13位の人口流入都市となっている。

■ 西北地域における航空、鉄道の中枢


 西安は中国西北部の重要な交通ハブを担っている。その機能は一帯一路政策によってさらに強化されている。

 中国都市総合発展指標の「空港利便性」項目で西安は中国第9位、航空旅客数も第9位である(詳しくは【ランキング】中国で最も空港利便性が高い都市はどこか?を参照)。

 「鉄道利便性」は中国第18位、「高速鉄道便数」も第18位で、「準高速鉄道便数」は第4位であった。


■ 中国トップクラスの観光都市


 西安は中国屈指の観光地である。市内には現在、秦始皇陵、兵馬俑、大雁塔、小雁塔、唐長安城の大明宮遺跡、漢長安城の未央宮遺跡、興教寺塔などの世界遺産があり、その他にも西安城壁、鐘楼・鼓楼、華清池、終南山、大唐芙蓉園、陝西歴史博物館、碑林などの著名な観光地を有している。その結果、中国都市総合発展指標の「世界遺産」において、西安は中国第5位、「無形文化財」は第6位、「重要文化財」は第10位と高順位を誇る。

 こうした文化遺産に魅了された観光客が毎年大勢国内外から同市を訪れている。中国都市総合発展指標の「国内観光客」で、西安は第5位、「国内観光収入」は第9位となっている。

■ 文化・娯楽都市としての輝き


 内外の観光客を惹きつけているのは、文化遺産だけではない。西安は文化・娯楽も盛んな都市である。中国都市総合発展指標の「文化・スポーツ・娯楽輻射力」で中国第9位となっている。

 文化面では、市内には博物館(民間のものを除く)が136館あり、「博物館・美術館指数」は中国第8位、「動物園・植物園・水族館」は中国第15位である。公立図書館は14カ所あり、その蔵書量は中国第30位を誇る。コンベンション産業の発展度合いを示す「展覧業発展指数」は中国第14位であった。

 娯楽面では、「映画館・劇場消費指数」が中国第13位である。スポーツ面では、「スタジアム指数」は第100位に甘んじているものの、西安からはオリンピック金メダリストが4名排出され、「オリンピック金メダリスト指数」は中国第20位となった。

■ 名門大学が数多く立地


 新中国成立以来、西北の中心地である西安に、多くの大学が置かれた。西安交通大学、北西理工大学、西安電子科技大学など7つのトップクラスの大学が立地している。

 中国都市総合発展指標の「高等教育輻射力」で西安は中国第6位を誇り、高等教育機関(大学・専門学校)は63校で、学生は78.4万人で中国第7位。

 大学が数多くあることで、西安は人材輩出の豊富さを示す「傑出人物排出指数」で中国第9位に輝いている。また、国家を代表する研究者の排出数を示す「中国科学院・中国工程院院士指数」は第4位と、中国トップクラスの順位である。他方、住民の教育水準を示す「人口教育構造指数」も第7位である。


【廈門】魅力あふれる貿易拠点都市【中国都市総合発展指標】第12位

中国都市総合発展指標2022
第12位




 廈門は中国都市総合発展指標2022総合ランキング第12位であり、前年度より順位を1つ上げた。

 「環境」大項目は第4位で、前年度より順位を2つ上げた。3つの中項目のうち「空間構造」は第6位、「環境品質」は第11位、「自然生態」は第61位と、2項目がトップ20に入った。9つの小項目のうち、「コンパクトシティ」は第5位、「交通ネットワーク」は第9位と2項目がトップ10に入った。また、「汚染負荷」は第20位、「都市インフラ」は第23位、「環境努力」は第29位と、3項目がトップ30に入った。なお、「資源効率」は第35位、「気候条件」は第39位、「自然災害」は第219位、「水土賦存」は第295位であった。

 「社会」大項目は第13位で、前年度より順位を2つ上げた。3つの中項目で、「伝承・交流」は第12位、「生活品質」は第13位、「ステータス・ガバナンス」は第16位と、3項目すべてがトップ20に入った。小項目で見ると、「人的交流」は第7位と、1項目だけがトップ10に入った。また、「消費水準」は第11位、「居住環境」は第14位「人口資質」は第15位、「生活サービス」「社会マネジメント」は第19位、「文化娯楽」は第29位と、6項目がトップ30に入った。なお、「都市地位」は第34位、「歴史遺産」は第43位であった。

 「経済」大項目は第19位で、前年度の順位を維持した。3つの中項目で、「発展活力」は第16位、「都市影響」は第17位、「経済品質」は第25位と、3中項目のうちトップ10入りした項目はなかったものの、すべてトップ30入りを果たした。9つの小項目のうち、「広域中枢機能」は第9位、「ビジネス環境」は第10位で、2項目がトップ10入りした。また、「経済効率」は第11位、「開放度」は第15位、「イノベーション・起業」は第22位、「広域輻射力」は第23位、「経済構造」は第24位、「都市圏」は第27位と、6項目がトップ20に入った。なお、「経済規模」は第40位だった。


■ 小さくても輝く海上の花園


 廈門市は、福建省の東南端に位置する副省級市、計画単列市であり、経済特区に指定された中国南東部沿岸の重要な中心都市である。また、粤閩浙沿海(広東・福建・浙江)メガロポリスの中核都市である(粤閩浙沿海メガロポリスについて詳しくは中心都市がメガロポリスの発展を牽引を参照)。

 同市の総面積は1,701平方キロメートルに過ぎず、中国297地級及びそれ以上の都市(日本の都道府県に相当)のうち、下から四番目の294位の大きさである。省都の福州市と比較すると、約七分の一の大きさである。なお、47都道府県で最も面積が小さい香川県の面積が1,877平方キロメートルであり、廈門は香川県より1割程度小さい。

 一方、常住人口は約531万人で中国第82位、「人口密度」は1平方キロメートル当たり3,121人で中国第4位の高密度都市である。

 廈門は福建省の沿海部に位置し、漳州市、泉州市と接している。亜熱帯モンスーン気候で、年平均気温が21℃、温和かつ多雨の気候を享受する美しい臨海都市である。「気候快適度」は中国第24位である。

 同市は多くの島嶼を有し、風光明媚な景観に恵まれ、古来より「海上花園」とも呼ばれている。

■ 五口通商から経済特区へ


 廈門は600年以上の歴史を持つ廈門港を有し、宋朝以来、泉州港の補助港口としての役割を果たしていた。元朝で軍港に変貌し、明朝には商業貿易の拠点として躍進を遂げた。鄭成功父子の時代には、海外貿易の中心港となり、茶の輸出で一大拠点となった。1684年には清の海関が設置され、廈門港が正口の一つとされた。康熙年間には、福建出洋の総口となり、福州や泉州を凌ぐ地位を確立した。

 1842年、南京条約の締結により、廈門は広州、福州、寧波、上海と並び「五口通商」の一つに数えられた。貿易の窓口として、教会、病院、学校、外国銀行などが建設され、早くから西洋文化に染められた稀有な都市でもある。

 1980年、厦門は深圳、珠海などと共に経済特区に指定された。以来、急速な発展を続けている。

■ ウズベキスタン一国に匹敵する経済規模


 2022年、廈門のGDPは7,803億元(約15.6兆円、1元=20円換算)に達し、福建省内で福州市、泉州市に次ぐ第三位の経済規模である(詳しくは【ランキング】世界で最も経済リカバリーの早い国はどこか? 中国で最も経済成長の早い都市はどこか?を参照)。

 その経済規模は、中国第31位であり、世界第58位のウズベキスタンのGDPに匹敵する。「一人当たりGDP」の成績はさらに良く、中国第19位と福建省内で最も高い。

 廈門の「人口自然増加率」は中国第4位で、2015〜2022年の平均増加率は12.1‰と極めて高い。非戸籍常住人口を示す「流動人口」では、廈門は約245万人に達し、中国第17位の人口流入都市となっている。結果、同市の「生産年齢人口率」は中国第9位であり、その数値は72.9%と、廈門には圧倒的に若い活力が溢れている。

■ 深水港を盾にしたスーパー製造業都市


 廈門市は深水港を盾に港湾機能を強化してきた。2022年に漳州港を含む廈門港のコンテナ取扱量は1,244万TEUを達成し、中国第7位にランクインした(詳しくは、【ランキング】世界で最も港湾コンテナ取扱量が多い都市はどこか?を参照)。同年の貨物取扱量は2.2億トンで、世界第14位である。

 廈門の製造業も高度に発展し、中国第11位の「製造業輻射力」の実力を持つスーパー製造業都市となった(詳しくは【ランキング】中国で最も輸出力の高い都市はどこか?を参照)。

 さらにIT産業も発展を遂げており、「IT産業輻射力」は中国第12位である。

 産業発展の背後には研究開発への投資が欠かせない。廈門の「科学技術輻射力」は中国第20位である(詳しくは【ランキング】科学技術大国中国の研究開発拠点都市はどこか?)。

 現在、同市は中国政府が推進する「一帯一路」における21世紀海上シルクロードの戦略的要衝都市となっている。また同市は、アジアとヨーロッパを結ぶ「中欧班列(ユーラシア横断鉄道)」にも接続している。


■ 鼓浪嶼-建築とピアノの島


 鼓浪嶼は廈門市の沖合に浮かぶ面積2平方キロメートル未満の島で、廈門の都市発展をものがたっている。清朝末期には、鼓浪嶼に公共租界が設けられた。その為、多くの西洋建築や「騎楼」と呼ばれる華僑による建築物が残され、「万国建築博物館」と称される。2017年に「鼓浪嶼国際歴史社区」は世界文化遺産に正式登録された。

 建築だけでなく、西洋音楽も植え付けられた。鼓浪嶼には600台を超えるピアノがあり、世界最古のスクエアピアノや最初で最大のアップライトピアノを保有する専門博物館があるだけでなく、数多くのピアノ演奏者や音楽家を輩出している。鼓浪嶼が生んだ音楽家たちは毎年音楽祭で故郷に戻り、各種コンサートを開いている。

■ 華僑文化 – 騎楼


 廈門は西洋の文化を受け入れただけでなく、華僑がもたらした東南アジアの文化も色濃く残している。中でも南洋の風情漂う騎馬楼建築が際立っている。

 騎楼建築は、「南洋貿易」に密接に関連している。近代、南洋貿易の拡大で福建省から多くの人々が「南洋」と呼ばれる東南アジアへ渡った。騎楼は帰郷した華僑によって建設された。騎楼の大規模建設は1920〜30年代に集中している。騎楼は典型的な外廊式建築で、通り側には商店が並び、廊下は日よけと雨避けの機能を果たし、背街側には民家が立ち並ぶ。

 特に旧市街区や中山路には、1920年代の騎楼が多数残り、百年の歴史文化を誇る街として、観光客を魅了している。

■ 観光都市発の新世代コーヒーチェーンブランド – ラッキンコーヒー(瑞幸咖啡)


 廈門の観光業は福建省で最も成功し、国内外からの観光客が、2019年には1億人を超えた。新型コロナウイルスの影響により大きな打撃を受けたものの、2022年の訪問者数は2019年の64.6%まで回復している。

 近年この観光都市から、ラッキンコーヒーという革新性に富んだコーヒーチェーンが生まれた。2023年9月、白酒の茅台とのコラボレーションによる「醤香ラテ」の全国発売が大きな話題を呼んだ。初日に542万杯以上が売れ、売上高は1億元を超えた。廈門に本部を置くこの企業は、2017年に北京銀河SOHOで初の店舗を開業し、その後わずか18カ月でアメリカのナスダック(NASDAQ)に上場した。2020年6月には財務不正問題で退場を余儀なくされたものの、退場から21カ月で黒字化を実現し、逆境を乗り越えた。

 ラッキンコーヒーは、スターバックスと違い、カフェにある社交の場を提供せず、座席もなく、限られた空間で一日に数百杯を売り上げる。ラッキンコーヒーは消費者がアプリやミニプログラムを通じて注文し、店舗で受け取る「インターネットコーヒー」のモデルを確立し、オンラインとオフラインのハイブリッドを実現し、成功している。

 2023年10月末時点で、ラッキンコーヒーの国内店舗数は1万3,000店を超えた。店舗数、営業収入において、20年以上中国市場で事業を展開するスターバックス・チャイナを上回る。

 2023年、ラッキンコーヒーは、全世界のユニコーン企業1,360社の中で130位にランクインし、評価額は400億ドルに達している。

 起業精神旺盛な廈門の「ユニコーン企業」は中国第18位となっている。盛んな飲食業と観光業により、「ホテル飲食業輻射力」は中国第8位と、トップ10入りを果たしている。


【対談】小島明 Vs 周牧之(Ⅱ):ムーアの法則駆動時代をどう捉えるか?

2023年12月7日、東京経済大学でゲスト講義をする小島明氏

■ 編集ノート:

 小島明氏は、日本経済新聞社の経済部記者、ニューヨーク特派員・支局長、経済部編集委員兼論説委員、編集局次長兼国際第一部長、論説副主幹、取締役・論説主幹、常務取締役、専務取締役、日本経済研究センター会長、政策研究大学院大学理事を歴任、日本記者クラブ賞、ボーン・上田記念国際記者賞を受賞。新聞協会賞を共同受賞。

 東京経済大学の周牧之教授の教室では、リアルな学びの一環として第一線の経営者やジャーナリスト、官僚らをゲスト講師に招き、グローバル経済社会の最新動向を議論している。2023年12月7日、小島明氏を迎え、講義をして頂いた。

※前半はこちらから


ムーアの法則駆動時代に遅れをとった日本


小島:スイスの研究機関IMDが、毎年国別デジタル競争力ランキングを出している。日本のデジタル競争力は、最新データで30位に入ってない。昨年は28番、今年は32番まで落ちた。

周:その理由は?

小島:今のシステムを変えず、部分的に運用を変えているだけだからだ。時代のニーズ、マーケットに合わせシステムそのものを変えないとうまくいかない。

 例えばマイナンバーカードが普及しない理由は便利でないからだ。「マイナンバーカードがあれば、コンビニで住民票や印鑑証明を出せる」というが、ほとんどの国は住民票、印鑑証明などの書類はすでに必要ない。自分のIDナンバーを入れれば自動的に行政手続きを済ませられる。デジタルで行政手続きができるか否かの比較をOECDで実施したら、30数カ国の行政手続きのうち6割は全部ネットだけで出来た。日本はメキシコより下位だ。紙をプリントアウトし束ねて印鑑を持って役所へ行かなくてはならない。

 韓国も日本よりデジタル化が進んでいる。韓国は1998年に財政が破綻しデフォルトになりかけてIMFが介入した。予算は減り赤字が膨らみ役人の数を減らしたが、行政ニーズはあるため残業しても追いつかない。そこでデジタル化を進めた。書類への署名や発行がなくなり全部ネットでできる。

周:1980年代の初め、アルビン・トフラーの『第三の波』が出た当時大学生だった私は、読んで興奮した。凄かったのは、トフラーの未来社会予測がほとんど当たったことだ。素晴らしい想像力だった。

 私は工学出身でベースはITだ。その世界にはムーアの法則がある。後にインテル社の創業者のひとりとなるゴードン・ムーアは1965年、半導体集積回路の集積率は18カ月間(または24カ月)で2倍になると予測した。これがトフラーの未来社会予測の想像力の源泉だった。

 ムーアの法則を信じ、多くの技術者出身の企業家がリスクテイクして半導体に投資し続けた結果、半導体はほぼムーアの法則通りに今日まで進化した。結果、世の中は急激に変化した。

 私は、この間の人類社会は「ムーアの法則駆動時代」だと定義している。しかし、日本では、高級官僚も大企業の役員も法学部出身者が多く、世の中が日々著しく変わることが理解できない。規制と人事で世の中を動かそうとしている。

小島:依然として日本は、成功体験だった20世紀型産業経済、ものづくり経済を続けようとしている。当時日本はアメリカの自動車産業を脅かす程ものづくりをした。イギリスの産業革命から始まったものづくり競争の最終段階で、日本は一応成果を収めた。ところが、ピークに至ってムーアの法則が生きる情報社会になり、新しいパラダイムが始まったにもかかわらず日本は20世紀型産業のままいこうとした。今のアメリカのスタートアップ企業は企業価値の7割は無形資産だ。日本は7〜8割は有形資産で、もの中心だ。

 日本はバブル崩壊で七転八倒した金融危機の1995年あたりが、グローバルに見てインターネット元年だった。アメリカと日本の経済競争も、アメリカは自動車等ものづくりの世界では日本にかなりやられたが、デジタル、情報サービスという新しい世界でスタートアップできた。これに対してドラッカーは「日本は終わった戦争を依然として戦っている」と言った。

アルビン・トフラー(1982)『第三の波』中公文庫

■ ムーアの法則駆動産業になった自動車産業が大変貌


周:問題は、ものづくりもムーアの法則に染められてしまうことだ。電子産業はまさしく最初にムーアの法則駆動産業になった。電子産業は1980年代以降、世界で最も成長が速く、サプライチェーンをグローバルに展開する産業となった。電子産業のこうした性格が、アジアの新工業化をもたらした。これを仮説に私は博士論文を書いた。

 今や、電気自動車(EV)もムーアの法則駆動産業になった。猛烈なスピードで進化している。ガソリン車の王者であるトヨタは最高益を更新しているが、実際は大変なピンチだ。 

小島:完全にトヨタが読み違った。バッテリーが弱いからEVは売れないと思っていたがイノベーションが進んだ。今なって投資し、企業を買収している。実際にEVを大量生産できるのは2026年と言うのでだいぶ先の話だ。

周:EVのこれからの主戦場はバッテリーよりAI駆動の自動運転だ。テック企業のバックグラウンドがあるテスラや、小米、華為など自動車新勢力はこの分野に賭けて莫大な投資をしている。旧来の自動車メーカーにとってそこまで理解できているか否かが将来を左右する。

小島: iPadの値段を例えば500ドルとする。500ドルで売ったものをどの国がどう手に入れているか。重要な部品をドイツと韓国と日本が作る。部品がなければ製品はできない。だが部品を全部合わせて161ドルだ。中国は大量に作っているから、掛け算すると収入は多いように見える。だが、取り分は1台あたり6ドルだ。収入の大半はデザインしたアメリカへ行ってしまう。製造業に絡むスマイルカーブは今、急速に進み、デザインをしたところが儲かっている。

周:いまは大分状況が変わっている。華為がiPhone15の対抗馬として2023年9月8日に発売したMate 60 Proは主要な半導体からOSまで全てが国産になっている。

 電気自動車では、さらに中国がリードしている部分が多い。中国自動車産業の新勢力はEVの一番大切な部品であるバッテリーの競争力を非常に重視している。現在、世界で車載バッテリーの主導権を最も握っているのは中国企業だ。昨年テスラを超え、EVの世界最大手になったBYDは元々バッテリーメーカーだった。前述したようにEVの究極の生命線は、自動運転だ。そこも中国企業がテスラとしのぎを削っている。さらに、華為も小米もBYDも、ブランドとデザインを重視している。そして周辺の部品産業に投資し、コントロールできるようなサプライチェーンを再編している。

ムーアの法則駆動時代

■ 自分をマネージメントする時代に


小島:ドラッカーは組織のマネジメントを議論したけれども、これからの問題は、自分自身のマネジメントだ。企業など組織の寿命より人間の寿命が長くなった。これは人類史上初めてだ。企業の経営は企業がやればいいが、1人1人が自分をマネジメントすることが必要だ。自分でチャレンジし学ぶべきものを絶えず考え、自ら鍛え続ける癖をつけるのが学生時代だ。若い人には将来のチャレンジ、自分自身のマネジメント、人生マネジメントをしっかり行い、大学の体験をベースにし、本当の意味の生涯学習、リスキリングを続けてほしい。

 人間の寿命は伸び、社会システムの改革も必要だ。そうでないと医療費も医療制度もパンクし若者に負担が来る。 

周:その通りだ。今までの60歳定年は工業時代の労働年齢だ。

小島:筋肉が衰えて使えなくなるというので定年になった。いまは筋肉ではなく頭脳だ。ドラッカーも95歳まで原稿を書いて現役だった。

周:生産年齢を100歳までとして、人生設計しなければならない(笑)。

小島:日本は中途半端な制度だ。定年延長ではなく雇用延長という言葉を使っている。定年延長では賃金も減らせないので企業は反対するからだ。今の世界の流れは、定年廃止だ。ノウハウや能力を持つ人なら80歳でも雇用される。定年廃止とは、年齢を雇用の条件にせず、能力で評価することだ。日本の企業は圧倒的多数が60歳定年だ。私が学生時代のときは55歳定年だった。55歳定年は90年前に生まれた。三井の大番頭が、従業員に55歳まで働いていいと言った当時、日本の平均寿命は40代だったからつまりは終身雇用だった。日本の寿命はその後、倍になったが、定年は55歳から60歳にしか伸びていない。“終身”でなく“半身”雇用になってしまった。このギャップが人々のやる気をなくす。

 企業に雇用延長がなく80歳でも何歳でも働けて、年齢だけで区別しない制度になれば、いろいろな人がチャレンジできる。賃金体系も若い頃の安賃金から段々良くなるのでなく、仕事ができる人は最初から高水準であるなど労働価値が雇用主に判断されるようになればいい。

 新しいノウハウを持つ人には最初から社長クラスの給与を出していい。年齢だけで給与を決めているから、有能な人が割り込む余地がない。負担だけが大きくなる。インセンティブも失くしてしまう。

周:日本的な組織の中で、個性や個人の能力への評価と、貢献への対価の支払いが非常に遅れている。

小島:自分でトレーニングし努力してチャンスを掴むことが大切だ。私の息子は52歳だが5回転職した。自分に合ったスキルを持ち、金融関係でファンドをし、転職するたびに年棒が上がる。その代わり凄く勉強している。そのように働く時代が普通になる。終生勉強しなければ完全に時代に取り残される。終身雇用時代ではなくなった。昔は銀行が一番安定し賃金が良いと言われた。今は銀行も数が減り従業員が必要なくなった。モルガン銀行はトレーダーが100人いたが数人になった。AIでできるから窓口は要らなくなっている。

 若い人には未来を見据え自己研鑽し、チャレンジしてほしい。人生100年、時代の先端でやれるような自己研鑽の決意をぜひとも固めてほしい。そういう人がスタートアップもする。

ピーター・ドラッカー

■ 年金基金社会主義はいつまで続く?


周:ドラッカーはアメリカを年金基金社会主義国としている。その意味では日本もこれに当たる。ただ、GDPの三倍弱の借金を背負っている日本が年金基金社会主義国家としてソフトランディングできるのか。

小島:日本の手並みを世界が見ている。黒田元日本銀行総裁の金融政策は基本的に80%失敗だ。中小企業を救うため無担保無利子融資が政治の力で行われた。返済日が来れば、中小企業はパニックになる。政治が入りまた転がして貸してやれという話になる。本来は生き残るべきものが生き残り、ダメなものは撤退しなければならない。従業員は能力があれば、雇用機会があり移動できる。経営者は自己保身のためにしがみつく。

 日本の最近の財政は野党も与党もバラマキ競争で借金が増えている。カーメン・M・ラインハート(Carmen M. Reinhart)とケネス・S・ロゴフ(Kenneth S. Rogoff)がまとめた『国家は破綻する』は、過去800年の金融危機を分析し、「債務が膨張し悲劇を生んだ歴史から学ばず、危機を繰り返している」と警告している。

周:日本の選挙を見ていると、与野党共に、ばらまきを更に拡大するような政策を煽っている。これではいずれ借金で破綻する。そうなると、今まで積み上げてきた年金基金社会主義も破綻する。

小島:日本のGDPに対する政府債務は270%ぐらいになった。日本は第二次世界大戦時に軍部が金を使い、それを日本銀行に信用をつけさせて借金を増やした。今はそのときのピークをはるかに超えている。この借金をどう調整するか?日本の対応を注視している専門家は多いはずだ。間違うとえらいことになる。第二次大戦後後、大インフレが起こり、お金の価値がなくなった。新円発行で古いお札はもう使えず、新札は基準価値が全然違った。高額紙幣を500万円持ったとしても、10枚だけしかお金が使えなかった。敗戦でGHQ占領が入ってくる異常な状況だからできた。預金も封鎖、預金も下ろしてはいけなかった。そういうことは今の民主主義時代はできないから、マーケットにその圧力が全部来る。マーケットがどう吸収し、どう調整するかが大変難しい問題だ。

カーメン・M・ラインハート、ケネス・S・ロゴフ(2013)『国家は破綻する―金融危機の800年』日経BP

■ アジア金融危機はグローバルなキャピタルシステム危機


小島:次の5年間日本はどうなるか。学ぶべきものは、中国にとっても、どこの国にとっても大変多い。特に最近の変化は大きい。1800年代の中国、インドのスーパー経済大国時代は別として、その後のアジアは植民地化され停滞があった。歴史的には、アジア的低成長の議論が欧米では主流だった。しかし、1970〜80年代、アジアの新工業化はNICS、NEIS、そしてASEAN全体に広がった。1993年には世界銀行のリポートで、アジアの奇跡論が謳われた。その後1997年にタイを起点としてアジア通貨危機があった。突然の危機を予測も説明もできなかったとき、コネや縁故主義のアジア経済社会だから危機が生じたと言われた。純粋なマーケットではなく、アジアの縁故主義を病理として通貨危機が起きたという議論だった。

 しかしアジアはこの危機の後、短期間で急発展した。その急激な回復は、こうした病理説では説明できない。1999年にはロシアのデフォルトになる。それがきっかけにアメリカの中堅ヘッジファンドが破綻し、危機がウオール街まで波及した。アジアだけでなくグローバルな破綻につながった。現実に起こっている変化が、そのときに主流だった議論をどんどん追い越した。あるいは理論が追いつかなかった。となると、現実に何が起こっているかをしっかり観察することが大事である。

周:ドラッカーが言う「すでに起こった未来を」を確認することが大切だ。さらにそれをきちんと理論的に整理することが求められる。

小島:たまたまアジア危機の翌年、1998年1月、ダボスの会議でジョージソロスと一緒に食事をした。「アジア危機はどうか」と問うと、「これはアジア危機ではない。これはグローバルなキャピタルマーケットの、あるいはキャピタルシステムの危機である」と言った。従来は物の生産、流通、消費で、ものを中心に経済が動いてきた。もの作りの企画をし、デザインをし、工場を作り、それで部品を集め、組み立て、完成品を販売するには時間がかかる。

 しかしお金の世界は違う。金融の世界は瞬時に何億ドルという金が動く。ものの経済とお金の経済は、ベースになる価格形成のメカニズムが違う。お金の価格は、金利であったり、為替レートであったり株価だったりする。お金の世界は、マーケットがあると、おびただしい資金がそこで動く。デザインして加工し生産するのでなく、瞬時に需給が出てくる。ある情報がマーケットに出てくると価格が形成される。それは新しいレベルの為替レートであり、新しいレベルの金利である。それが出た瞬間また新しい情報が流れる。

周:新工業化で成功をある程度おさめたアジアの諸国は、こうした金融世界の恐さに対抗できる知識、体力、そして制度整備が必要である。

ジョージ・ソロス

■ 歴史の中で見たアジア新工業化


小島: ヨーロッパの経済学者アンガス・マディソンがOECDと共に『ワールド・エコノミー』という本を書き、過去1000年以上遡り、各国地域のGDPや人口を分析した。

 同書によると、中国の人口は今13億、西暦1820年は中国人口が3億人、インド人口は1億何千万人だった。1820年時の世界経済の中で中国のウエートは実は29%あった。インドは10数%、中印合わせて世界GDPの40数%を占めていた。当時日本は3%ぐらい。今の先進国ではフランスが7〜8%で高かった。アメリカはまだインディアンと戦っていた頃で日本より少なかった。

 その後、イギリス発の産業革命でヨーロッパに工業力が付き、植民政策が始まり、アジアが植民地化され、生活の中での経済のウエートが下がった。植民地から独立し、自国の経済社会を自ら動かし管理するようになった。

周:1840年のアヘン戦争は象徴的な出来事だった。イギリスが中国から茶を輸入し、生活に取り入れた。しかしイギリスは中国に売るモノが無く、長期に亘り貿易赤字になった。貿易赤字解消のため、植民地のインドから麻薬のアヘンを中国へ密輸入した。中国政府がこれを取り締まると、艦隊を中国に送って攻撃したのがアヘン戦争だ。

 経済力はあったものの、近代的な戦力を持っていなかった中国はその後急激に衰退した。新中国成立時は世界経済に占める中国のウエートは5%に落ちていた。

小島: 1991年、ソ連が崩壊し、日本はバブルが崩壊した。インドも経済危機に陥り、外貨準備を急激に失い、財政破綻状態になった。インドは、独立後ヨーロッパ的な制度を排除し、ソ連モデルを導入した。ところがソ連システムが合わなかった。ソ連崩壊を目の当たりにし、インド大蔵大臣のマンモハン・シンというオックスフォード大卒の優等生が、改革開放を始めた。

 翌1992年、中国では鄧小平氏が南巡講話をし、改革開放に思い切りアクセルを踏んだ。中国のリーダーはWTO加盟に必要な条件を満たすため、国内の諸制度を変える決断をした。それを見た世界が、変わろうとする中国とインドにどんどん投資をし始めた。中国に対する投資が圧倒的に多かった。1990年代、世界から中国への直接投資年間合計額が、第二次大戦後のマーシャルプランでアメリカが援助した予算と同額か、それ以上だったとデータにある。優良な資本、技術が入り、10年で中国が世界の工場となった。

周:1992年には中国の世界経済に占めるウエートは最低の1.7%まで陥った。思い切った改革開放をしなければならなかった。

小島:ソ連崩壊は経済分野では歴史上劇的な出来事だった。経済の世界は、国と国が国境を厳しくし競争しているときは重商主義だ。全部自国で作り、売るマーケットが必要な為、商船隊が出る前に軍艦が動いたのが重商主義時代だ。文句があれば軍艦を使った。

 そんなシナリオは第二次大戦後に終わり、自由貿易になった。直接投資は当初は大きくなかったものの、冷戦終結以降1991年を境に、世界経済のダイナミズムは国境を越えた直接投資になった。

 アメリカは直接投資を出す方と、受け入れる両方だったが、中国はとにかく受け入れた。受け入れて生産能力と技術を輸入した結果、30年で中国は今のような「世界の工場」になり、輸出大国になり、貿易面で大発展した。

 日本はバブルがはじけ、その間、国内投資はあまりせずに余分な金があると海外に投資した。日本国内はほとんどゼロ成長だったが、この30年間、中国、インド、ASEAN諸国その他アジア各国に投資をし、それを受け入れた国が発展した。ダイナミズムは直接投資だった。

周:中国、インド、ASEAN諸国の新工業化をもたらした最大の原動力は情報革命だ。私はこれをテーマに『メカトロニクス革命と新国際分業―現代世界経済におけるアジア工業化』と題した博士論文を書いた。ムーアの法則の駆動で、サプライチェーンが猛烈な勢いでグローバル的に展開した。さらに、は初めてのムーアの法則駆動型産業として、爆発的に成長した。それがアジアの新工業化につながった。もちろん直接投資は大きな役割を果たした。

周牧之(1997)『メカトロニクス革命と新国際分業―現代世界経済におけるアジア工業化』ミネルヴァ書房

■ アメリカの経済的「脅威」は日本から中国へ代わった


小島:ヨーロッパの歴史家が書いた『リオリエント』という本がある。アジアが再び新しい発展をし、新しい方向に行くという内容で、ヨーロッパ中心、西洋中心の世界史を、アジアを入れたものに変えていく必要があると述べて話題になった。

 現在中国とアメリカで経済貿易摩擦が起こっている。私が現役で新聞を書いていた頃、アメリカにとって中国は問題の相手ではなかった。ニクソンの1972年訪中は、キッシンジャーが準備立てた。当時アメリカの発想はパワーポリティクスでソ連を牽制するため中国を友として応援し、バランスを取るために米中交流が始まった。軍事的脅威は唯一、ソ連だった。

周:米中の急接近は当時双方にとっても切実な事情があった。ゆえに一気にハイレベルの関係になった。私はハーバードのエズラ・ボーゲル教授にアメリカは当時の米中関係をどう位置づけたかを聞いた。ボーゲルは、キッシンジャーが準同盟関係と言っていたと答えた。

小島:その後経済の問題が1970年代後半からアメリカにとって重大になった。1971年は、ニクソンショックがあった。ニクソンがいきなりドルはもう金と交換しないとし、輸入課徴金を課し、また、日本の円や、ドイツのマルクを大幅に切り上げると一方的に言い始めた。アメリカの貿易が、構造的に赤字になってしまった。1970年代後半から1980年代に、日本と米国には大変多くの交渉が行われ、摩擦が酷くなった。思い出すのは1985年のプラザ合意だ。為替レートが急変動した。それを演出したのはアメリカだった。為替を大幅に動かして日本の対米輸出競争力にチェックをかけようとした。

 アメリカは第二次大戦で、国土が戦場にならずに戦勝国になった唯一の国だ。ヨーロッパや日本やアジアがガタガタになった中、アメリカは産業力が完全に維持され、唯一の大製造業国家となった。貿易は圧倒的に黒字で、作るものは沢山あった。しかし売る相手がいないとして他国を援助しマーケットにした。

 ところが、アメリカは1970年代初めに貿易が構造的に赤字になり、1980年代に貿易以外のものも赤字になりパニックになった。プラザ合意があった年、シカゴに外交評議会というニューヨークの外交評議会の姉妹組織が世論調査をした。現在のアメリカの脅威は何か、という世論調査だった。ソ連の軍事的脅威と日本の経済的脅威を並べ、どちらが一番アメリカで深刻な脅威かと聞いた。結果、日本からの経済的な脅威がトップになった。酷くなった日米摩擦を抑えようと為替レートなどで様々な交渉があった。日本との戦争が近いなどという本さえアメリカで出てきた時代だった。

周:1980年代のアメリカの日本への態度は、いまのアメリカの中国に対する態度とかなり似ているところがある。

小島:1985年、中国のアメリカに対する赤字はアメリカにとって全く問題なかった。もっぱら最大の赤字の対象は日本だった。摩擦が続き、プラザ合意の後は日本が不況になり、それに対応するために金融緩和しすぎてバブルが生じた。1991年にソ連崩壊があり、アメリカにとっての赤字の相手は中国になった。現時点で日本は脅威の対象から外れた。

エズラ・ボーゲル教授と周牧之教授

■ 時代を読む力が運命を決める


小島:国の経済を分析し、政策を考えるときに自国だけで考える時代ではなくなった。歴史の流れの中で考える、あるいはグローバルな位置づけを考える。世界をどう見るかを織り込んで考える必要がある。

周:時代の変化に対応するには、時代を読む力が極めて重要だ。

小島:ドラッカーは2005年11月に95歳で亡くなった。同年の3月まで、クレアモント大学で教鞭をとっていた。生涯現役の教師だったドラッカーが1989年、80歳の時に書いた『新しい現実』という本がある。1989年出版時、まだ誰もその後ソ連が崩壊すると思ってなかったとき、ソ連が確実に崩壊過程にあるとドラッカーは断言していた。

 出版社が、ヘンリー・キッシンジャーにブックレビューを頼んだ。ところが、キッシンジャーが断った。ソ連の崩壊はありえないと思ったのだろう。キッシンジャーによる書評が叶わなかったが、出版2年後の1991年にソ連崩壊が現実になった。

周:キッシンジャーですらドラッカーの時代を読む力に付いていけなかったエピソードだ(笑)。

小島:ドラッカーは一つの領域の専門家というよりは、トータルで人間社会を考え、人の価値観を考え、歴史を考える人だった。

 初めて原稿を書いたのは20代半ば、本が出たのは29歳だ。当時ヒットラーが力を持ち、ヨーロッパ中がナチズムで蹂躙されていた。ドラッカーは「これはおかしい」と全体主義の研究をし、ヒトラーにインタビューした。全体主義について、イデオロギーが問題だと意識し、敵を倒した後は自分自身が矛盾により内部崩壊するとのロジックを基本とした本だ。

 ドイツで見つかったら処刑されるので、原稿を持ってイギリスに逃げたものの良い仕事がなかった為3年後にアメリカに移民し、出版社を見つけ出版した本が今も読まれている。ウィンストン・チャーチルがこの本を絶賛し、イギリス首相になってから同書を、士官学校卒業のエリートに「これは人生で一番の本だから大事に読め」と毎年プレゼントした。

周:あの傲慢で知られるチャーチルが若きドラッカーをそこまで賞賛した。ドラッカーが偉大だったのは、政治的、制度的にファシズムやソ連の行き詰まりを予言しただけでなく、知識社会の到来も予言し、社会や組織、個人の知識社会への向き合い方を研究したことだ。

 いま、ムーアの法則駆動時代への理解如何がまさしく国、企業そして個人の運命を左右する。

講義をする小島氏と周牧之教授

プロフィール

小島明(こじま あきら)/日本経済研究センター元会長

 日本経済新聞社の経済部記者、ニューヨーク特派員・支局長、経済部編集委員兼論説委員、編集局次長兼国際第一部長、論説副主幹、取締役・論説主幹、常務取締役、専務取締役を経て、2004年に日本経済研究センター会長。

 慶應義塾大学(大学院商学研究科)教授、政策研究大学院大学理事・客員教授などを歴任。日本記者クラブ賞、ボーン・上田記念国際記者賞を受賞。新聞協会賞を共同受賞。

 現在、(一財)国際経済連携推進センター会長、(公財)本田財団理事・国際委員長、日本経済新聞社客員、(公財)イオンワンパーセントクラブ理事、(一財)地球産業文化研究所評議員

 主な著書に『横顔の米国経済 建国の父たちの誤算』日本経済新聞社、『調整の時代 日米経済の新しい構造と変化』集英社、『グローバリゼーション 世界経済の統合と協調』中公新書、『日本の選択〈適者〉のモデルへ』NTT出版、『「日本経済」はどこへ行くのか 1 (危機の二〇年)』平凡社、『「日本経済」はどこへ行くのか 2 (再生へのシナリオ)』平凡社、『教養としてのドラッカー 「知の巨人」の思索の軌跡』東洋経済新報社。

【対談】小島明 Vs 周牧之(Ⅰ):何が「失われた30年」をもたらしたか?

2023年12月7日、東京経済大学でゲスト講義をする小島明氏

■ 編集ノート:

 小島明氏は、日本経済新聞社の経済部記者、ニューヨーク特派員・支局長、経済部編集委員兼論説委員、編集局次長兼国際第一部長、論説副主幹、取締役・論説主幹、常務取締役、専務取締役、日本経済研究センター会長、政策研究大学院大学理事を歴任、日本記者クラブ賞、ボーン・上田記念国際記者賞を受賞。新聞協会賞を共同受賞。

 東京経済大学の周牧之教授の教室では、リアルな学びの一環として第一線の経営者やジャーナリスト、官僚らをゲスト講師に招き、グローバル経済社会の最新動向を議論している。2023年12月7日、小島明氏を迎え、講義をして頂いた。 


「日本の失われた30年」の三つの原因


周牧之:最近話題になっているのは、「日本の失われた30年」が中国で繰り返されるのかどうかだ。私から見ると「日本の失われた30年」には原因が三つある。一つは消費税だ。消費税ではなく交易税という名にすべきだった。買い物をするときだけに払う税金だと思いがちだが、すべての交易にかかる税金だ。

 アダム・スミスの『国富論』第1章は分業論だ。グローバリゼーションが1980年代から進み、各国の関税は軒並み低くなった。国内で取引するたびに消費税を取られることが、国内における分業を妨げ、海外との分業を後押しした。日本はその交易税的な本質を見極めず1989年に消費税を導入した。その後バブルが崩壊し日本経済は長い停滞期に入った。

 二つ目はデリスキングの経営思考だ。大手企業、財界を見て強く感じるのは、経営リスクを取らないサラリーマン社長が多いことだ。リスク負いを避けたい人が多い。1989年平成元年の世界時価総額トップ10企業には日系企業が7社もあった。しかし時代が急変し、現在同トップ10社に日系企業の姿は無くなった。代わりにイノベイティブなスタートアップ企業が8社入っている。全て創業20〜40年のテック企業だ。これに対して、日本ではイノベイティブなスタートアップ企業が少ない。現在、日本の時価総額トップ30企業の平均創業期は1919年で、平均年齢は100歳を超えている。

小島明:その通りだ。

アダム・スミス

:三つ目は小選挙区制の導入だ。小島先生が信奉するドラッカーの発想の根底には、「すでに起こった未来」を確認することがある。ドラッカーは人口動態問題も知識社会の到来も世間に伝えた。その意味では日本にとって大切なのは現状をいち早く確認し、対処に取り取り掛かることだ。ドラッカーに関する小島先生のご著書には「日本は組織のイノベーション、社会のイノベーションがあまり問われない」とある。大変革時代に日本で組織的社会的なイノベーションが問われない理由は、小選挙区制の導入により政治力、政治家の質が劣化したからだ。時代変革の確認ができず、社会、組織のイノベーションが進まない。 

小島:周先生が言う「日本の失われた30年」の原因の、二つ目と三つ目は100%同意だ。一つ目は半分賛成。アメリカやヨーロッパには消費税という名でないセールスタックス或いは付加価値税と言われる税がある。各取引段階で、ダブらないよう調整する税だ。税率は、日本では10%。ヨーロッパだと25%。消費者個人の租税負担率では日本の方が低い。分業がうまくいかない最大の問題はリスクテイクができないことだ。

周:ここ数年多くの企業家から話を聞いた。「商売していて10%利益を上げることは大変なのに、取引するたびに税金が10%とられ、たまったものではない」と言う。欧米諸国も生産過程で取引するときに消費税が発生するなら、必ず国の産業空洞化につながる。

 消費税にしても小選挙区にしても、導入過程での議論の際に比較対象を間違い易い。日本は1億3,000万の人口がある。ヨーロッパ、特に北欧には小さい国が多い。日本は、自国の10分の1も無い人口規模の国の政治制度や税制度を国の制度改革モデルとする際、人口規模の桁違いを意識すべきだった。

 昔中国も同様なことが起こった。秦の始皇帝が中国を統一したものの十数年で崩壊した。諸説あるが、始皇帝が秦の制度を中国全土に一気に拡大させ、機能不全が起こったのが原因だ。桁の違う国土と人口の制度設計を簡単に一緒にして議論するのは危険だ。

小島:税金を払っても生きていける体力があるかどうか。

:税には良税と悪税の二種類ある。私は資産税を悪税ではないと考える。しかし取引税は分業を妨げる悪税だ。特に今の時代、関税が限りなく低くなっており、国内での取引税は海外との分業を推し進め、空洞化を産む。グローバリゼーションの観点からすれば悪い話では無いかもしれない。

小島明(2023)『教養としてのドラッカー 「知の巨人」の思索の軌跡』東洋経済新報社

■ ゾンビ企業の生き残り作戦


小島:リスクの問題について言えば、日本にはバブル崩壊後に収益を上げた企業があった。しかしその多くは新しい事業を始めたのではなく、人件費をカットした企業だ。人件費カットの仕方はボーナスを出さず、ベースアップをなくし、正規社員の2分の1か3分の1の賃金で働く非正規の人員を増やす、など様々ある。バブル崩壊前、全労働人口のせいぜい15%が非正規だった。今は非正規が4割近くにのぼり、企業側は人件費が節約できる。借金を返し、海外に行かず、投資はしないからビジネス機会が生まれない、雇用も増えない、賃金も上がらない。

:つまりリスクをとって積極的な投資とイノベーションで利益を出すパターンではない。

小島:リスクテイクをする資本家や企業経営者がいなくなった。バブルが崩壊し、金融機関までおかしくなったのは日本にとっては初めての経験だ。

 とくにデフレが始まった1998年の前年末に三洋証券が破綻し、北海道拓殖銀行などの銀行が潰れた。銀行が貸しはがしをし、投資を一生懸命やろうとした企業に、「お前のところは儲かっているから貸した金を返せ」と迫った。経営がダメな赤字の会社は返す金がない。そこを貸し倒れにすると帳簿上、金融機関の損になる。その損を出したくないから転がして追い貸しをする。儲かっている企業から現金を回収し、経営が駄目なところに転がしてやる。日本企業の99%が中小企業と分類されている。政治も中小企業は弱者だからと助け、銀行は追い貸しでいいから貸せと言った。結果、やる気がなく儲からず普通は持続できない企業が長生きしている。

 これはゾンビ企業だ。新陳代謝ができない。この分野は不必要、或いは続けたいが黒字の見通しなく赤字だという企業を援助すれば、経営者から政治家に給付金や献金が来る。日本のバブル崩壊後の対応として本来ゾンビ企業は市場から撤退させ、新しい人材や資本で新たな可能性を広げる必要があった。ところが、ゾンビ企業にカネが使われてしまった。国の財政もゾンビになった。バブルがはじけ不況が長引き事業転換しないと経営が苦しくなる。人件費節約を経営テーマにし、人事部や総務部など国内派が主導した。投資についても支出で収益が減るから投資しない。銀行からの借金は全部返す。株主がうるさいから自社株買いで買い戻す。全体のマーケットにおける株の供給が減るから値段が上がり株主だけでなく役員、従業員も株でもらえる。

:その結果、日本企業には、積極的な投資とイノベーションで新たな製品やサービス、マーケットを創出する勢いがなくなった。

1990年代末における日本の証券会社

■ チャレンジしない組織体質


小島:日本の場合はボトムアップではない。社長が人事権を持ち、人事が気になる社員が社長の顔色をうかがいながら仕事をする。社員みんなの意見聞いて社長がそれに従うのではなく、人事権を通じた徹底的なトップダウンだ。日本では、上場も非上場企業もバブルがはじけた後に怪我せずリスクを取らず、生き残った人が企業のトップになった。人事部、管理部など内部をやった人たちだ。海外でビジネスをし、マーケットを開いた人は、なかなかトップになれない。

:第一線で頑張っている人たちが評価されず、トップにも入り難い。これが企業の経営に大きな影響を及ぼしている。

小島:経理屋、人事屋は、新しいアイディアが下から来ると、マイナスだ、危険があると列挙し、やってみなければわからないのに可能性を考えずネガティブなことだけ列挙した。

 日本からベンチャーは出難い。ベンチャーキャピタルは銀行が作った子会社だ。銀行は絶対リスク取らず、貸したら必ず担保を取り、企業は潰れても担保の不動産はもらう。つまりリスクを取らないビジネスをやっている。いわゆる投資銀行は日本にないため、大蔵省の制度がそうしたやり方で、技術が海外にあれば技術をもらい、確実にこの技術を使えるとなるとカネがつく。ノーリスクでできると考えたからだ。

 技術のリスクは、例えば海外で鉄鋼生産、造船、自動車などそれぞれの国が既にリスクをクリアした産業を、日本が導入した。だから先行した国の後で動かせばいいだけだった。リスクテイクはしなかった。リスクの語源は古いイタリア語から来ていて、可能性にチャレンジする意味だ。可能性、将来性だ。今、日本はリスクというとネガティブにとらえ背を向けて逃げる。オーナー企業の経営者には一部まだリスクテイカーがいるが…

:森ビルの森稔社長は、中国でリスクを取って大きなビルを上海で建てた。大勢の人にやめた方がいいと言われても、やり遂げた。結果、大成功した。

小島:そうだ。人事部が取り仕切る企業は社長がこうしたリスクを取らない。日本は第二次世界大戦後に一時勲章制度を無くしたが、復活させた。勲章をもらうには産業、経済団体のトップにならないと難しい。このため団体トップの順番を待つから、日本は老人支配の社会になる。今の経済人は年を重ね経営能力を失っても会長、名誉会長、特別顧問として会社に居続ける。亡くなるまで社内に自分の部屋があり、秘書に支えられゴルフをする。次の人はその人たちから選ばれるから、誰も辞めさせられない。人事で動く世界だから、ボスの顔をいつも見ている。社長の仲間ばかりが上に行く。海外に出張し海外事業で成功しても数字上でしかトップはわからない。

 日本はリスクを取らない。リスクは潜在的な可能性を持ち、もとより危険なものだ。リスクマネジメントが重要だ。リスク評価とリスク管理の発想は、バブル崩壊後、日本から消えた。

森ビル「上海環球金融中心」

■ 個人が最大の価値を発揮できる組織を


:根底に必要なのは正しい組織論だ。ドラッカーの組織論は、マネージメントを定義した。組織の個人が最大の価値を発揮でき、価値を作り出すことができるのがいい組織だ、とした。

小島:人材はコストでなく、資産であるという発想だ。経営者がみな読んだ1973年出版の“経営のバイブル”とされた『マネジメント』の中で、ドラッカーが繰り返し強調しているのはこのことだ。日本はバブル崩壊後、人材がコストとみなされた。人は少ない方がいいし、賃金は安い方がいい。

:誰にでも取り替えができる人がいい人材で、人が辞めても同じ働きのできる人がいれば良しとする考え方が日本には根強い。昔の工業時代の人材の価値の見方だ。ドラッカーが言う知識社会の発想ではない。知識社会は個性が大事だ。

小島:その通りだ。

:本来、組織の中で権力はいらない。権限とは権力ではなく責任だ。それが今の日本の組織の中では、逆になっている。

小島:本当にそうだ。いつの間にか逆になった。

 バブルがはじけた後の不良債権処理が長引き、銀行が駄目になった。プラザ合意の1985年、日本の投資率が高かったとき、企業は自前の資金が足りず銀行からどんどん借りた。ところがその後日本の企業は成長見通しを下げ、投資率は下がった。貯蓄率はそのままで貯蓄余剰経済になってしまった。金融機関は従来、頭を下げて金を預かったが、余るようになった。結果、リスクを取らない銀行は、土地さえ担保であればいくらでも貸し、それがバブルを生み出した。地価が暴落した。

 1985年から金融機関が資金余剰となり体質改善の必要が出た。ところが金融機関は未だに同じ体質のままだ。ベンチャーやリスクテイカーを応援することにはなっていない。例えばマイクロソフトのビル・ゲイツが日本で創業したいとなったら、日本では彼に金を貸す人は出てこなかっただろう。ゲイツが、私はアイディアを持っていると言っても有形の担保が無く自分のオフィスも無い。賃貸ビルで、自前の工場は持たず、委託生産だ。持っているのは無形のノウハウだけである。日本の従来の金融機関ではそれは担保と見做さないから、断っただろう。日本では起業家を応援する金融システムがない。社会のニーズに対応する金融システムのイノベーションが必要だ。

 イノベーションは単に、ものを新しく作るだけではなく、時代のニーズに対応できるシステムイノベーションが欠かせない。

小島氏とドラッカー氏

■ 元気な新しい企業が出てこない


周:平成元年の1989年、世界時価総額トップ10企業の中に日本の銀行は5社入っていた。その後これらの銀行は合併を繰り返し、いまや世界時価総額トップ100企業の中に1社も入っていない。

小島:100社内にいる日本企業はトヨタともう一社くらいだ。 

:ゾンビ企業は大問題だが、ゾンビ以上に問題なのは元気な新生企業が少ないことだ。いま日本の時価総額トップ30企業のうち1980年代以降に創立した企業はたった一社、ソフトバンクだ。

小島:企業の少子化、設備の高齢化、資本ストックの高齢化が、日本の資本主義の問題だ。

■ 小選挙区制の弊害


小島:小選挙区問題もするどい指摘だ。政治劣化の原因は、小選挙区と政党助成金だ。官邸が役人の幹部に対する人事権を持った。このため役人が何も言えなくなった。

:マスコミも批判しなくなった。日本は選挙で選ばれた人々が政治家に、勉強で選ばれた人たちが官僚になる。公務員試験に受かった人たちが責任ある立場に立ち、実績を作りながら上に行く。さらに企業家、学者、マスコミが加わって、互いにチェックし依存し合うシステムだった。ところが、小選挙区の導入で、政治一強、官邸一強となり、官僚もマスコミも小さくなった。

 財界も迎合する。経団連が消費税を推進している。不勉強なのか、立場を忘れているのか、財界が消費税という取引税を推進すること自体が不可解だ。

小島:小選挙区導入当時は、政治改革すればいいという空気の中で、反対すると守旧派と言われ、言論封殺される。小選挙区の結果、二世議員、三世議員が増えた。しかも、政党助成金の名目で税金から政治資金が各政党のトップに行く。自民党であれば首相と幹事長から「次は公認にしない」と言われれば、選挙に出られずカネも来ない。自民党の中にも、昔は宏池会などさまざま派閥があり、政策論争もやった。今は政策論争がなくなった。

: その意味では昔の方がずっとバランス良く面白かった。

小島:今の政治家は、個人的に話している時は「問題はある」と言うが、リスクは取りたくない。日本の政治は、今だけ、自分だけ、口先だけの「三だけ政治」だ。アメリカも反知性主義的選挙になっている。

 東京大学の学長だった佐々木健は「日本の民主主義は、選挙ファンダメンタリズムだ」と言う。選挙さえ通れば良く、選挙が頻繁にあって短命の政権になる。平成の30年間で日本は17人も首相が生まれた。平均寿命が2年もない。選挙でお礼回りし、少ししたら次の選挙の準備が始まる。宇野宗佑や羽田孜のように2カ月ぐらい或いは数十日しかもたない首相もいた。皆が順繰りにポストが回ってくるのを待つ。安倍政権も長期政権とは言えず、6回国政選挙があった。次の選挙が近ければ、選挙前のあらゆる政策は、次の選挙のプラスになることしかやらなくなる。3年我慢し、4、5年経ったら花が咲き、実がなるという政策が、いま全部お蔵入りし、選挙目当てのバラマキ政治になった。

周:明らかに制度設計のミスマッチだ。民主主義は主義だけでなく制度設計の知恵、知識が必要だ。間違った設計がされたら大変なことになる。ドラッカーが言う社会的イノベーションが必要だ。また、安倍長期政権の一つの理由は、その前の民主党政権が酷すぎたからだ。

小選挙区比例代表選挙・候補者ポスター

■ 百花斉放の自由政策が繁栄をもたらす


小島:失われた30年の原因について、もう一つ私が付け加えたいのは、行政のレギュレーション、規制の問題だ。司馬遷の史記の列伝集『貨殖列伝』に、良い政治は民がしたいようにさせ、次善の政治は民をあれこれ指導する、一番悪い政治は民と利益を争う、とある。古代の中国では自由なときには百花斉放があり、自由な議論があり、文化も経済も発展した。

周:歴史上、中国の繁栄期は全て百花斉放の時だ。漢の文帝・景帝の時代、道学をベースとした自由政策をとり、百花斉放を謳った。その結果、「文景の治」という大繁栄期を築いた。しかし武帝になると、規律規制を重視する儒学を国学とし、それ以外の諸学が排除された。政府が前面に出て対外戦争も次々仕掛けた。結果、漢王朝は一気に下り坂になった。司馬遷は漢武帝の政策に批判的だった。その反省も込めて良い政治、偽善の政治、一番悪い政治というジャッジメントをした。

 延安時代の毛沢東は百花斉放を提唱し、共産党の勢いを形作った。

小島:ところが日本は規制大国だ。総務省が調べたものに、法律、政令、省令、通達、規制、内規、行政指導がある。役所の書類には、少なくとも20種類の言葉がある。評価、認可、免許、承認、承諾、認定、確認、証明、臨床、試験、検査、検定、登録、審査、届け出、提出、報告、交付、申告。これを全部明確に定義できる役人は1人もいない。日本における行政の裁量性が今一番の問題になっている。

 日本がアメリカとの摩擦を起こしたものの一つに、弁護士事務所を認め法曹界を自由にしろという要請があった。ところが自由にしても、アメリカの法律会社は日本に入ってこない。見えない規制があるからだ。法文を見て弁護士がこれは可能だと考えても、「何々等」という言葉が付いた曖昧な法案だ。法律を解釈して理解できるのは半分だけで、残りは役人が裁量権を持つ。接待がバブルのときに頻発したのは役人による裁量行政があったからだ。役人の裁量、権限は、不透明かつ裁量性だ。どの範囲でどう解釈されるかで、企業の存亡が決まることが沢山ある。デジタルも共通の言語がない為、役所ごとに解釈が違う。例えば、デジタルの世界ではモノ作りは経産省、通信は総務省で、繋がっていなかった。

 日本は長らくIT(情報技術)論であり、ICT(情報通信技術)の発想でなく、C(通信)が抜けた発想の政策だった。

周:政治家や官僚だけでなく、日本の経営者も学者も規制を作るのは大好きになった。大学の教授会ですら規制作りの話が多い。結果、皆リスクが取れなくなった。

司馬遷『史記』

■ 優れた経営者はなぜ輩出されなくなった?


周:一昔前には森ビルの森稔、リクルートの江副浩正など日本には優れた起業家がいた。なぜいまいなくなったのか?森稔さんから江副氏とは同級生だと伺っていた。

小島:その人たちは特別だ。実はあまりそういう人はいない。立派なスタートアップ企業がこの30年なかった。唯一ソフトバンクがあるが、これは一種のコリアンブランドだ。小倉昌男が起こしたクロネコヤマトはイノベーション企業だ。彼は、あのモデルが成功したときに沢山の出版社から本書いてくれと言われたが書かなかった。自分がビジネスをやっている間は一切本を書かないと断った。その理由は、ビジネスリーダー、経営者は、あらゆる環境変化にそれぞれの判断でやる必要があり過去に縛られてはいけない、過去の成功体験や前例に捉われず、その都度、真剣な勝負をすることだと言った。

周:昨年50周年を迎えたぴあという会社も学生が作った企業だ。

小島:ぴあの創業者矢内廣が50年間ずっと社長をやっている。

周:立派なスタートアップが昔はあったにも関わらず、この30年はほとんど出ていない。

小島:問題は、技術のパラダイムが変わっているときに、過去の技術でやり続けていることだ。成功体験が今日本の制約になっている。組織内の新陳代謝、発想の新陳代謝が起こらない。行政も縦割りで前例主義になっている。

周:技術のパラダイムシフトに対して、社会のイノベーションが必要だ。

※後半に続く

講義をする小島氏と周牧之教授

プロフィール

小島明(こじま あきら)/日本経済研究センター元会長

 日本経済新聞社の経済部記者、ニューヨーク特派員・支局長、経済部編集委員兼論説委員、編集局次長兼国際第一部長、論説副主幹、取締役・論説主幹、常務取締役、専務取締役を経て、2004年に日本経済研究センター会長。

 慶應義塾大学(大学院商学研究科)教授、政策研究大学院大学理事・客員教授などを歴任。日本記者クラブ賞、ボーン・上田記念国際記者賞を受賞。新聞協会賞を共同受賞。

 現在、(一財)国際経済連携推進センター会長、(公財)本田財団理事・国際委員長、日本経済新聞社客員、(公財)イオンワンパーセントクラブ理事、(一財)地球産業文化研究所評議員

 主な著書に『横顔の米国経済 建国の父たちの誤算』日本経済新聞社、『調整の時代 日米経済の新しい構造と変化』集英社、『グローバリゼーション 世界経済の統合と協調』中公新書、『日本の選択〈適者〉のモデルへ』NTT出版、『「日本経済」はどこへ行くのか 1 (危機の二〇年)』平凡社、『「日本経済」はどこへ行くのか 2 (再生へのシナリオ)』平凡社、『教養としてのドラッカー 「知の巨人」の思索の軌跡』東洋経済新報社。