【寧波】港湾機能をベースとした製造業スーパーシティ【中国都市総合発展指標】第14位

中国都市総合発展指標2022
第14位



 寧波は中国都市総合発展指標2022総合ランキング第14位であり、前年度の順位を維持した。

 「経済」大項目は第12位で、前年度の順位を維持した。3つの中項目で「経済品質」は第11位、「発展活力」および「都市影響」は第13位で、3中項目のうちトップ10入りした項目はなかった。小項目では、「開放度」「経済構造」は第10位と、9つの小項目のうち2項目がトップ10に入った。なお、「経済規模」「広域中枢機能」は第11位、「経済効率」は第13位、「ビジネス環境」「イノベーション・起業」は第16位、「広域輻射力」は第18位、「都市圏」は第19位と、9つの小項目のうちすべての項目がトップ20に入った。

 「社会」大項目は第18位で前年度の順位を維持した。3つの中項目で「生活品質」は第16位、「ステータス・ガバナンス」は第21位、「伝承・交流」は第23位、3中項目のうちトップ10入りした項目はなかった。小項目で見ると、9つの小項目のうち、トップ10入りした項目はなかったものの、「居住環境」は第13位、「文化娯楽」は第15位、「社会マネジメント」「消費水準」は第18位と、4項目がトップ20に入った。なお、「生活サービス」は第24位、「都市地位」「人口資質」「人的交流」は第32位、「歴史遺産」は第33位であった。

 「環境」大項目は第25位で、前年度より順位を4つ上げた。3つの中項目のうち「空間構造」は第23位、「環境品質」は第60位、「自然生態」は第70位であった。9つの小項目のうち、トップ10入りした項目はなかったものの、「都市インフラ」は第17位と、1項目がトップ20に入った。なお、「環境努力」は第22位、「コンパクトシティ」は第26位、「交通ネットワーク」は第30位、「気候条件」は第68位、「資源効率」は第72位、「自然災害」は第81位、「汚染負荷」は第101位、「水土賦存」は第205位であった。

■ 古くからの一大貿易拠点都市


 寧波は、浙江省の東部に位置する計画単列市であり、中国東部沿岸の重要な港湾都市である。2021年までに、寧波は6つの区、2つの県級市、2つの県を管轄し、総面積は9,816平方キロメートル(青森県と同程度)である。寧波は雨量が多く、亜熱帯モンスーン気候に属し、温暖湿潤で、四季がはっきりしている。

 地理的に、東は舟山群島が点在し、西は紹興市、南は台州市と隣接している。海岸線が長く、その総延長は1,594キロメートルにも達し、大小614の島を有している。

 寧波は7000年前の稲作文化として名高い「河姆渡新石器遺跡」を有し、また秦の時代、徐福の大船団が寧波から出発した伝説がある。唐の時代、寧波はすでに揚州や広州と並ぶ中国三大貿易港の一つとなっていた。

 1127年に南宋が杭州に都を置いた後は、寧波の地理的な重要性が更に高まり、杭州の対外貿易のほとんどを担うようになった。この時代に寧波は、広州、泉州と並ぶ対外貿易の三大港の一つに数えられていた。

 しかし、明朝初頭に、倭寇や海賊対策のため、寧波は重要な海防基地となった。政府から遠洋舶の製造が禁止され、沿海部の貿易が厳しく制限されて寧波の経済発展が後退した。

 1545年に、ポルトガルが寧波で貿易活動を展開しはじめ、最初は密貿易であったが、1567年以後、公的な貿易も行うようになった。その後、オランダやイギリスからも商人が相次ぎやってきて、寧波は再び一大貿易拠点都市となった。

■ 群を抜く港湾能力


 現在、寧波は港湾機能中枢都市の地位をより高め、2022年に寧波―舟山港のコンテナ取扱量は世界第3位を誇っている(詳しくは、「【ランキング】世界で最も港湾コンテナ取扱量が多い都市はどこか?」を参照)。

 寧波―舟山港は中国の一大鉄鉱石中継基地、原油・石炭輸送基地、穀物輸送基地である。寧波は240以上の国際航路で、100以上の国・地域とつながっている。

■ 民営経済の活力をベースに


 改革開放以降、寧波経済は活力に満ちている。その原動力は民営経済である。寧波は、中国商人発祥の地とも呼ばれ、上海人の1/4は寧波出身者と言われている。また、寧波は華僑の故郷としても有名で、30万人以上の寧波人が世界50以上の国と地域に居住している。海外の寧波人は、寧波市と世界を結ぶ重要な架け橋となっている。

 2022年末までに、寧波には香港、上海、深圳の三大メインボードに上場する企業が89社立地し、中国で第9位の規模を誇っている。現在、寧波GDPの80%以上が民営経済によって生み出されている。

 2022年、寧波の地域内総生産(GDP)は1兆5,704億元(約31.4兆円、1元=20円換算)で、中国第12位であった。成長率は、前年比3.5%であった。一人当たりGDPは16万3,280元(約327万円)で、中国第14位だった(詳しくは「【ランキング】世界で最も経済リカバリーの早い国はどこか? 中国で最も経済成長の早い都市はどこか?」を参照)。

■ 人口吸収でメガシティが目前に


 経済成長が人口を吸引し、2022年末の常住人口は約962万人で中国では第21位の人口規模であった。人口の流出入を示す「流動人口(非戸籍常住人口)」では、浙江省内11都市のうち9都市は、外部から人口が流入している。寧波は、流入人口が杭州とほぼ同等で約336万人であり、全国から多くの人口を吸い上げている。よって寧波は中国第12位の人口流入都市となっている。寧波は人口1000万人を超えるメガシティになるのも時間の問題だ。

■ 製造業スーパーシティとしての発展


 寧波は、港湾と民間活力をベースに現在、一大製造業スーパーシティに成長した。「中国都市製造業輻射力2022」では寧波は中国で第5位。2022年、同市の工業付加価値は6,682億元(約13.4兆円)を達成し、前年比で3.3%の増加となった。輸出総額も前年比8%増の8,231億元(約16.5兆円)で、中国第5位(詳しくは「【ランキング】中国で最も輸出力の高い都市はどこか?」を参照)。

 製造業の成長に伴い、科学技術への投資も大きく拡大している。「中国都市科学技術輻射力2022」で寧波は中国第9位であり、トップ10にランクインした。「R&D人員」は中国第9位、「特許取得数指数」は中国第16位、「国際特許取得総数」は中国第12位と、科学技術力を測る多くの指標が高い成績を収めている。その結果、市内にユニコーン企業が2社立地し、その企業価値は1,060億ドル(約21.2兆円)に達している。


【西安】一帯一路で甦る古都長安のパワー【中国都市総合発展指標】第13位

中国都市総合発展指標2022
第13位



 西安は中国都市総合発展指標2022総合ランキング第13位であり、前年度の第12位から、順位が1つ下がった。

 西北地域の中心都市として「社会」大項目は第9位で、前年度に比べ順位が1つ下がった。3つの中項目で「ステータス・ガバナンス」「伝承・交流」は第8位でトップ10入りし、「生活品質」は第14位だった。小項目で見ると、「歴史遺産」は第2位、「社会マネジメント」は第5位、「人口資質」「人的交流」は共に第9位、「都市地位」は第10位と、9つの小項目のうち5項目がトップ10に入った。なお、「居住環境」は第11位、「生活サービス」「文化娯楽」は第12位、「消費水準」は第15位であった。西安市内に最高等級病院「三甲病院」は26カ所で、その規模は中国第8位である。医療従事者は12.3万人で、そのうち医師は4.3万人と中国第12位の規模を持つ。

 「経済」大項目は第14位であり、前年度の順位を維持した。3つの中項目で「発展活力」は第12位、「都市影響」は第17位、「経済品質」は第20位で、3項目のうちトップ10入りした項目はなかった。小項目では、「広域輻射力」は第9位と、9つの小項目のうち1項目がトップ10に入った。なお、「イノベーション・起業」は第12位、「経済規模」「経済効率」は第16位、「広域中枢機能」は第19位、「ビジネス環境」「経済構造」は第21位、「都市圏」は第24位、「開放度」は第83位であった。

 「環境」大項目は第57位で、3つの中項目のうち「空間構造」は第14位、「環境品質」は第160位、「自然生態」は第195位であった。9つの小項目のうち、「環境努力」は第6位と、1項目だけがトップ10に入った。「交通ネットワーク」は第13位、「コンパクトシティ」は第16位、「都市インフラ」は第20位と、3項目がトップ20に入った。

 なお「資源効率」は第91位、「自然災害」は第103位、「気候条件」は第173位、「水土賦存」は第189位、「汚染負荷」は第276位であった。2021年のPM2.5年間平均濃度は51.3マイクログラム/標準立方メートルで、前年より8.6ポイント悪化し、全国順位は第292位と芳しくない。二酸化炭素の排出量も多く、その規模はワースト30位と落ち込んでいる。西安市政府はその現状を打破するため、環境改善に向けた努力に多くのリソースを注いでおり、「環境努力指数」は第5位と善戦している。

■ 西北地域の最大都市


 西安は陝西省の省都で、中国西北地域の政治・経済・文化の中心地である。古くは長安や鎬京と呼ばれ、関中平原メガロポリスの中心都市となっている。2021年末現在、西安市は11区と2郡を管轄し、東西は204キロメートル、南北は116キロメートルにわたり、面積は10,752平方キロメートル(岐阜県と同程度)で中国第170位である。

 西安は紀元前11世紀からから約2,000年の間、秦、漢、隋、唐など13の王朝の都として栄えてきた。1981年に国連教育科学文化機関(ユネスコ)が選定した世界十大古都の一つに数えられている。西安は中華文明の重要な発祥地であり、シルクロードの起点でもある。

■ 豊かな自然資源の恵み


 西安は中国の北西部、関中平野の中央に位置し、北は渭河、南は秦嶺山脈に囲まれ、地理的な境界が明確な都市である。8つの河川が潤すことから、古くから「八水繞長安」と評されている。

 市内の海抜変化は大きく、中国で最も高度差が激しい地域である。秦岭山脈の海抜は2,000〜2,800メートルで、中でも最南西部にある太白山の最高峰は海抜3,867メートルあるのに対して、渭河平原の海抜は400〜700メートルとなっている。

 秦岭山脈には、高山の灌木草地、針葉樹林、針広葉混交林、落葉広葉樹林などの自然植生タイプが垂直に分布している。秦岭山脈は野生植物資源の宝庫であり、138科681属2224種の野生植物が存在し、中国の種子植物の重要な遺伝資源庫の一つである。また、野生動物資源も多く生息し、哺乳類55種、鳥類177種が含まれ、その中にはジャイアントパンダ、金絲猴、扭角羚秦岭亜種、スマトラカモシカ、オオサンショウウオ、黒鶴、白冠長尾雉、血雉、金雞などの希少動物も含まれている。自然生態系と珍種動植物資源を保護するため、3つの国家級自然保護区が設けられている。西安の「国家公園・保護区・景観区指数」は中国第21位である。

 西安は暖温帯の半湿潤大陸性季風気候に属し、寒暖、乾湿の差があり、四季がはっきりしている。年平均気温は13℃、年降水量は600-650ミリメートルで、その大部分が夏季に集中している。「気候快適度」は中国第173位、「降雨量」は中国第195位である。

■ 内陸部の一大消費地


 2021年における西安の地域内総生産(GDP)は1兆688億元(約21.4兆円、1元=20円換算)で、中国第24位であった。成長率は、前年比4.1%増、過去2年の平均成長率は4.6%であった。その中で、第一次産業GDPは308億元(約6,160億円)で6.1%増、第二次産業GDPは3,585億元(約7.2兆円)で0.9%増、第三次産業GDPは6,794億元(約13.6兆円)で5.7%増であった。一人当たりGDPは8万3,689元(約167万円)で、中国第91位だった(詳しくは【ランキング】世界で最も経済リカバリーの早い国はどこか? 中国で最も経済成長の早い都市はどこか?を参照)。

 住民消費価格(CPI)は前年比1.7%上昇し、商品小売価格は1.4%上昇した。新築住宅の販売価格は7.5%上昇し、中古住宅の販売価格は6.3%上昇した。

 企業の小売売上動向を示す社会消費品零售総額は4,963億元(約9.9兆円)で、前年比0.8%増であった。その中で、内訳がわかる限度額以上企業の小売売上高は2,420億元(約4.8兆円)で、前年3.8%減少した。

 西安の消費力は西北部地域で群を抜いて高く、「国際トップブランド指数」では深圳、広州などを抑えて中国第5位にランクインしている。

■ 内陸部三大貿易地の一つ


 2022年における西安の輸出入総額は前年比3%減の4,380億元(約8.8兆円)で、中国第21位であった。うち輸出総額は前年比16.7%増の2,748億元(約5.5兆円)で、中国第22位。輸入総額は前年比19.6%減の1,632億元(約3.3兆円)で、中国第21位であった。これは成都、鄭州に続く内陸都市としての好成績である(詳しくは【ランキング】中国で最も輸出力の高い都市はどこか?を参照)。

■ 一大人口吸収都市


 2022年末の常住人口は約1,300万人で中国第9位であった。人口の流出入を示す「流動人口(非戸籍常住人口)」では、陝西省内10都市のうち9都市は、外へ人口が流出している。これに対して西安は、流動人口が約317万人の大幅プラスであり、周辺から多くの人口を吸い上げている。よって西安は中国第13位の人口流入都市となっている。

■ 西北地域における航空、鉄道の中枢


 西安は中国西北部の重要な交通ハブを担っている。その機能は一帯一路政策によってさらに強化されている。

 中国都市総合発展指標の「空港利便性」項目で西安は中国第9位、航空旅客数も第9位である(詳しくは【ランキング】中国で最も空港利便性が高い都市はどこか?を参照)。

 「鉄道利便性」は中国第18位、「高速鉄道便数」も第18位で、「準高速鉄道便数」は第4位であった。


■ 中国トップクラスの観光都市


 西安は中国屈指の観光地である。市内には現在、秦始皇陵、兵馬俑、大雁塔、小雁塔、唐長安城の大明宮遺跡、漢長安城の未央宮遺跡、興教寺塔などの世界遺産があり、その他にも西安城壁、鐘楼・鼓楼、華清池、終南山、大唐芙蓉園、陝西歴史博物館、碑林などの著名な観光地を有している。その結果、中国都市総合発展指標の「世界遺産」において、西安は中国第5位、「無形文化財」は第6位、「重要文化財」は第10位と高順位を誇る。

 こうした文化遺産に魅了された観光客が毎年大勢国内外から同市を訪れている。中国都市総合発展指標の「国内観光客」で、西安は第5位、「国内観光収入」は第9位となっている。

■ 文化・娯楽都市としての輝き


 内外の観光客を惹きつけているのは、文化遺産だけではない。西安は文化・娯楽も盛んな都市である。中国都市総合発展指標の「文化・スポーツ・娯楽輻射力」で中国第9位となっている。

 文化面では、市内には博物館(民間のものを除く)が136館あり、「博物館・美術館指数」は中国第8位、「動物園・植物園・水族館」は中国第15位である。公立図書館は14カ所あり、その蔵書量は中国第30位を誇る。コンベンション産業の発展度合いを示す「展覧業発展指数」は中国第14位であった。

 娯楽面では、「映画館・劇場消費指数」が中国第13位である。スポーツ面では、「スタジアム指数」は第100位に甘んじているものの、西安からはオリンピック金メダリストが4名排出され、「オリンピック金メダリスト指数」は中国第20位となった。

■ 名門大学が数多く立地


 新中国成立以来、西北の中心地である西安に、多くの大学が置かれた。西安交通大学、北西理工大学、西安電子科技大学など7つのトップクラスの大学が立地している。

 中国都市総合発展指標の「高等教育輻射力」で西安は中国第6位を誇り、高等教育機関(大学・専門学校)は63校で、学生は78.4万人で中国第7位。

 大学が数多くあることで、西安は人材輩出の豊富さを示す「傑出人物排出指数」で中国第9位に輝いている。また、国家を代表する研究者の排出数を示す「中国科学院・中国工程院院士指数」は第4位と、中国トップクラスの順位である。他方、住民の教育水準を示す「人口教育構造指数」も第7位である。


【廈門】魅力あふれる貿易拠点都市【中国都市総合発展指標】第12位

中国都市総合発展指標2022
第12位




 廈門は中国都市総合発展指標2022総合ランキング第12位であり、前年度より順位を1つ上げた。

 「環境」大項目は第4位で、前年度より順位を2つ上げた。3つの中項目のうち「空間構造」は第6位、「環境品質」は第11位、「自然生態」は第61位と、2項目がトップ20に入った。9つの小項目のうち、「コンパクトシティ」は第5位、「交通ネットワーク」は第9位と2項目がトップ10に入った。また、「汚染負荷」は第20位、「都市インフラ」は第23位、「環境努力」は第29位と、3項目がトップ30に入った。なお、「資源効率」は第35位、「気候条件」は第39位、「自然災害」は第219位、「水土賦存」は第295位であった。

 「社会」大項目は第13位で、前年度より順位を2つ上げた。3つの中項目で、「伝承・交流」は第12位、「生活品質」は第13位、「ステータス・ガバナンス」は第16位と、3項目すべてがトップ20に入った。小項目で見ると、「人的交流」は第7位と、1項目だけがトップ10に入った。また、「消費水準」は第11位、「居住環境」は第14位「人口資質」は第15位、「生活サービス」「社会マネジメント」は第19位、「文化娯楽」は第29位と、6項目がトップ30に入った。なお、「都市地位」は第34位、「歴史遺産」は第43位であった。

 「経済」大項目は第19位で、前年度の順位を維持した。3つの中項目で、「発展活力」は第16位、「都市影響」は第17位、「経済品質」は第25位と、3中項目のうちトップ10入りした項目はなかったものの、すべてトップ30入りを果たした。9つの小項目のうち、「広域中枢機能」は第9位、「ビジネス環境」は第10位で、2項目がトップ10入りした。また、「経済効率」は第11位、「開放度」は第15位、「イノベーション・起業」は第22位、「広域輻射力」は第23位、「経済構造」は第24位、「都市圏」は第27位と、6項目がトップ20に入った。なお、「経済規模」は第40位だった。


■ 小さくても輝く海上の花園


 廈門市は、福建省の東南端に位置する副省級市、計画単列市であり、経済特区に指定された中国南東部沿岸の重要な中心都市である。また、粤閩浙沿海(広東・福建・浙江)メガロポリスの中核都市である(粤閩浙沿海メガロポリスについて詳しくは中心都市がメガロポリスの発展を牽引を参照)。

 同市の総面積は1,701平方キロメートルに過ぎず、中国297地級及びそれ以上の都市(日本の都道府県に相当)のうち、下から四番目の294位の大きさである。省都の福州市と比較すると、約七分の一の大きさである。なお、47都道府県で最も面積が小さい香川県の面積が1,877平方キロメートルであり、廈門は香川県より1割程度小さい。

 一方、常住人口は約531万人で中国第82位、「人口密度」は1平方キロメートル当たり3,121人で中国第4位の高密度都市である。

 廈門は福建省の沿海部に位置し、漳州市、泉州市と接している。亜熱帯モンスーン気候で、年平均気温が21℃、温和かつ多雨の気候を享受する美しい臨海都市である。「気候快適度」は中国第24位である。

 同市は多くの島嶼を有し、風光明媚な景観に恵まれ、古来より「海上花園」とも呼ばれている。

■ 五口通商から経済特区へ


 廈門は600年以上の歴史を持つ廈門港を有し、宋朝以来、泉州港の補助港口としての役割を果たしていた。元朝で軍港に変貌し、明朝には商業貿易の拠点として躍進を遂げた。鄭成功父子の時代には、海外貿易の中心港となり、茶の輸出で一大拠点となった。1684年には清の海関が設置され、廈門港が正口の一つとされた。康熙年間には、福建出洋の総口となり、福州や泉州を凌ぐ地位を確立した。

 1842年、南京条約の締結により、廈門は広州、福州、寧波、上海と並び「五口通商」の一つに数えられた。貿易の窓口として、教会、病院、学校、外国銀行などが建設され、早くから西洋文化に染められた稀有な都市でもある。

 1980年、厦門は深圳、珠海などと共に経済特区に指定された。以来、急速な発展を続けている。

■ ウズベキスタン一国に匹敵する経済規模


 2022年、廈門のGDPは7,803億元(約15.6兆円、1元=20円換算)に達し、福建省内で福州市、泉州市に次ぐ第三位の経済規模である(詳しくは【ランキング】世界で最も経済リカバリーの早い国はどこか? 中国で最も経済成長の早い都市はどこか?を参照)。

 その経済規模は、中国第31位であり、世界第58位のウズベキスタンのGDPに匹敵する。「一人当たりGDP」の成績はさらに良く、中国第19位と福建省内で最も高い。

 廈門の「人口自然増加率」は中国第4位で、2015〜2022年の平均増加率は12.1‰と極めて高い。非戸籍常住人口を示す「流動人口」では、廈門は約245万人に達し、中国第17位の人口流入都市となっている。結果、同市の「生産年齢人口率」は中国第9位であり、その数値は72.9%と、廈門には圧倒的に若い活力が溢れている。

■ 深水港を盾にしたスーパー製造業都市


 廈門市は深水港を盾に港湾機能を強化してきた。2022年に漳州港を含む廈門港のコンテナ取扱量は1,244万TEUを達成し、中国第7位にランクインした(詳しくは、【ランキング】世界で最も港湾コンテナ取扱量が多い都市はどこか?を参照)。同年の貨物取扱量は2.2億トンで、世界第14位である。

 廈門の製造業も高度に発展し、中国第11位の「製造業輻射力」の実力を持つスーパー製造業都市となった(詳しくは【ランキング】中国で最も輸出力の高い都市はどこか?を参照)。

 さらにIT産業も発展を遂げており、「IT産業輻射力」は中国第12位である。

 産業発展の背後には研究開発への投資が欠かせない。廈門の「科学技術輻射力」は中国第20位である(詳しくは【ランキング】科学技術大国中国の研究開発拠点都市はどこか?)。

 現在、同市は中国政府が推進する「一帯一路」における21世紀海上シルクロードの戦略的要衝都市となっている。また同市は、アジアとヨーロッパを結ぶ「中欧班列(ユーラシア横断鉄道)」にも接続している。


■ 鼓浪嶼-建築とピアノの島


 鼓浪嶼は廈門市の沖合に浮かぶ面積2平方キロメートル未満の島で、廈門の都市発展をものがたっている。清朝末期には、鼓浪嶼に公共租界が設けられた。その為、多くの西洋建築や「騎楼」と呼ばれる華僑による建築物が残され、「万国建築博物館」と称される。2017年に「鼓浪嶼国際歴史社区」は世界文化遺産に正式登録された。

 建築だけでなく、西洋音楽も植え付けられた。鼓浪嶼には600台を超えるピアノがあり、世界最古のスクエアピアノや最初で最大のアップライトピアノを保有する専門博物館があるだけでなく、数多くのピアノ演奏者や音楽家を輩出している。鼓浪嶼が生んだ音楽家たちは毎年音楽祭で故郷に戻り、各種コンサートを開いている。

■ 華僑文化 – 騎楼


 廈門は西洋の文化を受け入れただけでなく、華僑がもたらした東南アジアの文化も色濃く残している。中でも南洋の風情漂う騎馬楼建築が際立っている。

 騎楼建築は、「南洋貿易」に密接に関連している。近代、南洋貿易の拡大で福建省から多くの人々が「南洋」と呼ばれる東南アジアへ渡った。騎楼は帰郷した華僑によって建設された。騎楼の大規模建設は1920〜30年代に集中している。騎楼は典型的な外廊式建築で、通り側には商店が並び、廊下は日よけと雨避けの機能を果たし、背街側には民家が立ち並ぶ。

 特に旧市街区や中山路には、1920年代の騎楼が多数残り、百年の歴史文化を誇る街として、観光客を魅了している。

■ 観光都市発の新世代コーヒーチェーンブランド – ラッキンコーヒー(瑞幸咖啡)


 廈門の観光業は福建省で最も成功し、国内外からの観光客が、2019年には1億人を超えた。新型コロナウイルスの影響により大きな打撃を受けたものの、2022年の訪問者数は2019年の64.6%まで回復している。

 近年この観光都市から、ラッキンコーヒーという革新性に富んだコーヒーチェーンが生まれた。2023年9月、白酒の茅台とのコラボレーションによる「醤香ラテ」の全国発売が大きな話題を呼んだ。初日に542万杯以上が売れ、売上高は1億元を超えた。廈門に本部を置くこの企業は、2017年に北京銀河SOHOで初の店舗を開業し、その後わずか18カ月でアメリカのナスダック(NASDAQ)に上場した。2020年6月には財務不正問題で退場を余儀なくされたものの、退場から21カ月で黒字化を実現し、逆境を乗り越えた。

 ラッキンコーヒーは、スターバックスと違い、カフェにある社交の場を提供せず、座席もなく、限られた空間で一日に数百杯を売り上げる。ラッキンコーヒーは消費者がアプリやミニプログラムを通じて注文し、店舗で受け取る「インターネットコーヒー」のモデルを確立し、オンラインとオフラインのハイブリッドを実現し、成功している。

 2023年10月末時点で、ラッキンコーヒーの国内店舗数は1万3,000店を超えた。店舗数、営業収入において、20年以上中国市場で事業を展開するスターバックス・チャイナを上回る。

 2023年、ラッキンコーヒーは、全世界のユニコーン企業1,360社の中で130位にランクインし、評価額は400億ドルに達している。

 起業精神旺盛な廈門の「ユニコーン企業」は中国第18位となっている。盛んな飲食業と観光業により、「ホテル飲食業輻射力」は中国第8位と、トップ10入りを果たしている。


【対談】小島明 Vs 周牧之(Ⅱ):ムーアの法則駆動時代をどう捉えるか?

2023年12月7日、東京経済大学でゲスト講義をする小島明氏

■ 編集ノート:

 小島明氏は、日本経済新聞社の経済部記者、ニューヨーク特派員・支局長、経済部編集委員兼論説委員、編集局次長兼国際第一部長、論説副主幹、取締役・論説主幹、常務取締役、専務取締役、日本経済研究センター会長、政策研究大学院大学理事を歴任、日本記者クラブ賞、ボーン・上田記念国際記者賞を受賞。新聞協会賞を共同受賞。

 東京経済大学の周牧之教授の教室では、リアルな学びの一環として第一線の経営者やジャーナリスト、官僚らをゲスト講師に招き、グローバル経済社会の最新動向を議論している。2023年12月7日、小島明氏を迎え、講義をして頂いた。

※前半はこちらから


ムーアの法則駆動時代に遅れをとった日本


小島:スイスの研究機関IMDが、毎年国別デジタル競争力ランキングを出している。日本のデジタル競争力は、最新データで30位に入ってない。昨年は28番、今年は32番まで落ちた。

周:その理由は?

小島:今のシステムを変えず、部分的に運用を変えているだけだからだ。時代のニーズ、マーケットに合わせシステムそのものを変えないとうまくいかない。

 例えばマイナンバーカードが普及しない理由は便利でないからだ。「マイナンバーカードがあれば、コンビニで住民票や印鑑証明を出せる」というが、ほとんどの国は住民票、印鑑証明などの書類はすでに必要ない。自分のIDナンバーを入れれば自動的に行政手続きを済ませられる。デジタルで行政手続きができるか否かの比較をOECDで実施したら、30数カ国の行政手続きのうち6割は全部ネットだけで出来た。日本はメキシコより下位だ。紙をプリントアウトし束ねて印鑑を持って役所へ行かなくてはならない。

 韓国も日本よりデジタル化が進んでいる。韓国は1998年に財政が破綻しデフォルトになりかけてIMFが介入した。予算は減り赤字が膨らみ役人の数を減らしたが、行政ニーズはあるため残業しても追いつかない。そこでデジタル化を進めた。書類への署名や発行がなくなり全部ネットでできる。

周:1980年代の初め、アルビン・トフラーの『第三の波』が出た当時大学生だった私は、読んで興奮した。凄かったのは、トフラーの未来社会予測がほとんど当たったことだ。素晴らしい想像力だった。

 私は工学出身でベースはITだ。その世界にはムーアの法則がある。後にインテル社の創業者のひとりとなるゴードン・ムーアは1965年、半導体集積回路の集積率は18カ月間(または24カ月)で2倍になると予測した。これがトフラーの未来社会予測の想像力の源泉だった。

 ムーアの法則を信じ、多くの技術者出身の企業家がリスクテイクして半導体に投資し続けた結果、半導体はほぼムーアの法則通りに今日まで進化した。結果、世の中は急激に変化した。

 私は、この間の人類社会は「ムーアの法則駆動時代」だと定義している。しかし、日本では、高級官僚も大企業の役員も法学部出身者が多く、世の中が日々著しく変わることが理解できない。規制と人事で世の中を動かそうとしている。

小島:依然として日本は、成功体験だった20世紀型産業経済、ものづくり経済を続けようとしている。当時日本はアメリカの自動車産業を脅かす程ものづくりをした。イギリスの産業革命から始まったものづくり競争の最終段階で、日本は一応成果を収めた。ところが、ピークに至ってムーアの法則が生きる情報社会になり、新しいパラダイムが始まったにもかかわらず日本は20世紀型産業のままいこうとした。今のアメリカのスタートアップ企業は企業価値の7割は無形資産だ。日本は7〜8割は有形資産で、もの中心だ。

 日本はバブル崩壊で七転八倒した金融危機の1995年あたりが、グローバルに見てインターネット元年だった。アメリカと日本の経済競争も、アメリカは自動車等ものづくりの世界では日本にかなりやられたが、デジタル、情報サービスという新しい世界でスタートアップできた。これに対してドラッカーは「日本は終わった戦争を依然として戦っている」と言った。

アルビン・トフラー(1982)『第三の波』中公文庫

■ ムーアの法則駆動産業になった自動車産業が大変貌


周:問題は、ものづくりもムーアの法則に染められてしまうことだ。電子産業はまさしく最初にムーアの法則駆動産業になった。電子産業は1980年代以降、世界で最も成長が速く、サプライチェーンをグローバルに展開する産業となった。電子産業のこうした性格が、アジアの新工業化をもたらした。これを仮説に私は博士論文を書いた。

 今や、電気自動車(EV)もムーアの法則駆動産業になった。猛烈なスピードで進化している。ガソリン車の王者であるトヨタは最高益を更新しているが、実際は大変なピンチだ。 

小島:完全にトヨタが読み違った。バッテリーが弱いからEVは売れないと思っていたがイノベーションが進んだ。今なって投資し、企業を買収している。実際にEVを大量生産できるのは2026年と言うのでだいぶ先の話だ。

周:EVのこれからの主戦場はバッテリーよりAI駆動の自動運転だ。テック企業のバックグラウンドがあるテスラや、小米、華為など自動車新勢力はこの分野に賭けて莫大な投資をしている。旧来の自動車メーカーにとってそこまで理解できているか否かが将来を左右する。

小島: iPadの値段を例えば500ドルとする。500ドルで売ったものをどの国がどう手に入れているか。重要な部品をドイツと韓国と日本が作る。部品がなければ製品はできない。だが部品を全部合わせて161ドルだ。中国は大量に作っているから、掛け算すると収入は多いように見える。だが、取り分は1台あたり6ドルだ。収入の大半はデザインしたアメリカへ行ってしまう。製造業に絡むスマイルカーブは今、急速に進み、デザインをしたところが儲かっている。

周:いまは大分状況が変わっている。華為がiPhone15の対抗馬として2023年9月8日に発売したMate 60 Proは主要な半導体からOSまで全てが国産になっている。

 電気自動車では、さらに中国がリードしている部分が多い。中国自動車産業の新勢力はEVの一番大切な部品であるバッテリーの競争力を非常に重視している。現在、世界で車載バッテリーの主導権を最も握っているのは中国企業だ。昨年テスラを超え、EVの世界最大手になったBYDは元々バッテリーメーカーだった。前述したようにEVの究極の生命線は、自動運転だ。そこも中国企業がテスラとしのぎを削っている。さらに、華為も小米もBYDも、ブランドとデザインを重視している。そして周辺の部品産業に投資し、コントロールできるようなサプライチェーンを再編している。

ムーアの法則駆動時代

■ 自分をマネージメントする時代に


小島:ドラッカーは組織のマネジメントを議論したけれども、これからの問題は、自分自身のマネジメントだ。企業など組織の寿命より人間の寿命が長くなった。これは人類史上初めてだ。企業の経営は企業がやればいいが、1人1人が自分をマネジメントすることが必要だ。自分でチャレンジし学ぶべきものを絶えず考え、自ら鍛え続ける癖をつけるのが学生時代だ。若い人には将来のチャレンジ、自分自身のマネジメント、人生マネジメントをしっかり行い、大学の体験をベースにし、本当の意味の生涯学習、リスキリングを続けてほしい。

 人間の寿命は伸び、社会システムの改革も必要だ。そうでないと医療費も医療制度もパンクし若者に負担が来る。 

周:その通りだ。今までの60歳定年は工業時代の労働年齢だ。

小島:筋肉が衰えて使えなくなるというので定年になった。いまは筋肉ではなく頭脳だ。ドラッカーも95歳まで原稿を書いて現役だった。

周:生産年齢を100歳までとして、人生設計しなければならない(笑)。

小島:日本は中途半端な制度だ。定年延長ではなく雇用延長という言葉を使っている。定年延長では賃金も減らせないので企業は反対するからだ。今の世界の流れは、定年廃止だ。ノウハウや能力を持つ人なら80歳でも雇用される。定年廃止とは、年齢を雇用の条件にせず、能力で評価することだ。日本の企業は圧倒的多数が60歳定年だ。私が学生時代のときは55歳定年だった。55歳定年は90年前に生まれた。三井の大番頭が、従業員に55歳まで働いていいと言った当時、日本の平均寿命は40代だったからつまりは終身雇用だった。日本の寿命はその後、倍になったが、定年は55歳から60歳にしか伸びていない。“終身”でなく“半身”雇用になってしまった。このギャップが人々のやる気をなくす。

 企業に雇用延長がなく80歳でも何歳でも働けて、年齢だけで区別しない制度になれば、いろいろな人がチャレンジできる。賃金体系も若い頃の安賃金から段々良くなるのでなく、仕事ができる人は最初から高水準であるなど労働価値が雇用主に判断されるようになればいい。

 新しいノウハウを持つ人には最初から社長クラスの給与を出していい。年齢だけで給与を決めているから、有能な人が割り込む余地がない。負担だけが大きくなる。インセンティブも失くしてしまう。

周:日本的な組織の中で、個性や個人の能力への評価と、貢献への対価の支払いが非常に遅れている。

小島:自分でトレーニングし努力してチャンスを掴むことが大切だ。私の息子は52歳だが5回転職した。自分に合ったスキルを持ち、金融関係でファンドをし、転職するたびに年棒が上がる。その代わり凄く勉強している。そのように働く時代が普通になる。終生勉強しなければ完全に時代に取り残される。終身雇用時代ではなくなった。昔は銀行が一番安定し賃金が良いと言われた。今は銀行も数が減り従業員が必要なくなった。モルガン銀行はトレーダーが100人いたが数人になった。AIでできるから窓口は要らなくなっている。

 若い人には未来を見据え自己研鑽し、チャレンジしてほしい。人生100年、時代の先端でやれるような自己研鑽の決意をぜひとも固めてほしい。そういう人がスタートアップもする。

ピーター・ドラッカー

■ 年金基金社会主義はいつまで続く?


周:ドラッカーはアメリカを年金基金社会主義国としている。その意味では日本もこれに当たる。ただ、GDPの三倍弱の借金を背負っている日本が年金基金社会主義国家としてソフトランディングできるのか。

小島:日本の手並みを世界が見ている。黒田元日本銀行総裁の金融政策は基本的に80%失敗だ。中小企業を救うため無担保無利子融資が政治の力で行われた。返済日が来れば、中小企業はパニックになる。政治が入りまた転がして貸してやれという話になる。本来は生き残るべきものが生き残り、ダメなものは撤退しなければならない。従業員は能力があれば、雇用機会があり移動できる。経営者は自己保身のためにしがみつく。

 日本の最近の財政は野党も与党もバラマキ競争で借金が増えている。カーメン・M・ラインハート(Carmen M. Reinhart)とケネス・S・ロゴフ(Kenneth S. Rogoff)がまとめた『国家は破綻する』は、過去800年の金融危機を分析し、「債務が膨張し悲劇を生んだ歴史から学ばず、危機を繰り返している」と警告している。

周:日本の選挙を見ていると、与野党共に、ばらまきを更に拡大するような政策を煽っている。これではいずれ借金で破綻する。そうなると、今まで積み上げてきた年金基金社会主義も破綻する。

小島:日本のGDPに対する政府債務は270%ぐらいになった。日本は第二次世界大戦時に軍部が金を使い、それを日本銀行に信用をつけさせて借金を増やした。今はそのときのピークをはるかに超えている。この借金をどう調整するか?日本の対応を注視している専門家は多いはずだ。間違うとえらいことになる。第二次大戦後後、大インフレが起こり、お金の価値がなくなった。新円発行で古いお札はもう使えず、新札は基準価値が全然違った。高額紙幣を500万円持ったとしても、10枚だけしかお金が使えなかった。敗戦でGHQ占領が入ってくる異常な状況だからできた。預金も封鎖、預金も下ろしてはいけなかった。そういうことは今の民主主義時代はできないから、マーケットにその圧力が全部来る。マーケットがどう吸収し、どう調整するかが大変難しい問題だ。

カーメン・M・ラインハート、ケネス・S・ロゴフ(2013)『国家は破綻する―金融危機の800年』日経BP

■ アジア金融危機はグローバルなキャピタルシステム危機


小島:次の5年間日本はどうなるか。学ぶべきものは、中国にとっても、どこの国にとっても大変多い。特に最近の変化は大きい。1800年代の中国、インドのスーパー経済大国時代は別として、その後のアジアは植民地化され停滞があった。歴史的には、アジア的低成長の議論が欧米では主流だった。しかし、1970〜80年代、アジアの新工業化はNICS、NEIS、そしてASEAN全体に広がった。1993年には世界銀行のリポートで、アジアの奇跡論が謳われた。その後1997年にタイを起点としてアジア通貨危機があった。突然の危機を予測も説明もできなかったとき、コネや縁故主義のアジア経済社会だから危機が生じたと言われた。純粋なマーケットではなく、アジアの縁故主義を病理として通貨危機が起きたという議論だった。

 しかしアジアはこの危機の後、短期間で急発展した。その急激な回復は、こうした病理説では説明できない。1999年にはロシアのデフォルトになる。それがきっかけにアメリカの中堅ヘッジファンドが破綻し、危機がウオール街まで波及した。アジアだけでなくグローバルな破綻につながった。現実に起こっている変化が、そのときに主流だった議論をどんどん追い越した。あるいは理論が追いつかなかった。となると、現実に何が起こっているかをしっかり観察することが大事である。

周:ドラッカーが言う「すでに起こった未来を」を確認することが大切だ。さらにそれをきちんと理論的に整理することが求められる。

小島:たまたまアジア危機の翌年、1998年1月、ダボスの会議でジョージソロスと一緒に食事をした。「アジア危機はどうか」と問うと、「これはアジア危機ではない。これはグローバルなキャピタルマーケットの、あるいはキャピタルシステムの危機である」と言った。従来は物の生産、流通、消費で、ものを中心に経済が動いてきた。もの作りの企画をし、デザインをし、工場を作り、それで部品を集め、組み立て、完成品を販売するには時間がかかる。

 しかしお金の世界は違う。金融の世界は瞬時に何億ドルという金が動く。ものの経済とお金の経済は、ベースになる価格形成のメカニズムが違う。お金の価格は、金利であったり、為替レートであったり株価だったりする。お金の世界は、マーケットがあると、おびただしい資金がそこで動く。デザインして加工し生産するのでなく、瞬時に需給が出てくる。ある情報がマーケットに出てくると価格が形成される。それは新しいレベルの為替レートであり、新しいレベルの金利である。それが出た瞬間また新しい情報が流れる。

周:新工業化で成功をある程度おさめたアジアの諸国は、こうした金融世界の恐さに対抗できる知識、体力、そして制度整備が必要である。

ジョージ・ソロス

■ 歴史の中で見たアジア新工業化


小島: ヨーロッパの経済学者アンガス・マディソンがOECDと共に『ワールド・エコノミー』という本を書き、過去1000年以上遡り、各国地域のGDPや人口を分析した。

 同書によると、中国の人口は今13億、西暦1820年は中国人口が3億人、インド人口は1億何千万人だった。1820年時の世界経済の中で中国のウエートは実は29%あった。インドは10数%、中印合わせて世界GDPの40数%を占めていた。当時日本は3%ぐらい。今の先進国ではフランスが7〜8%で高かった。アメリカはまだインディアンと戦っていた頃で日本より少なかった。

 その後、イギリス発の産業革命でヨーロッパに工業力が付き、植民政策が始まり、アジアが植民地化され、生活の中での経済のウエートが下がった。植民地から独立し、自国の経済社会を自ら動かし管理するようになった。

周:1840年のアヘン戦争は象徴的な出来事だった。イギリスが中国から茶を輸入し、生活に取り入れた。しかしイギリスは中国に売るモノが無く、長期に亘り貿易赤字になった。貿易赤字解消のため、植民地のインドから麻薬のアヘンを中国へ密輸入した。中国政府がこれを取り締まると、艦隊を中国に送って攻撃したのがアヘン戦争だ。

 経済力はあったものの、近代的な戦力を持っていなかった中国はその後急激に衰退した。新中国成立時は世界経済に占める中国のウエートは5%に落ちていた。

小島: 1991年、ソ連が崩壊し、日本はバブルが崩壊した。インドも経済危機に陥り、外貨準備を急激に失い、財政破綻状態になった。インドは、独立後ヨーロッパ的な制度を排除し、ソ連モデルを導入した。ところがソ連システムが合わなかった。ソ連崩壊を目の当たりにし、インド大蔵大臣のマンモハン・シンというオックスフォード大卒の優等生が、改革開放を始めた。

 翌1992年、中国では鄧小平氏が南巡講話をし、改革開放に思い切りアクセルを踏んだ。中国のリーダーはWTO加盟に必要な条件を満たすため、国内の諸制度を変える決断をした。それを見た世界が、変わろうとする中国とインドにどんどん投資をし始めた。中国に対する投資が圧倒的に多かった。1990年代、世界から中国への直接投資年間合計額が、第二次大戦後のマーシャルプランでアメリカが援助した予算と同額か、それ以上だったとデータにある。優良な資本、技術が入り、10年で中国が世界の工場となった。

周:1992年には中国の世界経済に占めるウエートは最低の1.7%まで陥った。思い切った改革開放をしなければならなかった。

小島:ソ連崩壊は経済分野では歴史上劇的な出来事だった。経済の世界は、国と国が国境を厳しくし競争しているときは重商主義だ。全部自国で作り、売るマーケットが必要な為、商船隊が出る前に軍艦が動いたのが重商主義時代だ。文句があれば軍艦を使った。

 そんなシナリオは第二次大戦後に終わり、自由貿易になった。直接投資は当初は大きくなかったものの、冷戦終結以降1991年を境に、世界経済のダイナミズムは国境を越えた直接投資になった。

 アメリカは直接投資を出す方と、受け入れる両方だったが、中国はとにかく受け入れた。受け入れて生産能力と技術を輸入した結果、30年で中国は今のような「世界の工場」になり、輸出大国になり、貿易面で大発展した。

 日本はバブルがはじけ、その間、国内投資はあまりせずに余分な金があると海外に投資した。日本国内はほとんどゼロ成長だったが、この30年間、中国、インド、ASEAN諸国その他アジア各国に投資をし、それを受け入れた国が発展した。ダイナミズムは直接投資だった。

周:中国、インド、ASEAN諸国の新工業化をもたらした最大の原動力は情報革命だ。私はこれをテーマに『メカトロニクス革命と新国際分業―現代世界経済におけるアジア工業化』と題した博士論文を書いた。ムーアの法則の駆動で、サプライチェーンが猛烈な勢いでグローバル的に展開した。さらに、は初めてのムーアの法則駆動型産業として、爆発的に成長した。それがアジアの新工業化につながった。もちろん直接投資は大きな役割を果たした。

周牧之(1997)『メカトロニクス革命と新国際分業―現代世界経済におけるアジア工業化』ミネルヴァ書房

■ アメリカの経済的「脅威」は日本から中国へ代わった


小島:ヨーロッパの歴史家が書いた『リオリエント』という本がある。アジアが再び新しい発展をし、新しい方向に行くという内容で、ヨーロッパ中心、西洋中心の世界史を、アジアを入れたものに変えていく必要があると述べて話題になった。

 現在中国とアメリカで経済貿易摩擦が起こっている。私が現役で新聞を書いていた頃、アメリカにとって中国は問題の相手ではなかった。ニクソンの1972年訪中は、キッシンジャーが準備立てた。当時アメリカの発想はパワーポリティクスでソ連を牽制するため中国を友として応援し、バランスを取るために米中交流が始まった。軍事的脅威は唯一、ソ連だった。

周:米中の急接近は当時双方にとっても切実な事情があった。ゆえに一気にハイレベルの関係になった。私はハーバードのエズラ・ボーゲル教授にアメリカは当時の米中関係をどう位置づけたかを聞いた。ボーゲルは、キッシンジャーが準同盟関係と言っていたと答えた。

小島:その後経済の問題が1970年代後半からアメリカにとって重大になった。1971年は、ニクソンショックがあった。ニクソンがいきなりドルはもう金と交換しないとし、輸入課徴金を課し、また、日本の円や、ドイツのマルクを大幅に切り上げると一方的に言い始めた。アメリカの貿易が、構造的に赤字になってしまった。1970年代後半から1980年代に、日本と米国には大変多くの交渉が行われ、摩擦が酷くなった。思い出すのは1985年のプラザ合意だ。為替レートが急変動した。それを演出したのはアメリカだった。為替を大幅に動かして日本の対米輸出競争力にチェックをかけようとした。

 アメリカは第二次大戦で、国土が戦場にならずに戦勝国になった唯一の国だ。ヨーロッパや日本やアジアがガタガタになった中、アメリカは産業力が完全に維持され、唯一の大製造業国家となった。貿易は圧倒的に黒字で、作るものは沢山あった。しかし売る相手がいないとして他国を援助しマーケットにした。

 ところが、アメリカは1970年代初めに貿易が構造的に赤字になり、1980年代に貿易以外のものも赤字になりパニックになった。プラザ合意があった年、シカゴに外交評議会というニューヨークの外交評議会の姉妹組織が世論調査をした。現在のアメリカの脅威は何か、という世論調査だった。ソ連の軍事的脅威と日本の経済的脅威を並べ、どちらが一番アメリカで深刻な脅威かと聞いた。結果、日本からの経済的な脅威がトップになった。酷くなった日米摩擦を抑えようと為替レートなどで様々な交渉があった。日本との戦争が近いなどという本さえアメリカで出てきた時代だった。

周:1980年代のアメリカの日本への態度は、いまのアメリカの中国に対する態度とかなり似ているところがある。

小島:1985年、中国のアメリカに対する赤字はアメリカにとって全く問題なかった。もっぱら最大の赤字の対象は日本だった。摩擦が続き、プラザ合意の後は日本が不況になり、それに対応するために金融緩和しすぎてバブルが生じた。1991年にソ連崩壊があり、アメリカにとっての赤字の相手は中国になった。現時点で日本は脅威の対象から外れた。

エズラ・ボーゲル教授と周牧之教授

■ 時代を読む力が運命を決める


小島:国の経済を分析し、政策を考えるときに自国だけで考える時代ではなくなった。歴史の流れの中で考える、あるいはグローバルな位置づけを考える。世界をどう見るかを織り込んで考える必要がある。

周:時代の変化に対応するには、時代を読む力が極めて重要だ。

小島:ドラッカーは2005年11月に95歳で亡くなった。同年の3月まで、クレアモント大学で教鞭をとっていた。生涯現役の教師だったドラッカーが1989年、80歳の時に書いた『新しい現実』という本がある。1989年出版時、まだ誰もその後ソ連が崩壊すると思ってなかったとき、ソ連が確実に崩壊過程にあるとドラッカーは断言していた。

 出版社が、ヘンリー・キッシンジャーにブックレビューを頼んだ。ところが、キッシンジャーが断った。ソ連の崩壊はありえないと思ったのだろう。キッシンジャーによる書評が叶わなかったが、出版2年後の1991年にソ連崩壊が現実になった。

周:キッシンジャーですらドラッカーの時代を読む力に付いていけなかったエピソードだ(笑)。

小島:ドラッカーは一つの領域の専門家というよりは、トータルで人間社会を考え、人の価値観を考え、歴史を考える人だった。

 初めて原稿を書いたのは20代半ば、本が出たのは29歳だ。当時ヒットラーが力を持ち、ヨーロッパ中がナチズムで蹂躙されていた。ドラッカーは「これはおかしい」と全体主義の研究をし、ヒトラーにインタビューした。全体主義について、イデオロギーが問題だと意識し、敵を倒した後は自分自身が矛盾により内部崩壊するとのロジックを基本とした本だ。

 ドイツで見つかったら処刑されるので、原稿を持ってイギリスに逃げたものの良い仕事がなかった為3年後にアメリカに移民し、出版社を見つけ出版した本が今も読まれている。ウィンストン・チャーチルがこの本を絶賛し、イギリス首相になってから同書を、士官学校卒業のエリートに「これは人生で一番の本だから大事に読め」と毎年プレゼントした。

周:あの傲慢で知られるチャーチルが若きドラッカーをそこまで賞賛した。ドラッカーが偉大だったのは、政治的、制度的にファシズムやソ連の行き詰まりを予言しただけでなく、知識社会の到来も予言し、社会や組織、個人の知識社会への向き合い方を研究したことだ。

 いま、ムーアの法則駆動時代への理解如何がまさしく国、企業そして個人の運命を左右する。

講義をする小島氏と周牧之教授

プロフィール

小島明(こじま あきら)/日本経済研究センター元会長

 日本経済新聞社の経済部記者、ニューヨーク特派員・支局長、経済部編集委員兼論説委員、編集局次長兼国際第一部長、論説副主幹、取締役・論説主幹、常務取締役、専務取締役を経て、2004年に日本経済研究センター会長。

 慶應義塾大学(大学院商学研究科)教授、政策研究大学院大学理事・客員教授などを歴任。日本記者クラブ賞、ボーン・上田記念国際記者賞を受賞。新聞協会賞を共同受賞。

 現在、(一財)国際経済連携推進センター会長、(公財)本田財団理事・国際委員長、日本経済新聞社客員、(公財)イオンワンパーセントクラブ理事、(一財)地球産業文化研究所評議員

 主な著書に『横顔の米国経済 建国の父たちの誤算』日本経済新聞社、『調整の時代 日米経済の新しい構造と変化』集英社、『グローバリゼーション 世界経済の統合と協調』中公新書、『日本の選択〈適者〉のモデルへ』NTT出版、『「日本経済」はどこへ行くのか 1 (危機の二〇年)』平凡社、『「日本経済」はどこへ行くのか 2 (再生へのシナリオ)』平凡社、『教養としてのドラッカー 「知の巨人」の思索の軌跡』東洋経済新報社。

【対談】小島明 Vs 周牧之(Ⅰ):何が「失われた30年」をもたらしたか?

2023年12月7日、東京経済大学でゲスト講義をする小島明氏

■ 編集ノート:

 小島明氏は、日本経済新聞社の経済部記者、ニューヨーク特派員・支局長、経済部編集委員兼論説委員、編集局次長兼国際第一部長、論説副主幹、取締役・論説主幹、常務取締役、専務取締役、日本経済研究センター会長、政策研究大学院大学理事を歴任、日本記者クラブ賞、ボーン・上田記念国際記者賞を受賞。新聞協会賞を共同受賞。

 東京経済大学の周牧之教授の教室では、リアルな学びの一環として第一線の経営者やジャーナリスト、官僚らをゲスト講師に招き、グローバル経済社会の最新動向を議論している。2023年12月7日、小島明氏を迎え、講義をして頂いた。 


「日本の失われた30年」の三つの原因


周牧之:最近話題になっているのは、「日本の失われた30年」が中国で繰り返されるのかどうかだ。私から見ると「日本の失われた30年」には原因が三つある。一つは消費税だ。消費税ではなく交易税という名にすべきだった。買い物をするときだけに払う税金だと思いがちだが、すべての交易にかかる税金だ。

 アダム・スミスの『国富論』第1章は分業論だ。グローバリゼーションが1980年代から進み、各国の関税は軒並み低くなった。国内で取引するたびに消費税を取られることが、国内における分業を妨げ、海外との分業を後押しした。日本はその交易税的な本質を見極めず1989年に消費税を導入した。その後バブルが崩壊し日本経済は長い停滞期に入った。

 二つ目はデリスキングの経営思考だ。大手企業、財界を見て強く感じるのは、経営リスクを取らないサラリーマン社長が多いことだ。リスク負いを避けたい人が多い。1989年平成元年の世界時価総額トップ10企業には日系企業が7社もあった。しかし時代が急変し、現在同トップ10社に日系企業の姿は無くなった。代わりにイノベイティブなスタートアップ企業が8社入っている。全て創業20〜40年のテック企業だ。これに対して、日本ではイノベイティブなスタートアップ企業が少ない。現在、日本の時価総額トップ30企業の平均創業期は1919年で、平均年齢は100歳を超えている。

小島明:その通りだ。

アダム・スミス

:三つ目は小選挙区制の導入だ。小島先生が信奉するドラッカーの発想の根底には、「すでに起こった未来」を確認することがある。ドラッカーは人口動態問題も知識社会の到来も世間に伝えた。その意味では日本にとって大切なのは現状をいち早く確認し、対処に取り取り掛かることだ。ドラッカーに関する小島先生のご著書には「日本は組織のイノベーション、社会のイノベーションがあまり問われない」とある。大変革時代に日本で組織的社会的なイノベーションが問われない理由は、小選挙区制の導入により政治力、政治家の質が劣化したからだ。時代変革の確認ができず、社会、組織のイノベーションが進まない。 

小島:周先生が言う「日本の失われた30年」の原因の、二つ目と三つ目は100%同意だ。一つ目は半分賛成。アメリカやヨーロッパには消費税という名でないセールスタックス或いは付加価値税と言われる税がある。各取引段階で、ダブらないよう調整する税だ。税率は、日本では10%。ヨーロッパだと25%。消費者個人の租税負担率では日本の方が低い。分業がうまくいかない最大の問題はリスクテイクができないことだ。

周:ここ数年多くの企業家から話を聞いた。「商売していて10%利益を上げることは大変なのに、取引するたびに税金が10%とられ、たまったものではない」と言う。欧米諸国も生産過程で取引するときに消費税が発生するなら、必ず国の産業空洞化につながる。

 消費税にしても小選挙区にしても、導入過程での議論の際に比較対象を間違い易い。日本は1億3,000万の人口がある。ヨーロッパ、特に北欧には小さい国が多い。日本は、自国の10分の1も無い人口規模の国の政治制度や税制度を国の制度改革モデルとする際、人口規模の桁違いを意識すべきだった。

 昔中国も同様なことが起こった。秦の始皇帝が中国を統一したものの十数年で崩壊した。諸説あるが、始皇帝が秦の制度を中国全土に一気に拡大させ、機能不全が起こったのが原因だ。桁の違う国土と人口の制度設計を簡単に一緒にして議論するのは危険だ。

小島:税金を払っても生きていける体力があるかどうか。

:税には良税と悪税の二種類ある。私は資産税を悪税ではないと考える。しかし取引税は分業を妨げる悪税だ。特に今の時代、関税が限りなく低くなっており、国内での取引税は海外との分業を推し進め、空洞化を産む。グローバリゼーションの観点からすれば悪い話では無いかもしれない。

小島明(2023)『教養としてのドラッカー 「知の巨人」の思索の軌跡』東洋経済新報社

■ ゾンビ企業の生き残り作戦


小島:リスクの問題について言えば、日本にはバブル崩壊後に収益を上げた企業があった。しかしその多くは新しい事業を始めたのではなく、人件費をカットした企業だ。人件費カットの仕方はボーナスを出さず、ベースアップをなくし、正規社員の2分の1か3分の1の賃金で働く非正規の人員を増やす、など様々ある。バブル崩壊前、全労働人口のせいぜい15%が非正規だった。今は非正規が4割近くにのぼり、企業側は人件費が節約できる。借金を返し、海外に行かず、投資はしないからビジネス機会が生まれない、雇用も増えない、賃金も上がらない。

:つまりリスクをとって積極的な投資とイノベーションで利益を出すパターンではない。

小島:リスクテイクをする資本家や企業経営者がいなくなった。バブルが崩壊し、金融機関までおかしくなったのは日本にとっては初めての経験だ。

 とくにデフレが始まった1998年の前年末に三洋証券が破綻し、北海道拓殖銀行などの銀行が潰れた。銀行が貸しはがしをし、投資を一生懸命やろうとした企業に、「お前のところは儲かっているから貸した金を返せ」と迫った。経営がダメな赤字の会社は返す金がない。そこを貸し倒れにすると帳簿上、金融機関の損になる。その損を出したくないから転がして追い貸しをする。儲かっている企業から現金を回収し、経営が駄目なところに転がしてやる。日本企業の99%が中小企業と分類されている。政治も中小企業は弱者だからと助け、銀行は追い貸しでいいから貸せと言った。結果、やる気がなく儲からず普通は持続できない企業が長生きしている。

 これはゾンビ企業だ。新陳代謝ができない。この分野は不必要、或いは続けたいが黒字の見通しなく赤字だという企業を援助すれば、経営者から政治家に給付金や献金が来る。日本のバブル崩壊後の対応として本来ゾンビ企業は市場から撤退させ、新しい人材や資本で新たな可能性を広げる必要があった。ところが、ゾンビ企業にカネが使われてしまった。国の財政もゾンビになった。バブルがはじけ不況が長引き事業転換しないと経営が苦しくなる。人件費節約を経営テーマにし、人事部や総務部など国内派が主導した。投資についても支出で収益が減るから投資しない。銀行からの借金は全部返す。株主がうるさいから自社株買いで買い戻す。全体のマーケットにおける株の供給が減るから値段が上がり株主だけでなく役員、従業員も株でもらえる。

:その結果、日本企業には、積極的な投資とイノベーションで新たな製品やサービス、マーケットを創出する勢いがなくなった。

1990年代末における日本の証券会社

■ チャレンジしない組織体質


小島:日本の場合はボトムアップではない。社長が人事権を持ち、人事が気になる社員が社長の顔色をうかがいながら仕事をする。社員みんなの意見聞いて社長がそれに従うのではなく、人事権を通じた徹底的なトップダウンだ。日本では、上場も非上場企業もバブルがはじけた後に怪我せずリスクを取らず、生き残った人が企業のトップになった。人事部、管理部など内部をやった人たちだ。海外でビジネスをし、マーケットを開いた人は、なかなかトップになれない。

:第一線で頑張っている人たちが評価されず、トップにも入り難い。これが企業の経営に大きな影響を及ぼしている。

小島:経理屋、人事屋は、新しいアイディアが下から来ると、マイナスだ、危険があると列挙し、やってみなければわからないのに可能性を考えずネガティブなことだけ列挙した。

 日本からベンチャーは出難い。ベンチャーキャピタルは銀行が作った子会社だ。銀行は絶対リスク取らず、貸したら必ず担保を取り、企業は潰れても担保の不動産はもらう。つまりリスクを取らないビジネスをやっている。いわゆる投資銀行は日本にないため、大蔵省の制度がそうしたやり方で、技術が海外にあれば技術をもらい、確実にこの技術を使えるとなるとカネがつく。ノーリスクでできると考えたからだ。

 技術のリスクは、例えば海外で鉄鋼生産、造船、自動車などそれぞれの国が既にリスクをクリアした産業を、日本が導入した。だから先行した国の後で動かせばいいだけだった。リスクテイクはしなかった。リスクの語源は古いイタリア語から来ていて、可能性にチャレンジする意味だ。可能性、将来性だ。今、日本はリスクというとネガティブにとらえ背を向けて逃げる。オーナー企業の経営者には一部まだリスクテイカーがいるが…

:森ビルの森稔社長は、中国でリスクを取って大きなビルを上海で建てた。大勢の人にやめた方がいいと言われても、やり遂げた。結果、大成功した。

小島:そうだ。人事部が取り仕切る企業は社長がこうしたリスクを取らない。日本は第二次世界大戦後に一時勲章制度を無くしたが、復活させた。勲章をもらうには産業、経済団体のトップにならないと難しい。このため団体トップの順番を待つから、日本は老人支配の社会になる。今の経済人は年を重ね経営能力を失っても会長、名誉会長、特別顧問として会社に居続ける。亡くなるまで社内に自分の部屋があり、秘書に支えられゴルフをする。次の人はその人たちから選ばれるから、誰も辞めさせられない。人事で動く世界だから、ボスの顔をいつも見ている。社長の仲間ばかりが上に行く。海外に出張し海外事業で成功しても数字上でしかトップはわからない。

 日本はリスクを取らない。リスクは潜在的な可能性を持ち、もとより危険なものだ。リスクマネジメントが重要だ。リスク評価とリスク管理の発想は、バブル崩壊後、日本から消えた。

森ビル「上海環球金融中心」

■ 個人が最大の価値を発揮できる組織を


:根底に必要なのは正しい組織論だ。ドラッカーの組織論は、マネージメントを定義した。組織の個人が最大の価値を発揮でき、価値を作り出すことができるのがいい組織だ、とした。

小島:人材はコストでなく、資産であるという発想だ。経営者がみな読んだ1973年出版の“経営のバイブル”とされた『マネジメント』の中で、ドラッカーが繰り返し強調しているのはこのことだ。日本はバブル崩壊後、人材がコストとみなされた。人は少ない方がいいし、賃金は安い方がいい。

:誰にでも取り替えができる人がいい人材で、人が辞めても同じ働きのできる人がいれば良しとする考え方が日本には根強い。昔の工業時代の人材の価値の見方だ。ドラッカーが言う知識社会の発想ではない。知識社会は個性が大事だ。

小島:その通りだ。

:本来、組織の中で権力はいらない。権限とは権力ではなく責任だ。それが今の日本の組織の中では、逆になっている。

小島:本当にそうだ。いつの間にか逆になった。

 バブルがはじけた後の不良債権処理が長引き、銀行が駄目になった。プラザ合意の1985年、日本の投資率が高かったとき、企業は自前の資金が足りず銀行からどんどん借りた。ところがその後日本の企業は成長見通しを下げ、投資率は下がった。貯蓄率はそのままで貯蓄余剰経済になってしまった。金融機関は従来、頭を下げて金を預かったが、余るようになった。結果、リスクを取らない銀行は、土地さえ担保であればいくらでも貸し、それがバブルを生み出した。地価が暴落した。

 1985年から金融機関が資金余剰となり体質改善の必要が出た。ところが金融機関は未だに同じ体質のままだ。ベンチャーやリスクテイカーを応援することにはなっていない。例えばマイクロソフトのビル・ゲイツが日本で創業したいとなったら、日本では彼に金を貸す人は出てこなかっただろう。ゲイツが、私はアイディアを持っていると言っても有形の担保が無く自分のオフィスも無い。賃貸ビルで、自前の工場は持たず、委託生産だ。持っているのは無形のノウハウだけである。日本の従来の金融機関ではそれは担保と見做さないから、断っただろう。日本では起業家を応援する金融システムがない。社会のニーズに対応する金融システムのイノベーションが必要だ。

 イノベーションは単に、ものを新しく作るだけではなく、時代のニーズに対応できるシステムイノベーションが欠かせない。

小島氏とドラッカー氏

■ 元気な新しい企業が出てこない


周:平成元年の1989年、世界時価総額トップ10企業の中に日本の銀行は5社入っていた。その後これらの銀行は合併を繰り返し、いまや世界時価総額トップ100企業の中に1社も入っていない。

小島:100社内にいる日本企業はトヨタともう一社くらいだ。 

:ゾンビ企業は大問題だが、ゾンビ以上に問題なのは元気な新生企業が少ないことだ。いま日本の時価総額トップ30企業のうち1980年代以降に創立した企業はたった一社、ソフトバンクだ。

小島:企業の少子化、設備の高齢化、資本ストックの高齢化が、日本の資本主義の問題だ。

■ 小選挙区制の弊害


小島:小選挙区問題もするどい指摘だ。政治劣化の原因は、小選挙区と政党助成金だ。官邸が役人の幹部に対する人事権を持った。このため役人が何も言えなくなった。

:マスコミも批判しなくなった。日本は選挙で選ばれた人々が政治家に、勉強で選ばれた人たちが官僚になる。公務員試験に受かった人たちが責任ある立場に立ち、実績を作りながら上に行く。さらに企業家、学者、マスコミが加わって、互いにチェックし依存し合うシステムだった。ところが、小選挙区の導入で、政治一強、官邸一強となり、官僚もマスコミも小さくなった。

 財界も迎合する。経団連が消費税を推進している。不勉強なのか、立場を忘れているのか、財界が消費税という取引税を推進すること自体が不可解だ。

小島:小選挙区導入当時は、政治改革すればいいという空気の中で、反対すると守旧派と言われ、言論封殺される。小選挙区の結果、二世議員、三世議員が増えた。しかも、政党助成金の名目で税金から政治資金が各政党のトップに行く。自民党であれば首相と幹事長から「次は公認にしない」と言われれば、選挙に出られずカネも来ない。自民党の中にも、昔は宏池会などさまざま派閥があり、政策論争もやった。今は政策論争がなくなった。

: その意味では昔の方がずっとバランス良く面白かった。

小島:今の政治家は、個人的に話している時は「問題はある」と言うが、リスクは取りたくない。日本の政治は、今だけ、自分だけ、口先だけの「三だけ政治」だ。アメリカも反知性主義的選挙になっている。

 東京大学の学長だった佐々木健は「日本の民主主義は、選挙ファンダメンタリズムだ」と言う。選挙さえ通れば良く、選挙が頻繁にあって短命の政権になる。平成の30年間で日本は17人も首相が生まれた。平均寿命が2年もない。選挙でお礼回りし、少ししたら次の選挙の準備が始まる。宇野宗佑や羽田孜のように2カ月ぐらい或いは数十日しかもたない首相もいた。皆が順繰りにポストが回ってくるのを待つ。安倍政権も長期政権とは言えず、6回国政選挙があった。次の選挙が近ければ、選挙前のあらゆる政策は、次の選挙のプラスになることしかやらなくなる。3年我慢し、4、5年経ったら花が咲き、実がなるという政策が、いま全部お蔵入りし、選挙目当てのバラマキ政治になった。

周:明らかに制度設計のミスマッチだ。民主主義は主義だけでなく制度設計の知恵、知識が必要だ。間違った設計がされたら大変なことになる。ドラッカーが言う社会的イノベーションが必要だ。また、安倍長期政権の一つの理由は、その前の民主党政権が酷すぎたからだ。

小選挙区比例代表選挙・候補者ポスター

■ 百花斉放の自由政策が繁栄をもたらす


小島:失われた30年の原因について、もう一つ私が付け加えたいのは、行政のレギュレーション、規制の問題だ。司馬遷の史記の列伝集『貨殖列伝』に、良い政治は民がしたいようにさせ、次善の政治は民をあれこれ指導する、一番悪い政治は民と利益を争う、とある。古代の中国では自由なときには百花斉放があり、自由な議論があり、文化も経済も発展した。

周:歴史上、中国の繁栄期は全て百花斉放の時だ。漢の文帝・景帝の時代、道学をベースとした自由政策をとり、百花斉放を謳った。その結果、「文景の治」という大繁栄期を築いた。しかし武帝になると、規律規制を重視する儒学を国学とし、それ以外の諸学が排除された。政府が前面に出て対外戦争も次々仕掛けた。結果、漢王朝は一気に下り坂になった。司馬遷は漢武帝の政策に批判的だった。その反省も込めて良い政治、偽善の政治、一番悪い政治というジャッジメントをした。

 延安時代の毛沢東は百花斉放を提唱し、共産党の勢いを形作った。

小島:ところが日本は規制大国だ。総務省が調べたものに、法律、政令、省令、通達、規制、内規、行政指導がある。役所の書類には、少なくとも20種類の言葉がある。評価、認可、免許、承認、承諾、認定、確認、証明、臨床、試験、検査、検定、登録、審査、届け出、提出、報告、交付、申告。これを全部明確に定義できる役人は1人もいない。日本における行政の裁量性が今一番の問題になっている。

 日本がアメリカとの摩擦を起こしたものの一つに、弁護士事務所を認め法曹界を自由にしろという要請があった。ところが自由にしても、アメリカの法律会社は日本に入ってこない。見えない規制があるからだ。法文を見て弁護士がこれは可能だと考えても、「何々等」という言葉が付いた曖昧な法案だ。法律を解釈して理解できるのは半分だけで、残りは役人が裁量権を持つ。接待がバブルのときに頻発したのは役人による裁量行政があったからだ。役人の裁量、権限は、不透明かつ裁量性だ。どの範囲でどう解釈されるかで、企業の存亡が決まることが沢山ある。デジタルも共通の言語がない為、役所ごとに解釈が違う。例えば、デジタルの世界ではモノ作りは経産省、通信は総務省で、繋がっていなかった。

 日本は長らくIT(情報技術)論であり、ICT(情報通信技術)の発想でなく、C(通信)が抜けた発想の政策だった。

周:政治家や官僚だけでなく、日本の経営者も学者も規制を作るのは大好きになった。大学の教授会ですら規制作りの話が多い。結果、皆リスクが取れなくなった。

司馬遷『史記』

■ 優れた経営者はなぜ輩出されなくなった?


周:一昔前には森ビルの森稔、リクルートの江副浩正など日本には優れた起業家がいた。なぜいまいなくなったのか?森稔さんから江副氏とは同級生だと伺っていた。

小島:その人たちは特別だ。実はあまりそういう人はいない。立派なスタートアップ企業がこの30年なかった。唯一ソフトバンクがあるが、これは一種のコリアンブランドだ。小倉昌男が起こしたクロネコヤマトはイノベーション企業だ。彼は、あのモデルが成功したときに沢山の出版社から本書いてくれと言われたが書かなかった。自分がビジネスをやっている間は一切本を書かないと断った。その理由は、ビジネスリーダー、経営者は、あらゆる環境変化にそれぞれの判断でやる必要があり過去に縛られてはいけない、過去の成功体験や前例に捉われず、その都度、真剣な勝負をすることだと言った。

周:昨年50周年を迎えたぴあという会社も学生が作った企業だ。

小島:ぴあの創業者矢内廣が50年間ずっと社長をやっている。

周:立派なスタートアップが昔はあったにも関わらず、この30年はほとんど出ていない。

小島:問題は、技術のパラダイムが変わっているときに、過去の技術でやり続けていることだ。成功体験が今日本の制約になっている。組織内の新陳代謝、発想の新陳代謝が起こらない。行政も縦割りで前例主義になっている。

周:技術のパラダイムシフトに対して、社会のイノベーションが必要だ。

※後半に続く

講義をする小島氏と周牧之教授

プロフィール

小島明(こじま あきら)/日本経済研究センター元会長

 日本経済新聞社の経済部記者、ニューヨーク特派員・支局長、経済部編集委員兼論説委員、編集局次長兼国際第一部長、論説副主幹、取締役・論説主幹、常務取締役、専務取締役を経て、2004年に日本経済研究センター会長。

 慶應義塾大学(大学院商学研究科)教授、政策研究大学院大学理事・客員教授などを歴任。日本記者クラブ賞、ボーン・上田記念国際記者賞を受賞。新聞協会賞を共同受賞。

 現在、(一財)国際経済連携推進センター会長、(公財)本田財団理事・国際委員長、日本経済新聞社客員、(公財)イオンワンパーセントクラブ理事、(一財)地球産業文化研究所評議員

 主な著書に『横顔の米国経済 建国の父たちの誤算』日本経済新聞社、『調整の時代 日米経済の新しい構造と変化』集英社、『グローバリゼーション 世界経済の統合と協調』中公新書、『日本の選択〈適者〉のモデルへ』NTT出版、『「日本経済」はどこへ行くのか 1 (危機の二〇年)』平凡社、『「日本経済」はどこへ行くのか 2 (再生へのシナリオ)』平凡社、『教養としてのドラッカー 「知の巨人」の思索の軌跡』東洋経済新報社。

【天津】中国北方玄関口の直轄市【中国都市総合発展指標】第11位

中国都市総合発展指標2022
第11位



 天津は中国都市総合発展指標2022総合ランキング第11位であり、前年度から順位を1つ下げた。

 「経済」大項目は第9位であり、前年度の順位を維持した。3つの中項目で「都市影響」は第6位、「発展活力」は第8位であり、この2項目がトップ10入りを果たした。「経済品質」は第12位であった。小項目では、「広域中枢機能」は第5位、「都市圏」は第7位、「ビジネス環境」「開放度」は第8位、「経済規模」は第9位、「イノベーション・起業」は第10位と、9つの小項目のうち、6項目がトップ10入りした。なお、「広域輻射力」は第11位、「経済構造」は第13位、「経済効率」は第109位であった。「経済効率」は、「被扶養人口指数」や「1万人当たり失業者数」の悪化により、順位を大きく下げる結果となった。「経済効率」を除き、「経済」の成績は、各項目ともに全体的に高い結果となった。

 「社会」大項目では第11位であり、前年度の順位を維持した。3つの中項目の中で「ステータス・ガバナンス」は第5位、「生活品質」は第10位、「伝承・交流」は第14位と、3項目のうち1項目がトップ10入りを果たした。小項目で見ると、「都市地位」は第4位、「生活サービス」は第5位、「歴史遺産」は第9位、「人口資質」「文化娯楽」は第10位と、9つの小項目のうち、5項目がトップ10内にある。なお、「居住環境」は第15位、「消費水準」は第20位、「人的交流」は第22位、「社会マネジメント」は第12位であった。「社会」の成績は、全体的に高い結果となった。 

 「環境」大項目は第37位となり、前年度から順位を1つ上げた。3つの中項目の中で「空間構造」は第7位と1項目がトップ10入は果たしたが、「環境品質」は第162位、「自然生態」は第229位であった。小項目では、9つの小項目のうち、「都市インフラ」は第4位、「環境努力」は第8位、「コンパクトシティ」「交通ネットワーク」は第10位と、4項目がトップ10入りした。トップ10以下は、「水土賦存」は第136位、「資源効率」は第154位、「気候条件」は第211位、「自然災害」は第224位、「汚染負荷」は第225位であった。

 天津は、社会や経済と比較して環境のパフォーマンスが劣っている。近年は南の都市の勢いと比べ、社会と経済の成績も下降気味であり、都市間競争の中でやや苦しんでいる。


京津冀メガロポリスの臨海中心都市


 天津市は、中国の四大直轄市の1つであり、北京の玄関口として発展した京津冀(北京・天津・河北)メガロポリスの臨海中心都市である。元、明、そして清王朝時代は、江南から物資を運ぶ大運河の北京への入り口だった。現在は、渤海湾の港としての北京の玄関口となっている。さらに、洋務運動の時代に全国に先駆けて西洋から制度や技術を最も早く取り入れた窓口であった。

 天津市の面積は約11,917平方キロメートルで、日本の秋田県とほぼ同じ面積にあり、2021年の人口は約1,363万人を誇るメガシティである。2022年にGDPは16,311億元(約32.6兆円、1元=20円換算)に達し、中国で第11位の都市となった。

 天津港は、世界第8位のコンテナ取扱量を持つ巨大な港であり、その後背地は、モンゴルやカザフスタンにまで広がる。中国都市総合発展指標2022において、天津の「コンテナ港利便性」は中国第5位になっている(詳しくは、「【ランキング】世界で最も港湾コンテナ取扱量が多い都市はどこか? 〜2020年中国都市コンテナ港利便性ランキング」を参照)。

 このような背景から、天津市には国内外の企業が進出し、多くの産業が集積し、製造業、情報技術、金融サービス、物流、観光などの分野に及んでいる。

ナイトエコノミーの推進


 天津では、サービス業の発展を促進するために、ナイトエコノミー政策を推進している。2018年11月に発表された同政策では、海に面する立地を活かした景観づくりや、東西文化の融合を図ったナイトエコノミー集積地の形成、さまざまな娯楽コンテンツの充実などが打ち出されている。

 中国北方の都市では、夜の営業時間が短いことが一般的である。首都北京ですらレストランの閉店時間が早く、南から北京に来る客の不満が絶えなかった。実際、中国都市総合発展指標2022において、天津の「レストラン・ホテル輻射力」は中国12位と、トップ10圏外になっている。

 計画経済時代、商業都市の面影薄い天津の夜は、長く闇に包まれていた。活気を入れるため打ち出したナイトエコノミー施策には、政府の過剰な介入やインフラ整備中心だとの指摘がある。ナイトエコノミーは本来、市民や事業者が自発的に取り組むことが重要であり、政府の役割は環境整備や支援に留めるべきだという意見も存在する。

 今後、天津市がナイトエコノミーの発展をさらに推進するためには、政府の適切な役割と市民や事業者の自発的な取り組みをバランス良く組み合わせることが重要である。また、地域の特性や文化を生かした独自の魅力を打ち出すことで、ナイトエコノミーが持続的に発展し、地域経済の活性化につながることが期待される。

天津エコシティ:環境配慮型都市開発のモデルと課題


 天津エコシティ(中新天津生態城)は、中国とシンガポールが共同で開発を進める環境配慮型の次世代都市建設プロジェクトである。2007年に建設が開始され、​2025年頃の完成を目指している。​

 同プロジェクトは、天津中心部から40キロ、​北京から150キロメートル離れた場所で開発されており、​天津郊外の約30キロメートルの塩田跡地(浜海新区)に建設されている。2020年までに人口35万、住戸11万戸を建設する予定で、投資額は約500億元である。街の至るところに緑地を設置し、​次世代の廃棄マネジメントシステムの導入も計画されている。​交通に関しては、​自動車の利用を抑制するために、​トラムやバスなどの公共交通を拡充している。​また、​多くのテクノロジー企業や研究機関が拠点を構えている。このような取り組みによって、天津エコシティは環境配慮型都市開発のモデルとして期待されていた。

 しかし、浜海新区全体の開発は遅れが続いており、閑散とした様子から「鬼城(ゴーストタウン)」と揶揄されることもある。さらに、2015年8月に開発区内の危険物倉庫で発生した大規模爆発事故により、天津港の機能が一時的に麻痺状態となり、経済損失額は直接的なものだけで約68.7億元(約1,200億円)にのぼるとされている。

 これらの問題が重なり、天津エコシティや浜海新区の開発は遅れがちとなっているが、今後も環境配慮型都市開発のモデルとして、持続可能な発展に向けた取り組みが求められている。適切な対策や改善策が講じられれば、今後の発展に期待が持てるプロジェクトである。

日中経済・文化交流の歴史と現代の役割


 アヘン戦争後の1860年にイギリスが天津市に租界を置いてから、新中国成立に至るまで日本を含む9カ国が天津市に租界を設立していた。近代日本と中国の最初の接点は上海市と天津市であり、天津市からは華北地域の特産品である「栗」が日本に多く輸出されたことで、「天津甘栗」の名前が馴染みである。

 中国の改革開放後、日本政府は巨額な有償・無償の経済援助を行い、日本企業の対中直接投資も拡大を続け、天津にも多くの日系企業が進出した。

 貿易については、中国の輸入先として2021年、日本は国・地域別で第3位に、金額は1,605億ドル(約22.5兆円、1ドル=140円換算)となった。輸出でも1,575億ドル(約22.1兆円)で同第2位となり、日本は中国にとって重要な貿易パートナーとなっている。中国北方の玄関口としての天津が果たした役割は大きい。

 そうした日中関係を象徴するように、新型コロナウイルス・パンデミック以前の2019年に天津を訪れた外国人は約56万人であった。ちなみに同年に中国を訪れた観光客の出身国のトップ10は順に、日本、オーストラリア、韓国、米国、カナダ、英国、タイ、フィリピン、カンボジア、マレーシアで、日本がトップであった。

国際工業博覧会:製造業からサービス産業への挑戦


 2022年8月、「第18回中国(天津)国際工業博覧会」が開催された。同博覧会は世界三大工業博覧会の1つとされ、今回の博覧会には世界20以上の国と地域から有名企業約千社が一堂に会し、世界中の先進的な設備や技術が展示された。

 天津は清朝末期、「洋務運動」で中国の工業化を牽引する役割を果たしただけではなく、国際的な商業都市としても栄えた。新中国建国後は、計画経済のもとで工業都市に特化した。改革開放以降も工業を中心として発展を遂げてきた。

 その結果、中国都市総合発展指標2022によると、「製造業輻射力」全国ランキングにおいて、天津は第16位を獲得した(詳しくは、「【ランキング】中国で最も輸出力の高い都市はどこか? 〜2020年中国都市製造業輻射力ランキング」を参照)。

 同じ直轄市の中でも北京や上海は国際的な商業都市として、サービス産業の発展が著しい。これに対して、天津はサービス産業の発展が相対的に遅れている。中国都市総合発展指標2022によると、「飲食・ホテル輻射力」ランキングで上海は第1位、北京は第2位であるのに対して、天津は第12位と引き離された。「文化・スポーツ・娯楽輻射力」ランキングでは北京が第1位、上海が第2位に対して、天津は第11位だった。さらに、「卸売・小売輻射力」ランキングでは北京が第1位、上海が第2位、天津は第12位であった。

 近年、中国ではIT産業の発展が目覚ましい。しかし製造業とは異なり、IT産業の発展は、都市の商業環境に大きく左右される。南開大学、天津大学といった名門大学を抱えながら、天津のIT産業の発展は芳しくない。「IT産業輻射力」ランキングは第24位と、直轄市にふさわしくないパフォーマンスを見せた。

ブームが去ったシェア自転車


 かつて中国が自転車王国だった時代、三大国産自転車ブランドの1つが天津産だった。天津ブランドの自転車は、当時若者にとって新婚生活“三種の神器”の1つとして、人気が高かった。

 急激なモータリゼーションにより中国の街で自転車の存在感はだいぶ薄まった。自転車が再び注目を集めたのは、シェア自転車ブームであった。シェア自転車は中国で2015年に誕生し、1年も経たないうちに爆発的に全国に拡大した。北京などの大都市では、街そのものがシェア自転車駐輪場の様相を呈した。

 天津は、シェア自転車ブームに乗って、上海、深圳と並んで三大自転車産地になった。中国北部で最大の自転車生産規模を誇っていた。

 だが、過当競争や放置自転車問題、保証金トラブルなどを理由に、5年経つとシェア自転車ブームは急激に色あせていった。それでも都市交通に自転車を呼び戻した功績は大きい。また、中国経済や文化に「シェア」という概念を持ち込んだことは大きな意味をもつ。

「相声」:天津の伝統文化が再び脚光を浴びる


 近年、中国では再び「相声」ブームが巻き起こっている。相声とは日本の「漫才」に似た中国の伝統的な大衆芸能の一つである。諸説あるが、「相声」はおよそ100年前に北京で生まれたとされ、その後天津で発達し、今や天津を代表する文化となっている。「相声」を含む天津の「無形文化財」は中国都市総合発展指標2022で全国第3位と好成績を誇る。

 一時は低迷した「相声」に再び脚光を浴びせた立役者が、天津出身の相声芸人・郭徳綱である。郭徳綱は伝統的な「相声」を現代風にアレンジし、ユーモアに溢れながらも世相を辛辣に皮肉ることで人々の心をつかんでいる。今や彼の人気は老若男女問わず高く、相声界のフロントランナーとして中国内外で活発な活動を展開している。郭徳綱は2017年夏、日本をはじめて訪れ、東京公演で在日華人らを爆笑の渦に巻き込んだ。好評のため翌2018年に再び東京公演を行い、ファンを増やしている。

 「相声」は2008年に中国の国家無形文化遺産に登録された。天津の歴史的な民俗文化と市民文化の象徴として、天津人の精神の拠り所ともなっている。

浜海新区文化センター:天津が誇る近未来的な図書館と社交空間


 天津市の経済開発区、浜海新区に2017年末、従来の中国の図書館のイメージを覆す公共図書館「浜海新区文化センター」がオープンした。新たなランドマークとなった同センターは、地上6階建てで高さは約29.6 メートル、総面積は3.4万 平方メートルにもおよび、開館時の蔵書数は20万冊で、収蔵能力は120万冊の規模を誇る。

 建物は流線形の近未来的なデザインで構成され、壁沿いには天井から床まで覆う階段状の書架がうねりながら棚田のように連続している。来館者は書棚の横を歩きながら自由に上下階を行き来できる。設計・デザインは、世界的に著名なオランダの建築設計会社「MVRDV」が手がけて話題を呼んだ。

 「浜海新区文化センター」の様子がネットで公開されるやいなや、国内外のさまざまなメディアが取り上げ、米国『タイム』誌は2018年の観光地ランキング「行く価値のある世界100カ所」の中で、「浜海新区文化センター」を映えある第1位にランク付けした。

 「公共図書館蔵書量」全国第9位の天津に相応しい「浜海新区文化センター」には、週末に平均1.5万人が訪れるという。もはや図書館だけの機能にとどまらず、世界中の人々を魅了する21世紀の社交空間としても存在感を増している。

天津進出30周年を迎えた伊勢丹


 日本の老舗百貨店伊勢丹が2023年、天津進出30周年を迎える。1993年オープンした上海淮海路店に続き、同店は中国第2号店である。当時、天津市政府側には、北京、上海に次ぐ中国第三の都市として国際的な百貨店を誘致したいとの意向があり、外資系大型百貨店としては同店が天津市で第1号となった。2013年には浜海新区に天津2号店もオープンしている。

 1992年の中国小売業の開放により、日系百貨店は早い段階から中国市場に進出した。

 参入初期、日系百貨店は売場、商品、販売サービスなどの面で消費者の支持を得て業績を伸ばしたものの、現在では業績不振が続き、撤退を余儀なくされる店も少なくない。中国の百貨店は全体として国内資本のパワーアップも相まって競争が激化し、消費者ニーズの変化や、日系店のeコマースへの対応も後手に回り、大いに苦戦を強いられている。

 伊勢丹も中国内の一部地域では業績が伸び悩んでいるものの、天津での売上は好調である。その強さの理由は、顧客満足度の高さだという。困難な時代を乗り越えていくために顧客情報の丁寧な分析を実施した。常に顧客ニーズに合った商品を展開し、店舗づくり、組織改革、商品開発などあらゆる面で、徹底的な改革を続けている。日本の百貨店が中国都市総合発展指標2022の「卸売・小売輻射力」第12位の天津で善戦を続ける現状は、小売業界の中国展開にひとつの示唆を与えている。


【武漢】新型コロナウイルス禍と最初に対峙したメガシティ【中国都市総合発展指標】第10位

中国都市総合発展指標2022
第10位



 武漢は中国都市総合発展指標2022総合ランキング第10位であり、前年度に比べ順位が1つ上がった。

 「社会」大項目は第10位であり、前年度の順位を維持した。3つの中項目で「生活品質」は第8位、「ステータス・ガバナンス」は第9位、「伝承・交流」は第11位と、3項目のうち2項目がトップ10入りした。小項目で見ると、「人口資質」は第7位、「都市地位」「消費水準」は第8位、「人的交流」「居住環境」「生活サービス」は第10位と、9つの小項目のうち6項目がトップ10に入った。なお、「文化娯楽」は第11位、「社会マネジメント」は第13位、「歴史遺産」は第35位であった。

 「経済」大項目は第11位であり、前年度の順位を維持した。3つの中項目で「経済品質」は第9位、「都市影響」は第10位、「発展活力」は第11位で、3項目のうち2項目がトップ10入りした。小項目では、「都市圏」は第8位、「イノベーション・起業」は第9位、「経済規模」「広域輻射力」は第10位と、9つの小項目のうち4項目がトップ10内に入った。「経済構造」「開放度」は第11位、「広域中枢機能」は第14位、「ビジネス環境」は第19位、「経済効率」は第26位であった。

 「環境」大項目は第10位となり、前年度に比べ順位が5位も上がった。3つの中項目の中で「空間構造」は第5位、「環境品質」は第52位、「自然生態」は第111位と、3項目のうち1項目がトップ10に入った。小項目では、「交通ネットワーク」「資源効率」は第5位、「コンパクトシティ」は第8位、「都市インフラ」は第9位と、9つの小項目のうち、4項目がトップ10入りした。「環境努力」は第35位、「気候条件」は第119位、「水土賦存」は第121位、「自然災害」は第187位、「汚染負荷」は第229位であった。

 中国都市総合発展指標2022について詳しくは、中心都市がメガロポリスの発展を牽引:中国都市総合発展指標2022を参照。


中部地域の最大都市


 湖北省の省都、武漢は中国中部地域の最大都市であり、新型コロナウイルスの試練に最初に向き合った都市として近年、国際的な注目を浴びた。

 武漢の総面積約は8,569平方キロメートルで広島県とほぼ同じ。その広大な総面積の4分の1が、琵琶湖の面積の約3.3倍となる水域である。

 近代の武漢は中国東西軸の長江と、南北軸の鉄道大動脈が交差する立地を背景に発展してきた。故に、交通のハブ機能が発達している。中国都市総合発展指標2022の「空港利便性」項目では中国第6位、「航空旅客数」は第12位である(詳しくは【ランキング】中国で最も空港利便性が高い都市はどこか?を参照)。「高速鉄道便数」は中国第9位で、「準高速鉄道便数」は第5位であった。

 2004年から新型コロナウイルス・パンデミック直前の2019年までの15年間、武漢のGDPは年平均12%を超える成長を実現した。2022年のGDPは約1兆8,866億元(約37.7兆円、1元=20円換算)で中国第8位、1人当たりGDPは13万7,320元(約275万円)となった(詳しくは【ランキング】世界で最も経済リカバリーの早い国はどこか? 中国で最も経済成長の早い都市はどこか?を参照)。

 武漢は、面積は湖北省の5.6%にすぎないものの、同省全体のGDPの約37.9%を占めている。2021年に湖北省における武漢の輸出額と輸入額のシェアは、それぞれ52.9%、75.3%に達している(詳しくは【ランキング】中国で最も輸出力の高い都市はどこか?を参照)。

ロックダウンでコロナ感染拡大を封じ込む


 武漢は新型コロナウイルスショックに世界で最初に向き合った都市であった。武漢は中国都市総合発展指標2022の「医療輻射力」ランキングで全国第7位の都市である。27カ所の三甲病院(最高等級病院)を持ち、医師約4万人、看護師5.4万人と医療機関病床9.5万床を擁する。しかしながら、武漢のこの豊富な医療能力が、新型コロナウイルスの打撃により、一瞬で崩壊した(詳しくは【レポート】新型コロナパンデミック:なぜ大都市医療能力はこれほど脆弱に?を参照)。

 よくも悪くも中国の医療リソースは中心都市に高度に集中している。武漢は1千人当たりの医師数は4.9人で全国の水準を大きく上回る。武漢と同様、医療の人的リソースが大都市に偏る傾向はアメリカや日本でも顕著だ。ニューヨーク州の1千人当たりの医師数は4.6人にも達している。東京都は人口1千人当たりの医師数が3.3人で、これは武漢より少なく、ニューヨークと同水準にある。

 しかし、武漢、ニューヨークはその豊かな医療リソースをもってしても、新型コロナウイルスのオーバーシュートによる医療崩壊を防ぎきれなかった。2020年末までは、中国の新型コロナウイルス感染死者数累計の83.5%が武漢に集中していた。その多くが医療機関への集中的な駆け込みによる集団感染や医療崩壊による犠牲者だと考えられている(詳しくは【ランキング】ゼロコロナ政策で感染拡大を封じ込んだ中国の都市力を参照)。

 武漢は2020年1月23日からの2カ月半にわたる都市封鎖(ロックダウン)で難局を切り抜けた。ゼロコロナ政策によって普段の日常を取り戻した。

 新型コロナウイルス禍と最初に対峙した都市が、医療リソースの豊富な武漢だったのは、ある意味、不幸中の幸いだったかもしれない。武漢における教訓は、新型コロナウイルス感染症に関する数多くの研究論文として昇華され、世界中でかつてない勢いで「知の共有」が進んでいる。

図 武漢ロックダウン期間における新規感染者数・死亡者数

出典:中国湖北省衛生健康委員会HPなどにより雲河都市研究院作成。

全土から集まった医療支援


 新型コロナウイルスのオーバーシュートが発生した当時、武漢に中国全土から多くの支援が集まった。感染者数の爆発的増大で、多くの医療スタッフも院内感染に巻き込まれ、医療従事者の大幅な不足状況が発生した。これに対処するため中国各地から大勢の医療従事者が応援に駆けつけ、その数は4.2万人にも達した。

 病床数の不足については、国の支援で、新型コロナウイルスの専門治療設備の整う「火神山病院」と「雷神山病院」という重症患者専門病院を10日間で建設し、前者で1,000床、後者で1,600床の病床を確保した。このほかに、武漢は体育館16カ所を軽症者収容病院に改装し、素早く1.3万床を確保し、軽症患者の分離収容を実現させた。これによって先端医療リソースを重症患者に集中させ、病床不足は解消された(当時の武漢の取り組みについて詳しくは「【論文】ゼロコロナ政策 Vs ウイズコロナ政策を参照)。

 こうした措置が武漢の医療崩壊の食い止めに繋がった。感染地域に迅速かつ有効な救援活動を施せるか否かが、新型ウイルスを封じ込める鍵となる。しかし、すべての国がこうした力を備えているわけではない。ニューヨーク、東京の状況からみても、医療リソースがかなり整う先進国でさえ救援動員はなかなか難しいことが分かる。

人口引き留め政策


 武漢は約1,374万人の常住人口を抱え、中国第8位の都市人口規模を持っている。人口の流出入を示す「人口流動(非戸籍常住人口)」では、湖北省内12都市のうち10都市で、人口が他都市へ流出している。これに対して武漢は、流動人口が約431万人の大幅プラスにあり、全国で第9位の人口流入都市となっている。

 一方、武漢は89の大学、95の科学研究所、130万人弱の大学生を抱えながら、大卒者のうち同市に残る者は5分の1にも満たない。そこで、2017年、武漢市政府は向こう5年間で大卒者100万人を同市内に引き留めるプロジェクトを発表した。これにより、同市の大卒者は市場価格を2割下回る値段で住宅を購入できるか、あるいは市場価格を2割下回る価格で住宅を借りられる。さらに、最低年収の設定、就職の斡旋、起業のサポートなど「大卒者に最も友好的な都市」へ向けたさまざまな政策を打ち出した。経済のグローバル化と知識集約型産業が進展していくなかで、中国の各都市間の人材の育成と獲得競争が激しくなっている。

青山長江大橋の建設


 武漢は、長江と漢江によって「武昌」「漢口」「漢陽」という3つの地域(武漢三鎮)に分けられる。3つの地域間を多くの橋がつなぎ、大都市の大動脈として機能している。1957年10月、全国で初めて長江の両岸をつないだのは武漢長江大橋であった。2020年末には両岸をつなぐ11本目の青山長江大橋が開通した。都市インフラに積極的に投資してきた武漢は、橋の建設を進め、橋の数が増えるごとに都市の一体化も進んだ。

 中国都市総合発展指標2022によると、武漢は「環境」の「固定資産投資規模指数」が中国第5位である。「橋の武漢」と称されるように、橋の景観は武漢に多彩な表情をもたらしている。

中国で3番目に高いビル「武漢緑地中心」を建設


 世界中で超高層ビルの建設ラッシュが起こっている。高層建築ブームの先頭をいく中国で近年最も注目されているのが、2011年から建設が始まった「武漢緑地中心(Wuhan Greenland Center)」である。竣工予定は2023年末で、総投資額は300億元(約6,000億円)以上になるという。完成すると高さ595メートル、延床面積約300万平方メートルの、世界で7番目に高いビルとなる。ブルジュ・ドバイや上海金茂タワーなど、世界で最も有名な超高層ビルの設計を数多く手がける建築設計チーム「Adrian Smith + Gordon Gill Architecture」が担当した。五つ星ホテル、高級ショッピングモール、オフィス、高級マンションを備えた超高層複合都市を目指している。

 世界の建築専門家らが編集する「高層ビル・都市居住評議会(CTBUH)」のレポートによると、中国は超高層ビルの竣工面積が最も多い国となっている。現在、世界で建設された超高層ビルトップ100のうち、43棟が中国にある。


【南京】知識産業化が進む「十朝都会」【中国都市総合発展指標】第8位

中国都市総合発展指標2022
第8位



 南京は中国都市総合発展指標2022総合ランキング第8位であり、前年度の順位を維持した。

 「社会」大項目は第6位であり、前年度に比べ順位が1つ上がった。3つの中項目で「伝承・交流」は第4位、「生活品質」は第6位、「ステータス・ガバナンス」は第11位と、3項目の中で2項目がトップ10入りを果たした。小項目で見ると、「歴史遺産」は第4位、「人口資質」「人的交流」「消費水準」は第6位、「都市地位」「文化娯楽」「居住環境」「生活サービス」は第7位と、9つの小項目のうち8項目がトップ10入りした。なお、「社会マネジメント」は第27位であった。「社会」の成績は、全体的に高い結果となった。

 「経済」大項目は第10位であり、前年度の順位を維持した。3つの中項目で「都市影響」は第8位、「発展活力」は第9位、「経済品質」は第10位で、3項目すべてがトップ10入りを果たした。小項目では、「経済効率」は第6位、「イノベーション・起業」「広域輻射力」は第7位、「広域中枢機能」は第8位、「経済構造」「ビジネス環境」は第9位と、9つの小項目のうち6項目がトップ10入りした。なお、「経済規模」は第12位、「都市圏」は第16位、「開放度」は第17位であった。「経済」の成績は、各項目ともに全体的に高かった。

 「環境」大項目は第17位となり、前年度の順位を維持した。3つの中項目の中で「空間構造」は第9位とトップ10入を果たしたが、「環境品質」は第56位、「自然生態」は第136位であった。小項目では、「交通ネットワーク」は第6位、「都市インフラ」は第8位と、9つの小項目のうち、2項目がトップ10入りした。なお、「コンパクトシティ」は第11位、「環境努力」は第17位、「資源効率」は第33位、「自然災害」は第43位、「気候条件」は第130位、「汚染負荷」は第151位、「水土賦存」は第195位であった。

 中国都市総合発展指標2022について詳しくは、中心都市がメガロポリスの発展を牽引:中国都市総合発展指標2022を参照。


 南京は江蘇省の省都であり、同省の政治、経済、科学技術、教育、文化の中心である。長江の入江から380キロメートルに位置し、長江下流の南岸に面しているポジションから、南京には古くから王朝の都が数多く設けられてきた。「南京」とは「南の都」という意味で、面積は6,587平方キロメートル、栃木県と同程度の規模である。

 最初に南京に都を構えたのは、約2,800年前、春秋時代の呉国である。その後、東晋、六朝、南唐、明といった王朝が南京を帝都と定め、「十朝都会」と呼ばれた。太平天国や中華民国統治時代にも都となっていた。14世紀から15世紀にかけては、世界最大の都市として栄華を誇った。

 南京は、古来より戦略的な要所とされていた。そのため、同市には今も立派な城壁がそびえ立っている。明の時代には、全長約35キロメートル(山手線の1周分に相当)、高さ14〜21メートル、13の城門という巨大な城壁が市内を囲むように建設された。

知識産業化が進む南京


 中国都市総合発展指標2022より、2022年に南京のGDPは1兆6,908億元(約33.8兆円、1元=20円換算)に達し、中国で第10位、1人当たりGDPは198,257元(約397万円)で中国第9位となった(詳しくは【ランキング】世界で最も経済リカバリーの早い国はどこか? 中国で最も経済成長の早い都市はどこか?を参照)。

 南京の経済規模では同省内の蘇州(中国第6位)に劣るものの、省都としての立場を活かし、教育・科学技術の集積と人材ストックをベースにした知識産業を発展させている。中国の科学技術分野の最高研究機関である中国科学院と技術分野の最高機関である中国工程院のメンバーの輩出度合いを示す「中国科学院・中国工程院院士指数」は中国第3位で、研究開発人材の蓄積が実に分厚い。

 従業員数を比較するとそれは顕著である。例えば、製造業の従業員数は南京が約40万人、蘇州が約182万人であり、蘇州は工業都市としての側面が強い(詳しくは【ランキング】中国で最も輸出力の高い都市はどこか? を参照)。対照的に、IT関係の従業員数は南京が約18.7万人、蘇州が約4.1万人である。特に南京はソフトウェア産業において、北京、上海、成都、深圳、広州に続く中国で6番目の規模を持つ(詳しくは、【ランキング】中国IT産業スーパーシティはどこか?を参照)。但し、研究開発要員数は南京が約12.9万人、蘇州が約15.9万人であり、蘇州の研究開発要員数が南京を上回る。かつては南京の科学技術力が蘇州より高かったが、いま製造業スーパーシティ蘇州が工業力をベースに、科学技術力を高めている(詳しくは「【ランキング】科学技術大国中国の研究開発拠点都市はどこか?」を参照)。

製造業スーパーシティ蘇州に勝る省都南京の中心都市機能


 製造業スーパーシティ蘇州に経済規模で抜かれたとはいえ南京は、中心都市としての力がなお強い。南京は文化教育都市として名高く、市内には南京大学、東南大学、南京師範大学など、創立100年以上の歴史を持つ名門大学が肩を並べ、国から重点的に経費が分配される「国家重点大学(211大学)」は8校も有する。中国都市総合発展指標2022より、「中国都市高等教育輻射力」は南京が中国第3位で、蘇州が同第30位である。

 「中国都市文化・スポーツ・娯楽輻射力」では、南京が中国第5位、蘇州が同第13位(詳しくは【レポート】中日比較から見た北京の文化産業を参照)。ただし、「映画館・劇場消費指数」では南京が中国第10位、蘇州が同第9位となっており、若者の多い蘇州が南京を上回る(詳しくは【ランキング】世界で最も稼ぐ映画大国はどこか?を参照)。

 医療面においては、「中国都市医療輻射力」は南京が中国第8位と、蘇州の同第35位を大きく引き離している(詳しくは【レポート】新型コロナパンデミック:なぜ大都市医療能力はこれほど脆弱に?を参照)。

 南京は中国の一大交通ハブでもある。「空港利便性」では南京が中国第10位、蘇州が同第192位(詳しくは【ランキング】中国で最も空港利便性が高い都市はどこか?を参照)。「鉄道利便性」では南京が中国第4位、蘇州市が同第12位である。

 他方、上海、深圳、香港のメインボード(主板)市場に上場している企業の総数(2022年末)は、南京は99企業で中国第7位、蘇州は116企業で同第6位であり、本社機能では蘇州に抜かれた。


ユネスコ「文学都市」


 2019年10月、ユネスコは、新たに66の都市を「ユネスコ創造都市ネットワーク」として選出し、南京がアジアで3番目、中国では初となる「文学都市」に選ばれた。

 2004年、ユネスコは「創造都市ネットワーク」を設立した。文学、映画、グルメ、デザインなどの7分野に分け、世界の都市間でパートナーシップを結び、国際的なネットワークを作っている。2022年末には世界295の都市が参与している。中でも「文学都市」は現在、42都市が選出されている。その多くは欧米の都市が占め、アジアでは、南京の他に韓国の富川と現州、パキスタンのラホール、インドネシアのジャカルタが選出されている。残念ながら、「文学都市」ではまだ日本の都市は選出されていない。

 中国都市総合発展指標2022によると、南京は「社会」項目の「傑出人物輩出指数」、「傑出文化人指数」ランキングでそれぞれ中国第4位、第5位である。古来より文化資源が豊富で、文人が多く集った。中国最初の詩歌の評論「詩品」が南京で編まれたほか、中国最初の文学評論の「文心雕龍」が編さんされ、最初の児童啓蒙書「千字文」、現存最古の詩文総集「昭明文選」などが、南京で誕生した。中国初の「文学館」も南京に設立された。

 「紅楼夢」、「本草網目」、「永楽大典」、「儒林外史」に代表されるように、南京にゆかりのある中国古典作品は1万作以上ある。

 魯迅、巴金、朱自清、兪平伯、張恨水、張愛玲など近代の文豪も南京とつながりが深い。アメリカのノーベル文学賞受賞作家、パール・バックは、代表作「大地」を南京で創作した。

 「文学都市」の選出には、出身作家数など以外にも、文学を育む都市の環境も重視され、出版文化、書店文化、図書館の整備、市民の読書量なども評価対象である。南京は〈中国都市総合発展指標〉の「公共図書館蔵書量」ランキングで中国第7位にランクインした。

 CNN、BBCなどから「世界で最も美しい書店」と評価された「南京文学客庁」といった24時間営業の書店は、新たな文化スポットとして、市民に人気が高い。市内の公園、観光スポット、デパート、ホテル、地下鉄などに無料の読書スペースが150カ所以上設けられ、読書文化を盛り上げている。

人材争奪戦に励む


 南京の豊かな文化の香りは、市民の教育水準の高さに因るものが大きい。中国都市総合発展指標2022において、市民の教育水準を示す「人口教育構造指数」は中国第6位である。

 中国も日本と同様、労働者人口の増加がピークを過ぎ、高齢化社会が迫る中、都市の発展のカギを握る有能な若手人材の争奪戦が、全国の都市間でヒートアップしている。

 中国では2022年の大学卒業生が前年比167万人増の1,076万人と、初めて1,000万人を超え、過去最高を更新した。この中で注目されたのは、北京の大学・大学院卒業生28.5万人のうち、修士・博士課程の大学院卒業生数が、全国で初めて学部の卒業生数を超えたことである。他の都市でも同様の傾向が見られ始め、中国の名門大学である上海交通大学、華東師範大学、西安交通大学でも、大学院の卒業生数が学部生を上回る現象が起きている。南京の名門校である南京大学においても、2022年卒業者は9,563人で、そのうち学部卒業生は33%で全体の三分の一となった。

 南京市政府は、大学卒業生という高度人材の若者たちをそのまま市内に定住させるために、市内定住のハードルを低くし、家賃補助や起業補助を普及するなど、さまざまな政策を打ち出している。南京市政府の積極的な取り組みが、人材育成や都市発展において他の都市にも影響を与え、全国的な人材争奪戦の激化が続くと予想される。

中国三大博物館のひとつ南京博物院


 古都・南京には、中国三大博物館のひとつ「南京博物院」がある。北京故宮博物院、台湾故宮博物院と肩を並べる存在となっている。

 南京博物院には、「南遷文物」といわれる元は北京故宮博物院にあった文物を所蔵している。日中戦争の戦火を避けるため、1933年、北京故宮博物院から木箱で2万個といわれる大量の文物が南京博物院(当時は中央博物院)に移送された。南京に戦火が及ぶと、文物は重慶に移されたが、戦後再び南京に戻った。だがその後国共内戦の混乱の中、3千箱が台北に運ばれ、7千箱が北京の故宮博物院に戻された。現在、台北の故宮博物院が所蔵する至宝はこのときに運ばれた文物である。大陸に残った物のうち1万箱が南京博物院にあり、「南遷文物」と呼ばれる。

 中国都市総合発展指標2022では、南京は「社会」項目の「博物館・美術館」ランキングは中国第10位であり、市内には一級の博物館が5館、二級は4館、三級は5館、無級は48館の合計62館が存在している。南京訪問の際は、名勝見物と併せて博物館巡りを行えば、より中国の歴史文化への理解が深まるだろう。